澱み
午後の授業は平穏に過ぎて行く。
…というか、異様に眠い。
なぜだろう?
いや、眠いというだけならいつものことだが。
「唐の皇帝理念を持ち込んだ聖武天皇は…」
うーむ、難しい話だ。
ほとんど聞いてない俺には、別に難しかろうが関係ないけどな。
「かつての天武天皇の軌跡を辿り…」
すぐ後ろでは、さっきから規則正しい音が鳴っている。
隣の席は、盛んに上下運動を繰り返している。
やれやれ。
それが当然の権利とでも言わんばかりに、眠りこける連中に囲まれれば、誰だって眠くなるはずだ。
「恭仁京遷都には、皇帝としての…」
教室を見渡す。けだるい空気があふれている。
良なら喜んで聞きそうな話。俺もヤツの影響なのか、そんなに嫌いじゃない。
………と、後ろの方を向いた時、彼女も見えた。
「聖武は、恭仁京を新都と呼び、万代に伝えるようにと…」
そして俺は愕然とした。
教室の後ろで、幾分ぼんやりしながらも、前を向いて話を聞いている女子生徒は、決してツルではなかった。
なんなんだ。
昨日の朝、彼女は間違いなくツルだったはずだ――それなのに、今教室に座っているのは絶対に違う。別人だ。
「この遷都には橘諸兄が大きな役割を…」
…いや、それだけではない。
今現在の自分は、完全にツルを忘れてしまっていた。本当のことを言えば、小川悦子の姿を見ても、いったい何が違うのかすら判らなくなっているという事実。
忘れること。
それ自体は、俺が望んでいたこと…だろう。このまま、すべてが「なかったこと」になるのなら。
「近年の発掘によれば、恭仁京は予想よりも遙かに小さく…」
違う。
忘れることなんていつでも出来る。
その気になれば、日曜の出来事なんてきれいさっぱり忘れてしまうだろう…が、自分が自分でなくなる感覚だけは、きっと消えはしない。
あれ以来感じ続けている恐怖は―――。
コリコリとチョークが響く教室。
規則正しい音と静寂が交互に訪れ、俺の思考は深みに堕ちていく。
やがて…。
「おはよう」
「あ…」
寝ぼけた面に驚かされる。クソッタレ。
「今何時だ?」
「知るか。永遠に寝てろアホ」
「ヒロピー、お前はなんて冷たいヤツなんだ」
芝居じみた台詞に、むらむらと怒りが込み上げた。
だけど、その馬鹿げた言葉が教室をいつもの空間に引き戻す。
もっとも、単に休み時間になっただけのこと。ヤツに感謝する理由はないだろ。




