瓊矛
「さて、いい天気だな」
「うん」
今さらの台詞を吐いて見上げた空。何も隠せはしない、薄くかすれた雲がわずかに横たわる。これなら晴れか快晴かでもめることもないだろう…って、誰ともめるんだ。
ワゴンを見送ったのは四人。住宅街の直線の道でも、一分かそこらで車の姿は消える。ようやく祐子さんの監視が解けてほっとすると、誰に指示されるまでもなく二組に分かれた。
頬が赤いといっても別に照れてるわけじゃない良と、不細工な生物が背中で睨むちさりんが、指さして笑い出しそうなぐらい邪悪な表情のまま去っていく。自分たちも指さされることにおいては変わりがないはずなのに、この優越感はなんなのだろう。だいたい、こんなに急いで別れる辺りが怪しい。二人でどこか寄って行く予定があるに違いない。もう美術館に寄れる時間でもないし、まさか西郷さんの神社か、それとも山登…。
「いい天気です」
「まったくその通りだ」
頬をつねられて、振り向けばちょっと不機嫌な顔。仕方なく言われたままにもう一度空を見れば、いつの間にか夕方らしい色合いを帯びつつあった。
陽射しを遮ることもない雲の下で、相変わらず地面は熱せられたままだ。干からびろというなら干からびてみせよう。真っ直ぐな道路と似通った家並の中心で。
「ところで、リボン似合ってるな」
「気づいてた?」
「当然だ」
「ふーん」
電柱に示された住所表示は、確かえーこの住所と同じ。番地は覚えてないけど。
普通の相手なら送り届ける意味などない。が、普通の相手じゃないからそれまでだ。一秒でも長く一緒にいたい。二人になったとたんに、自分は利己的になっていく。
「では…」
「なぁ」
「え?」
とはいえ、普通じゃないから即無問題ともいかない。人間関係は何かとややこしい…んじゃなくて、なんというかまだ心の準備が。
「川を見たくないか」
「見たい」
「…だよな」
ここにいたら、良やちさりんよりも深刻な視線にさらされるかも知れない。いや、きっとさらされる。早く離れねばならない。
うまくごまかせそうだ…と歩きだそうとした時、いきなり腕を引っ張られた。なんだ?
「じゃあまず家に寄って、それから」
「う……」
「玄関だけです」
笑顔の彼女にそう言われたら、何も反論出来ない。あるいは、元から反論なんてする気なんてないのかも。とにかく予定は決まってしまった。
俺はえーこに導かれる――要するに腕を引っ張られる――まま、自転車を押して行く。正直言って、それは無茶苦茶恥ずかしい。間違いなく彼女のご近所さんが住む道で、白昼堂々と手をつなぐのだから。
角を折れて、少し進んでまた折れる。白いシャツも青いジーンズも、あんまり女の子って感じじゃないなぁと、珍しく服装に意識が向かう。かといってプロレス者でもなければ女神でもない。いったい何だろう……と熟考しているうちに、えーこは立ち止まってこちらを見た。たぶんさっきの喫茶店の裏あたりだろう。
………………。
表札には「小川」の文字。達筆だがたぶん彼女の字ではない。そもそも今は文字を鑑定する局面ではない。
……つーか、いくらなんでも近すぎだろ。
「別にこれといった特徴はないでしょ?」
「まぁ…」
とりあえず褒めるのが礼儀だと、せっかく気づいた時に限って釘を刺されてしまう。タイミングが悪い。やはり相性が悪……くはないぞ。顔に出る前に否定する自分はキレている。
それはともかく、目の前にあるのは黒い瓦葺き屋根の、周囲とあまり変わりのない家。やや小さいような気もするが、両隣の家も似たようなものだ。そもそもはじめから二人しか住まない予定の家なら、大きさなんて問題にならないだろう。
………そんな予定を言いきってしまう自分に嫌悪感。
「えーと、五分ぐらい」
「ウルトラマンとかカップラーメンで頼む」
「…努力だけは」
えーこは俺を玄関に待たせたまま、ドアを開けて中に消えた。
鍵がかかっていない。不用心な家でなければ、それは同居人――間違いなく彼女の母親――が存在していることを示すはずだ。急に緊張で肩が凝ってきた。
ぐるぐる回してはゴリゴリ音を鳴らす。そしてドアを中心に、表札や電灯を注視するが、目の前の建物に変わった様子はない。突然家が動き出すわけじゃあるまいし、とため息をついて、今さらのように自転車を道路横に止めた。
夕暮れ近いとはいえ、まだまだ明るい空。一人残された自分は、ブロック塀の向こうに広がる小さな庭を眺める。こんな真夏でも緑の多い庭。なんとなく、それは彼女に似合った景色のように思えたところで、ふと我に返った。
これではただのノゾキ野郎ではないか。
周囲の視線が気になって、とりあえず目の前の自転車のサドルを握る。止めてある自転車のサドルを握ってきょろきょろする姿は、今度は泥棒だ。また慌てて手を離し、玄関に目をやる。彼女はまだ出て来ない。来る気配もない…が、ドアの奥の気配なんて最初から感じ取れるわけはない。ぐ、俺は今ピンチだ。
「お待たせしました」
「待った、かなり待った」
「え?」
やっとのことで現れた彼女に、思わず非難の声を浴びせてしまう。
彼女はちょっと首を傾げて、それから手にしていたものを自転車のかごに入れる。その物体は水筒のように見えたが、確認するよりも先に俺は自転車を動かした。とにかく、この場を離れたかった。とりあえず今来た道を……っと。
「案内するのは私です」
「…それは失礼」
いつの間に決まったのかはもちろん判らない。けれど、かごを引っ張って抗議の意志を示されては、俺は引き下がるしかないのだ。どうせここを離れればいいだけだし、頬を膨らませた彼女は、正直言えば可愛い。かなり可愛いから逆らえない。
あー俺はダメなヤツだ。軟弱野郎だ。人間のク…。
「かーさーんーとくいーのー空手ぇチョップー」
「あんた年いくつだね」
「同い年」
嘘つけ、と思いながら顔はほころんでいる。痛いのに。人生はあり得ない体験ばかりだ。
………。
冗談はさておき、えーこはさっきとは逆に歩き出す。思い出したように――実際、思い出したんだが――その服装を確認するが、別にさっきと変化はない。リボンの色も変わっていない。いったい何に時間がかかったのか謎だ。自分なら玄関に荷物放り投げて終わりだから、長く見積もっても十秒……っと、自転車に不規則な揺れ。
「………」
「今のは「えーこの消えた五分間」について思いを巡らせていただけだ」
「二時間ドラマみたい」
不服そうな顔で彼女は自転車から手を離し、角を折れる。しばしば家政婦と間違われたかも知れない彼女にとって、それはきっと屈辱に違いないが、かといって追及を続けるわけでもなく、黙々と歩く。もしかしたら、やましいことがあったからかも。ふっふっふっ、鋭い推理だ。赤カブぐらい余裕だ。
………それじゃ本当に二時間ドラマじゃねーか。
肩を一度回して、自転車の位置を確認する。完全に横に並びたいけど、並んだら彼女の腕がのびてきそうだから躊躇する自分。どこかで俺たちは覗かれてる、そんな不安。
新興住宅地の、時折車は通るけれど静かな道。なんだかいい雰囲気だ。これで暑くなかったら、まるでデートみたいだ。
「で、これは水筒だよな」
「他の何かに見える?」
暑さに関係なく、これはデートだろう。
こういう時、俺の思考はつき合う前と変わってない。デートは他人に自慢するようなことじゃない…と思ってるうちに、いつの間にかデートそのものを否定する。さすがにこれを論理的とは思わない。
「水筒なら海に持っていけば良かったんじゃないか」
「私もそう思う」
「………」
「……この先、登り坂だから」
「うむ」
さては忘れたな。あえて指摘せず無言で歩く。車輪がカラカラ音を立て、アブラゼミが時々思考を狂わせる。晴れた空。暴力的なのに穏やかな時間。
やがて人家の消えた道は、えーこの予言どおり登り坂となる。相変わらずジリジリとセミの声ばかり。暑さを忘れる要素がまるでない状況で、当然のように吹き出す汗……を、彼女がタオルで拭いてくれた。
いつの間にそんな便利なアイテムを、と半分驚いた顔で俺はえーこの顔を覗き、覗かれた彼女は笑う。なんだかデートみたい…じゃなくてデートだ。我ながらいい加減にすべきだ。
登り切ったところは両側に続く土手。大河に平行して流れる川の堤防だった。
「来たことは?」
「ここに用があると思うか?」
「ひろちゃんの昔はあまり教えてもらったことがない…から」
………。俺のせいなのかっ。不条理だ。世の中は不条理だ。
上流側には不自然に寄り添う大小の川。河川改修で分離した結果だから、文字通り不自然なんだけど、生まれる遙か以前の人工を自然と見分けるのは難しい。俺たちにはこの景色しかないのだから。
目の前に架かる橋を渡る。橋といっても渡れるのは手前の川だけで、大河には届かない。そして渡った先を見れば、河原一面に広がるゴルフ場。なんだか望んでいた景色ではなさそうだ。
「小川パパはもしかしてゴルフ好き?」
「嫌いだったと聞いてます」
「ほぉ」
俺もなんとなく嫌いだったから一瞬喜んでしまったが、それを口にするのははばかられた。
父親に対する反発。良や瀬場さんのように目に見える形ではなくとも――ゴルフ場に行く機会なんてあるわけがない――、くだらないこだわりならあったわけだ。
「どうするんだ?」
「もうちょっと歩きましょう」
「そういや、今日はぺしゃんこな靴だな」
「…怒られたから」
どう反応していいのか判らず、空を見上げた。
確かな質感。重みすら感じてしまう広大な青を、どうして掴むことすら出来ないのだろう。そんな大昔の疑問をふと思い出して苦笑する。
昔は誰だって夢想ばかりだった。自分がゴロウになってしまったとしても、驚きはしなかったのかも知れない…って、まさか。
両側を川に挟まれながら、夕焼けの道を下流へ向かう。地図では確か合流してたよなぁ…とか思い出すまでもなく、やがて土手は途切れて行き止まりだ。その先には広がる水面。川なのか海なのかもよく判らないけど、ただ続いていく水面。
これ以上は自転車で行けそうにない。いや、歩いたところで数メートルで行き詰まる。さっきまでとは違う、生暖かい風に吹かれながらただ立ちすくむ。
「泳ぐのか?」
「ここで泳いではいけない」
「………」
「と教えられました」
「だろうな」
太陽はまだ俺たちよりずっと高いところで、オレンジ色の光を放つ。河口の景色を眩ますかのように。
自転車を止めて、ただぼんやりと川面を見つめる。夕陽がまぶしくて時々嫌になるから、逆に意地になって目を凝らす。そして隣の彼女もやっぱり目を凝らす。まるでそこには、この機会を逃したら永遠に見ることの出来ない何かがある、そんな錯覚。
「なぁえーこ」
「ん…」
またたく燈台の灯が目をくらませ、視界に何が映っているのかよく判らなくなった俺は、なぜか左の腕をのばしたくなった。
「俺がゴロウになったら、何が悪いんだろうな」
「さぁ…」
探るように動かした指先が何かに触れ、ぐっと握られた。
握力計の数字ならたいしたことがなくとも、その瞬間に身動きがとれなくなるもの。
「ヒロくん」
「ん?」
「大好きなヒロくんがいなくなるなら、悪いと思う」
「…そ、そうか」
いい加減慣れてきたつもりだが、それでもさすがに動揺した。えーこの破壊力は時々しゃれにならない。
そろそろ瞼が疲れてきた俺は、右の手のひらで陽射しを遮って、それから今さらのようにつながれた左腕に目をやった。そして、このシチュエーションであんな質問をする自分がバカなんだと気づいた。
「けど、…そういう意味だった?」
「たぶん違う」
「じゃあ」
俺は無言のまま彼女の言葉の続きを待ったけれど、それ以上何も言わずに、えーこは腕を振る。仕方ないから俺も振る。
そうだ。こんな判りきった返答を聞きたかったわけじゃないんだ。たぶん。
自由な右腕をぐるっと回して、ちょっと拳を強く握る。気合いを入れて、ついでに凝った身体をほぐす。なんだかオッサンくさい話だ。
「小さい頃だったら俺は、自分がいなくなるとか、そんなことは考えなかった」
「……ふーん」
「それは山際博一だって自覚がなかったからかも知れない」
「今はあるの?」
「ある。だからえーこが大好きだ」
「そう…ですか」
どさくさに紛れて仕返ししてみた。いや、これを仕返しって呼ぶのも変だが、うつむく彼女は可愛い。さっきからそればっかりだ。他に形容の仕方はないのか。
夕陽は目に見えて高度を下げる。薄く拡散する雲に囲まれて瞬く光。あの日、二人が見たのもこういう景色だったろう。もしもここまで辿り着いていたのなら、だけど。
「ひろちゃんは、おじいさんのことを思い出したりする?」
「……年に何度かは」
急に気になって、堤防の岸辺に目を向ける。
皺が寄った泥と生い茂る草と、打ち上げられた流木。たとえあの船が辿り着いていたとしても、それは波間に漂うゴミでしかない。すぐにあきらめて、再び河口を望む。
「それだけ?」
「いない人のことを毎日考えられる…」
そこで口をつぐんだ。
ため息をついて、彼女の表情を追う。
「私の父がこの世にいない」
「え?」
「……だったらどうする?」
声を出すよりも先に僕は、つないだままの手に力を込める。その合図で君は、申し訳なさそうに首を傾げて笑う。
近づこうとしても近寄れないもの。どれだけ密着しても、どれだけ寄り添ってもまだ残ってしまう距離。即席の港を用意しても、出航するあてのないまま朽ちていく景色。そう、僕らの夢の中には黒錆びた碇がぎっしり詰まっているから。
「なぁえーこ」
「うん」
「会えないことと死ぬことはやっぱり違う」
「………うん」
決して会えないのか、それとも会える可能性を信じ続けるのか。そんな区別はただの気休めにしかならない気もする。
だけどそれは例えようもなく大きな違い。
俺はじいさんが嫌いだった。顔を合わせたくもなかった。月並みに言えば、憎んでいた。それが生きているってことだと、今は思う。
彼女は無表情のまま、止めてある自転車のかごに手をのばして、それからタオルを手にこちらを見た。俺の顔を数秒覗き込んでから、ゆっくり細い腕をのばして細長い水筒を取り上げ、周囲を覆う滴をぬぐった。
銀色の水筒はあまり使われた形跡がなさそう。何せ、店に並んでいた時の宣伝シールがそのまま貼られているぐらいだからな。
「もうすぐ夏休み…なんだけど」
「そうだな」
俺だったら、買ったらすぐ剥がす。金払って宣伝し続ける義理はない。
「どうしよう」
「へ?」
驚いた顔に突きつけられたのは水筒のふた。ふたというか、この場合はコップと呼ぶべき物体。
慌てて手を伸ばし、受け取って口に運ぶと、麦茶の味がした。間違いなく麦茶だった。
「学校がないとヒロくんに逢えなくなる」
「む…」
「そう思ったら今から気が重いので…」
今度はおずおずと腕を伸ばしてくる彼女が可愛いから、左手でちょっと強めに握ってみる。
ちょっとひんやりした感触。銀色の水筒から移ったのかな、と首を傾げて、もう一方の手で麦茶を飲んだ。
…………あ。
「うまいっ、実にうまいぞ!」
「随分と時間がかかるようですね」
感想が遅れた原因はえーこにもあるはずだが、それを主張しても分が悪そうなので黙って腕を振ってみる。すぐに彼女も振り返して、しばらく意地になって振りあった。端から見たらすごく馬鹿馬鹿しい光景だと判っているけれど、やっている瞬間は楽しいからどうでも良くなってしまう。それに、誰も見てる人なんていない。
いないよな?
コップでもあるふたを返すと、えーこはちょっと悩んでからつないだ手を離した。片手ではお茶を注げないのだから当たり前のこと。だけどそこで悩むのはやっぱり利己主義? 俺だって離したくないからそうかも知れない。
「地研では何度ぐらい集まるんだろうな」
「さぁ…」
再び微妙な沈黙。えーこがお茶を飲んでるせいもあるけど。
夏休みなんて始まるまではイメージが湧かないから、正直言って俺は彼女ほど深刻に考えてはいなかった。が、改めて指摘されるとこれは深刻な事態だ。一ヶ月の間、ほとんど逢えないかも知れない。まずい。
「ヒロくんは名誉部員だよね」
「…一部でそう言われている」
頼みの綱は地研。といっても、二人とも部員じゃないのに何度も学校に出掛けるのはおかしい。間違いなくおかしい。
もちろん現実には、活動といっても加わる部員は良一人なのだし、向こうから誘われたことにすれば、ある程度はごまかせる。というか、えーこは家族にもう俺のことを話してるんだから、何もごまかさなくとも正直に言えばいいだろう。二人きりじゃないなら、母親だってそんなに心配はしないだろうし。
…要するに、俺が問題なだけじゃないか。
「一応、考え事?」
「当然」
「ふーん」
いつの間にか彼女の手からコップは消えていた。元々が小さいし、えーこは大食い――これは関係ないかも――だから、すぐに飲み干すのも当たり前か。
俺がうそをついてないか、じっと表情を覗いてから、また手をつなぐ彼女。考えてみたら、今日は人前でもさんざんつないだよなぁ…と、思い出したら赤面する自分がいる。なんで今さら。
「電話は?」
「……俺からかける」
「ふーん」
曖昧に声を返す彼女。
考えてみたら、どうせ昼は両親がいないのだから電話なんてかけ放題。それどころか、出掛けたってばれないじゃないか。うむ。急に前途が開けた気がするぜ、ほっほー。
「間違って午後八時ぐらいにかけてもいい?」
「それは間違ったとは言わない」
「ぶー」
「めらん」
「二十点」
「厳しい」
「うん」
いくら前途が開けたって、まさか毎日川を渡って会うわけにもいかないだろう。どうにかして週に一度ぐらい……、と腕を振る。
それにしても、もう夏休みなんだな。こんな場所で気づかされると、本当にあっという間って感じがする。数学の授業中なら正反対の感想になるはずだけど。
陽射しと強い風でのどが渇いた俺は、もう一杯麦茶を所望。気分的にはがぶ飲みってとこだが、それをやると彼女の心証を著しく害すのでやめておく。というか、相手が誰だろうと同じ結果を招くだろう。
夕陽はさらに高度を下げ、粉末ジュースをばら撒いたみたいに水面を染める。遠くを見ても、一艘の船も見えない。港は対岸の堤防の向こうだから、見えたとしてもここでは小さな漁船だけ。そういや、ウナギがいるんだったな…。
「ところでひろちゃん」
「ん?」
ぼんやりするたびに引っ張られる。
そんなに俺は妄想野郎で、彼女はいつも冷静沈着なのか?
「そろそろ撫でたくなりませんか?」
「さ、さぁ…」
直前の疑問を忘れてしまうほど、あまりにあからさまな要求だった。
少しだけ俺は呆れて、それから向き直って夕陽を眺める。夕陽に用はない。見飽きた。ただ目をそらす先が欲しかっただけである。
「正直言うとだな」
「うん」
しかし、つきあいはじめって、もっと緊張感があるのが普通じゃないのかね。残念ながら俺には他に経験ないけどさ。
いつものように肩を回す。
………。
こういう癖も、隠すのが普通なのかも知れない。オヤジ臭いし。
「頭を撫でると、二人が上下関係になったように思える」
「上下関係?」
「うむ…」
それ以上のことは頭に浮かんだけれど、口にはしなかった。
向かいの家の猫にとって、俺は別に飼い主でもないただのご近所さん。たかがそれだけのこと、なのかも知れない。
「じゃあ一時保留で、ゴロウのこと」
「ゴロウ?」
第二次攻撃がきっとあるはずと身構えたのに、やけにあっさり引き下がられて拍子抜けした。
要するに、えーこは笑顔だったり拗ねてみたり、いつもマイペース……って言ったら良だな。この世界は何かとややこしい。
「たとえ話があります」
「…………」
「ヒロくんは、ゴロウが嫌いだった」
「それのどこがたとえなんだ?」
「さぁ」
同じ景色ばかりというのもそろそろ退屈になったので、後ろを向いてみた。
広がるゴルフ場に人はいない。当たり前だ。そろそろボールが見えない時間。
「ヒロくんに嫌われてるから、ゴロウは表に出なかった」
「…かもしれない」
「でも祭の日までには好きになって、今は追い出さなくてもいいと…」
「それは飛躍しすぎじゃないか?」
何度も繰り返したやりとり。だけど今の自分は別に苛立ってはいない。彼女の言うことも、多少は当たっているのだとは思う。
目の前には、まるで勝ピーがこぼしたコーラが固まったみたいにのっぺりと不気味な芝生。直線の土手よりもずっと人工的な景色だ。
「そう?」
「追い出せたから嫌いじゃなくなった、だろ」
「会いたくない?」
「俺を乗っ取るんじゃなければ…」
嫌いじゃなくなってる。それはゴロウがじいさんの位置に移り変わった結果であって、それ以上の何かではない…けれど、そういう自分は相変わらず言い訳ばかり重ねている。自分の推理を崩されたくない、それだけのために頭を使う。
ネガティブであることが正しい、という意識。そうか? 本当にそんな理由で俺は許したり許さなかったりするのだろうか。
「なぁ、えーこ」
「ん…」
「えーこだって嫌だって思いはあったんだろ?」
「………うん」
再び沈む夕陽を見つめる。それは退屈なもの。ほとんど一本の線ばかりで構成された、幼稚園児でも描けそうな景色に、何か特別な感情がわいたりはしない。
そう。まるで沖のテトラのように、太陽は海を窮屈に狭めていく。その先が存在しないかのように、見る者の目を眩ませる。
「ヒロくん」
「ん?」
「少しだけ…、嫉妬してたかも」
誰に…と口にしかけて、聞く必要などまるでないことに気づく。
これは巧妙なトラップだ。そうに違いないと俺は頭を抱えるが、しかしここで話をやめては意味がないのも事実。う…、今は気合いだ!
「い、今も…」
「え?」
「今も嫉妬してんのか?」
思わず声が大きくなってしまった。もしかして勝ピーのイタコも恥ずかしいから大声なのかと、一瞬疑ってしまうほど。
もちろん、そんな推測は悪い冗談でしかない。だいたいヤツはプロレス者なのだ。常人とは違うのだ。
「ひろちゃん」
「む……」
「ひろちゃんと二人きりじゃないなら、誰にでも嫉妬すると思う」
「絶望的観測だ」
苦笑いの彼女。今さら驚くに値する返答ではないけれど、一応は困り果てた体で俺は自転車を動かす。
そろそろ帰ろう。晩飯は家で食うのだし、人の気配のない場所にいつまでもいるのは落ち着かない。彼女に何かあったら困る。
「真っ直ぐ行けば向こうの橋に着くんだよな?」
「そりゃまぁ、堤防道なので…」
別れたいわけじゃないけれど、彼女に任せていたら帰れそうにない。なし崩し的にもう一度小川家に行って…なんて展開すらありそうだ。いや、さすがに今日はまさかと思うが……。
時々自転車がガタガタ揺れると、かごに入った水筒もカタカタ音を立てる。そこにいると主張するみたいだ…と思うのは、拗ねたように腕を振る彼女がそばにいるからだろうか。
「夜景がちょっときれいだって知ってた?」
「百万ドルの夜景か」
「そんなに高くないと思う」
ゴルフ場と大河の暗闇を挟んで広がる景色。まだ暗くなりきってはいないから、俺にとっては一円の価値もない。いや、たとえ夜になっても、自分の住む街の明かりを見たいとは思わないだろう。
だいたいその中には、うちの蛍光灯だって混じっているのだ。ロマンチックどころか、思わず歌ってしまいたい気分だ。
「はあーあぁあぁぁえーー」
「もしかして焼鳥屋の歌?」
「せめて盆踊りにしてくれ」
「でも小学校で踊らされたのは花笠音頭じゃなかった?」
彼女の言ってることは確かに正論なのだが、この際それは問題ではない。なぜなら花笠音頭は余所の歌に過ぎないからだ。
広がる凪いだ水面。遠くゆるやかに延びた曲線のその果てに、いい加減に突き刺された鉾からまたたく小さな光。この街の輪郭を描ききったなら、次はどこかへ取り去ってしまいたくなる、宝の山さ。
明るさを増す中心は、賑わいの確かな証。北の港町には繁昌の灯がともる。山王様の鎮まる町にはヤモリが群れる。
はぁどんとこいどんとこい。
「どっちにしろ、百万ドルの夜景のオリジナルはこっち側だろ。えーこの部屋の明かりとか」
「あんなに人が住んでたの?」
「俺に聞くなよ」
この国の中心という場所から、船はやってくる。それはあまりに遠すぎて、念珠ヶ関よりも遙かに遠くて、どこにあるかもわからないけれど、見たことのない沢山の積荷は確かな証。
去っていく船。留まる船。上る船。沖へ行く船。見えない何かはきっとあるから、僕らも安心出来るんだ。
僕らと同じ言葉で、だけど少し違う人たちと仲良くなれれば、いつか彼方を目指すかも知れないし、僕らの言葉もいつか変わってしまうかも知れない。不思議なことさ。だけど港はきっとそういう場所なのさ。
はぁどんとこいどんとこい。
「今日は一日ありがとう、ひろちゃん先生」
「うむ。まずまず良い生徒だった」
「また教えてくれる?」
「テトラに行きたいならな」
自転車のかごに腕をのばす彼女。もうその景色は大半の色を失って、だけど後ろを向いた頭には夕陽が反射する。海路を返す波。沈む夕陽。
「…………」
形は俺とそんなに違わないけど、ちょっと小さいよなぁ。だけどすべすべした感触が不思議だなぁ、ちゃんと毎日とかしてんだろうなぁ。そんなことをぼんやり考えながら、俺の左腕は半ば無意識に前方へのびていた。
右へ、左へ、それから手前へ。こっそり二つもあったつむじを手がかりに、ゆっくりと指先を滑らせる。彼女は何も言わず、されるがままにじっとしている。ただ、左に撫でれば右に、右に撫でれば左に、平衡を保とうと軽く反発する。その感触がまた不思議で、だけど何度目かの反復のうちに、ようやく俺は自分のしていることを意識してしまい、動揺する。そしてそれが善か悪かと、誰かに問いたくなる…けれど、積乱雲のように分厚くなった焦りも、つむじに吸い込まれるように消えていく。
やがてリボンの少しざらついた感触に出会った時、少なくとも自分は彼女を撫でていたいんだな、と気づいた。よく判らないけど、これは大切なことなんだと。
「ひろちゃん」
「………」
「これでちさりんと一緒?」
「比べなくたっていいだろう」
ようやく撫で終わった時、正直左腕がかなり疲れていた。
だけど水筒をかごから持ち上げたえーこは笑顔だったから、気にならなくなった。やっぱり利己的だ。だからきっとネガティブなんだ。
「それじゃ、ここで」
「気を付けてな」
「ひろちゃんこそ」
さっき渡ったばかりの橋も、暗がりの中では随分印象が違う。
自分の向かう先もグレー一色に覆われているけれど、えーこの家の側も、まばらな街灯が並ぶだけ。急に心配になってきた。
とは言っても、もう一度家まで送るのも抵抗が…。
「妄想禁止」
「う、悪い」
「罰として、明日からも撫でてください」
「……おう」
とどめのチョップ。俺は断末魔の叫び声をあげて、かっこよく倒れ…はしない。こんなところで倒れたら痛いぜ。
そのまま手を振って別れる。最後まで彼女のペースだった。俺はだから困ったふりをして、でも顔はきっとにやついている。自分の思い通りにならないから、夢中になっていく。物騒な未来ばかりで、箱庭の金魚を腹いっぱいにしてくれる。
「あ、それと」
「え?」
ぼんやりしていた俺が振り返ったその一瞬、えーこの顔がちさりんのように見えたのは、きっと気のせいだろう。
「母が覗いてました」
「な、なにぃ!」
「昔のお見合いの作法だそうです」
そのまま笑顔で彼女は橋を渡って行く。
俺はとりあえず、どこからツッコんでいいのか頭が混乱して、やがてツッコむ当事者がいないことに気づく。正確にいえば、ぼんやりとした影に変わっていることに。
……ロングロングアゴーといえばダーの人だよな。まったくどうでもいいことを思い出して、ふっと息をついた俺は、その影が見えなくなるまで見送った。姿を消す方が安心するなんておかしいと、責められる自分がいることにも気づきながら。
やり直したらいいの?
違う。繰り返すだけなんだ。




