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川辺の祭  作者: nats_show
誕生
74/84

僕のともだち

 朝!

 爽やかな朝!

 勢いよく飛び起きて、まずはラジオ体操第一。小学生の頃は当たり前のように出来ていたのに、今は目を覚ますことすら稀だ。何故だっ! 苛立ちながら腕を振る。左右に振ったその二度目に何かが絡まった。天井から吊り下がる蛍光灯のヒモだった。

 思いっきり萎えたので黙って着替え。上半身だけシャツを着た状態で窓を開けると、いつもの山が見える。足元には道路もあって車も見えるし、わずかに人影もある。下半身がヤバい状況のまま、ぼんやりそんな景色を眺めていたら、十秒ほど後に羞恥心に襲われた。俺の頭はようやく目覚めたようだ。

 今日は全校登校日。合法的にえーこに逢えるぜコノヤロー!

 ………コノヤローじゃ喜んでないみたいだ。逢えるぜヤッホー。どっちも似たようなセンスなのでこれ以上考えるのはやめて顔を洗い、適当に飯を食って家を出る。いつもより九分は早いな、と微妙な数字でリアリティを演出してみる。これでは喜びが控えめすぎるなら、軽やかに歩道をスキップ……はさすがに恥ずかしい。ちょうど中学生とすれ違ったし。

 自分と反対方向に歩く中学生。半年前まで同じだったわけだから、すれ違う中には見覚えのある顔も混じっている。それは何となく、監視されてるみたいな気分になって落ち着かないから、わざと俺は時間をずらす。九割方は嘘だが一割は本当だ。

 小学校の前を通り過ぎる。残念ながら、九分早い程度では小学生とすれ違えないのでこの際どうでもいい。というか、小学生と中学生はなぜ通学時間が違うのだ? なぜ小学校にはチャイムの十五分前に着いていたのだ? 今にして思えば謎だ。おかげで朝の子ども番組が見れなかったじゃないか。

 冷静に考えればどうでもいい話だったが、成りゆき上鬼の形相となった俺は肩をグルグル回し、いい音が鳴ったところで右腕を勢いよく上げる。オーでもイッチバーンでもいいがショアッだけは勘弁な。


「ダカダカチャーチャーチャチャー」

「………」


 校門近くにもなれば、そこかしこに見慣れた夏服が並ぶ。

 しばらく見ないうちにみんな顔が真っ黒に焼けて…じゃ小学校だ。


「ぐっ、なぜ避けたハックン!」

「避けるだろ、普通」


 新宿の路上…ではなく昇降口でいきなり襲われた俺だったが、軽やかに攻撃をかわす。

 いや、いきなりと言ってもテーマ曲つきだから、ヤツとの距離もなんの技かも判りきっている。不意打ちするならやはり静かな暗殺者であるべきだ。このバカにヒットマンラリアートが似合うとも思えないし、同盟なんて作られたらかなわんけどな。


「ハックン!」

「…こんな場所でサソリは受けらんねーぞ」

「リ、リングだけが戦場じゃねーんだぜ!」


 立派な捨て台詞を残して逃げ去っていく男。みっともない後ろ姿を一応は見送るけれど、残念ながら一分ぐらい経つとまた顔を合わせるはずだ。

 なぜ逃げ去るのだろう。さっきの台詞を実践するなら、教室ではなく踊り場辺りで待ち伏せってとこか?

 ………そこまで考えての行動とは思えない。まぁいいや。気を取り直して靴を履き替えようとした瞬間、周囲の視線に気づいた。

 見ず知らずの上級生にも注目の的。人気者は辛いぜクソ。だんだん羞恥心がなくなりつつある自分に呆れる。


「やぁおはよう、今日は寝坊しなかったのか」

「アンタが言う台詞か、ヒロピー!」


 一応クーラーで冷やされているが、チョークの嫌な臭いも漂う教室。相変わらずやかましい女子生徒にちょっかいを出しながら、視線は別の方角を向く。一番後ろの席に……、まだいなかった。


「残念でした~」

「何がだ」


 いわれなき冷やかしに耐え隣の席にカバンを置くと、思わず吉田と呼びたくなりそうな男がこちらを睨んでいる。髪は短いが。

 ヤツの論理では、おそらく俺が後を追って来たことになっているのだろう。あえて相手にせずに座ったら、その瞬間に太い腕がヘビのように巻き付いてくる。


「ハックンは痛みを感じることもな…」

「今時スリーパーなんて古いっ!」


 毛むくじゃらの細い腕を振り払う。ついさっきは太い腕と言ったわけだが、それはスリーパーホールドの定型表現であって、現物はまるでなってない。

 やれやれという気分で後ろを向いたら、いつの間にかヤツは引退間近なコノヤロウのように老けていた。というのは嘘だが、笑顔が消えた上に俺を見ていなかった。


「おはようヒロくん」


 そして背後から俺らしき人物を呼ぶ声。後ろに前に忙しいなぁ、なんちゃって。


「ぬ、大儀である」

「…………」

「おはようございます、えーこ」

「あんたらいい加減にしてよねー」


 最後はしっかり千聡のツッコミ入り。このやり取りはヤバいと判っていてもやってしまう。お約束とはそういうものだ。

 開き直って頭を動かしたら、再び不機嫌な野郎の顔が目の前に迫ってくる。やっぱりダメか。ダメだよな。


「ま、揃ったところで連絡するけど、あさって地研」

「は?」

「午後三時に中央図書館集合、以上」


 思わずきょろきょろ見回すと、えーこの反応は微妙だが、勝ピーは知ってるという表情。よい姉をお持ちのことである。

 今回は途中から瀬場さんも加わってお勉強会だと、淡々とちさりんはしゃべり、淡々とえーこがうなづく。俺の意見はおそらく求められていない。最早俺はえーこの腰巾着に過ぎないのだ。


「プロレス雑誌の読み方講座もやるぜっ!」

「そっちは希望者のみ参加でぇ」

「誰が希望するんだ?」

「軟弱な良を鍛えてやる!」


 啖呵を切りながら俺の肩を掴む勝彦様。そもそも発売日は明日だ。そして俺以外は誰も参加しないと判ってるのだ。勝ピーにとって俺は替えのきかないオンリーワンなのだ。ああ嬉しい。

 今日は登校日。明日も登校日で、あさっても登校日。詐欺だ。全員生きてるかーって叫んでさっさと終わるならともかく、普通に午後まで――ただし、いつもより若干早めに終わる――補習が詰まっている。アリバイ程度の補習なんてどれほどの意味があるのだと思うが、この学校でその発言は補習を増やせと言うに等しいから口に出せない。

 一応は進学校。入学したら親がほっとする程度の高校だから、生徒は大学受験を目指さねばならない。俺が嘆くまでもなく、二年になれば補習は長くなる。三年になればさらに増える。ああ嬉しい。


「にわかにけぶりよのなかにみちてぇ、夜のごとくになりにしかばぁ、みかど驚きおのおきたもーて御うらないありしにぃ、柏原の御祟とうらないもーししかば」


 とはいえ、補習はあてられる可能性がほとんどないから気楽だ。宿題もない。理想の授業と言わねばならない。

 ちらっと周囲を見回す。教室には空席が二つ。一人は風邪で、もう一人は旅行中らしい。旅行で休めるなら俺も…といいたいところだが、法事という大義名分も必要とあっては厳しい。じいさんの法事はウチでやるからなぁ。

 とりあえず嘆いたところで空席から目をそらすと、隣の女子生徒が目に映る。実にリラックスしている。判りやすい女である。

 どちらかといえばアドリブに強いんだから、ふだんの授業でももっとどうにか出来そうに思えるが、答えが判らないとごまかしようがないわけだ。世の中うまくいかないぜ。

 ……同情するほどの価値はないだろ。慌てて黒板を見たら随分文字が増えていた。


「ハックン」

「なんだ気色悪ぃな」


 淡々と補習は進み、何かが起きることもなく昼休みとなった。

 今日はパン屋が来ないという不穏な噂もあって、俺は正直気が気でない。素早く席を立って真偽を確かめねばならないにも関わらず、後ろのバカは思いっきり両肩に体重をのせている。

 しかもとりあえず発した警告をまるで無視するように、うつろな目ですり寄ってくる。なんてキモイ野郎なんだ。俺にはそんな趣味は…。


「えーこちゃんって可愛いな」

「は?」


 しかしその口から漏れたのは、俺に対する愛の言葉ではなかった。

 いや、間違っても期待はしてないがな。


「なんだハックン、可愛くないのかー?」

「いや可愛い、そりゃ可愛いが」

「そうだろそうだろ」


 両肩に肘を乗せられた不自由な姿勢では、俺の思考も不自由になる。

 どう反応したらいいんだろう。勝ピーがあからさまにこういう発言するのは初めてだ。ううむ。

 …それなりに気持ちの整理がついたってことなのか?


「なぁハックン」

「だから気色悪いって」


 気持ちの整理ってたいそうな話だな。

 とりあえず肩を揺らす。はっきり言って、非常に重い。ヤワな男なら骨が折れる。


「気色悪いだと?、ハックンは俺が気色悪いのかっ!」

「そりゃ当たり…」

「自分はさんざん見せびらかしといて、俺は気色悪いのかっ!」

「………」


 さすがに言葉に詰まった。

 目の前の勝彦が気色悪いというのは、他がどうであろうと関係ない事実のように思えてならないが、こういう逆ギレモードに何を言っても無駄である。

 ふぅむ。

 数秒の沈黙――形としては無言の睨み合いだが、少なくとも俺はぼんやりしているだけだ――の後、勝ピーの顔がさらに近づいてくる。怖い。これを気色悪いと言わなかったらなんだ。


「ハックンは知らないだろうが」


 珍しく小声だ。

 とはいえ、警戒を緩めてはいけない。相手はあの勝彦だ。


「ハックン、今俺たちは彼女作ろう月間に突入してるんだっ!」

「叫ぶなら顔近づけるな」

「う、すまん」


 予想通り長くは続かなかった。やれやれ。これで怒らない自分はおおらかだ。

 ともかく、ようやく勝ピーは反省して肩から手をどけた。俺はつかの間の自由を取り戻す。その代わり、教室中の冷たい視線に晒されている。あんな発言を大声でわめけば当然だ。毎度のことながら勝彦は恥ずかしいヤツなのだ。

 ……とはいえ、イタコられるのに比べれば遙かにマシである。

 聞かれて恥ずかしいのは勝彦であって俺ではない。作ろう月間など不要だと、クラスの全員が認識している。いるはずだ。頼むから俺を見ないでくれ…。


「ともかく顔を近付けるな、勝ピー」

「なんでだ!」

「俺には今やらねばならぬ使命がある」


 勝彦以外に誰が加わったかについては、多少の興味もある。もっとも、このセンスで集まる面子など知れている。聞いたら聞いたでがっかりするのがオチだろう。

 だいたい八月に「月間」って無茶だ。学校以外で何か機会があるならともかく、月の大半は休みじゃねーか。

 ともかく俺は用事を思い出した。それが使命というほど大切なものだったのかは若干の疑問もあるけれど、苛立っているうちに大切だったような気になってくる。なっても支障はない。うむ。


「ハックン!」

「だから耳元で大声出す…」

「俺もこれからカップ麺だ!」


 …………。

 かくして、二人仲良くカップラーメンの昼食と決まったのである。ああ嬉しい。今日の俺はチョー幸せだ。

 学校を出て、橋のたもとに米屋がある。ササニシキもはえぬきも売ってるが、カップ麺も各種取りそろえられてある。電気ポットというナイスなアイテムも完備だ。

 時間にして一分でも、外は暑い。そして米屋に冷房はない。物色するだけで汗が流れる上に、わざわざ暑いモノを買う俺たちはきっと変わり者に違いない。


「弁当はどうした、勝ピー」

「夏休みは作ってくれねぇ」

「ふぅん」


 店の前にもベンチはあるが、晒し者になったみたいで落ち着かないので土手に向かう。ちなみに、俺たち以外にも二人、三年生がいた。まさか毎日食ってるんだろうか。


「なんだハックン、これは深刻な事態だぞ」

「俺には深刻じゃない」

「くっ」


 しょうゆ味のラーメンをすする。金をかけたくないので一番安くてあっさり目の味を選んだ。勝ピーはなんか知らないが辛いヤツらしい。こんな炎天下でわざわざ選ぶなんて愚かとしか言いようがないが、指摘すると理解不能なこだわりを聞かされそうな予感が漂うので黙っておく。

 食べにくい割り箸で麺を引き上げ、ちょっと間をおいて口に運ぶ。その微妙な間で、わずかに乾いた麺は歯ごたえを増す。代わりに冷めてしまうが、実を言うと冷めた麺は嫌いではない。


「なぁハックン」

「なんだ」


 カップ麺は奥深い。お湯を少な目にすれば汁が濃くなるし、待ち時間一つでも別物になる……と、グダグダ考える自分はグルメなのだろうか。


「えーこちゃんに紹介してもらえねぇか」

「紹介?」

「んだんだ、俺に合いそうな女子」

「……………、じょしぃ??」


 てっきり弁当の話だと思ったので、理解するまで時間がかかった。いや、冷静に考えれば弁当絡みでえーこが何を紹介するのか我ながら意味不明だが、勝彦という生き物の口からまさか女子なんて言葉が飛び出すとは。

 本気なのか? 未だ真意が掴めず、じっとヤツの顔を見る。

 ヤツは黙ってこちらを向いている。

 割り箸を右手に握り、左には赤っぽい液体の満たされたカップ。麺はもう無いかも知れない。そういえば口が少し腫れてるように見えなくもない。こいつは本気だ。しかも早食いだ。


「ふぅむ」


 要するにこのために誘い出したのか。勝ピーとは思えぬ計画的犯行だ。呆れつつ、ぼんやりと対処法を考える。

 土手は最近刈られたばかりらしく、枯れ草の臭いがきつい。澱んだ川面もどことなく汚れて見える。あまり居心地の良い場所ではない。そもそも暑いし。

 遮る物のない素晴らしい陽射し。うーむ、幸せだぁ…ではない。これは逃避だ。

 とはいえ、えーこになぁ。

 正直、彼女の友だち関係は疎いし、だいいち…。


「毎日パワーホールで目覚めて、一緒にイタコってくれる女性募集か…」

「そんな奴いるかっ!」

「じゃあなんだよ。とりあえず男の裸体見ても騒がず、ヨーイトコーラ…」

「もういい、ハックンには頼まねぇ!」


 本気で怒り出したので冗談はこれぐらいにしておく。

 といっても、実際問題として勝彦を紹介するってのはかなりの勇気が必要だ。クワッパーとか突然わめく自称常識人だからな。どっちかというと、えーこが信用を失う危険性大である。


「じゃあ勝ピー、とりあえず相手の条件を言え」

「う…」

「う、じゃねぇだろ、まさか何も言わずに探せと」

「わかった、わーかったぞハックン!」


 判ったと言いながら右の手のひらをこちらに突き出す勝彦。それは世に言う「待った」のポーズに思えてならない。

 どっちにせよ、駄目もとでも話はしておかないといろいろ面倒だ。どうせなら、えーこに直接話す方がいいと思うのだが、やっぱりそれは無理だよな。俺だってちさりんには聞けなかったし。

 ちなみに断っておくが、別に俺は紹介してほしかったわけじゃねぇぞ……というのも、今となっては説得力ないか。


「よし、行くぞー!」

「それ嫌いだったんじゃねぇのか?」

「ぐ…」

「いや、悪い」


 勝彦は拳を振り上げたまま固まっていた。

 余計なこと言って正直スマンカッタ。


「まぁ気を取り直せ勝ピー、条件は?」

「まず、可愛いこと!」

「か、かわいい?」

「それから、俺より頭がいいこと」

「はぁ…」

「プロレスに理解があることっ!」

「……………」


 あえてコメントは避けたい。避けたいが、やはり「可愛い女子を頼む」でどうやって探すんだ、と疑問を抱かずにはいられない。

 だいいち、女子のイメージする「可愛い女子」を男子も同じくそう思うだろうか。少なくとも、去年ちさりんが「可愛い」と連呼してた同級生ならダメだった。その女子よりなら………、なんだったっけな。ともかく具体的な部分で攻めなきゃ難しそうだ。

 ちらっとヤツの顔を見て、カップの残りをあさる。暑さ一ミリもなさそうなナルトを発見し、ちょっと幸せな気分になったのでさらに問いつめたい気分になる。が、もう一度ヤツの顔を見てやめた。不純異性交遊反対論者を捨てたばかりの勝ピーに、これ以上を求めるのは酷というものだ。


「よし、とりあえず最後の条件を中心に当たらせよう」

「ま、待てハックン!」

「なんだよ」


 どう考えてもプロレスが一番簡単な判別法である。至極真っ当な結論を出し、そのまま立ち去ろうとしたのだが、思いっきり肩を引っ張られた。カップ麺の汁がこぼれそうになった。

 振り返ると、異様に真剣な顔の勝彦がいる。怖い。貴様にその顔は似合わない。


「プ、ププ…」

「プロレスニュース?」

「なわけあるか!」

「そうか、すまん」


 渋々謝った。

 茶々を入れないと耐えられない俺の身にもなってくれ。


「………」

「早く言えよ」

「プ、プロレスにはこだわらん」

「………わかった」


 すっかり自分の世界に浸りつつある勝彦様。これ以上相手をする気にもなれず、返事をしながら離れてカップを捨て――品行方正な俺はちゃんと店のゴミ箱に捨てるぜ――、そのまま逃げる。

 学校までの僅かな下り坂。炎天下のアスファルトは、砂もないのに砂漠のようだ。残念ながら砂漠に行ったことはないけど、近所の砂丘みたいなもんだろ。それに東京砂漠なんて言葉もあった。東京にあるならこの街にだってあるだろ。うむ。現実逃避は素晴らしい。

 昇降口に戻ってもまだ暑い。それでも直射日光から逃れることが出来たから、一息ついてジュースの自販機を眺める。パン屋のいない昇降口は人影も少ない。何か飲もうかと数秒迷って、断念した。なんとなく、優雅に茶をすする気分ではなかった。


「……なんか用?」

「気のせいだ」


 教室に引き揚げたら、なぜかえーこはいないのに地研女はいる。とりあえず悪意を込めてみた。向こうも悪意のある顔だし。

 確かに、一瞬ちさりんの顔を見たのは事実だった。

 俺はとりあえず困っている。そこで見知った顔があったら救いを求めたくもなる。自然の摂理というものだ。


「今日はどこでデート?」

「奥村家見学ツアーってのはどうだ」

「他人の家でいちゃつく気!?」

「地研の活動みたいなもんだろ」


 見知った顔だから救ってくれるとは限らない。これもまた真理ってもんだ。

 まぁたとえ協力的であったとしても、あの件でちさりんに相談するわけにはいかないだろう。勝ピーの…というのが微妙な上に、この女はプロレスを忌み嫌っている。勝彦に見合う女子がもしもいたとしたら、きっと仲が悪いに違いない。そうか、ちさりんと仲が悪い…。


「拗ねてたよー、えーこ」

「え?」

「嘘」

「………」


 怒るな、怒るんじゃない博一。今は深刻な問題に対処せねばならないのだ。

 うむ。

 ぐっと拳を握りしめて、もう一度にやつく女と目が合う。俺に恨みでもあるのかクソ。あるか、あるだろうな。それなら明日、さらに恨みを買ってやろうか。ぐるぐる肩を回して教科書を開いたら、チャイムが鳴った。

 午後の補習は数学。頭を使う。ということは気が紛れるという意味でもある。かのプロレス馬鹿はチャイムと同時に駆け込んで来たから、特に会話もなし。というか、こちらからは話題もないし、たぶんヤツも同じだろう。

 とはいえ気まずい。背中を刺されそうな緊張感。別にヤツを裏切るつもりはないのだが、授業中は何も出来ないので焦ってしまう。黒板の文字列を無心に書き写そうとしても、苛立ちは抑えられない。やれやれ。

 ……………。

 当たり前だが俺は他人に女子を紹介したことなどない。

 …………。

 自慢することじゃないな。あ、いや、もしかしてちさりんは俺が紹介したことになるのか? 違うか、あれは仲介ってやつだ。どっちにしろ、ややこしい話なので忘れることにしよう。

 ともかく、俺には今だって女子の知り合いなんてそうは居ない。ちさりんとえーこの絡みで数人と話す機会がある程度だ。紹介されたところでどうせ話題が合わないから、滅多なことでは増えないだろう。

 つまり俺にはまったくあてがない。が、勝ピーは俺に頼んだわけじゃないからノープロブレム。うーむ。要するに、授業中に悶々としても無駄である。判りやすい結論だあっはっはーっと。

 とはいえ、少なくともえーこへの頼み方は考えねばなるまい。まさか適当にしゃべって「あとは当人に聞いてくれ」ともいくまい。俺の信用問題になる。あー、気絶するほど悩ましい。

 ただでさえ漠然としてる上に、勝ピーからプロレスを取ってしまったらイタコしか残らない。プロレスを格闘技ぐらいまで妥協しておけば、遙かに可能性が高まるけれど、勝ピーはきっと格闘技をボロカスに叩くに違いないから破談確実だ。面倒くさいヤツだ…。


「………」

「もしかしてノート?」

「いや…」


 ようやく放課後となる。すぐにえーこの席に向かったはいいが、彼女はまだ周囲の女子と談笑中だから口を挟めず、困って立ちつくす。

 …いや本音を言えば、出直すから声かけないでほしかった。


「彼氏が来たよー」

「今日はどこでデート?」

「いや、あの…」


 当然のように思いっきりからかわれる。ものすごく苦手な時間だ。どうせ待たされるんなら自分の席で時間を潰すんだった。自分の席で悶々とするのも、それはそれで身体に悪いけど。

 まぁこうやって律儀に動揺するから余計からかわれるわけで、いい加減慣れるべきなのかも知れない。けど無理だろう。おそらくは女子の側が飽きるのが先になるだろう。早く飽きてくれ。


「とりあえず相談したいことがある」

「相談?」


 首を傾げるえーこ。きょとんとした顔も可愛い…と煩悩が首をもたげるが、今はそれどころではなかった。咳払いをしてもう一度厳粛な顔と声で、重大な相談事があると言った。


「…ヒロくん」

「え?」


 しかし俺はこの時、一つの過ちに気づかずにいたのだ。


「それは悲しくなるようなことですか?」

「へ?」


 さっさとカバンを取りに戻ろうとしていた時に、俺は予想外の質問を受け、振り返ればものすごい顔の彼女。約一秒ぐらい呆然として、それから慌てて表情を戻す。


「えーこにとって重大な話じゃないから心配するな」

「あ、そうなの」


 気がつけば、冷やかし連中もひきつった笑顔に変わっている。きっと明日の朝には格好のネタに化けるんだろうが、とりあえず冷やかされるのはえーこだから自業自得だ。溜め息をついて自分の席に戻ったら、元凶のバカは既にいない。いても困るな。

 気を取り直して教室の入口でえーこを待ち、二人並んで廊下を歩く。別に手をつないでるわけじゃないのに、若干の視線を感じる。俺たちがつき合ってることは、きっと雰囲気で判るんだろう。いや、周囲に無言の圧力をかけてるかも知れない。良と千聡にかけられ続けた俺には判る。ただ、判っても自分ではどうしようもないことは、そういう立場にならないと判らない。

 きてます、きてます。

 圧力という言葉からこんな貧困な発想しか出来ない自分が悲しい。邪念を振り払って粛々と階段を降りて昇降口に着く。さぁこれからどこへ行く?


「なぁえーこ」

「ん?」

「もしかして、外は暑いのか?」

「暑いんじゃない?」


 あまり意味のない会話を交わす。彼女の機嫌は良さそうだ。さっきの表情が嘘のようで、それはそれで歓迎出来るけど、この先いつ豹変するとも限らない。

 靴を履き替える間に悩んで、某ファーストフードを目指すことにする。某といっても何度も行った場所。暑いのは避けたいから、土手はダメ。中津国は…、この場合必然性のかけらもない。

 彼女の自転車を俺が引いて、二人で進む道。降り注ぐ午後の陽射し。三時半の中途半端な角度は彼女の自転車に乱反射、何かと俺たちの邪魔をする。だけど負けずに手をつなぐ。いつものこじつけ。

 車を避けるように路地を抜け、小さな用水路の側を歩いていく。まだ小学校に入ったばかりの頃、ここまでザリガニを捕りに遠征したことがあった。あの頃の感覚ではここはものすごく遠くて、一大決心なしには来れなかった。そういえば、近所に住んでた友だちは転校して…。


「ぼんやりしてる」

「うむ」

「何考えてたの?」

「昔のこと」

「ふーん」


 彼女の自転車をひいて、反対の手は彼女に握られて、昔懐かしい景色を歩いている。そう考えたら急に恥ずかしくなって、きょろきょろと辺りを見渡した。

 コンクリートの変わり映えのしない用水路も、つるんとしたアスファルトの道路も、そして片側に続く家並も昔のまま。友だちが去って行ったように、中身は変わってるのかも知れないけど、そんなことは見たって判らない。


「では深刻な話題をどうぞ」

「いや、だから別に深刻じゃねーって」


 予想通り同じ制服がポツポツ目立つ店にたどり着いたのは、たぶん学校を出て十五分ぐらい。取りたてて遅くはないが急いだとも言えない。

 そもそもえーことは急いで歩けない。手を離せば可能だけどな。


「コーヒーはやはりホットだな」

「ほっとする?」

「……今のは聞かなかったことにしよう」

「ぶー」


 さーて、ではいよいよ本題に入るか。肩をゴリゴリ鳴らして、大きく息を吐く。

 よしっと振り向いた瞬間、穴が開くほど見つめられていたことに気づき、動揺。いつものことだが俺には学習能力がない。


「実はだな」

「うん」

「…………」

「じらしてる?」

「いや…」


 頼むからあんまりこっち見ないでくれ。緊張がほぐれない。

 どうせなら少し視線を斜めにして片肘をつき、コーヒーを飲んでもらえるとありがたいが、そんな姿勢を指示するぐらいならさっさと話せよ俺。


「よし!」

「………」

「というわけで、頼みたいことがあるのだ」

「私に?」

「うむ」


 ようやくここまでこぎ着けた。ほっとした俺は一気にしゃべった。勝ピーの言った条件も、すべて包み隠さずしゃべってしまった。

 いや、多少は包み隠そうと思っていたのだが、勢いが止まらなかったのだ。


「はぁ…」

「…………」

「深刻な話題かも」

「すまん」


 苦笑いのえーこがコーヒーを飲むのを眺めていると、逆に俺はリラックスする。あーいかん、しゃべった途端に他人事になってしまった。


「勝彦くんに頼りにされるのは嬉しいけど」

「そうか、そりゃ良かった」

「ヒロくん」

「…うむ、好きなもの頼んでくれ」


 墓穴を掘ったおかげで気分は引き締まる。

 その代償はチキンとポテト。少しは遠慮したっていいのではないか、と口に出せない自分が悲しい。


「難しい注文だと思わない?」

「思うぞ」

「…………」


 もしかしてチキンの注文とかけたんだろうか、と思い浮かんですぐ消える。

 とりあえず、えーこは遠慮なく食べる。一応は俺も手を出していいらしいから、あえて不粋な指摘はしたくないが、この大食いで判りやすく育ったんだろうな。

 ……不粋というか言いがかりだろ。くだらない妄想は捨てねば。今、俺は友のために一肌脱がねばならぬのだっ。


「ちなみに勝ピーの好みのタイ………トンはチーム・カナダだった」

「うん」


 親切心から説明しようと思ったが、途中でえーこの威嚇にあって挫折。

 それは言うなってことか。つまり、えーこも気づいてたのか。

 ………。

 考えてみれば当たり前だよな。

 そもそも勝ピーは千聡だけじゃなくえーこのことも意識していた。それに、なんたって俺ですら気づくほどあからさまだった。


「グラジエーターはハヤブサと名勝負をしたもんだ」

「ふーん」

「リッキーは試合に勝つと……、この先はちょっと言えねぇ」

「残念」


 しかしえーこサン、目で合図するなとは言わないが、もう少し柔らかい対応にしてもらえると嬉しい。いきなり睨まれると心臓に悪い。隠し事のない関係もいいけど、時にはオブラートにくるむのも素敵だ。


「ちさりんに聞いてみる」

「え、それは…」

「ヒロくんほど鈍い人はいないのです」

「さ、左様か」


 にっこり笑って彼女はポテトをつまむ。惚れ惚れするほど遠慮がない。いや、確かに惚れてるけどさ。

 身も蓋もない結論がでた上、チームカナダになど何の思い入れもない俺は、遠慮がちにポテトに手をのばす。

 そういえば、油っぽいものばかり食べたらハゲると、いつも勝ピーは主張する。主張するくせにこういうものを喜んで食う。絶望的なヤツだ。こんな男をどうやって紹介するのだ。うむ、ポテト一つでもネガティブになってしまう。


「けど、やっぱりプロレス嫌いじゃ困るよね」

「つき合った後が大変だろうな」

「私も?」

「えーこは無理に分類するならプロレス好きだ」


 それでもまぁ、これは好機だ。打倒不純異性交遊男が身近から消える。素晴らしい。彼女と二人でブツブツつぶやきながらプロレス雑誌。素晴らしい。出来れば遭遇したくない景色だが、それなら遭遇しなければいいのだ。うむ。俺は本屋じゃない。

 千聡にとっても、勝彦の相手がちゃんといるならその方がいいに決まっている。プロレスに悪意をもっていようが、一応は真面目に探してくれそうな気がする。


「先週のテレビ見たけど…」

「どうだった?」

「片方はちょっと面白かった」

「片方ねぇ」


 しかし、えーこの反応からすると千聡はかなり迷惑してたってことなのか? 勝ピーがちさりんと話す時に妙に意識してたのは間違いないが、まさかそれ以上何かあったのか?


「あ、もしかしてあれか?」

「あれ?」

「ちさりんに告白した男子って勝ピ…」


 画期的な見解は、しゃべり終える前に間違ってると気づくほど画期的だった。しかも直前の会話とまるで脈絡がない。冷やかな視線を浴びて、仕方なく頭を掻く。ちょっと金田一っぽく演じてみるが、たぶんそれぐらいではごまかせまい。


「訂正するまでもないでしょ?」

「うむ。不純異性交遊野郎だからな」

「はぁ…」


 ちさりんの様子がおかしかった前も後も、ヤツは同じく不純異性交遊反対論者だった。

 勝ピーはいろんな意味で正直だ。俺はもっと我が友を信じてやるべきだ。反省せねばならないっ。


「勝手に盛り上がらないで」

「…悪い」

「それとももう一品?」


 無駄に拳を握っていた俺も俺だが、笑顔で鬼のような台詞を吐くえーこはどうだ。なんというか……………、可愛いなぁ。

 一週間ぶりに彼女と逢ったのだ。少しぐらいは煩悩に押し流されても勘弁してやってくれ。


「ひろちゃん」

「おう」


 早くも冷えたポテトをつまむ。

 この時点でチキンは無惨にも骨ばかりとなり、ポテトも数えるほどしか存在しない。まぁ太めの皮付きだから、その気になれば買った時でも数えることは出来ただろうが。


「ひろちゃんに誰か紹介する方がずっと大変だと思う」

「ふぅむ」


 歯応えのないポテトを咀嚼しながら、曖昧な返事。

 どう答えていいやら困る。

 ――――いや、目の前の女子を紹介してくれればいいんだ。


「要するに、えーこは一般的な女子ではないということだな」

「そう?」

「俺個人の意見でいいなら、間違いなくそうだ」

「はぁ…」


 これってどう考えてもノロケだよなぁ、と思いつつコーヒーをすする。

 しかし、えーこの反応を見ると、どうも俺とは見解が異なるようだ。まさか自分のことをどこにでもいる女の子だとでも思っているのだろうか。無茶だ。


「ひろちゃん妄想中」

「妄想ではない。えーこが可愛いことについて思いを巡らせていた」

「それって妄想にならないの?」

「日本語は難しいな」


 最後のポテトに手をのばしたら、欲張りな彼女とかち合った。

 仕方なくつんつん押してみる。すると同じような反応。さすがに店内でそれ以上は恥ずかしい。これも相当恥ずかしいはずだけど。


「ひろちゃんは相手が女子でも意識しないよね」

「そんなことねーだろ」

「そう? ちさりんも言ってたけどなぁ」


 えーこは首を傾げるけれど、そもそもこの二人をサンプルにする時点で間違ってると思うのは俺だけだろうか。全世界に星の数ほどいる女子…はどうでもいいとして、クラスに二十人ほどいる女子の前で、俺がどんなにおどおどしているか、えーこは気づかないのだろうか。うーむ。理不尽理不尽。


「その程度の根拠なら、えーこも男子を意識してないってことだ」

「まさか」

「今意識してるか?」

「してます、すごーく」

「ぐぁ…」


 勝ち誇った笑顔。

 そりゃそうだ。俺だってえーこを意識してる。男子か女子かなんて問題とは全然意味が違うけど。


「とりあえず今のは俺の間違いだ」

「うん」


 これ以上の散財は勘弁してもらいたいのであっさり引き下がる。ここは無限に物が買える。デートには実に危険な場所だ。

 ……って、今日はデートなんだっけ? まぁ難しいことは忘れよう。目の前の彼女は可愛い。可愛いなぁ……………………。


「ひろちゃん」

「う、………うむ」


 ぼけーっと見つめてしまった。我ながら不覚だ。肩をゴリゴリ鳴らして、恐る恐る周囲を見渡す。

 店内の様子は入った時とあまり変わりがない。定期的に店員が掃除に来るから、それなりにきれいな床。がたつくテーブルの上には、二つの紙コップと数百円分の食糧だった痕跡。天井の角には黒っぽいスピーカーがぶら下がり、一定の音量で音楽が流れてくる。流れてる曲のタイトルは判らない。あまり興味もないし、周囲のしゃべり声でほとんどかき消されている。

 同じ制服は左斜めの一テーブルだけ。顔はどっかで見たかも知れないが、少なくとも同学年ではない。確認出来る範囲では、他の制服にも見知った人間はいない。つーか、随分遠くの学校も混じってるな。


「明日はプロレス?」

「えーこは俺が勝彦くんと本屋で仲良くするのがお望みか」

「友だちなんだし」

「………」


 ロープに振ったら返って来るのがお約束ってもんだよオラエー。聞き取れないマイクは照れてる証拠。新説だ。

 冗談はともかく、どの席も声がでかい。その半分でも十分会話ぐらい出来ると思うんだが、知らない連中にも聞いてほしい? まさかな。だいいちその論理は、勝ピーにも当てはまってしまう。

 どっちにしろ、ここは優雅にお茶を飲む場所ではない。今日は用件が用件だし、これぐらい騒がしい方が気楽でいいけどな。


「とりあえず、えーこは参加しないんだな?」

「明日はちょっと…」

「出来れば堂々と断ってくれ」


 えーこが面白くないと言った団体を、勝彦はこよなく愛している。それも、ただ愛しているのではない。愛する団体は迷走を続け、雑誌を開いて二言目には不満ばかりなのに、どこかで救われたいと思っている。初心者には難しい世界だ。

 俺も初心者でありたかった…というのはどうなんだろう。普通に考えて、俺はプロレス好きに分類される。だけど総格だって見る。


「雑誌じゃなくて、本物を見に行く予定は?」

「二人旅でも行くかって話はしてる。近所のスーパーに割引券あったし」

「定価じゃないの?」

「割引券を使うのは正当な権利だ」


 なんで俺と勝ピーの仲を気にするんだろう。祐子さんなら怒るのに、弟ならいいのか……って、そう比べたら当たり前かも知れない。

 まぁでも、勝彦と知り合ったのも今年なわけだ。なんだかんだ言って、ヤツと気が合うところがあるのは確かなんだろう。あえてイタコりたいとは思わないが、俺も教室でイタコった経験者だし。

 ……………。

 …………。

 ………。


「勝手に落ち込んでる?」

「まぁな」


 自虐にもほどがある、と溜め息一回。けれど、あれがえーこと初めて話をした経験なわけだ。さっきの話題に戻っていく。

 もう三ヶ月も経ったけど、あの時の記憶は今も鮮明だ。ただし鮮明というのは千聡に引き離されてからの後味の悪い時間ばかりで、肝心の怒鳴り合った瞬間は、ぼんやりと頭にこびりついてるだけ。


「今度はラーメン食べに行く?」

「勝彦様と一緒に行ってくれ。今ならお湯切れの心配もない」

「ねぇひろちゃん」

「なんだよ」


 うーむ。確かに緊張はしなかったが、あんまり参考にならない記憶だ。

 ただ、あの後土手で謝った時も、不思議な安心感はあった。なんだか許してくれそうな気がしたし――――――――――――、ちょっとだけ千聡に似てると思った。これは誰にも言えないな。


「まだお腹すいてる?」

「ラーメンはダメだ。冗談にならない」

「冗談で言ってるわけじゃありません」

「…………」


 ちょっと居心地が悪くなって、天井を見上げる。白い。壁にヤモリはいない。話を戻そう。戻す必要ってあるのか? まぁいいや。

 盆と正月に会う年上の従姉にすらびびっていた俺が、自然に話せた最初の女子は、やっぱり千聡だ。向こうから話し掛けられて、その翌日にはうち解けていた。まだ良に引き合わせたわけでもなかったにも関わらず、だ。

 それは俺の側の問題よりも、ちさりんが男女を意識しない性格だからだと思う。思うけど、その理由をえーこに当てはめていいのだろうか。よく判らない。


「そんなに大切な妄想?」

「妄想というか、えーこが振った話題だ」

「そんなこと言われても」


 拗ねるえーこ。確かに言われてみれば、この話題は俺の頭の中でだけ進んでいた。うーむ。


「ふっふっふ、読み取ってみよ」

「意識するしないの話でしょ?」

「ぐぁ」


 俺の頭の中が見える彼女は超能力者。ただ見えるだけじゃない。いつか俺の頭を支配して変えて行く。ポジティブ頭脳の俺。それって俺なのか?

 ともかく、もう一度勝彦の件を頼んでおく。ただし、あまり期待はしていないという本音も添えて。


「やっぱり自分で探すのが本筋だと思わねぇか?」

「本筋って随分大げさじゃない?」

「そうか?」


 大まじめなつもりの俺だったから、なんだかバカにされた気分。今度はえーこにたかってやるぐらいの気合いで、すぐに不満を口にした。

 もっとも、別にこれ以上食べたくもない。晩飯に差し支えるからな。


「そんな珍しいことでもないと思うんですけど」

「そうかねぇ」

「しょっちゅう頼まれてるみたいだし」

「ちさりんが?」

「うん」


 うーーむ。

 ちさりんは特別だという言い訳が再び頭に浮かぶけれど、この際それはなんの言い訳にもならない。間違いなくちさりんは特別だ。しかし、ちさりんに紹介を頼む女子は普通にいるということだ。

 要するに、えーこの言うとおりなのかも知れない。いや、俺だっておかしいとまでは思わないのだが、どうしても引っかかりがある。

 ずばり、座して彼女を得る。

 まぁプロレス方面で多少は勝彦が妥協する可能性もあるだろう。とはいえ、当人はたいした努力もしない。やはり納得出来ない。ヤツを甘やかしてはいけないという思いが消えないのだ。


「ひろちゃんのことも随分聞かれたって」

「へぇ」


 曖昧な返答。なんとなく、そういう話になりそうな気はしていた。

 どうでもいいって顔で紙コップの中を覗く。もうほとんど残ってない。


「気になる?」

「なっていいのか?」

「ダメ」

「…………」


 気にならないわけはない。いや、その話題が出ただけで俺の頬はゆるみ、肩こりはとれ、、自尊心は刺激される。だけど次の瞬間には決まって自己嫌悪。ぐるぐると繰り返すネガティブ回路? そんな複雑なものだろうか。

 軽くなったり重くなったりの肩を回し、息を吐きながら彼女の顔を見る。彼女はじっと俺の目を見ているから、当然のように見つめ合う。眼力眼力。自慢ではないが、千聡から誰かを紹介された経験はない。一度としてないぞ。


「ちなみに質問だ、えーこ」

「何?」


 ともかく、我が友の話題に戻ろうではないか。うむ。


「ちさりんが紹介してうまくいった例は?」

「………」


 えーこは少しの間、黙って俺の顔を見ていた。

 それから一度視線を落として、再び俺の顔。実況する俺も同じく見つめているわけだが、彼女の返答を待つ立場だからこれは仕方ないのだ。


「えーと」

「うむ」

「この二人…」


 えーこの頬がちょっと赤い。しかし残念ながら俺は冷静沈着である。


「さ、真面目に答えてもらおうか」

「高校での話しか知らないので……」


 要するに実績ナシ。判りやすい話だ。

 まぁそれは、ちさりんの能力に問題があるとかいう話ではなかろう。紹介といっても、ロクに面識もない男子と女子をいきなり二人きりに出来るわけはない。とりあえず顔合せして、あとは当人同士に任せる。うまくいくかは当人次第。やらないよりマシってとこだな。


「ひろちゃん」

「ん?」


 もっとも、勝彦様はけっこう追いつめられているようだ。うまくいかなかったら責任問題に発展しないとも限らない。誰が悪いんだ?


「ちさりんと良くんの時は?」

「へ?」


 まだ責任は考えなくていいだろ、うむ。


「ヒロくんが仲人なんでしょ」

「…仲人ってなんだよ」


 こんな短い間にちゃんだったりくんだったりする理由がよく判らない。それはともかく、言われてみれば確かに俺の口からいきさつを話したことはなかった。

 しょうがないから手短かに話す。ぶっちゃけ、俺自身はあくまで第三者なのだから、そうそう手長くは話せない。それでも我が彼女は、目を輝かせながら聞いている。この様子からすると、まるで知らなかったようだ。

 結局、ちさりんのおしゃべりは他人のことばかりで、自分については隠し通すわけだ。困った性格だ。抗議の意味も込めて少しぐらい嘘も混ぜてやろう。うむ。ありがちなところでライバル出現か?


「もしかして嘘が混じってる?」

「ぐぇ、ばれた」


 なんでばれたんだ? あまりに早くて、ちょっと言葉に詰まる。


「ひろちゃんは嘘つくと顔がにやけるから」

「…そりゃ判りやすいな」


 我ながら随分基本的なことを忘れるものである。しょうがないので無理矢理眉間に皺を寄せて、さらに手短かに残りを話す。話しながら意味もなく、小学校の頃、額に黒マジックで点を書かれたことも思い出した。強いて考えれば眉間つながりだが、この際まったくどうでもいい。

 気がつけば五時半。まだ大した時間じゃないけど、えーこは帰らねばならない。本日の夕食当番らしいから。


「で、今日は何食うんだね?」

「焼き魚とおひたし」

「………」


 テーブルの下でガタンと音がする。

 何が起きたかは確認するまでもない。蹴られた。なぜだ、俺は何も言ってないだろ。


「さっぱりしたものが食べたいと、母の提案です」

「そりゃごもっとも」


 誰もダイエットが目的だなんて言ってもないし、思いもしなかった。

 だいたい、気にするような身体じゃないよな。どっちかといえば痩せてる方だと…いうか、可愛いなぁ。なんでこんなに可愛いんだろう。思わず右手を差し出しかけて、はっと我に返った。


「もしかして撫でてくれるの?」

「若き日のあやまちだ」

「私は構わないけど…」


 意地悪な彼女。本当に構わないのか、負けずに意地悪したくもなるが、我が身を削るのは避けたい。余計なことを考えないよう、ゴミばかりのトレイを持ち上げて席を立つ。

 今日の気分は平穏だ。トレイを返して外に出た途端、じめっとした空気に触れても同じ。この間は、別れたらもう二度と逢えないような気になったけれど、補習はまだ二日ある。精神衛生上実に良い。


「今日はここで別れましょう」

「…仕方ないな」

「あさっては橋までよろしく」

「うむ、心得た」


 この店を選んだことを、今ごろになってちょっと後悔。橋とは正反対の方角だから、よほど時間がない限り一緒に歩くのは無理だと、足りない頭でもすぐに気づくだろうに。

 とはいえあと二日ある。何も動揺することはない。ちゃんと手をつないでいれば安心だ。明日は間違いなくプロレスの日だけどな。


「本屋でもう少し好みを聞いてみたら?、明日」

「無理」

「そう?」

「たぶん良も一緒だ」


 プロレス雑誌を手に女子を語るというのがどれほどシュールなものか、いっそ熱弁したくもなったがとりあえずこらえる。

 良の参加はでまかせではない。本気だ。


「良くんってプロレス好きなの?」

「いーや」


 すぐに別れる気になれず、用水路まで一緒に歩くことにする。用水路に出会ったら終わりなのか、用水路沿いの道が終わるまでかは定かでない。つないだ腕が自然に揺れる、そんなリズムに身を任せる。

 勝ピーはきっと、良に知られたくないと思っている。だから三人であの話題は絶対に無理だ。ちさりんに頼る以上、どうせ隠しようはない。とはいえ、直接話題にすれば逃げ場もない。突然勝ピーが切れやすい若者に豹変しないとも限らない。


「せっかくだから鍛えてやる」

「ちさりんに怒られるよ」

「文句言うなら腰巾着も一緒だ」


 ともかく、プロレス雑誌を前にした勝彦はいろんな意味で無敵だ。ちさりんがどんなに抵抗しようと、あの怒濤の解説攻撃には勝てないのだ。ふっふっふ。


「ということはヒロくん」

「ん?」


 ふと声のトーンが変わったのに気づき、隣の表情を追う。

 もちろんそこには、判りやすく苦笑いの顔。ついでに力のこもった指先。


「いずれ私も鍛えられる?」

「んー、別に勧めはしないが貴重な体験だと思うぞ」

「はぁ…」


 貴重な、という部分に力を込めておく。どんな意味かはともかく、あなたの知らない世界が木曜の本屋にはある。

 まぁしかし、本屋のおっさんもまさか女子が混じるとは思うまい。うーむ、楽しみになってきた。ちょっと俺の感覚はどうかしてるな。


「じゃあ別れるまえにひろちゃんに質問」

「どっからでもかかってこい」

「えーと…」


 あっと言う間に用水路の橋に着いた。子供でも五分とかからない距離だから当たり前なんだが。

 そろそろ車がライトをつけ始める時間。立ち止まって首を傾げるえーこは、どうやらここで解散の予定らしい。


「伝説好きのひろちゃんだから、プロレスも大好き?」

「俺は伝説好きだったのか」

「うん」


 その質問はどう考えても前提に無理があったが、あっさり頷かれてしまったので突っ込むタイミングがなくなってしまう。

 ………。


「じゃあひろちゃん」

「ほい」

「良くんもプロレス好きになれるはず、と思ってる?」

「うーむ…」


 今度は黙って首をひねる。

 質問の意図は判る。二つ目の質問に同意すれば、遡って最初の質問に同意したようなもの。実に用意周到である。


「まぁプロレスでもレジェンドって言葉はよく使うなぁ」

「ふーん」

「物語らないと面白くない世界だしなぁ…」


 つないだまま考えることに不自由を感じて、離した左手。そのまま彼女の髪に触れ、上下に動かしてみる。

 クツバミゴロウというヒーローは、確かにレジェンドだ。少なくとも自慢気に語るショーにとっては。

 あるいは四郎三郎を誇るちさりん。レジェンドだ。ヤツは伝説のレスラーみたいなものだ。なるほど、えーこの言うとおりかも知れない。

 しかし、しかしだ。思わず逆撫でして、慌てて上から下へ撫で直す。


「えーこくん」

「…え?」

「君にとってツルはレジェンドか?」

「………」


 一瞬えーこの反応が遅れた気がする。なんとなく理由は想像つくけど。

 ともかく、えーこ説の問題はここだ。他でもない俺たち二人は、ショーが自慢するような姿を知らない。赤裸々に己の半生を語ったツルとゴロウはレジェンドじゃない。レジェンドは生活の苦労を嘆くのではなく、洪水から村を救ったりしなければならない。アンドレは木こりをやってなければならない。


「ツルとゴロウは等身大過ぎる」

「…それは確かに」

「あれはプロレスじゃない、格闘技だ」

「え?」


 しかし、これで決まりとばかりに結論を叫んだら、きょとんとする彼女。俺も言い切ってから無理だと思った。プロレスと格闘技の違いを説明するには、長い長い時間が必要だ。やはり一度はえーこも誘わねばなるまい…って、結論の方向が間違ってる。


「まぁ、あさっては生まれ変わった良に会えることだろう」

「いいのかなぁ」

「奴には素質があると、えーこも言ってた」

「ぶー」


 頬を膨らませた彼女は、だけど欄干にもたれて、少しの身長差を作る。

 えーこは撫でていれば怖くない。最近までそんな簡単なことすら僕は知らなかった。輝く瞳や白い肌や控えめなリボンばかりで成り立っていた君は、その姿を変えていく。違う。変わってなんかいない。だから僕はもっともっと、君に夢中になれる。


「じゃあまた明日」

「おう」

「また撫でてください」

「…気が向いたら」


 その瞬間、空手チョップが飛んでくる。今日も基本に忠実だ。


「いつもこの調子なら勝ピーの友人一同とも仲良く出来そうだ」

「友人一同って…」

「かの有名なプロレス者たちである」


 えーこの指先は俺の眉間にはりついたまま。いかにも反応に困って固まっているようだが、もしかしたら違う意味があるかも知れない。

 仲良く出来るといっても、チョップやヤシの実割りのレベルからフロッグ・スプラッシュへの道は遠い。千里の道も一歩から。勝手に納得しながら俺は額から手のひらをはぎ取り、ぐっと握りしめる。これはプロレス技じゃないぜと心の中でつぶやいて、最後に五、六回大きく振った。夕暮れ時は別れがつきもの。平静を保っていても、寂しくはなるだろう。

 少し、また少し。

 離れていく二人の間を満たしていく空気。

 音もなく流れる用水路の水。

 覗きこんでも魚はいない。だけどとどまることもなく繋がっていく道。

 どこからどこへ?

 僕の来た道、あるいは僕の行きたい道かい?

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