地を這う記憶
夏休みとは夏の休みという意味である。従って六月から八月にかけての日曜日はすべて夏休みと呼ばれる資格がある。いや、そう呼ばないと不公平である。
………。
あまりの暑さに目を覚ました朝。
じっとりとかいた汗が不快で、乾かそうと立ち上がってついでに窓を開ける。
北側の窓の外には鮮明な青一色の山。その当たり前の景色も、転校したばかりの良には異様だったらしい。もしかしたら未だに毎朝びびっているのかも――。
…………。
バカバカしくなって窓から離れる。言うまでもなく、開けたところで涼しくなれるわけでもない。けれど閉め切った部屋にはカビが生える。いつか目に見えて増殖していく。そんな妄想。
「今日は友だちと会うから」
「女の子か?」
「いつもの大勢だ」
朝飯を食べながら、乏しい家族の会話。
えーこのことは、相変わらず話していない。彼女に申し訳ない気もするが、どうにもそういうタイミングが判らないのだ。
いや、今がそのタイミングだったかも知れない。父親が軽口でも女子なんて言ったんだから、そうだと一言返せば済んだのではないか。ご飯粒をかみしめながらじわじわと後悔の念が頭を蔽っていく。
けれど、それ以上何かをすることはない。後悔してしまった時点で、もう手遅れだから今から取り返すなんて無理だとも思っている。決めつけている。それが俺のネガティブ思考。
………つくづく、彼女に申し訳ない。
今のところ、えーこから急かす気配はない。彼女だって、何もいきなり家族ぐるみのつき合いをしたい、というわけじゃないことは確かだから、都合が悪くならなければ無理に責めてはこないだろう。たぶん。
問題は、いずれは隠すことが不都合になると、容易に想像がつく点だ。隠せる程度でどうにか出来るならいいが、俺はそれ以上にえーこに逢いたい。もしかしたら手もつないでいたいかも知れないし、頭も撫でたい。
………我ながら身も蓋もない理由に赤面する。赤面するだけまだ正常だと思いたいぞ。
両親が出掛けた後、一人残って食器を洗う。もちろん親孝行ではない。朝夕無駄飯を食うだけの自分だから、それぐらいしないと居心地が悪いだけ。
洗い終わったらカバンを用意して、窓を閉めてまわる。これで帰宅したならば、たちまちスタジアムは熱気に包まれた…なんて気分だろうが、この小さな家ではキッチンスタジアムの名すらおこがましいし、冗談抜きにしても誰もいないのだから仕方ない。小うるさいことで近所でも有名だったじいさんでも、まさか亡霊となって泥棒を撃退するほど元気ではないはずだ。
けど、亡霊ってのもおかしいよな。
ツルやゴロウのせいで、以前なら一笑に付すどころか嫌悪感の対象だった妄想を、思わず口走ることがある。仏檀を拝みながら、じいさんが俺の話を聞いているような気になることもある。狂っている、と思う。
再び汗をかきながら戸締まりを終えると、カバンを背負う。これからハイキングだヤッホーヤッホー。嘘だ。南斗水鳥拳…じゃなくなんと学校へ行くのだ。制服も着ずに。
「…………」
玄関に立ち、行ってきますと口にしかけて思い直す。発声練習にしかならないぞ。グダグダとどうでもいいことばかり考えながら鍵をかけ、アスファルトの道へ出る。
車線は二つ。歩道には等間隔のケヤキ。濃い緑の葉には元気がない。まるで起きたばかりの自分のようだといえば詩人っぽいが、今日の暑さでは勝ピーと詩人ごっこしても楽しくなさそうだ。
…言っておくが、詩人ごっこをやったことはない。
だいたい、勝彦は詩人ではなくイタコだ。男女関係には何かと厳格であり、隙あらばいつでも人の道――プロレスの道ともいう――を語るヤツなのに、突然豹変して「オッカサン」とかわめくのだ。あれはきっと相当なバカが取り憑いているに違いないのだ。
ともかく今日は登校日。学校の行事ではなく、地研活動日だ。
地研活動日という以上は地研の部員が登校すればいいのであって、俺には関係ない。ないのだが名誉部員だから関係あるという説もある。それ以前に、良以外の部員は誰も来ないという予測もある。早い話、いつもの面子が集まるだけである。
……いつもの面子、ということはそういうことだ。暑い日の朝からせっせと皿を洗い、行き先も冷房のない地研部室なのに、集合時間よりかなり早く出掛けるのは、言うまでもなくそういうことだ。スキップスキップ。
………いきなり汗をかいた。
脈絡のないことはやめよ。我が家の家訓にしよう。うむ。
やがて右手に小学校の校舎が見えると交差点。ふと、ポスターが目に止まる。二枚貼ってあるうちの一枚は、聞いたこともない歌手のコンサートのようだ。近所の公民館で開催されることまで確認したが、日付は見なかった。もちろん興味は湧かない。
もう一枚は盆踊りの告知。盆踊りというか、今は事実上カラオケ大会となっている。俺自身もかつて出演したという、由緒ある大会である。
―――――――何が由緒だ。
当時小学生だった俺は、アニメの主題歌を一曲歌った。この辺は子どもが少ないから、いくら嫌がっても一度は経験させられる苦行なのだ。思い出しただけでも恥ずかしくなって、思わず目を背けた。信号はわずかな間に赤に変わっていたから、そのままの体勢で三十秒ほど我慢しなければならなかった。
信号を渡り、ゆっくりと歩く。家を出た時点で、集合時間の一時間前だった。立ち並ぶ家の一件一件でピンポンダッシュを敢行しても、まだ余裕があるかも知れない。試すつもりはないが。
この辺の家は年寄りばかり。ダッシュする必要すらない…というより、ダッシュされては心配になるような状況が容易に想定される。自分のじいさんに労りの感情を抱いたことは一度としてなかった俺が、今ごろになってそんなことを考えるのも不思議だ。
小学校の連なる校舎を過ぎていく。色あせた看板に「おあさすはい運動」の文字。「お」がおはようだというのは覚えているが、おおむね忘れてしまった。頭文字を組み合わせるのはいいけど、結局意味不明というセンスのなさが致命的だと思う。
…………。
暑いとどうでもいいことしか思い浮かばなくなるようだ。肩を回して対面に渡る。すでに中間地点は過ぎているが、自分の他に人影はない。ゴロウな関係者たちはルートが違うし、運動部ならこんな中途半端な時間に集合はしないだろう。通り過ぎる車の排気音と引き換えに勢いを増すセミの声が、ますます思考を狂わせそうな気がする。
たとえば目の前を遮る大きなケヤキ。
それは幻想。
いや、それは過去の記憶。かつて城があった痕跡として、その大樹は確かにあった。小学校の校舎に写真が飾ってあった。
でももう枯れた。
その辺の街路樹と大差ない三代目が、ブロック塀から顔を出す。何が三代目だ。初代以外に何の価値があるんだ。そう思ったのは僕の大昔。三代目の誕生よりもわずか数年年下なだけのガキの戯言。
やがて押しボタン式信号のT字路から、やや細い道に入っていく。この辺も城跡だったという。小学校の道徳で教えられたというだけで、もちろん今は何の痕跡もない。
城という名で呼ばれても、ここの城は天守閣もなかったし、藩主が住んでいたわけでもない。そもそもこの辺は、明治には中心部とは別の村だった。合併の時にはすごい反対があったそうだ。
「ひろちゃん」
「わっ」
いきなり物陰から声。
車の音にだけは注意を払っていたが、ぼんやり歩いていただけに驚いた。大袈裟な言い方をすれば、心臓が止まりそうだった。止まって欲しくない、と強く願うけれど。
「ごめん」
「いや…」
一度大きく息を吐く。
それから数歩前進。いつの間にか俺は学校の前にいる。門を正面に見る位置に身体を向ければ、声の主のあたりが死角というわけでもなかった。驚く方が不思議なシチュエーションってやつだ。
「元気か?」
「ううん」
「元気だな」
首を傾げて笑う彼女。釣られるように首を傾げ、それから素早く周囲を見回した俺は、特に気にするような存在がいないことを確認して、ゆっくり彼女に近づく。さっきまでグダグダだった頭が急に回転を早める。暑さすらどうでも良くなってしまう。
「ジーンズなのか」
「出歩きそうな気がしたから」
「部室に籠るだけだろ」
「そうかなぁ」
すべてを一瞬で回復させていく感覚。当たり前のように話しながら、俺はたぶんおかしな笑顔で目を大きく広げて彼女の前にいる。
一週間ぶりの彼女。実は終業式の日から一度も逢っていない。電話も一度だけ、五分も話してないだろう。なのにもう、二十四時間一緒にいるみたいな感覚。二十四時間一緒にいたことは、過去一度としてないけどな。
「ヒロくんもジーンズ」
「一般的にはそう呼ばれている」
「ペアルック?」
「かなり無理がある」
「そうかなぁ」
彼女の背後に聳える校舎に目を凝らし、時計を確認する。集合時間まで四十分はある。まだ部室に行く必要はない―――。
「土手でも見物しないか」
「土手?」
返事を聞くまでもなく、校舎の左側に向かって歩き出す。
もちろん土手という構築物は通常なら見物の対象ではない。いや、それは言葉のアヤであって、普通なら土手で何かを見物するのだろう、と賢明な諸君ならツッコむかもしれない。今なら恐らく手前でサッカー、あるいは奥で野球の練習風景。ああ青春だと涙を流すのも、ヤングの選択肢として悪くはない。
……疲れた。攻撃される前にやめよう。ともかく今はこの場を離れねばならない。ここでは二人きりでいられない。それだけだ。俺は利己的だ。
アブラゼミが合唱する下を、ゆっくり進んでいく。同じといっても俺よりは細身のジーンズの彼女が、隣をよく似たリズムで進む。踏みつける砂利が音を立てるたび、少しだけ緊張する。まるで泥棒のようだ。
「ひろちゃん」
「ん?」
「部室の窓が開いてるよ」
「え?」
慌てて目を凝らす。
まだ右手には、最近ペンキを塗り直した校舎の壁が立ちはだかっていて、その真後ろに隠れるように建つ旧校舎は、ようやく一部が視界に入り始めたばかりだ。
「…………」
「嘘つきとはつながん」
「ひろちゃん大好き」
「聞いてねぇだろ」
もちろん窓なんて開いてない。部室は良が鍵を開けなきゃ入れないのだ。
人を騙した上に手をつなごうとする極悪非道な彼女を激しく非難しながら、だけど左の指先は複雑に絡まっていく。俺は利己的だ。その場の快楽に流されてしまうのだ。
八月の空。
旧校舎のくすんだ白いコンクリートに、乱雑に生い茂る夏草。僕らを導くかすかな轍は、今にも消え去って二人を迷子にする。
だから僕は左の手を強く握って、そして握り返される確かな感覚に心を落ち着ける。
「ヒロくん、リーバイスだよね?」
「……確か」
「ペアルック」
「なら違う」
「ぶー」
「活動」
「ブーイング部?」
「部員は小川さん一人だそうだ」
グラウンドが広がる景色。別に好きというわけではないが、突然視界が開けると不思議な感覚にとらわれる。
いつも頼まれもしないのに、狭く区切られた場所ばかりを選んでいる僕ら。田んぼの畦を歩きながら、その四角な平面よりも割り箸のような足元ばかり気にしてる。
床の端ばかり駆け抜ける虫のように、いつか轍を離れて土手を目指して――。
「……戻ろう」
「え?」
「いや、ちょっと忘れも…」
「あーーーっ!」
ぐぁ。
逃げる間もなく、聞き慣れた大声が響く。
というか、なんでこう一方的なんだよ。
「あ、ちさりんおはよう」
「おはようって、えーこは動じないよねぇ」
「ちさりんに隠すこともないし」
土手には先客がいた。前方はかなり先まで見通せたから、ぼんやりしていなければもっと適切な対処が出来たに違いないが、残念ながらぼんやりしていたのでもう遅い。
ただ気になるのは、俺はともかくえーこは気づいてたんじゃねぇのか、という点だ。そして気づいたなら即逃げようと思うのが普通の反応だと信じて疑わないわけだが、すでに彼女の見解は示されているので主張しても無意味である。
相変わらずの邪悪な微笑で千聡が立ち上がった跡には、しっかりレジャーシートがひかれていた。相当に計画的な犯行だ。俺たちが罠に引っ掛かかるのも当然というものだ…という結論にしとけ、クソ。
「しっかし、堂々と校内で手をつなぐわけだ」
「誰も見てない」
「見た」
「今すぐ忘れろ」
「…言っとくけど、冷やかす気にもなれないって」
……そりゃそうか。千聡の呆れ顔を見て、ふっと息を吐く。
俺だって、ラブラブな二人を見せつけられたら避けたくなる。当たり前の感覚を今さらのように思い出すと、未だつないだままの左手が急に気になり始めた。というか、この状況で離すべきだとすら思わなかった自分が怖いぞ。
「えーこにも教えとくけど、ほどほどにしないと誰も近寄らなくなるからね」
「はい…、反省します」
「してないでしょ」
「……今した」
しつこく千聡に問いつめられて、ようやく手を離すえーこ。そのいたずらっぽい笑顔は実を言うとものすごく可愛くて、思わず表情が歪んで、いや緩んでしまう。
いかんいかん。どこかで我慢出来なければ、本当にクラス中からひかれてしまいそうだ。
俺はあえて自由になったばかりの左腕をぐるぐる回し、ファイティングポーズをとってみる。リングの上では常に孤独な狼、浮わついた気分など吹き飛ぶのだ。
「なぁちさりんよ」
「聞きたいことがあるならその格好やめろバカ」
「バカとはなんだバカとは」
反発しつつも俺は、冷ややかな視線をいつか受け入れていく。
きっと俺はバカなのだ。いや、絶対バカだ。この格好と質問に関係がないことだって知っている。ただ何となく、ポーズをとった瞬間、頭に浮かんだというだけだ。
あれ?
やっぱり関係あるのか?
「よし!」
「……………」
「どっからでもかかって来いとか言ってくれ」
「えーこ、あんたの彼氏どうにかして」
意味もなくプロレスに固執する自分がよく判らなくなっているのも事実とはいえ、それぐらいノリで返してくれたっていいじゃねぇか、と思った。
だがこの場では、俺に逆風みたいな風が吹いていた。おかしな表現だ。
仕方なくちょっと後ずさりして、さりげなく良に目くばせをする。ウインクと言い換えた途端に印象が変わるという噂もある。
「まぁいい、ピクニック気分で朝からいちゃいちゃしてる二人ってのも、寄りつきたくねぇ景色だよな、良」
「ん………」
「だ、誰も見てない!」
二番煎じの言い訳を叫ぶ女をしり目に、良を誘って歩き出す。
いつでも開き直って逆襲するのがお約束な女子よりも、この場では奴と一緒の方がマシに思える。これも利己的、あるいは―――。
「どこ行くの?」
「女同士、積もる話もあるだろう」
「逃げるなヒロピー」
逃げる? 何を言ってるんだ全く。こういうのを戦略的撤退というのだ。
しかも人質つきだ。まぁ今さら良をつかまえたところで、何が変わるわけでもないが。
「で、何時からいた?」
「む…、九時ぐらいだ」
そうして二名の女子からほんの数メートル離れた位置に移動。あえて座る気にもなれず、グラウンドを見渡すように仁王立ちだ。
目の前――といってもお互い顔が判別出来ない程度に離れている――にはまだらのボールが転がる景色。まるでサッカーの練習を見学しているようだが、あいにく反復ダッシュやストレッチを楽しめるほど通ではない。
「お前らもすっかり普通のカップルになったな」
「……うむ」
「しかしだ、良」
感慨深くないといえば嘘になる。俺に隠れてこそこそするなんて水くさいじゃないか、という不満すらある。さすがにどうかと思う。
ともあれ少しずつ落ち着きを取り戻していった俺の頭には、一つの疑念が入道雲のようにモクモク湧いてきた。それはたぶん、さっき千聡に聞こうとしたことではない。というか、さっきの質問など既に忘れている。
「これから地研というわりには優雅だな」
「…あまり見られたくはなかった」
「そりゃそうだろ」
半分は建前かも知れない――特に俺とえーこにとっては――が、今日は良のためにみんなが集まるのだ。その当人が部室の鍵も開けずに土手でいちゃいちゃやっていいだろうか。答えは言うまでもない。
俺はかなりあからさまに非難の視線を浴びせた。ここにいない仲間の分も、怒ってやらねばならない。たとえ自分が、ただ利用しただけのクズだとしても。
「ヒロ」
「なんだ、言い訳はするなよ」
「いや、…ちさりんには俺から頼んだ」
「………」
ちょっと返答に困る。
レジャーシートはさすがにちさりんかと思っていた自分。けれど考えてみれば、千聡こそ真っ先に部室へ行けと諭しそうだ。今日が良にとって大事な日だということを、まさか判らないはずはない。だいいち、『気くばりのすすめ』で読書感想文を書いても不思議ではないほどの女子生徒ではないか。
……若干の誇張があったかも知れない。
「緊張している」
「ふぅむ」
「部員は…、俺一人だから」
特に意味もなく左の肩を回して、ふと嫌な事実に気づく。
良は俺の左隣に立っている。決してそれは意図したことではないが、えーこと同じ位置にむさ苦しい――一般的には俺の方がそうかも――野郎がいる。このままでは俺が彼氏になってしまう…って、あほか。
「だからちさりんで気を紛らすわけか」
「まぁ…そうだ」
「紛れるもんかねぇ」
隣でちさりんがベラベラしゃべり続けたら、確かに紛れるというか、鬱陶しくてそれどころじゃない気はする。あまり本質的な解決法とは思えないけどな。
なんとなく振り返って、女子二名の様子を確認する。さっきと同じ位置で、ちゃんとレジャーシートに並んで座っていた。ついでに、かなり会話が弾んでいるようだ。どうせロクな話題じゃないだろう。後でまた、クラスで何番目とか聞かされないことを祈ろう。
「で、具体的には?」
「え?」
「九時からここで何してた」
しかし、会話の内容を想像しているうちに、自分もそういうモードになってしまう。良にしゃべらせたところで、どうせ聞くに耐えないノロケ話に決まっているのに、口にする自分に違和感。
俺は本当はそういうネタが好きなんだろうか。ちさりんの同類なんだろうか。口から先に……。
「な、撫でてもらった」
「は?」
「だから……、ちさりんに撫でて…もらった」
「そ、そうなのか」
………。
…………。
……………絶句。
どうしようもないから、意味もなく俺はラジオ体操を始める。心の中でちゃんと掛け声付きだ。掛け声があってこそ、余計なことを忘れられるというものだ。
イッチニ、サンーシッ。
…………。
しかし身体を左に捻った瞬間、薄ら笑いの奴と目があってしまい、あえなく中止に追い込まれた。世の中そうはうまく出来てない。
「この際だから聞いておくぞ、良」
「おぅ」
返事を確認しながら、身体を左右にねじる。
最近、少し太った気がする。良がガリガリだからそう感じるだけならいいのだが、部活に入ってない分、どうにかすべきかもしれない。プロレスごっこで痩せないのは当のレスラーが証明している…って、ごっこと本職を一緒にするなよ俺。
「撫でられるってどんな気分だ?」
「……ほっとする」
「ふぅむ」
勝彦より腕が太いのは、ちょっと嬉しいが比較のレベルが低い。
ボディスラムに耐えられる身体は、実をいうと理想だ。何となく頑丈なのがいい。別に本気でプロレスしたいわけじゃない。
「それはなんだ…、ちさりんに日本のオッカサンを見るとか、そういうことか?」
「母親…じゃない」
「………」
「ヒロもじきに分かるだろう」
「そうかぁ?」
「おう」
膝の屈伸を繰り返す。
上半身ばかり肉が付くと、いつか膝を壊すものだ。
「似てるからな、……そういうところは」
「さっぱり判らん」
妙に大人びた良に違和感を覚えつつ、腰に手を当て反り返る。
撫でることなら、俺も経験してしまった。確かにあれは興奮するというより落ちつくものだったけれど、自分が逆の立場に回った場合どうなるのか、いまいち想像出来ない。母親がどうのなんてのは、ただの出任せだし。
…母親に甘えた記憶なんてあっただろうか。母親に食わせてもらってるとか、炊事洗濯してもらってるという甘えなら間違いなくあるけれど、撫でられた記憶なんてあっただろうか。
………。
「良、そろそろ行くか」
「おう」
「いい加減、覚悟は決めとけ」
「…おう」
そもそも、そんなことで引っかかっている自分がおかしい。邪念を振り切るように校舎へ向かう。数歩進んだあたりで後方から声がして、やがて駆け寄ってきた足音は俺を非難していたが、今はそれも邪念に違いなかった。
「何話してたの?」
「愛を語り合っていた」
「ぶー」
先行する良には口から生まれた女が追いつき、後ろでは俺たち二人。
おあつらえ向きのシチュエーションだったが、えーこの腕は近づいて来ない。
………。
「ヒロくんもTPOをわきまえないと」
「説得力のかけらもないな」
「ぶー」
「たん王国」
千聡に説教されたんだろうな。まぁはしゃぎすぎだったのは確かだ。
それにまぁ、始まりからつぶさに観察せざるを得なかった良と千聡の場合、撫でるまで二ヶ月。手をつなぐシーンなんて一年以上お目にかかったことがなかったはず。俺たちはようやく一ヶ月経ったばかりだ。すごいハイペース、いやハイスパート…。
「痛え」
「蹴らさないで」
「…悪い」
見せつけることが出来ないから、もっとも原始的な手段に戻るわけか。うーむ。まぁ以前より幾分加減してるあたり、贅沢は言えないな。
とりあえず肩の骨を鳴らして、気がついたように――気がついたのだ――過ぎたばかりの校舎を見る。当たり前だが未だに暗い。そろそろ誰かが扉にへばりついてるかもしれない。あるいは廊下でスクワットをこなしているかも……っと。
「逃げるな」
「よろけただけだ」
あからさまに嘘だと判ることを平然と口にする自分が怖い。
あからさまだから実害はないとも言えるが。
「おっせぞー」
「悪い」
「あれ、ギターは?」
昇降口にいたのはショー。
えーこがわざわざ質問するように、ギターらしきものの姿は見えないが、わざわざ質問するようなこととも思えない。むしろショーが忘れたなら、そのまま思い出さない方が望ましい。
「今日だばどさが行ぐあんねが」
「あ、ショーくんもそう思う?」
「んだー」
「行かねーだろ」
そのまま論争が始まるが、論争といっても行くか行かないかというだけで互いに根拠もないので一分以内に終わった。
ちなみに俺とちさりんが行かない派、良はどっちつかずの優柔不断。こんなはっきりしない性格で人を率いることが出来るだろうかいや無理。
……まぁ当面、奴が率いるような部員なんていないけどな。
「ハックンはクーリーだ!」
「は?」
「俺は今日からブルドッグだぜ!」
「いや、だから…」
廊下を歩くうちに、どこからともなくプロレス者も湧いてきた。相変わらず常人には理解できない言葉を吐いている。そういえば超人を目指す空手家をヤツは尊敬していた。
「あんたってたまにはプロレス離れられないわけ?」
「ちさりん、なんで今のがプロレスだと分かったっ!」
「だってバカっぽいしぃ」
「ぐっ」
正直、プロレスを離れた方が危険だと思うのだが、かといってプロレスばかりも飽きる。それ以前に、ヤツは本当にブルドッグと呼ばれたいのだろうか。一般的にはあんまり褒められた呼び名じゃないと思うぜ、かーくんよ。
「で、祐子さんは?」
「もう来てる」
「ゲッ」
「すげー怒ってたぞ。良は破門だ、もうあんな奴の時代は終わった、今からは海辺で漁師として余生を過ごせ…」
慌てて走っていく良。ちさりんも後を追う。俺は追わない。えーこは首を傾げてる。ショーはブツブツ独り言。
………。
今の台詞のどこが信用に値するのだろう? 確かに祐子さんなら怒り狂うだろうが、その先はどこかで聞いたようなストーリーだ。世代交代の波が押し寄せる格闘技の世界でありそうだ。いや、眉がはえそろった男が山から下りてきそうだ。
「ハックン、今何時だ?」
「…えーこ、今」
「十時ちょうどです」
この場であてになるのが彼女だけという象徴的なシーンを演じた俺たちだったが、それはともかく時間を知っても勝ピーに慌てる様子はない。
「遅れるのか?」
「十五分ぐらい遅れるって言ってた」
今頃部室に到着したあの二人はどうしているだろう。渡り廊下を歩きながら、ふと笑いがこみあげる。祐子さんがいないのを知って、怒って帰ったと思って探し回るかもなぁ、とニヤニヤしながら旧校舎に足を踏み入れた瞬間、正面の窓に人影が見えた。
「ゲッ、姉貴だ!」
「何がゲッだこのクソガキ!」
裏口に直接乗り入れるという豪快な手段で先回りされてしまった俺たちは、薄暗い廊下にカツカツ足音を響かせる。今日は楽しい楽しい地研活動日。まるで先が読めない、スリル満点の納涼興行のはじまりはじまりってやつだ。




