水と樹
鉛筆で書いた切り取り線なら、いつだって消していい。
白絵の具しか売らない画材店で溜め息ついて、天井を突き抜ける夢を見る。
僕という無限。
たくましい腕が二本あれば、どんな相手でも受け入れてみせる。
この愛すべき宇宙では、どんな影ともいつか心を通わせる。
僕という夢幻。
「観光しませんか?」
「観光旅行に今からか。夜行なら午後九時と十二時過ぎだ」
「乗りたければご自由に。お金あるの?」
「…空手チョップはやめようぜ」
青。どうしようもなく青の空気を切り裂いて、二台の自転車が軌跡を残す。
もやもやとした頭。あっという間に身体は冷気を忘れて、今はただ生ぬるい風だけが頼り。まばらな瓦屋根とかさついた木の葉が少しずつ年を取って、二台の自転車は次第に入り組んだ町へと引き込まれていく。
時間はほんの十分足らず。特別料金もかからない旅先は、学校近くの見慣れた土手だ。舗装もされてない緑と茶色の道で彼女は自転車を降り、つられるように俺も降りた。
「両親におみやげでも買ったら? 茶碗とか」
「おしん人形でも買って名前つけるか。家政婦とか」
二台の自転車は少し斜めにずれて並ぶ。それは土手が狭いだけであって、本当はきっちり並んで歩きたいけれど、車の通らない経路はこれぐらいだから仕方がない。
だいたい、ファミレスからわざわざここに戻る理由だって、少なくとも俺にはよく判らない。無駄に遠回りしてるだけ? それ以前に、どこへ向かっているのだろう。
「どこで買えるの?」
「…台湾あたりだろう」
でも、なるべく目的地までは時間がかかった方が嬉しい。それなら徒歩しかない。もしかしたら環境に優しい俺たちかも知れない。
嘘だ。
単に目的地が決まってないだけ。俺もそうだが、えーこもわりといい加減な性格だ。
「もう戻って来ないの?」
「今さら駅前に戻る場所はない」
「ヒロくんは冷たい人」
「すまん。反省する」
心のこもってない言葉を吐きながら、犬のフンがないか足元を確認する。おしん人形の行方など、心配してる市民がいたら会ってみたいものだ。
ゆるやかなカーブ。商人の町と城下町を隔て、少し前には大火の延焼を防いだらしいこの川沿いは、なんとなく落ち着く場所に思える。まぁ、こんな見慣れた景色を無理に褒める意味はないな……と、ちょっと二人の距離が出来た。彼女の歩幅がちょっと大きくなったようだ。
えーこはどうやら行き先を見つけたみたいだな。この場で思いつく行き先だから、ダイトウキイチじゃないだろう。
堤防はカーブをまわり終えたところで、ひっきりなしに車が行き交う橋と交差する。ここで左に折れればやがて大河を越える――えーこの帰り道――けれど、彼女は歩道の端で立ち止まったまま。いかにもこれから横断しそうな雰囲気だ。
「気をつけてね」
「……まぁいいけどさ」
そんな言葉を吐くぐらいなら信号まで歩こうぜ、と言いたくなるが、信号は橋の対岸にしかないから相当の遠回りなのも事実。
少しの緊張を感じながら、左右を確認する。対岸の信号が赤なので車の往来はない。それでもやっぱりどうにも不安だ。
自分ひとりならば、何も感じはしない。けど、えーこが突然足を挫いたら、挫かないまでも転んだら、自転車が倒れたら……。妄想は悪化の一途を辿る。
「…怒ってる?」
「たぶんな」
この先の自分は、もしかしたら子どもよりも交通法規を守るかも知れない。
そういえば小学二年の頃、右側通行してた自転車を指差したら近所の人だったことを思い出した。すれ違った大人は、自転車は右側だと平気な顔で主張して去って行った。ああはなりたくないものだ。
「ひろちゃん」
「ん?」
「………」
「気にするな」
手をのばすこともなく見つめられると、さすがに申し訳なく思えてくる。それに、近所の人の思い出はこの際無関係だ。
気を取り直して肩をぐるぐる回し、奥へ進んでいく。駐車場の片隅に自転車を停め、ようやく身軽になった目の前にはみやげ物売り場が立ち塞がるけど、軽く無視して倉庫の並ぶ景色へ近寄っていく。少し遅れ気味だった彼女はやがて左の定位置におさまり、アブラゼミの鳴くもやもやした世界を並んで行き過ぎる二人。
周囲には俺たち以外にもポツポツと人影が見える。駐車場にバスが一台あったから、こんな平日でもわざわざ眺めに来る人はいるようだ。夏休みなのに、同年代の人間の姿は見えないけど。
「中は見る?」
「えーこに任せる」
一般にはどこ行くんだろうな。カラオケかゲーセンか、それとも中町のお好み焼き屋? 最後の選択肢は神社巡りと同じぐらい論外だ。俺たちに言えた義理じゃないが。
ここに来るのは、もちろん初めてというわけじゃない。小学生の遠足で見学させられたし、良と来たこともある。街の誇りだと言われれば、ああそうですかと答えるだろう、沢山の米を保管する倉庫。手前の建物は資料館になっておりますって、俺は観光ガイドかよ。
えーこは一度ちらっと俺の顔を覗いてから、並ぶ倉庫の途切れる中間まで黙って歩き、左に折れた。ぽっかり空いた場所は、奥に巨木が並び、何かはためいている。何かというか、神社の幟である。
「いきなり裏に回るのか」
「ついさっき任せられた気がする」
「気のせいじゃないな、うむ」
こげ茶色に塗られた壁が両側に続く。中間より少し先で、縦に一本の雨どいが通っている。その形が不思議だった…って、いつの記憶だっけ。
そういえば、ここにはなぜかじいさんと来たことがあったな。もちろん観光が目的ではなかったはずだ。それ以前に、俺はまだ観光という言葉も知らなかったはずだが、あまり本質的な問題ではないだろう。
「昔のドラマはここ歩いたんだよね」
「えーこはあれを見てたのか」
「……再放送です」
控えめに俺の頬をつねって、えーこはさっさと神社の前まで歩いていく。別にイヤミを言ったつもりはなかったのでつねられ損である。
未だに手をつなぐ気配がないのは、ちさりんに叱られた成果ってやつだろうか。ここで我慢する必要はないような気がするが、えーこが頑張ってることを邪魔するのもなんだし、でも俺はちょっと今は手をつなぎたいし、困ったかもしれない。
「こういう景色で二人って、デートみたい?」
「いつだってデートだろ」
「行き先にもこだわりたくありませんか?」
「さぁ」
誰も見てない芝生。なんとなく飛び蹴りの練習をしてから、少し駆け足で彼女を追う。飛び技は見栄えはしても逃げられやすい。偉そうに空手家がやるもんじゃない。ふぅ。
非常階段で闘うような空手家の魂など宿していない俺は、風のない木陰にゆらめくえーこの白いシャツをぼんやりと眺めて、ようやくリボンの存在にも気づく。
「プロレス雑誌は読んだ方がいい?」
「やめとけ、えーこには危険過ぎる」
「え?」
背後ではためく幟には、ただ神社の名前が書いてあるだけ。良みたいに、あるというだけで喜ぶような奴はともかく、どうせなら説明文ぐらい付けたらいいのに、と思う。
「だまし討ちにあうぞ」
「………」
「こうやって手をのばして、握手しようと思ったら引っぱたかれるぞ」
「うー」
「それどころか、笑顔で目つぶし食らわせられるかも」
「…うん」
いい加減なことばかり口にしながら、いつもとは逆にこちらから差し出した手に、彼女が触れる。その感触は…、俺の方がちょっと熱いみたいだ。
…………ん?
「長いな」
「ごめん」
「謝るな。傷つくから」
ふと気になって指の長さを比べてみたら、明らかにえーこの方が長い。手のひらは俺の方が圧倒的に広いのに、局部的に負けるというのが悔しい。不条理だ。
「ひろちゃんの手って可愛い」
「子どもみたいだと言いたいわけだ」
「まぁそうかも」
えーこは俺の手のひらをつんつん指で押して、弾力を確かめる。すっかりおもちゃにされている。デートらしくするんじゃなかったのか? 疑問はつきないが、実をいうとかなり気持ちよかったりする。凝ってるのかも知れない。
………そうか。
「えーこ」
「にやついてる」
「気のせいだ」
改めて彼女の顔を見たら、さすがに躊躇してしまう。が、今さら引けない。いや、いつでも引けるだろ。
「肩もんでくれ」
「それってデート?」
「もしかしたら」
「…………」
彼女の顔はすごく複雑そうに見える。半分はさげすんでいるようにも思えるが、一度溜め息をついてから左の奥を指差す。そこには座ってくださいと言いたげなベンチがあった。
ベンチとは座る目的で設置されているのであって、何も恥じることはない。そう自分に言い聞かせながらも、どんどん気まずくなるのを感じながら、無言で指定された位置に座る。俗に言う針のムシロってやつだが、あくまでムシロではなくベンチである。
無言で背後に回る彼女。もしも勝ピーだったなら、良くてスリーパー、悪けりゃドラゴンスリーパー。どっちでもかけられる側にとって迷惑なことに変わりはないが、未だえーこはプロレスを知らない。
「………」
「なぁ」
「え?」
「そこ、肩か?」
今にも触れるだろうと肩に力を入れてじっと待ったのに、頭頂部を押されるような感触が。
彼女の指先は螺旋を描いて、ざらざらと不規則に音を立てる。どう考えてもこれは肩こりに効く技ではない。俺の頭で遊んでいるという表現がふさわしい。
「つむじが可愛いから、つい」
「誰だってついてるだろ」
「薄くならない?」
「見るな」
頭を左右に振って、なのに彼女の指は何度も頭に触れて、そしていつか指先から手のひらに変わっていく。ざらつく音は静かになって、もっと広い範囲にあたたかな感触。
「嫌?」
「…そんなことはない」
今朝の良はこういう感じだったのか。ぼんやり思い出しながら、少し頭を動かしてみる。えーこの手はその分ずれて、すぐに修正されて元の往復に戻る。
………。
眠くなってきた。
「わりと細い髪だね」
「養分が足らないのか」
「もっと梳かしたらどうかなぁ」
そう言いながら今度は指で梳かし始めるえーこ。やはりぼさぼさ頭には不満があったらしい。正直言って、見た目の評価ではとても勝負出来ない男なので、どこかであきらめてほしいものである。
しかし、それはともかく梳かされるのは恐ろしく気持ちがいい。たとえて言えば散髪に行ったような気分。たとえというか、そのまんまだ。あー幸せだ。眠い…。
「ひろちゃん」
「叩くなよ」
いつの間にかご立腹な彼女にはたかれて、悲しくなりながら肩をゴリゴリ鳴らした。えーこにバックを取られれば、やりたい放題ってわけだ。やれやれ。
えーこはようやく頭頂部及び周辺への興味を失ったらしい。さぁ肩に行ってくれと左右交互に動かすと、今度は左肩をつんつん押し始めた。
「いつもどうやって鳴らすの?」
「ただ回すだけだ」
「もしかして、家で練習してる?」
「そんな練習するヤツとは友だちになれない」
「じゃあヒロくんって友だちいな…」
「だからしてねぇよ」
遊ばれてると判っていても苛立ちはする。俺はいいカモだ。
もちろん、デートと自分から言っておきながら、ジジィのように肩をもめといった時点で、俺の立場は限りなく弱い。発言権などないに等しい。たとえ背後でえーこがボクシングの練習に没頭しても、耐えるしかないのだ。
……せめてシャドーボクシングにとどめてほしい。人間サンドバッグとは、単なる暴行である。
「ひろちゃん」
「ん?」
ようやくえーこは親指で肩を押し始める。
「痛くない?」
「まだ弱いぐらいだ」
「本当に?」
背後から、かなり本気で驚いた声が聞こえてくる。
実際、両肩に加わる力は決して強くはない。勝ピーにエルボーでグリグリやられる痛さとは比較にならない。比較してどうする。
「えーこは凝らないか?」
「あんまり…」
「父親の肩は?」
「幼稚園のころしかやったことないから」
どうしようか一瞬悩んだけど、父親に触れてみた。タブーにしてはいけない気がした。
えーこは特に表情を変えることもなく答えた……と思う。背後の表情は見えないが、動揺したかどうかなら見なくたって判る。その気になれば、息づかいだって聞き取れるような気がする。
ざわめく欅の木立。
泣きわめくアブラゼミ。
乱れ飛ぶ音は静寂に等しいと、誰かの言葉。僕には難しすぎて、でもなんとなくそのとおりだと思う。抱かれている。
あるいは、包まれている。
「肩幅広いね」
「そうか?」
「うん」
そりゃ、えーこよりは広いけどな。
一瞬止まった指先に、見られているという緊張感。しかしそれを解きほぐすかのように、彼女は親指以外の指も使って、やや本格的にもみ始める。
うーむ、気持ちいい。赤血球がよどみなく流れていくようなイメージすら浮かんでくる。あえて難をいえば、やはりこれはデートで感じる喜びではないことだ。どっちかというとタントンタントンタントントン? 叩かれてもいないのに……って。
「イタタタタ…」
「あ、ごめん」
「ほ、骨はやめてくれ」
えーこを非難するつもりはなくとも、骨の部分をグリグリやられると痛い。しゃれにならないほど痛い。
それでも、振り返った先の顔に悪気がないのは判ったから、無理矢理笑顔を作って頭を下げる。
「いや、あの、ありがとう」
「…難しかったかも」
立ち上がってもう一度彼女の顔を見たら、やっぱりバカなことをさせたという後悔もわいてくる。次の瞬間にはもう一度頭を下げたくなる。
「申し訳ない。これからはデートに専念しよう」
「ひろちゃん」
「ん?」
「肩もんだらちょっとおなかすいたなー」
「…………」
タ、タカリ女だ。ここにいる女は、タカリのえーこって通り名だっ!
そう思っても口には出せず、それどころか肩こりのとれた左腕は無意識のうちに彼女の側へ差し出される。俺はえーこが大好きだ。そう思った時点で勝ち負けなら負けだ。ついでに、通り名ってセンスは古いのだ。
二人並んで、今度は倉庫の裏に続く道を歩く。大きな欅が鬱蒼と茂る下には石畳。何もテレビに登場しなくとも、二人で歩いたらデートって気がする。相変わらず轟音をたてるアブラゼミすら、今は景色の一部と化している。忍者が忍術で化けた木がどこかに混じっているかも知れない。
「で、どうすんだ」
「先生、アイスクリーム食べたいです」
「先生などいないっ」
おばさん比率の高いみやげ物売り場の向こうには、なるほどアイスクリームと書かれた幟がはためいている。
冷静に考えれば、ここは自分の家から歩いて十分少々の距離。えーこに至ってはほぼ通学路といっていい。そんなところで観光気分でアイスってのも妙な気分だ…けれど、いざ売り場に立つと俺もほしくなっている。なんの躊躇もなく二つ買ってしまった。
…いや、買う瞬間には少しだけ躊躇したぞ。何せ、アイスクリームではなくアイスクリンだったからな。
「どこで…」
「あそこ空いてる」
「う、うむ」
誰が見てるか判らないので、出来れば人混みから離れていたかった。しかし我が彼女にそのような配慮はまるでなく、テラスの空席にさっさと座ってしまう。祐子さん相手にごまかすぐらいなら、こっちの方が遙かに深刻な事態だと思うのは俺だけだろうか。
……えーこが思わないなら俺だけなんだよな。二人にしか意味のないことなんだから。
彼女の言い分はきっと、クラスの全員にばれてる時点で今さらってとこだろう。残念ながらそれはそれで説得力がある。ただし、祐子さん相手にも堂々とするべきだと強く主張せねばなるまい。
「よそ見は不可抗力ですか?」
「いや、…なるべく抵抗したい」
「うん」
一応はえーこの言動が元になっているのだが、さすがに彼女を納得させる自信はない。ともかくつまらない妄想はやめだ。
うむ、このアイスはまったりとコクがあるのに不思議に…って、今度はグルメか。
「誰かと戦ってるの?」
「妄想だ、いまトドメを刺すところだ」
「ふーん」
ふーんって反応もどうかと思ったら、すっと妄想は消え失せた。あほくさ。
でもこれはやっぱり、えーこに相手してほしいからなんだろうな。
毎日学校に着いたら、いつも一番に後ろの席を確認して、俺のことを待ってたに違いないえーこと言葉を交わす。そこにすがってしまうのは、まだ俺がネガティブから抜け出せないから。だけど本当に抜け出せばいいのか、正直判らなくなっている。
「溶けるよ」
「なぁえーこ」
「ん?」
「このアイスはうまいか?」
「んー…」
慌てて話題を逸らす。ずるがしこい自分。
とはいえ、疑問は疑問としてある。
「おいしいって言うほどじゃないけど冷たい」
「ふぅむ。……やはりバニラソフトが一番だよな」
「グルメなひろちゃんだ」
勝ピーが言いそうな台詞という時点で、グルメにはほど遠い気がする。やたらと好みにうるさいが、ヤツの感覚は常人に理解出来ないものだ。
ともかく、このアイスクリーム…じゃなくて昔懐かしいアイスクリンは微妙である。そもそも、たった十六回目の誕生日すら迎えていない俺にとって、ちっとも昔懐かしくない。単に水っぽいだけである。こんなことではせっかく訪れた観光客に逃げられてしまうぜ、と観光客を代表して憤る。
「男の子ってみんな味にうるさい?」
そんな憤怒の形相に気づいてしまったのか、えーこは真顔でたずねてくる。
「別にうるさいってほどじゃないだろ」
「いつも良くんとファミレスの味に文句言って…」
「文句ではない。建設的な提言だ」
「つまり、ひろちゃんは味にうるさい」
「う…」
負けた。口から生まれたえーこだ。悔しい。憤怒の形相はあっさり崩れた。
とはいえ、確かに言われてみれば、えーこと二人の時に文句言うのはいつも俺だ。かつて三人で出掛けた時も暴言を吐くのは第一に良、それから俺であって、千聡がまずいと口にすることはなかった。
だけど、この味に不満を感じているのはえーこも同じはずだ。なぜならおいしいと言わないからだ。たいして説得力ないな。
「なぁえーこ」
今さらのように一口なめて、じっくり味わってみる。
冷たい。甘い。ちょっと妙な味が混じる。
「とりあえず、良は食通というより経営に興味があるんだと思う」
「ファミレスが流行ってないって話?」
「うむ」
少なくとも、俺は味覚を表現する言葉をもっていない。どこかのマンガで仕入れた言葉を、面白がって使うだけ。「むほっ」なんて無意味そのものだし、まったりという言葉がどんな味を指すのかも判らない。
「新しい店が出来たら、いつまで続くかって話しないか? 一年以内につぶれるとか」
「しません」
「ふぅむ」
しないのか。それでは話が進まないので途方に暮れつつコーンをかじる。
すでにアイスは、コーン内部に逃れた分だけとなっている。絶滅危惧種である。
「ねぇヒロくん」
「ん?」
サクサクと音を立てながら、こちらを向く彼女の瞳がちょっと大きめに開いているのを眺める。どうせ良からぬことを思いついたのだろう。
「男は将来家族を食わせる義務がある…、みたいな話は?」
「小中学生が顔つき合わせてそんな話題なのか」
「男子ってすごい」
「だからなぁ」
やれやれという気分でコーンをかじり終わる。隠れたつもりのアイス残党は、姿を現すこともなく全滅してしまった。
将来のことなんて、関係あるはずもない。今の自分だって、いずれ金を稼がなきゃいけないとお題目を唱えるだけ。高校を出たら…、出来ればまだ働かないでいたいと、ぼんやり願うだけ。
そして――、自分はそんなクズだと口にしては判った気になるだけ。ネガティブという名の保身。
「ぶー」
「ムはやがて過ぎる」
「おしんのように?」
「うむ」
いい加減、返しのネタも尽きたからブーイングをやめてくれと言ったら、彼女は従ってくれるだろうか。想像するだけ無意味だ。それに、ふくれた顔が見れなくなったら寂しい。可愛いから。
外に出たら、目の前に自転車。要するに一周したわけだが、えーこは二周目に向かう選択を下した。任せるという約束はまだ生きているのだろう。黙って隣を歩く。黙って…、そして手をつないで。
今度は神社に向かわず、さらに奥へ進む。すぐに右へ折れた先は橋だ。
「この橋については?」
「税金の無駄遣いって言ってほしいのか?」
「さぁ」
自動車が通れない木製の橋。ここに昔かかっていたというものを、観光目的に復元した。いつの間にか出来ていた。
中央が盛り上がってるから自転車で渡るにはかなり面倒だし、たとえ渡れたとしてもそこは道路じゃなくて倉庫だから、普段の生活で使うことはない。けれど橋がなければ、少ない観光客がさらに減るのかも知れない。
要するに、よく判らない。そもそも観光客の数と俺の生活が結びつかないのだ。
「地研部員としては、調査してみるべき?」
「俺に聞かれたって困る」
「そうかなぁ」
含みのある言葉に苛立って、足先に力を入れる。
残念ながら、関取サイズでもない俺の両足では揺れもしない。こんな頑丈な橋が必要なのだろうかと、関係ないところで腹が立つ。
「ヒロくん、たとえば………」
橋の中央に並んで、上流側を眺める。どっちに流れてるのか判らない水面の右手に、蔦がからまる古めかしい建物。この町を紹介するパンフレットにはよくある景色。脈絡もなく獅子頭があれば最高だ。
「ゴロウちゃんとツルさんは、最後まで一緒だったから幸せだって言ったらおかしいですか?」
「幸せって言ってしまうのも嫌だな。俺は生きていたい」
「私も…」
つながれた指先に力を込めて立ちつくしたら、おかしな気分になることだってある。
それが夕暮れに近づいていたならば、なおさらだ。
「このまま橋から落ちたら、永遠に手をつないでいられる?」
「あの国へ降り立って…か」
「うん」
あの国なんてここにはないけれど、見つめていれば、僕らはまるで神様にでもなった気分。
浮かれて喜んで、あとは?
「俺なら…、手はつないでいたい」
「…………」
「できれば自分の意志で」
「うん」
心中願望なんてあるわけがない。俺はえーこが好きだから。
どんなことにも通用する便利な合言葉を心の中でつぶやいて、ゆらめくリボンを引っ張った。え?
「悪い」
「意地悪されたー」
「すまん」
思わず結び目をほどいていた。何をやってるんだ俺は。
申し訳ないので、結び直す邪魔にならないように撫でてみる。頭を撫でられるのは気持ちいいと、都合のいいような悪いような事実を、はっきり認識してしまった。だからまた、えーこに撫でてほしいという気持ちも込めてみたけれど、その時はまた眠くなって叱られるだろうな。
「蝶結びは苦手だっけ」
「曲がってる?」
「うー、どうだろ」
先行きを考えたなら、俺たちにバラ色の未来なんてないのかもしれない。
えーことこの街に、いつまでも住んでいられるとは思えない。いや、三年過ぎたらどこかへ去ると漠然と考えるばかりで、その片道切符はまだ行き先すらかすれて読めなくて。
でも、無理矢理に引き離されるより、あきらめて自分から手を離す方が嫌だ。俺はえーこが好きだから。
「罰として次はあっち」
「銭湯?」
「………」
「たぶん冗談」
慌てて自転車を取りに戻り、彼女がさっき指差した方向――川の下流――に向かう。今日のデートは盛り沢山だぜ嬉しいなーっと。
観光橋の下流で信号を過ぎた先には、予言通り銭湯があった。温泉と呼ぶ人もいるが、とりあえず彼女にとってはどうでも良さそうである。
うーむ。
下流側というだけでは、行き先が判るわけもない。えーこは怒りっぽい上に秘密主義だ。
「あれは港橋という」
「さすが部員は詳しいですね」
「誰だよ部員って」
「ひろちゃん」
川沿いの道。二つ目の信号を通り抜けたら、さすがに予想もつく。いかにも港町な景色の、やや遠くには展望台のある建物。その手前は船の乗り場だ。
「到着です」
「今日のおかずはお魚よっ」
「……誰の真似ですか?」
「秘密だ」
沖合の島へ向かう定期船は、残念ながら姿が見えない。が、ここに集まる人々のほとんどは、もとから船になんて興味がない。船着き場の建物が最近になって改築され、観光目的の魚屋その他が軒を連ねているのだ。
広い駐車場のほとんどが埋まっているなかを、二台の自転車はすり抜ける。船着き場近くで降りて、ちょっとマドロス風に振り返る港の景色はいつもと変わらない。マドロス風に振り返るという時点で今時の高校生とは思えないが、俺たちは常識に挑戦することを義務づけられているからやむを得ない。
まぁそんな難しい事情はさておき、出来たばかりの場所には人が集まってくる。シンプルな理屈がここにはある。
「ヒロくん」
「ん?」
「嫌いでしょ?」
「独りだったら退屈だ」
嫌いと断言出来る彼女だから、たとえ世界から切り離されても生きていける。僕らはいつでも危機に面してる、そんな感覚。
白い壁の建物に、海鮮市場の文字。ここには半年ぐらい前、親に連れられて一度来たことがある。正直言って、俺は到着するまで存在すら知らなかったのだが、とりあえず出来たものは見物するのが我が家の家訓らしい。壁に貼られてこそいないものの、じいさんもそうだったから間違いなかろう。親は俺を引きずり回すことで、無言の圧力をかけるつもりだったに違いない。
…一部は嘘だ。肩を回して音を立てたら、じっと彼女に見つめられてしまう。相変わらず注意深い。
たった半年前の記憶は、もうほとんど残ってない。結局は魚を売ってるだけなのだから、すぐに飽きる。今日だってそうだろう。
観光ガイド風にいえば、威勢の良い声が飛び交って活気のある魚売り場。子ども連れと中年女性と老人が目立つ空間は、どうにも居心地が悪い。どうせ何も買わないと、店の人に思われている。いや、それ以前に―――、高校生という生き物にどう接していいのか判らない顔を見つけてしまう。いつものネガティブ思考。
けど、俺はともかく彼女はもしかしたら、買い物しそうに見えるかも。いやしかし、彼女は別の意味で目立つからなぁ…。
まぁ考えるだけ無意味だ。もう中に入ってしまったし。
とりあえず今は彼女に、手をつながない程度の常識だけ求めたい。
「ヒロくん家はカレイ食べてる?」
「イカも食ってるぞ」
「ふーん」
売り場のメインは岩ガキだったが、えーこは関心がなさそうだ。
ふだん食わないものを名物と呼ばれてもピンとこない。でもカレイとかイカの煮付けをわざわざ食べに出掛けるってのもあり得ない。難しい話だな。
「じゃあひろちゃん、ヤツメは?」
「あれは冬だろ」
「それはそうだけど…」
結局、買い物する気がないのに売り物に注文を付ける自分がいる。さっきの話を実践するのは、もちろん家族を養う将来を見越してではない。どちらかといえば、この街の将来を心配して? おかしな話だ。
片隅の野菜直売所で、値札を確認するふり。たぶん高くはない。
………。
さーて、一階はこのぐらいかな。
「港でも見んべ」
「ひろちゃん、なまってる」
階段を昇った右には食堂の入口、そして目の前には港。ちょうど定期船が現われるタイミングだった。
いつの間にか元気のなくなっていたえーこ。理由の半分ぐらいは想像がつく。半分だけ。あとは……、どうしよう。とりあえず腕立て伏せすれば何とかなりそうなのは、勝ピーぐらいだ。
「えーこは乗ったことあるか?」
「ない」
「俺も」
並んで見下ろす船は、控えめな水しぶきに似合わない轟音をたてながら近づいてくる。
一度は乗ってみたいが、たぶん壮絶な船酔いは避けられまい。出来ればえーこには見せたくない姿だ。
「もしかして魚は苦手か?、えーこ」
「好き嫌いのない良い子です」
「まぁいかにも健康優良児…って、はたくな」
出来ればじゃなくて絶対だ。熱いものがこみ上げたら、いくらえーこでも二度と近寄らなくなるだろう。あーいやだ。あの甘酸っぱいニオイまで思い出してしまった。
「大きな船」
「うむ」
「実家は山の方だから」
「……つまりだ」
「え?」
「ヤツメの食べ方が判らなかった」
「まさか」
…………。
わりと自信があったのに、思いっきりバカにされてしまった。俺は悲しい。なんのためにポーズまで決めたというのだ。
仕方がないので頭を掻いて、港の景色に目を凝らす。一応これはコロンボの真似だったが、たぶん彼女には通じていない。今時の高校生には無理との説もある。
「ヒロくんはカレイとイカが好きなのかぁ」
「はっきり言うが、好きってわけじゃないぞ」
「そう?」
「嫌でも食わなきゃ暮らしていけない」
「……そう」
肌にまとわりつく風。いつものこと。いつもの景色。空気の味を批評する人なんていない。
「白状すると、魚料理は苦手です」
「山菜は?」
「塩漬けワラビの塩抜きなら」
「うーむ、難しそうだ」
隣の建物ほど高くはないが、ここは間近で船を見れる展望台。なのに、さっきから誰も眺めに来る気配がない。
まるで手をつなげといわんばかりだ。ちょっと嘘が混じった。
「若者は魚嫌いかも知れないな」
「ヒロくんは嘆く人?」
「そうでもない。じいさんも魚嫌いだった。生臭い生臭いって」
「ふーん」
ちらっと彼女の表情を確認して、それから腕をつないでぶんぶん振る。
俺が生まれた頃のじいさんは、魚ばかり食っていたらしい。好きだから食ってたのかはともかく、当たり前のように食ってたのに、だんだん変わっていった……んだろう。そんな詳しくは知らないし。
「またお弁当作っていい?」
「俺は大歓迎だ」
「じゃあカレイとイカとヤツメ入れて…」
「いつまで待つんだよ」
全然おいしそうに思えない点はこの際おいとこう。えーこの腕は確かだ。きっと感動的な弁当が誕生するに違いない。おそらく。
ぼんやりと妄想にふけっていたら、どこからともなくざわめきが聞こえてくる。見下ろせば、船はもうローブでつながれ、乗客の降りる姿。多くは釣り客っぽく見える。
真下では荷物をおろす光景。別に面白いものではないけれど、港の中でここだけが動いているから目を奪われる。それに、荷物を見ているとこの街はまだ大丈夫な気がしてくる。何を言ってるんだろう。
「ひろちゃんは見慣れた景色?」
「見慣れてるってほどでもない」
「私には…、けっこう珍しい」
「へぇ」
港町という言葉も、誰かに与えられた。
日々の暮らしのなかでは、テレビの中の景色より縁のないものなのに、誰かが口にすれば気になってしまう。それはまるで、地研の部員になったような……って、まさか。
誰もが地研部員になって、部員百人出来るかな。
「ひろちゃん」
「ん?」
百人で探したいな。クツバミゴロウの幻を。
違う。
こんな景色をゴロウは知るはずもない。じゃあ何を見てた? 俺がゴロウなら、ゴロウも俺? 何言ってんだ?
「大好き」
「脈絡ないな」
脈絡はないけれど、今の気分を変えるにはちょうど良かった。
とはいえ、正気に戻った人間が最初にやるべきは、周囲に誰もいないと確認すること。いくら俺だって、街中の公認にはなりたくない。
「久しぶりに言えた」
「そう言えばそうか」
「うん」
街中の公認。悪い冗談。いや、あり得ない幻想。
僕が何をしようが、生きていようが死のうがこの街には関係ないだろう。買い物に忙しい人たちも、荷物を運ぶ人たちも、港で働く人たちとも僕は無縁。ただ紛れ込んでいるだけ。そうだろ?
「休みの間はご飯作ったりするのか?」
「時々」
「毎日かと思ったが…」
「親のストレス発散も兼ねてるし」
だけど僕には大好きな彼女がいて、彼女と僕は無縁じゃなくて……、息を吐くたびに大きくなっていく。欅の大木のようにいつか街を包み込んで、それから。
「ぼんやりしてる」
「えーこが大好きなんだ」
「え?」
「……嘘はついてない」
とりあえず身体を動かしたくなって、二三度飛び跳ねる。ドスドスと音が鳴って、えーこは顔をしかめる。
そうなんだ。俺はこういうバカなんだ。
「今日もあそこを見に行くか?」
「私は帰り道だし…」
「俺も帰り道だし…」
ふくれっ面の彼女の手を引いて、階段を降りた。どこで手を離そうと考えつつも、結局つないだまま自転車まで戻る。誰も関心なんか示さないと、都合のいい言葉を繰り返しながら。
颯爽と自転車にまたがった時、空はすっかり赤く染まって、もう彼女の時計を見る必要もなくなっている。ゆっくりと港を眺めるようにこぎだして、港橋を渡る。小学生の頃、本に書き加えたかわいそうな橋だが、別に愛嬌はない。あったら怖い。
「今度いつ逢える?」
「げーんーきーでいーるか」
「試してるの?」
「…うむ」
そんなはずあるかと思ったが、ツッコむのも野暮だし、実験になっていることも確かだ。
ショーが歌わないと効き目がないことは、すでに証明されている。といっても、メカニズムが不明なのに証明も何もないわけで、ただ偶然現われなかっただけかも知れない。
「それで、いつ逢える?」
「またボケていいのか?」
「ダメ」
「えーこは我が儘だ」
やがて小学校の横を過ぎる。昔はここに中学校があって、地震の時には女子生徒が一人亡くなったらしい。あんまりイメージが湧かなかったけど、今になって思い出すと嫌なものだ。
「それで?」
「全校登校日だろうな」
「あれってなんのためにあるの?」
「去年までは疑問だった」
彼女がいるから急に現実感っていうのも、随分利己的な話だ。だけど、見ず知らずの人の過去を自分のこととして悲しむなんて、出来るもんじゃないだろう。それこそ、俺のじいさんが死んだ過去を、その辺の人が理解出来ないように。
もちろん女子生徒は普通じゃない死に方で、じいさんはありがちな死に方という違いはある。だけどやっぱり死ぬことに変わりはない。少なくとも今の俺は、どんな死に方でも嫌だ。
「ヒロくん、信号」
「ちゃんと見えてるって」
………。
こうやってぼんやりしていると、えーこが心配するんだな。ちょっと反省した。
信号を渡っていつもの道に合流したら、もうそこは橋である。さっきの地図にない橋と比べても、一日中車だらけという印象だ。今もちょうど夕方の渋滞が始まっているぜ。
…渋滞は褒め言葉にならないか。肩を一度鳴らして坂を登り、橋に突入。やがて、相変わらず細長い中津国が真下に見える位置で、慎重に自転車をとめる。風はたいしたことないけれど、通行人の邪魔になってはいけないのだ。若者は得てして世の中に迷惑をかけがちだ。
「ヒロくん」
「ん?」
「大好き」
「さっきも聞いたぞ」
あれくらい平べったいなら、畑に出来そうだよな。
いちいち船に乗らないと行けないのが問題だが、たぶん盗まれることもない。いや、ヤツメ捕りのついでに食べられ……るわけあるかって。
「あと十回ぐらい言いたい」
「回数が重要なのか」
「言われる回数も重要なんだけど」
「ぐー」
「寝るな」
ぐいぐい腕を引っ張られるその動作も、ここでは慣れた感じ。
渋滞の車には、沢山の見物客がいる。いや、やっぱり誰も見ていない?
「一年前に逢ってたら、えーこの方がでかかったよな」
「ずいぶん唐突な話題」
「脈絡はないが、絶対そうだ」
「…そうかなぁ」
もたれかかった体勢では、正確な背丈なんて判りっこない。
えーこは少し視線を落として、誰もいない国をみつめてる。片腕だけはゆらゆら動かしながら。
「たとえば中学入学の時、えーこは160ぐらいあっただろ?」
「………たぶん」
「俺は絶対ない。どうだ」
「どうだと言われても」
無理に続ける話題ではなかったけれど、なんとなく意地になっている自分。
えーこはそれでも落ち込んでるだろうし、そろそろフォロー……。ん?
「ひろちゃん」
「な、なにかね」
振り向いたえーこの顔は笑っている。いや、正確にいえば目が輝いている。まるで落ち込んでいる様子はない。これはもしかして、好奇心に溢れていると形容されるモードでは。
「写真が見たい」
「ぐー」
「何度も寝るな」
眠くなるのは不可抗力であって、叱られても困る。とりあえずそういうことにしておく。
見せたらいったいどんな反応があるのか、容易に想像が出来てしまう。それこそ子犬か何かでも見るように、観賞するのだろう。なんとなくそれは屈辱だ。
「じゃあ俺にも見せてくれ」
「………嫌」
しかし反射的に口走った言葉は、俺の素直な欲求そのものだった。
これじゃ自分も見せなきゃならない。それは困る…けど、見たいなぁ。昔のえーこも絶対に可愛いはずだ。
「なんで」
「可愛くないから」
「そんなことねーだろ」
「ある」
それにしても彼女の抵抗は激しかった。
いつの間にか表情からも余裕が消えて、本気で拒絶しようという意志が感じ取れる。感じ取れるから俺も意固地になる。
「見たい」
「ダメ」
「なんでだよ、俺はえーこの昔を知りたいぞ」
「……どうせ笑ってないから」
「それなら…」
反射的に言いかけて、一瞬口籠る。
頭に浮かんだ言葉がどういう意味なのか、判らなくなっていた。そしてそれはすぐには判断出来なかった。
「それなら、何?」
「……えーこが笑いながら見せてくれたらいい、と思った」
「そう……ですか」
なんとなく判っていたのは、歯が浮くほど恥ずかしい台詞だということ。
言ってしまったからにはしょうがない。開き直りの早い自分に呆れて、腕立て伏せをしたくなった。
「ヒロくん」
「ん?」
「そうまでして見たい?」
「うん」
「……やっぱり見られたくない」
ここで腕立て伏せって、覗きみたいでヤバい。えーこはジーンズだから、まさか痴漢扱いはされないと思うが、スクワットの方が無難だ。いやしかし、腕立て伏せしながら見上げて―――。
鼻の穴を覗くっ!
…………。
俺は幼稚園児かっ!
「気持ちは判るけど、見たい」
「…………」
「なぁえーこ」
「はい」
というか、困った時に腕立て伏せやスクワットしか思い浮かばない自分はなんなんだ。プロレスか。俺はそんなにプロレスが見に染みついてるのか。所詮は勝ピーの同類なのかっ。
「半年前のえーこを知らないのは、正直言って悔しい」
「悔しい?」
「えーこだってそうだろ? ちさりんは良とつきあい始めた一年前から俺を知ってるぞ」
「それは……、楽しそうだから」
「そうでもないだろ」
一瞬、腕を引っ張られた気がして我に返る。
いや、本当に引っ張られていて、そして引っ張り返している。ぼんやりした思考と、明快な言葉、そして身体。どちらを信じる? そんなことは悩む必要すらないから、もう一度彼女の手のひらを握り直す。
「みんな今みたいに笑ってなんかなかった」
「…………」
「でも思い出したら、楽しかった話になってる」
「………ひろちゃんはずるい人です」
どうせぼんやりと適当に嘘ばかり思い描くなら、俺とえーこの昔を作っていけばいい。
インチキな過去。良に告白するちさりんを見ているえーこ。それとも、中学の教室で背比べする俺たち。背比べはしなくたっていいな、別に。
どうせなら―――、ずっと昔からえーこと手をつないでいたい。我ながら赤面モノの妄想だ。でもけっこう、俺は本気だ。
「そろそろ帰らないと」
「もうそんな時間か」
そんな時間、と言いながら見上げた空はすでに夕暮れと呼べるギリギリぐらい。もう家に母親が帰っているかも知れない。言い訳が必要だ。
いや、友だちと遊んでいたでいいだろ。プロレス雑誌読もうが神社巡りしようが、同じく「出掛けた」に過ぎないのだ。
「地研、楽しかったね」
「…そうだな」
考え事をしていたから、思わずおかしな返事をしてしまう。
いや、そろそろ気づきはじめている。俺は嘘をついてるってことに。
「ヒロくんは、プロレス部だったら迷わず入部?」
「迷わず逃げよ、逃げれば判るさ」
俺たちはもう入部しているようなもの。出来れば考えたくはなかったが、いつの間にか自分はそんなあきらめの境地に至っている。
そうだ。
ツルとゴロウのことが起きた最初の時点で、もう道を踏み外していた。
今にして思えば、普通はもっと他人任せの解決策を練るはずだ。簡単な方法としては、お札を買ったり神社でお祓いしてもらったりお寺でお経をあげてもらったり――。
でもやらなかった。そんな発想すら浮かばなかった。なぜだ。それはつまり俺たちがこの数ヶ月、地研に引きずり込まれるだけの壮大な物語を生きていたからだったんだよ。な、なんだってー。
「私もプロレス好きになるべき?」
「無理強いしたってしょうがないだろ」
「うん…」
あほか。どっと疲れた。疲れすぎた俺は、面白くもない穏当な解決策を提示してしまう。そもそも見たことがないなら、深夜のテレビで一度試してみればいい、と。
そこで目を背けずに済んだなら、もしかしたら素質があるかも知れない。
「いつやってる?」
「日曜深夜とか」
「月曜日は眠くて大変じゃない?」
「それも試練だ」
というか、特に意識しなくともプロレス技を使う彼女である。下手に観戦して知識が増えてしまうのも正直望ましくない気がする。ぼんやりしてたらモンゴリアンチョップを喰らったり、いきなりスピアーかまされる生活は嫌だ。絶望的だ。
「目指してほしいわけじゃないからな」
「ひろちゃん」
いくらなんでもスピアーはねぇだろ…と思った瞬間、自転車に乗ろうとしたえーこが振り返る。
真顔だ。
「実家にいた頃、近所の人によく言われました」
「………」
「この身体はプロレスに向いてるって」
「そりゃ不幸だったな」
おどけた俺の声に、返事もせず笑顔のえーこが怖い。
仕方がないのでぐるぐる肩を回してポーズをとる。却って逆効果って気もする。
「たぶん求められてると思うから、俺の見解を示しておこう」
「うん」
「プロレスは背丈でやるものではない」
「………」
これは本気だ。鍛えてもいない女が、見た目だけでまつりあげられ、あっという間に消えた実例もある。
「本気でなりたいなら、ちゃんとプロの試合を見て頭を鍛えるべきだ。もちろん身体もだ」
「それは勝彦くんにも言えること?」
「勝ピーは評論家志望だ」
「失礼しました」
正直に言うと、一般人の間にでかけりゃプロレスラーって発想が今も残ってたことに、ちょっとした感動を覚えた。いや、えーこにとっては深刻な事態だったのだろうが。
気が強いし基本的に頭はいいから、案外……って、いかん。現在の女子プロに、自分の彼女をわざわざ入門させるバカがいるもんか。
「気にしないでね」
「えーこを引きずり込もうってヤツがいたら、全身全霊をかけて守るぞ」
「私がその気になったら?」
「……やっぱり全身全霊をかけて阻止するだろう」
最後に二三度彼女の髪を撫でて、別れる。
わりと動揺している。これからプロレス雑誌を冷静に読めなくなりそうな気がする。プロレスの女神の方が、リングに上がらないだけマシだ。違う。そんなレベルで比較するなバカ。とりあえず勝ピーの見解を聞こう。そんなもん聞いてどうする。
……………。
………。
暗闇にかすかな色を残す中津国をぼんやり眺めて、ようやく一つ思いついたことがある。
良と二人で、さっきのアイスの将来性を語り合うべきだ。語らねばならない。価値はなくとも、そこには俺たちを地研に巻き込む陰険な策略が隠されているのだ。俺の頭はまだ混乱したままだ。
そして帰りがけ、全校登校日まで一週間もあることに気づいた俺は、もう一度混乱する。電話で話せるが、それだけで我慢出来るのだろうか。煩悩を断つにはスクワット……と、果てしなくループする頭は生きている。
俺は死にましぇん。誰だよ。思わず声をあげた瞬間、通りがかった自転車から奇異の視線を浴びて正気にかえった。
ネガティブが生きる糧。
だけど時にはグルメになっちゃういい加減な男は、小さな街の夜を駆けていた。




