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川辺の祭  作者: nats_show
誕生
69/84

胎衣

 空を見ろ!


「あ………、と、鳥だ!」

「んぁ、飛行機だんねが」

「げ、………姉貴だ!」


 殴られるのはもちろん弟。しかし俺たちも同等のバカだと推定される。なんで空に姉貴なのかはさすがに理解出来ないけどな。実に姉弟というのは難しい関係だ。

 ともかくここは海水浴場だ。

 どうしようもなく暗い大河の景色を過ぎ、川南の空虚な街並みを無言のうちに走り抜け、やがて地面が砂だらけになった辺りで自転車をとめて、時々足を取られながら歩く。わずかな黒松林の登りの先には広がる紺碧の世界。

 別に感動はしない。広がるといっても所詮はテトラに囲まれた空間。それに加えて、肌に粘りつくぬるい風と砂の照り返しがただ鬱陶しい。だから早く逃れようと、仕方なく波間へ向かう……………わけあるかって。

 とにかくここは海水浴場だ。

 どうしようもなく暗い大河の景色を過ぎ、川南の空虚な街並みを無言のうちに走り抜けたってことは、えーこの家の近所である。間違いなく、歩いてもすぐに着くような近距離。家の位置までは知らない――住所はもう知ってるけど、番地で判るほど地理には明るくない――が、その気になれば毎日でも通える距離である。

 にも関わらず、彼女が砂浜に立つのは約十年ぶりらしい。まったく嘆かわしい。我が国の教育はどうなっているのだっ。


「いい天気だな、やはり夏はカーッと晴れにゃあいかんな、弟よ!」

「弟じゃねぇって言ってんだろ!」


 うむ。いきなりどうでもいいことで興奮した。反省。

 とにかく、えーこは一応ここにいる。俺の隣で、とりあえず立っている。ずっとうつむいたままで、今の気分はヒラメのように砂と同化してしまいたい、かも知れない。しかし残念ながら、この海水浴場で彼女はかなり目立っているように思われる。秘かに目立ってほしい気もする。

 腹に毛がある瀬場さんと、学校と同じ海パンの勝ピーは早くも仲が良さそうだ。どういう経路で瀬場さんに連絡がいったのかよく判らないが、しっかり祐子さんを車で送ってきた。一応後ろに弟も乗ってはいたけど、ヤツは姉の付録のようなものであろう。

 そして振り向けばちゃんとショーまでいる。ギターはない。塩水に弱いなんて軟弱だ。そういえばショーも瀬場さんの車だったな。ショーの家からここに来るのはかなり大変だから、仕方なく祐子さんが瀬場さんに頼んだのかも知れない。

 …そんな理由つけなくても、祐子さんが同級生を呼んでおかしいってことはないけど。なんだかんだ言って、悪意に満ちた勝ピー情報に惑わされすぎだな、俺も。


「揃った?」

「はーい」


 とりあえずビキニではなさそうな水着――俺はビキニとワンピースという区別しか出来ない――の上からTシャツを着た祐子さんを中心に、我々一行は円陣を組む。一応はちさりんが企画者だったはずだが、ここに来た瞬間から妹モードにはいっている。同じようなTシャツだからなるほど姉妹に見えなくもない……というか丁稚っていうか奴隷っていうか、表現はいろいろあるだろうがノーコメントだ。

 砂浜は人だらけ。まぁそういうシーズンなんだから当たり前だけど、最近は不況で客足が落ちてるとか、母親に余計な話ばかり聞かされていたから、ちょっと予想と違っていた。もちろんこの町の住人なら、不況だろうが海水浴ぐらい出掛けるだろう。その気になれば自転車で行けるわけだし。

 問題はあくまで、余所からどれぐらいの人がやって来るのかである。

 太平洋側は夏になっても暑くならないから、みんなこちらまで遠征するのだと、小学校の社会で教えられた。夏が暑いのは自慢の種だった。自慢したって暑いだけなのに。


「じゃあ挨拶、そこのハゲ!」

「誰がハゲだ。ということでみんなー、元気かーっ!?」

「おーー」


 ノリについて行けない人間が約半数。

 ハゲなんて言われたらもっと怒るだろ、普通。勝彦の頭を指差して「若ハゲの血を引いてる」って冗談で言った時なんてすごい剣幕だったぞ。瀬場さんはもう認めてるのか?

 ………。

 まぁ確かに額は額と呼べないほどに広がってるし、てっぺんも薄くなっている。これで祐子さんと同い年ってのは残酷だ。


「今日は泳ぐぞーーっ!」

「おー」

「あそこのテトラまで行くぞーーっ!」

「お、…おー…」

「なんだ、声が小せぇぞ!」


 今度は顔を見合わせる者数名。テトラはまぁ沖に見える程度の景色だから、無理すれば泳げなくはないだろうが、それはあくまで俺個人の話だ。隣でこちらを見る彼女――未だ一言も発していない――はもちろん無理だし、そもそも最初は勢いの良かったショーがおとなしくなった。怪しい。


「つーかさ、ハゲ」

「ハゲって呼ぶな祐子、俺は悲し…」

「アンタ、海で泳いだことあったっけ?」

「な、なにぃ!?」


 祐子さんのツッコミにたじろぐ瀬場さん。あり得ないツッコミなんだが、どうも図星らしい。川で泳ぐ経験のほうが遙かに珍しいと思うのは俺だけだろうか。

 というか、正直言ってどれほど違うのかもよく判らない。プールと海ならば、波があるだけ海の方が面倒だけど、川だって流れはきついだろう。瀬場さんの住んでる辺りだったらなおさらだ。


「今日はさー」


 祐子さんはそう言いながら千聡を抱きかかえる。その対比はいかにも姉妹って感じだ。

 というか、ちさりんがおとなしそうに見えるのが不思議だ。


「海でいちゃいちゃ出来ればいいのよねー、ちさりん?」

「ゆ、ゆ、祐子さん!」

「違ったー?」

「ち、違いますっ、今日はみんなで遊ぼうって。こないだのい、慰労会みたいな感じでその、だから」

「へーーーーーぇ」


 うろたえる千聡を眺めるのは楽しいが、それよりも慰労会なんて単語が飛び出したことにちょっと驚く自分。

 ただの言い逃れだとしても、確かにあの日はみんなにとって疲労の溜まる一日だったはずだ。それなのに当事者の俺は何か感謝の意を表しただろうか。たちまち自己嫌悪に襲われる。ここに俺はいていいのだろうか。


「はーいそこの彼氏、病人みたいな顔しない!」

「え?」


 一瞬、カレシという言葉に違和感を覚えたけど、振り向くと祐子さんはこっちを見てにやついている。からかわれて腹が立つほどなら、今ごろここにはいない。たぶん。あまりにも見透かされすぎて、なんだかどうでもよくなっている。


「いつでもどこでもぼーっとするのねぇ」

「特技ですから」


 一年前の千聡は俺を評して、判りにくい男だと言ったらしい。そんなどうでもいいことをわざわざ教えてくれた一年前の良も、やっぱりそう思っていたという。本当にどうでもいいけれど、思い出すと今度は腹が立ったから奴を睨んでみた。ちさりんの後ろでぼーっと立っている男は、その瞬間少しうろたえたようにみえた。

 その気になればいつだって丸裸にされてしまう。俺なんてその程度の人間だから、いつの間にか本当に丸裸にされて、そしていつの間にかえーことつき合っている。あれ?


「よしっ、とにかく今日は…」

「うるさい!、もうアンタの挨拶は終わり!」

「な、何ぃ、今からが大切な…」

「どうせ人の道がどうとかでしょ。いい加減エロオヤジの真似すんのやめなさい!」

「ぐぁ」


 中央では祐子さんと瀬場さんの漫才。

 なんだかんだ言っても、祐子さんは優しいよなぁ。


「とーにーかーく、バカと何とかは高い所に登るって言うし、そこのガキとテトラでも赤燈台でも登ってこい!」

「あ、赤燈台は遠いぞ、姉貴」

「………」


 しかしその漫才は意外な形で途切れた。

 啖呵を切ったポーズのまま、祐子さんは固まっている。さすがは弟、ここまでストレートなボケはなかなか出来るものではない。

 …ボケたわけじゃないという点はこの際忘れておこう。


「バカはほっときましょう、祐子さん」

「そうね、ちさりんは今日も可愛いわねー」

「………」


 そして再びちさりんの頭を撫でる祐子さん。撫でられやすい性格なんだろうか。どんな性格か判らないが、きっと俺みたいじゃないだろう。


「じゃあ確認」

「はーい」

「アンタら、どれぐらい泳げるわけ?」


 ようやく発せられた祐子さんの質問に、顔を見合わせる俺たち。ここは正確に返答すべきか、それとも見栄を張るべきか一瞬悩んだ人間が多かったに違いない。

 しかし、今から実際に泳ぐのだから嘘はすぐにばれる。それどころか、祐子さんに難題を突きつけられて強引にばらされる可能性もあるので、結局は正直に答えるしかない。

 俺と千聡と良と勝ピーはとりあえず二十五メートルプールなら問題なし。祐子さんは大学時代もプールで泳いでたらしく、百メートルは軽いと豪語。瀬場さんもついでに豪語したが誰も信用していない。そして、我が彼女えーこはまるでダメだ。相変わらず無言で首を振るばかり。

 ここまではだいたい予想通りだったが…。


「一人足りないけど」

「ショー!」

「…………………」


 ギターのないショーはただの田舎臭い高校生。

 まるでケンカに負けた犬のように落ち着かない視線だ。


「なんだショー、まさ…」

「まんずや、…んださげ泳がんねあだ」

「えーっ!?」


 容赦なく響くちさりんの声。いつも鉄面皮なショーが赤くなるのは珍しいが、ついでにえーこも肩を落とす。うーむ。


「カナヅチが二人もいるなんてねー」

「す、…すみません」

「身体だけなら水泳選手みたいなのにねー」

「………」


 祐子さんの発言に、俺たちは難しい対応を迫られる。文脈だけでいえばそれはショーを指す可能性もあるが、直前に発言したのはえーこである。うーむ、難しい…わけはない。あるかっ。

 俺たちなのか俺一人かはともかく、意識的に彼女の下半身は見ないようにしていた。何しろ祐子さんからは、着替えた上で集合との厳命が下っていたから、……要するにみんなすでに水着なのだ。太股露出済みなのだ。

 だから見ない対象は彼女だけではなく、ちさりんと祐子さんについても同じである。さらに言えば、一応はTシャツを着ている上半身だって安全ではないのだっ。

 ……うーむ。

 仕方ないので、目をそらして妄想でごまかすことにする。そもそも水泳選手みたいってどういう意味だろう。最初に浮かんだのは鼻栓だったのですぐに打ち消す。続いて、ちょっとマグロみたいな体型……は、まさかそんな身体なわけはなかろう。自転車通学でいつの間にか脚がムキムキになったら…、蹴られた時は痛いだろうな。


「ハンマーパンチは?」

「え…」


 ふと我に返ると、なんともいえない顔のえーこが祐子さんにいじめられていた。

 うーーーむ。

 彼女も判っているのだろう。妄想をやめさせたら、嫌でも俺はえーこの身体を直視しなきゃならないのだ。よーし気合だー! 燃えろー!


「祐子さんは勘違いしてます」

「そーお?」


 ぐっ。負けるな。


「お、俺は今、どうやってえーこを水に浮かせようかと必死なんです」

「そのわりには今噛んだじゃない」

「………」


 うっかり声をあげたら負けだ。かなり苦しかったが祐子さんの視線に耐える。ついでになぜか千聡の視線にも耐える。ちょっとかっこいいぜ。


「あ、あのー」

「え?」


 しかしそこで声をあげたのは彼女。思わず振り返ったら、その表情は妙に落ち着いている。


「ヒロくんはどうせスケベですから」

「わりとあからさまにスケベだから潔いかもね」

「はい」

「でも方々でニヤついてたら、そこのハゲみたいになっちゃうかもよー」

「………」


 なぜかここで俺は睨まれた。睨まれれば視線を逸らしてうつむくしかない。これは条件反射というやつだ。しかし、しかしだ。

 今さらだけどこの二人の会話はおかしい。絶対におかしい。状況を考えれば、えーこは俺以上に赤い顔で慌てるべきだ、なあ…と同意を求めようとしたが、誰もうなづいてくれそうにない。強いていえば瀬場さんぐらいだろうが、瀬場さんが同意するのは却ってまずい。


「じゃ、あんたたちは練習ね」

「お、俺もだが」

「当たり前でしょ!」


 ともかく一行は二つに分かれることになった。片方は泳いだり遊んだりなんか食ったりする班で、こちらは練習班。なぜか勝ピーもいる。ショーの先生役らしい。

 ちさりんは大方の予想通りビーチボールを持参していた。瀬場さんが空気を入れて、さっそく祐子さんに投げて…、自分が遊ぶのかよ。すぐに祐子さんに怒鳴られて、渋々といった表情で今度は良に投げる。

 風に流されたボールを追う良はひょろ長い。もう少し肉が欲しい。週刊誌に激ヤセとか書かれかねない。まぁ過去に太ってたわけでもないし、有名人でもないが。

 砂に足を取られながらボールを手にした良は、祐子さんに手招きされて波打際へ向かう。途中で瀬場さんとすれ違って、頭を下げている。どうやら瀬場さんは荷物番に指名されたようだ。ちょっと同情するけど顔ぶれを考えたら他に選択肢はないかも……って、実況してる場合か。

 慌てて振り返ると当然のようにムッとした顔で、彼女が屈伸運動中。いや、一応は自分も準備運動しながら眺めていたのだ。


「あれ、リボンは?」

「塩漬けになったらいいことある?」

「いえ、ありません」

「うん」


 刺々しい返答。なんというか、いつもと同じだ。今日の俺は先生だったはずだ…。

 溜め息をついて、ラジオ体操の真似事に従事する。視界の端では勝彦も体操。時々妙なポーズをとる。きっとヤツは、ハワイかサイパンあたりにでもいるつもりなのだろう。バカバカしくて冷静になっていく。

 えーこは控えめに体を動かす。冷静になって眺めたらやっぱり水泳選手って感じじゃない。けどやっぱり……足長いな。いかん、見過ぎた。さぁ特訓だぜ!


「ハックン、始めるぜ!」

「おう」


 相変わらずサイパンな勝彦が、右手を突き上げながら水際へ走る。東南アジアで非業の死を遂げたレスラーの真似ではなく、おそらくはキングオブラリアート一号か二号だろう。さすがに一緒にはいたくないから、ゆっくりと距離をとって後を追う自分。

 この海水浴場は元から砂浜だったらしいけど、今は沖にテトラを並べて砂をためている。遠目にはちょっと狭苦しい。もっとも、学校のプールよりでかけりゃ一緒って気もする。どうせたいした距離は泳げない…どころか、まったく泳げない!

 ……強調するようなことではないな。やれやれ。

 生ぬるい水に触れる。もっと南の海水浴場の方が遠浅だが、ここだってそれなりの水深が続く。十メートルぐらい進んでも、へその下あたりまでしか水は届かない。どこまで行けるのか確認しないと泳ぐには不都合だよな……と思ったが、今はどうせ泳ぐわけでもない――しつこい――ので、先を行く勝ピーを呼び止めて、自分も反転する。つーか、ヤツはどこまで行くつもりだったんだ?


「本当に今から勝彦先生なのか?」

「決まってんだろハックン!」

「…それ、なんだ?」

「決まってんだろ、フィーバーだ!」


 それ以上会話を交わす気になれず、改めて岸に体をむき直して、無言で手招き。

 視線の先には、俺たちをほぼ直立不動で眺めていたらしいえーこがいる。ショーは………………、しゃがんで砂を掘っていた。ガキだ。


「…………」


 えーこは何か口を動かしていたけど、残念ながら聞こえない。波や風の音、そして周囲で騒ぐ人々。そう大きくはない彼女の声が届くわけはなかった。

 仕方なくホーガンの真似――武藤でもいいが――をして、もう一度手招き。少しの間をおいて、えーこはゆっくり動き出す。遠目に見てもかなり小さな歩幅で波打ち際に足を踏み出し、前進すること一メートル、膝上ぐらいの水位でもう笑顔がひきつっている。うーむ。

 これであの顔じゃ、学校のプールなんて地獄だろう。あまりに深刻な顔で誰も近づけないレベルかも………って、ここで妄想してる場合ではない。やれやれ。


「ショー、どうした」

「あー…」


 そこに勝彦の声。振り向くと、ショーは未だ穴を掘っている。一応顔だけはこちらを向けているのだが、しゃがんだまま動く気配はない。

 カメのようなスピードのえーこですら中間地点にいるというのに、なんてだらしないヤツなんだ。まずは二人にバタ足でも……と穏当な策を練っていたのだが、もっと厳しくいくべきかも知れない。いや、いくべきだ。


「早く来い、ショー!」

「や、やばちぐなっさげ」

「なにぃ!?」


 やばちい? アホか。海パン姿で濡れて困る奴がどこにいるのだっ!

 ほとんど俺は無意識のうちに、ザバザバと飛沫を上げながらえーこの側を通り抜け、ショーの元へ駆け寄っていた。


「ぐだぐだ言ってねーでさっさと入りやがれ!」

「まんずごしゃぐな……で、引っ張んな~!」


 わめくショーの後ろに回って送り出し……と思ったら身体を入れ替えようとする。この期に及んでまだ抵抗するか。バックの取り合いから腰に手を回し、頭をつけて押し込む。押し出しというかスピアーだ。気分は新日の筋肉バカだ。普通に立ってられる深さなんだからごちゃごちゃ言うなって感じなんだが――。


「わー、やめっちゃやめっちゃー、溺れんでねがー!!」

「やかましい! こんな場所で溺れるかバカ!」

「やめっちゃーやめっちゃー!」


 いかん、完全にパニくってるぞ。膝上ぐらいまでしか浸かってないのにバタバタ暴れるばかり。これは一度体勢を立て直さねば。

 左右に激しく振られながら、なんとかショーの身体を波打際に放り投げる。自分の手で砂を掴んだ奴はようやく静かになって、まるで蟹のように這ったまま砂地を登っていった。

 はぁ。

 ため息をついて、ふと振り返ると視線が合ってしまう。

 ……………。

 そこには不信感をありありと漂わせた彼女がいた。ヤバい。


「えーと」

「……泳ぐのは次回にします」

「ま、待て! 結論を急いではいけない」

「だって…」


 うー、参ったな。

 すっかり夢中になっていた自分も、もしかしたらバカなんじゃなかろうか。


「えーこちゃんは水が怖いか?」

「え?、……つ、浸かるだけなら別に」


 しかし、返答に窮していたら勝ピーの声。

 不意を衝かれたのは彼女も同じで、妙に冷静な答えを返した。


「なら大丈夫だろ。ハックンは切れやすい若者だから困るよなー」

「え……、はい」


 予想外の展開とはいえ、ここを逃がすわけにはいかない。肩をぐるっと回して気合いを入れる。


「俺も反省した。無理矢理引きずり込まないと約束するから」

「それは当たり前です」

「よし、誓いのフィーバーだぜ!」

「だからなんでフィーバーなんだ」

「ハックン!、まさか郷土の星を忘れたのかっ!」


 まさかも何も忘れていたが、指摘されて思い出してしまった。どっと疲れが出る。

 しかしこの状況はすでに逃れられないということだろう。仕方なく俺は片腕を突き上げてポーズをとる。友だち思いの勝ピーも、しっかり隣でポーズ。その立ち位置は膝上程度の水深なので、周囲に丸見えだった。人間は異様なものを見たら目を背けるはずだと自分に言い聞かせるしかなかった。

 ようやく腕を下ろして、彼女の機嫌をうかがう。

 と、彼女は口を半開きにしたままこちらを見ていた。そして俺の視線に気づき、ちょっとひきつった笑顔で頷いてくれた。その笑顔はしかし、水深数十センチの頃より自然にみえた。


「じゃあ始めるか、えー…」

「それじゃあ気を取り直して特訓しましょう、ショーくん」

「ぅあ…」


 …………。

 相変わらず蟹のポーズで様子をうかがっていたショーは、思いっきり動揺している。えーこはあんまり優しくないかもな。


「とにかく悪いがショーは頼んだ。一緒にやるわけにもいかねーし」

「ふ、俺様にかかれば誰でもカエルのように…」

「あーわかったわかった」


 人間がカエルのように泳いで嬉しいか、とツッコむのはやめる。どうせショーは細かいことなんて判ってない――まだ放心状態だ――のだから、なかったことにするのが一番だし、もしかしたら勝ピー様から怒濤の反論がありそうなのも嫌だ。

 陸に向かう勝彦を見送って、それからぐっと彼女に向き直る。

 二人きり。

 いやまぁ、視界に入るだけでも相当な人数って状況だけど、それでもなんだか願ってもないシチュエーションになった気がする。ちょっと困って頭を掻いたら、彼女も苦笑い。

 いくらなんでも、水に慣れるまでが大変そうなショーに、既に海の中にいる彼女をつき合わせるわけにはいかない。だから二つに分かれたのは仕方ないし、だいたい分かれたといってもすぐ近くにいるのだから特別に意識する必要もない。おかしなことが出来るわけでもない。けどやっぱり意識する。するに決まっている。なんたって公衆の面前で手をつなぐんだから。


「えーと、じゃよろしく。ひろちゃん先生」

「……その呼び名おかしくないか?」

「そんなことないでしょ。可愛いから」

「…………」


 時々よく判らないんだよな、可愛いって基準が。

 とにかく今はギラギラ照り返す炎天下の海水浴場。時間は午前十時半ぐらい。俺は岸の方を向いて、両腕を水面近くでのばす。彼女はそっとその手を握って、ちょっと躊躇してからばた足ポーズ。

 ………………。

 重い。彼女の体重というより、波に揺られるのがなかなか重労働だ。やっぱりこういうのは大人と子どもでやるべきなのでは…。


「ばた足は学校でもやってんのか?」

「うん、一応…」


 逆光で半分隠された、曖昧な笑顔。たぶんほとんどやってないと見た。数回あった水泳の授業のうち、何度まともに水を浴びたやら。

 ちょっと呆れて視線をずらすと、勝ピーがショーと穴を掘っている。高校まで泳げないってのは大変なことのようだ。


「脚を曲げると意味ないぞ」

「うん…」


 初めて先生らしい指摘をしてみる。

 俺は小学三年まで泳げなかった。そこで父親に温水プールへ連行されたわけだが、やはり最初は脚をのばせと言われた記憶がある。実際、膝下でばしゃばしゃやったって効果はないのだし、これは直さねばならない。

 えーこは少し困った顔で、練習再開。今度はかなり強く腕を引っ張られる。ばた足が弱すぎて波に流されるのだ。重い。正直、手をつないで嬉しいとかいう状況ではなくなっている。


「ひろちゃん」

「ん?」

「このまま手が離れたら、どこか流される?」

「えーこは沈むんだろ」

「ぶー」


 それでも何度か繰り返すうちに余裕が出来たのか、どうでもいい――というより思いっきり甘えた顔。可愛いけどこんな公衆の面前ではやめてほしいものだ。

 まぁいいさ。余裕があるなら次へ進め。よそ見するふりしてさっと片腕を離してみる。


「あっ」

「今は邪念を払って練習だ、オガエツさん」

「はーい、山ちゃん」


 勢いで懐かしの呼び名まで飛び出すが、彼女の返事は微妙にずれている。さすがにヤマヒロはとっさに出ないか。

 …けど、聞き慣れていたはずの山ちゃんも、どこか違う気がする。一ヶ月あれば二人の仲なんて跡形もなく変化する。きっとえーこは泳げるようになる。ちょっと強引だ。


「じゃあ俺の胸に飛び込んで来い」

「みっともないポーズはやめて」

「…すまん」


 判りやすくフィーバーなポーズを決めたのに、彼女は冷たい。プロレスに理解のない彼女と、いつか性格の不一致が表面化するかも知れない。それ以前にフィーバーのどこがプロレスだと突っ込まれそうだが、これは間違いなくプロレスだ。もう引退しちゃったけど、隣の市生まれでこの町の高校に通った有名レスラーの決めポーズなのだ。勝彦はきっとそっちの高校に行きたかったに違いないのだっ。

 ………何を熱弁をふるっているのだ俺は。さっきまできれいに忘れていたというのに。

 気を取り直して再び岸に向かって立つ。不規則な高さの波が進む少し離れた位置から、えーこは俺の胸…ではなく腕をめがけてジャンプする。最初は泳ぐまでもなく届く距離。それから少しずつ離れて。

 本当はプールの方がいいんだがな。俺の身体なんてプールの壁に比べりゃ小さいから、もしかしたら斜めに行き過ぎてしまうかも知れない。


「ひろちゃん」

「え?」

「ぼーっとしないでね」

「お、おぅ」


 いかんな。待ち受ける俺が見てないんじゃ話にならないぞ。

 無理矢理両腕をぐるぐる回し、手四つのポーズをとる。えーこは少し困った顔で後退していく。別に嫌がってるわけじゃなく、距離をとっているだけだ。おそらくは。


「よーし、行くぞーーーっ!」

「黙って立ってて」

「すまん」


 もしかして俺は不真面目なのかも。黙って彼女の動きを追うことにしよう。

 えーこはゆっくりと顔を水面に沈め、両手を前方に伸ばしてそれから弾みをつける。子どもでも届きそうな距離だから、弾みをつけた直後には俺の手に到達する。顔を出した彼女は……、びっくりするほど近かった。


「………」

「もう少し離れないと」

「うん…」


 濡れた髪のえーこも可愛いな…って、今は邪念を払うのだ。エロイムエッサイム。

 今度はさっきより数歩後ろに下がったと、自己申告の彼女。海の中での数歩なんてちっとも正確じゃないし、見た感じではあんまり変わってないように思えたから、軽く首を傾げてみる。ちょっと困った顔の彼女はきょろきょろと辺りを見回して、さらに数歩下がった。

 後方には勝ピーの姿。波打際でしゃがむショーは相変わらずだが、その足元に波が打ちつけているようだ。多少は近づいたってことなんだろうが、気の遠くなる話。勝彦に同情してしまう。


「よろしく」

「おう、どっからでもかかって来い」

「ベルトは当分用意しなくていいと思う」

「いーや、そうとも限らん。一寸先はや…」

「………」

「冗談だって」


 さっきと同じ所作。少し離れた位置からは、波に揺れる身体が気になる。

 水深はへそより少し上。ただし彼女はワンピースだからへそが見えない。従って正確な位置は判らないが、それは別に突き出た腹を隠すためではないから非難されることでもない……って、なんでレスラーのタイツの話なんだ。

 ぼんやりしてる内に彼女がこっちに向かって来る。今度はばた足なしでは届かないが、水しぶきは一度上がっただけだ。


「なぁ」

「ん?」

「ほとんど沈んでたな」

「…………」


 何度も言うことじゃないが、象だって水に浮く。単に最初のキックが弱かっただけ。

 彼女はまた離れて、そして近付く。さっきより少し強く、水しぶきを数回あげて。


「ひろちゃん先生」

「何かねえーこ君」

「なんか泳げそうな気がする」

「気が早い」


 濡れた長い髪の彼女は、言うまでもなく今日初めて見た姿。怪談モノならワカメか昆布かぶってるよなぁ、と良からぬ妄想でぼんやりしてるうちに、さらに離れた位置からばた足えーこ。しかしその軌道はゆがんでいく。

 ヤバいのでは?

 慌てて近寄ると、彼女はいきなり顔を上げた。その表情は明らかに慌てていた。


「調子に乗ってはいけないってことだ」

「うん…」


 これだって泳いだっていえば泳いだことになる。息継ぎを教えるのは欲張りだろうし、まずは五メートルでもまっすぐ泳ぐことを目指そう。

 それにしても、十五年以上カナヅチを通してきた頑固者にしては上達が早い気がする。いやまぁ、この程度で上達というのかはともかく。


「ちょっと休むか。瀬場さんに悪いし」

「あ、うん」


 欲張らない程度に練習して、浜に戻る途中でショーを目撃した。その足首が水に浸かっている。大事件…………なんだろう、たぶん。


「瀬場さん、代わりますよ」

「おーやっと来たか、いい加減女の…」


 半ば無意識に大きく咳払いすると、瀬場さんは頭を掻きながら海へ向かった。

 何というか、実に予想通りの人だな。溜め息をついて座ったレジャーシートは見覚えのある絵柄だ。ようやく本来の用途で使われているわけだ。


「ひろちゃんは祐子さんと遊びたいでしょ」

「先生するのも面白い」

「不真面目な先生だ」


 いつかと似たような距離で座る。荷物があるから、狭いのは仕方ない。祐子さんと千聡も持ってきてるらしいが、一人一枚ってのも変だし。

 陽射しはさっきより高く、特にパラソルのようなもののない浜辺はとにかく暑い。俺はバスタオルを頭にかぶって、えーこは……白い帽子。


「初めて見る顔だ」

「似合わない?」

「に、似合ってる」


 その質問で俺が否定出来るわけないだろう、と思うけど黙って褒めておく。どんな格好だろうが、えーこは可愛い。結論は最初から決まっているのだ。

 ……………。

 思わず赤面した。


「ねぇヒロくん」

「ん?」

「ゴロウはいなかった?」


 海水浴場を見渡す位置で、二人並ぶ。家族連れが多い。大声で騒ぐのは子どもの権利だと俺は思う。

 じいさんは俺が泣き叫ぶといつも怒鳴りだして、だからなんとなく俺は怯えていた。怯えたって声は出るから同じことを繰り返し、やがてじいさんは倒れた。


「こんなところで遊んでるのか」

「村の英雄だって泳ぐんじゃない?」

「カナヅチだったらどうする」

「……か、かき氷とか」


 ツルとゴロウは別に水が好きなわけじゃないだろう。嫌になるほど飲んでしまって、もう飽き飽きしてるような気がしてならない。

 ゴリゴリと肩を回して、その音を意味もなく確認する。周囲で騒ぐガキに半分かき消されて……と思ったら、聞こえてくるのは子どもの声ではなく、非常に聞き慣れた叫びだった。ショーという人間の泳ぐ日は、奴の生きてるうちにやってくるのか微妙である。


「私は……」


 白い帽子の長いひだに隠されて、彼女の顔はほとんど見えない。

 なんかそんな景色がいかにも夏って気がする。なぜだろう。


「本当にツルさんにふさわしかったのかな、と思う」

「ふさわしい?」


 ふと足元が気になった。投げ出した美しくもない俺の両脚は、じりじりと熱線にさらされている。いつか火がつきそうな暑さ。

 乾いた砂を払う。さっきまでは黒ずんだものが白くなって、周囲と同化してその姿を消した。


「私にはツルのような悩みもないし、傷ついたこともないし」

「そんな理由だったら、俺にゴロウが取り憑くわけがない」

「そう?、本当は隠してる…」

「隠し通せる性格だと思うか?」

「ううん」

「………」


 あり得ない話。

 親兄弟を殺されたり、好きな相手と入水するような人間を探して取り憑いたのなら、確かに憑かれた奴も納得出来るかも知れないが、この国でそういう人間を探すのは並大抵の苦労ではない。

 じゃあなんだ。ツルやゴロウは面倒くさいからえーこや俺なのか。


「笑わないでね」

「それはどうなるか判らない」

「……ツルさんには、祐子さんの方が合ってる気がする」

「………」


 笑いはしない。どこにも笑える要素はないが、かといって反応のしようがない。

 えーこは真剣だ。それは判るから、困った挙げ句に浜辺を見回す。祐子さんは瀬場さんとビーチボールで遊んでいる。その姿は……、やっぱり美人だと思う。


「それじゃあ」

「え?」


 瀬場さんの隣にはちさりん。対角線上の良はイヤらしい顔に見える。実は神社より海の方がいいのかも知れない。さすがはムッツリスケベだ。


「俺は祐子さんを好きになるわけか」

「それは…、困るんですけど」


 他愛のない話題。勝ピーに聞かれたら洒落にならないが。

 やがて噂のちさりんとムッツリスケベがやって来た。千聡の顔がテカっている。なんか不気味だけど口にはしない。我ながら成長したものだ。


「なんか食べようって話もあるけど、どうする?」

「冷たいものなら喜んで食うぞ」

「買いに行けって言ってんの、バカ」


 そんなことぐらい判るわい。

 ちさりんの機嫌が良すぎて腹が立つ。仕方ないから良でもからかうか。


「二人で行けばいいのか?」

「まさか!」


 ちさりんの大声が響いた後ろに、祐子さんもいた。ついでに瀬場さんも。要するに全員休憩のようだ。


「ヒロピーに任せたら何買って来るかわかんないでしょ、ねぇ」

「それはそうかも」

「納得するなよ」


 結局は、いつでも裏切ってくれる素敵な彼女と千聡と、四人で仲良くけんか…じゃなくて買い物だ。まぁ二人じゃ全員の分は持てないんだから当然だ……ということにしておきたい。


「良」

「おぅ」

「お前も信用されてないってことだよな」

「…おぅ」


 正直、奇をてらおうにもこんな場所での選択肢なんてたかが知れている。この炎天下にイカ焼きは買わないし、かき氷に醤油をかけたりもしない。当然だ。

 …自慢することじゃないな。肩を回して、せっかくだからポーズをとろうと思ったら、三人は遠く離れていた。上半身裸の連中がたむろする、ここは異世界。宇宙人が最初に見た景色がこれだったら、驚いてくれるだろうか。


「並んでるじゃねーか」

「逃げるなヒロピー!」

「いや、他の店を探そ…」

「あるかっ!」


 せっかく追い付いたのに、親に怒鳴られたガキのように顔を下げる。俺は悲しい。いや、俺はそこまで罵倒されるようなことをやったのだろうか。果てしなく疑念は広がる。そして俺はぐれる。反抗期に突入する。


「ヒロくんは飽きっぽいの?」

「並んでるとすぐ逃げるし、混んでると嫌がるし面倒くさいのなんのって」

「そ、それっておかしいか、良だって逃げるだろ?」

「え、……いや、いいものなら待ってでもた、食べたい」


 当然のように良の目は泳いでいる。さすが海水浴は違う……わけあるか。この裏切り者め。

 なんだかんだ言って、良はちさりんのいいなりだ。主体性のない奴だ。大人になれない奴だ。こんな奴をしっかり者だと思って近づく女の気が知れない。

 …………。

 千聡は最初から、良がダメな奴だと見抜いていた。だから、格好つけたがりの奴とのつき合いには困難が伴うことも、じゅうぶん計算の上だったはず。計算したぐらいでどうにかなるわけじゃないし、だいいちその結果として俺に助力を頼むってのが間違ってるけどな。

 千聡とえーこが相談して、決まったのはただのかき氷。何のために相談したのかよく判らない安易な選択だったが、千聡は出来た順番にいちいち誰に渡せと指定し始める。最初のいくつかを良が、その後を俺が運んでいく。

 安っぽいカップの氷は、見たところ緑と赤ばかりだ。俺は秘かにブルーハワイを狙っていたが、えーこに赤いのを指定されてしまう。赤いのっていうか、伝統的ないちごだ。おそらくタバスコではない。

 ブルーハワイって実に謎なネーミングでいいじゃないか。それに今日は自称ハワイ王もいることだし…とぶつぶつつぶやこうにも相手がいないから困る。仕方なくしかめっ面のまま走って行き、緑のやつを手渡すと、ハワイ王はちょっと首を傾げた。

 浜辺で砂遊びばかりしたおかげで、ハワイ王はかなりいい色に焼けつつある。黒というか真っ赤になるに違いない。


「ひゃっこいのー」

「ショーは泳げるようになった?」

「まんずひゃっこぐでかいねのー」


 祐子さんは聞くまでもないことを尋問しながら緑の氷を食べる。瀬場さんも緑、ショーは赤で良は緑。やがて到着した二人はそろって赤だ。


「で、なんか意味あんのか?」

「別にぃ」


 二人は意味深な表情で笑う。毒が入ってるわけじゃないよな。

 炎天下のもとで、氷はあっという間に溶ける。既に二人が到着した時点で、勝ピーや瀬場さんのカップは空だったし。俺もほとんど食べ終わっていた。

 一応、俺は彼女が来るまで食べずにいようかと考えたのだ。先に食えと、えーこに何度も念押しされたのでやむなく食べたのである。うむ。


「えーこは?」

「え?」

「泳げるようになった?」

「……えーと」


 プラスチックのスプーンをくわえたまま、彼女が苦笑いでこちらを見た。

 しかし助けを求められても、あくまで自己申告が基本である。黙ったままちょっと首を傾げて、俺はカップの水を飲み干した。もう氷は溶けきっていた。


「少しは……、浮いたような気がします」

「息継ぎはまだ先?」

「そこまではたぶん無理じゃないかと…」

「ふーん、水に顔つけられたのかぁ」

「………」


 千聡の何気ない一言に一瞬沈黙がはしる。

 いや、俺はもう判っているが。あれだけ顔を引きつらせていたのだから、これまでの状況なんて容易に想像がつく。要するに、モボショーのレベルと大差なかったわけだ。恐ろしい話だ。


「そこのハゲも練習した方がいいんじゃなーい?」

「な、なんだと祐子。カナヅチと一緒にしやがんな」

「…すみません」

「あ、いやだからそういう意味じゃねーんだ、な?」


 祐子さんはTシャツを着て頭にバスタオル。女性は日焼けしてはいけないと、去年千聡に教えられた。神社巡りは地味だが確実に焼けるのに、良はちっとも配慮しなかったのだ。

 隣の瀬場さんはほっかむりして鼻の下で結ぶ。これはギャグなんだと思いたい。

 ハワイ、もしくはサイパンな男は遠くでバスタオル。姉弟で同じ格好だ。きっとタオルは祐子さんが用意したんだろうが、祐子さんもちょっとレスラーっぽく見えてきた。これは危険だ。


「このハゲ、ほとんど泳いでないって気づいてるー?」

「それはたまたまだ。荷物番…」

「へーぇ、高校三年間で一度しか海行ってないのは誰だっけー?」

「グァッ、それを言いやがんな祐子」


 三年で一度だけ? 意外な感じがして思わず周囲を見回すと、みんなきょろきょろしていた。そんな様子を確認する祐子さんは、すごく楽しそうだ。


「次は焼きそば?」

「うどんより焼きそばです!」

「ちさりんはハキハキしていい生徒ねぇ」


 単に計画性がないだけって気もしたが、そのまま一行はさっきの店に移動。そして焼きそばを食べながら、ちょっとの間の昔話がはじまった。

 今を去ること数年前、夏休みの地研はとにかく忙しかったという。現地の聞き取り調査が最低四度はあって、その準備と整理で毎日のように部室に籠る。だから海に遊びに行く余裕なんてなかった……と、ここまでは瀬場さんが力説。しゃべるとソバが飛び散るのもお約束だ。

 ところが、訪問先の一つは海沿いで、調査が終わるといつもみんなで泳いでいたと、祐子さんがさらっとフォロー。いや、フォローじゃないぞ。


「でさぁ、このハゲが海で泳がない理由は」

「ガッ、言うな!、言うんじゃねぇ!」

「日焼けするのが嫌だからって」

「えーーーーーっ!」


 響くのはちさりんの叫び声。思わず見つめてしまった瀬場さんの腕は、毛むくじゃらだけど思ったより黒くはなかった。

 …………。

 深い意味でもあるのかと悩んでみる。肌が弱いとか……。


「自称シチーボーイね、シチー、シティじゃないから」

「おらほさもいっだぞ」

「そうそう、都会に多いのよねー」

「………」


 なんかちょっと瀬場さんがかわいそうになってきた。といいつつ顔が笑っているのは内緒だけどな。そうかぁ、シチーボーイなのか。

 モボショーが急に元気になったのが笑える。うちの親戚もシチーって発音してたなぁ。


「でさぁ、脱毛失敗したのって二年の時だっけ?」

「あーそうだ、そうだよそうですよー」


 その後も瀬場さんへの攻撃は続いた。祐子さんのしゃべりがうまいから、バカバカしいのに聞き入ってしまう。すごい才能だと思う。

 …………。

 というか、気をつけないと俺もどんどんネタにされていくのでは? さっさと良を生け贄に差し出しておくべきだな。


「で、まだ帰らないでしょ?、ちさりん」

「もちろんです!」


 見え見えの芝居で再び一行はバラバラになる。今度は頼まれる前からショーが荷物番のポジションだ。勝彦先生は仕方ないといった表情で、姉の後を追う。

 ショーの一生のなかで、もしかしたら今日が唯一塩水で体を濡らした経験になるかも知れない。海パンがその名の通りに使用された、ただ一度の機会をこの目で見るなんてすごいぜ。しかも俺はそれを演出した一人なのだ。わんだほーだ。


「ヒロくんも荷物番?」

「え、い、いや、たぶん違う」


 おっと。どうでもいいことで興奮してしまった。

 妄想を気づかれないよう、ストレッチみたいなポーズで頭を上げたら、そこにはどこかで見た顔があった。

 ……………。


「感想は?」

「懐かしいって言えばいいのか?」

「さぁ」


 並んで水際へ向かう彼女は、思いっきり後ろで髪を束ねている。

 つまりそれは、俺が初めて見た時の姿だった。


「こうすると邪魔にならないから」

「それはなんとなく判る」


 ネガティブえーこの象徴みたいなこの髪型も、最初からそういう意図で生まれたわけではないってことなんだろう。しみじみと昔を思い出しつつ、見入ってしまう。気づいた時には、立ち止まって苦笑いする彼女がいた。

 急に照れくさくなって、意味もなくラジオ体操を始める。視界の先にはビーチボール。受け損ねたちさりんが大声を出して、隣でその彼氏が笑っている。なんだか恥ずかしいなぁと思ったけど、見つめ合って赤面する俺たちの方が遙かに恥ずかしいに違いない。


「えーこはいけそうか? 海の中で…」

「泳がずに済むなら大丈夫」

「そりゃ良かった」

「…ひろちゃんと一緒だったら」


 からかってるんだろうか、と火照った顔で彼女の表情を追えば、同じぐらい火照ったえーこ。今なら陽射しが強いから、どんな顔したってごまかせる。えーこの場合、人前でも言いそうなのが怖いけどな。

 さて。目の前では再びちさりんの悲鳴。

 水深数十センチの波に揺られて、ビーチボールを使って普通の人は何をやるのか判らないけど、どうも我々の知る人々は互いにぶつけ合う遊びに使用するらしい。ドッジボールみたいなものだが、ルールはない。バーリトゥードってやつだ。


「えーこ!」

「え?」


 確認するまでもなく、彼女の肩にボールが当たる。投げたのは祐子さん、なかなか速くて正確なボールだった…と感心していいんだろうか。


「ぐぁっ!」

「やった」

「あのなぁ…」


 やはり感心してはいけなかった。つーか、えーこはよりによって俺に投げやがった。

 まだ海に足を踏み入れたばかりだから、ほとんど隣り合った距離である。どこの世界にそんな近場を狙う者がいるだろうか。まったく嘆かわしい。


「………」


 とはいえ今度は俺にチャンスが回ってきたわけだ。

 パンパンに膨れたボールを手に、各戦闘員の配置を確認する。最初に目があった瀬場さんには、思いっきり睨まれた。次に祐子さん。身構えている。どうやらこの二人は本気だ。

 千聡は疑心暗鬼な表情。日頃の関係を考えれば、なるほど俺が真っ先に狙うにふさわしい。しかし俺様の狙いは最初から決まっていた。そこだっ!


「いてっ」

「ふっ、相変わらず鈍い奴だ」


 ターゲットは良、唐川良。むっつりスケベを制裁だ……って、今度は俺が狙われるじゃねーか。なんて無駄にスリリングな遊びなんだ。

 良は数秒悩んで勝彦を狙うが、勝彦キャッチ。というか風に流された。どっちにしても、奴は俺と勝ピーしか狙えないような気がする。さっきまでは誰をターゲットにしてたんだろうか。

 勝ピーはまた妙なポーズをとってから、瀬場さん。判りやすい選択だ。瀬場さんはそれでもがっちりキャッチ、間髪入れずに投げる。


「ぎゃーっ!」

「くく、ちさりんは鈍いっ」

「威張るなハゲ」


 うーむ。やはりちさりんは得がたいオモチャだ。残念ながら俺はどっちかといえばちさりんのオモチャなわけだが。

 延々繰り返される遊び。少しずつ肌を焼きながら、いつか筋肉痛を覚えながら、俺はボールを投げる。勇気を出して祐子さんにも投げる。そして逆襲を喰らう。ああ、これって青春だ。ハワイ王だ。日焼けサロンは不健康だ。

 それにしても、一番気合いが入ってる瀬場さんが日焼け嫌いってのはまるで理解出来ない。というか、今は気にしてる様子すらない。

 もしかしたら、日焼けは瀬場さんのギャグなのでは? 祐子さんなら、渾身のギャグを真に受けたふりするぐらい朝飯前だ。うむ、ちょっと可哀相に思えてき……。


「…………」

「最後はお約束ってわけね」


 思いっきり側頭部に当たって、一瞬眩暈がする。

 犯人は言うまでもない。なぜならその刺激は海に漂うボールの気まぐれなんだ。


「少し泳いでから上がる?」

「はーい」


 逃げ道なら方々にある。どこまでも慎重に、そして大胆に君は侵入を企てる。僕は飽き飽きしたって表情で、だけど緊張感だけは忘れずに後を追う。

 視界の先はシンプルを極めていた。

 今なら懐かしい感触だって手の届く先にある。僕ははしゃごうとして、だけど君は一言もしゃべらずに進んでいく。このままじゃ、僕だけおいてけぼりだ。


「ひろちゃん、泳いできたら?」

「一度だけ練習するか?」

「え?」

「リレーみたいな感じで」


 やがて紺色の蠢くものが透き通り始めた。

 つかまえようとすれば消えてしまう白を横目に、確かに僕は君を追っていた。


「…泳いだって言える?」

「強いていえば流されたってとこだ」

「じゃあ次はひろちゃん」

「おう」


 何度も押し返されながら、近づいてると思いこんでいた。

 それはたやすいことで、ただ僕らには勇気がなかったと思っていた。

 この身体を翻弄する透き通ったものを、僕は見たことがあった。僕にはこの透き通ったものを覗いた記憶があった。それは他愛のない記憶。憶えているだけの価値すらない昔。

 昔の僕。

 昔の君。

 それは二人の漂う身体。

 君はいつの間にか遠くにいて、次の瞬間には手をつないで、それから僕を見下ろした。

 何かが流れ込む感覚。

 何か?


「…別に見てなくたっていいだろ」

「ちゃんと泳げるって確認したかったから」

「泳いでただろ?」

「流されただけってことは?」


 違う。 それは今僕らが漂うもの。僕らの身体だったもの。僕らは近づいてると思っていたもの。

 何かを思い出すことは、何かを捨てることだ。僕らの平穏な日々。僕らの過ごしてきた、二人だけの時間。すべてを捨てるしかない。絶望。ああ、これも思い出す感覚。

 思い出したくないものはただ、二人じゃなかった日々の記憶。


「場所わかる?」

「農協んとこですよね」


 陽射しが真上から少し傾いた頃、ショーとえーこの水泳教習会は終了した。言うまでもなく、焼きそばを食った後のショーは、じっと荷物番の仕事をこなしていた。

 売店横のシャワーへ向かう。屋根も何もないシャワーは、ちょろちょろとしか水が出ないが、それでも体の塩分を流すぐらいなら余裕だ。


「今時農協って、ここのハゲだって言わな…」

「なしてだ。農協だば農協て呼ぶんでろ」

「あーわかったわかった」


 着替えが終わったところで時計を見る――良の腕時計を覗く――と、既に午後三時近くを指していた。

 涼しいところへ行きたい、と提案したのは祐子さん。もちろん俺たちが反対するはずはなく、さっそく近くの喫茶店へ向かうことになった。農協スーパーの近くにある店は、もちろんえーこも知ってるらしい。入ったことはないようだが。


「で、ヒロピーって迷うんじゃなかった?」

「農協ぐらいで迷いません」

「しつこいわねー」


 農協は農協だ。意味もなくショーに親近感を抱きつつ、自転車にまたがる。またがった瞬間に熱さが身体を駆け抜けるが、ここは我慢だ。当たり前だ。

 自転車組はちさりん、良と俺。ちょっと懐かしい組み合わせだ。ぶつぶつと人を信用しない千聡の声までも懐かしい……わけあるかよ。

 アスファルトの地面は照り返しがきつい。エアコンの室外機の前にいるみたいな熱風を浴びながら、町並みを抜ける。

 海に近い辺りは古い集落で、やがて新興住宅地に変わる。三人で出掛ける時は、そういう境目でよく迷った。道路がつながってなくて引き返すと、良は何も言わないがもう一人の文句を聞くことになる。いつも小声でぶつぶつと。


「良」

「…なんだ?」

「ここは何か調べたか?」

「ん…」


 十万都市の起源となった場所。それと今の町並みにどれほど関係があるかなんて判らない。砂嵐を避けて対岸へ渡ってしまったのなら、その時点でここは用済みって気もする。


「少なくとも、沓喰五郎の伝説はない」

「でも藤原氏の残党は来たんだろ」

「ヒロは知っていたんだったな…」

「まぁ一応は」


 小さな集落はあっと言う間に終わり、目の前にスーパーの看板が見える。

 そういや、ここの農協は頑固らしい。親がそういうだけで、どういう意味なのかは考えたこともない。


「良はまだ、あれを俺がしゃべったと思ってんのか」

「い、いや、そういうわけじゃない」

「あの場では納得出来たけどさー」


 唐突にちさりんが声をあげた時、自転車は農協の角でいったん停止していた。目的地は見える範囲にあるらしい…と、あっさり発見。余裕だ。


「しみじみ考えるとおかしいでしょ、やっぱり」

「今さらそんなこと力説するな」

「今さらって、これからもっと納得いかなくなる…って聞いてんのヒロピー!」


 鉄筋二階建ての二階が喫茶店。手前の駐車スペースには見慣れた車がいた。正解だ。

 わめく女を放って自転車を止め、外側にある階段を登る。どう言われようと、起きた出来事は起きたまま理解してもらうしかない。ちさりんの疑念がいくらふくらもうと、俺にあんな物語が語れるわけはないのだ。たとえ台本を誰かが用意していたとしても、覚えるなんて無理だ。残念ながらその点は自信がある。


「空いてるとこ座って」

「はーい」


 店内に入ると祐子さんが立って手招きしていた。的確に下された指示に、いつもの妹声で答えたのは千聡だったが、足が止まっている。

 それもそうだ。

 ガラス張りで明るい喫茶店の窓際に、車組はすでに座っている。テーブルをくっつけて、一部は長椅子だけど俺たち三人のスペースもちゃんと用意されている。いるのだが、空いてる位置が妙なのだ。

 瀬場さんとショーの間に一つ。向かい側は勝彦の両側が空いてるが、片方は祐子さんと挟まれる。三人ともバラバラに、しかも脈絡のなさそうな席に座るしかない。

 ちらっと彼女を確認する。黙って苦笑いのえーこは瀬場さんの隣で、端っこ。向かいは祐子さんだから、絶対に隣の席には座れない。仕方ないな…。


「あーっ!」

「なぁに、ちさりんさっさと座んなさいよ」

「え、は、はい!」


 あえて他の二人を無視して勝ピーの隣――祐子さん側じゃない方――に座ったら、ちさりんの大声。しかしその声で墓穴を掘ってしまい、清川姉弟の間に座らされてしまう。

 残った良は瀬場さんとショーの間へ。実に男臭い空間だ。まぁいい、つき合ってるからって隣同士座れるなんて思うなよ…って、俺が言ってどうする。


「何頼む?」

「えーと…」


 ちらっと周囲を見渡す。それはこのオーダーがおごりであることを確認するためであったが、結果は千聡と目があっただけ。もしかして同類ってことか? 気分を害してメニューに目を落とす。

 …………。

 今一つピンとこないな…。


「勝ピー、何をた…」

「ふっ。あれだぜハックン!」

「あ?」


 こっそり訊ねたというのに大声で返されるのが悲しいが、この際そんなことよりも勝ピーの指先に注目だ。

 そこには安っぽい写真と、かき氷の文字。

 俺は何の迷いもなく、本日二杯目をオーダーした。今日は海だ。海にはかき氷なんだ。


「……それ、かき氷か?」

「ハックン目が悪いな」


 ………。

 俺たちのオーダーとほぼ入れ替わりで、車組の頼んだものが運ばれた。えーこも瀬場さんもショーもかき氷。しかし隣のバカの目の前にあるもの、それはどう見てもコーヒーフロートとか呼ばれる物体である。

 もう一度目を凝らす。

 …かき氷という文字と安っぽい写真。そしてその隣には、なるほど小さなコーヒーフロートの写真もあるようだ。その大きさはかき氷の半分もないが。

 ………。

 勝ピーはバカである。たぶん俺をだますつもりではなく、かき氷が圧倒的に目立つという事実を考えなかっただけであろう。うむ。そうに違いない。違いないぞ。


「先に食べるわよー」

「はーい」


 それにしても清川姉弟だけがかき氷じゃないとは。何度もしつこいが姉弟の絆は強い。思わず自分も姉弟がほしくなるなんて展開すらありそうだ。ないけどな。

 暇なので周囲を見渡す。喫茶店に入ることは滅多にないから、じっくり観察しようかとも思うが、数秒で飽きる。何か珍しいものが飾ってあるわけでもないし、椅子やテーブルだって変わり映えしない。きっと店を出た瞬間に忘れてしまうだろう。

 仕方ないから食べている様子を眺めることにする。コーヒーフロートのアイスをなめる勝彦に目をやり、すぐにそむける。何か腹立たしい。

 えーこは黙々とかき氷を食べる。今度は宇治金時。さっきより高級だが、そもそもさっきは宇治金時というメニュー自体なかったのだから比べても意味はない。

 とにかく、えーこは黙々と食べる。いや、他もみんな黙々と食べていて、ちさりんや良もぼけーっと眺めている。冷房の音とピアノばかりのBGM、あとは静寂の世界。

 正直、眠気を感じている。いきなり冷房の効いた場所に入ったせいだ。おそらくは。


「なんだお前イチゴか」


 やがて三人の食糧が運ばれてもまだぼーっとしていたが、瀬場さんの声で目覚める。俺に言ってるわけじゃないのは判るのに、妙に意識が冴えてしまう。


「男が頼むっつーたら宇治金時だろ、なぁ」

「抹茶は女子供の食い物だとかわめいてたのは誰だっけ?」

「ガッ、そうやってすぐ揚げ足取りやがる」


 俺はもちろん宇治金時だ。はっきり言えば、例の写真がそれだったからに過ぎないが、どんな事情があれ宇治金時だ。それ以外を頼んだのは良独りだった。

 あえてみんなと違う味にして、自分を主張するならそれも褒められるかも知れない。しかし残念ながらそうじゃないことを俺は知っている。


「良の親も同じこと言ってたよな」

「……おぅ」

「で、アンタはその言いつけを守ってるわけ?」

「別に、守ってるわけでは…ないです」


 祐子さんの追求に、視線を落としながら良は答える。答えながらも手を休めることはない。早くなくしたいのだろうと容易に想像がつく。もっとも、やめさせたいと思えばそれだけ術中にはまってしまうように思えてならない。


「よく言えばこだわりのある親なんだろうけど」

「祐子さん」

「なぁに?」


 予想通り分析を始めようとする祐子さんだったが、そこに千聡の声。ちょっと意外な展開か。


「良くんも今、どうにかしようって思ってるんです。だから…」

「ちさりんは優しいわねー、まるで彼女みたい」

「………」


 ツッコむべきかちさりんは悩んだようだが、結局は無言。ここでツッコミ入れるのもお約束過ぎて恥ずかしさ倍増だろう。

 えーこだったら平然と口にしそうな気がするのは内緒だ。


「バカげていても、親が好きだから守りたくなる。困った話よねー」

「まぁオヤジなんて息子にゃ分からねぇもんだ」

「アンタが言うなアンタが」

「何を!」


 その瞬間、ほぼ全員が祐子さんのツッコミを支持していたように思われたが、瀬場さんは思いっきり背筋をのけぞらせて反発する。ちょっと芝居がかっている。ショーとも仲良くなれそうだ。あるいはライバルか?


「俺だってなぁ、いろいろあんだぞ」

「いろいろ?」

「農家の跡継ぎだの嫁がどうの」

「アンタが逃げてるってだけでしょ」

「逃げるって言うな祐子、そ……」


 いつの間にか立ち上がった瀬場さんを、さっと片手を挙げて押し留める祐子さん。

 俺たちはそんな二人をぼーっと眺める傍観者。さっきまで主役だった良も同じ。ただし、かなり熱心に眺めているかも。


「農業には未来がない、田舎のしがらみが嫌だ、そう言って出て行くのは勝手でしょ」

「う、…うむ」

「でもそこで被害者面されてもねぇ、勝彦」

「……俺に振るな」


 勝彦の不機嫌な声を聞いて、はじめて祐子さんの言っている意味に気づく。

 深くは知らない話。いつか雑誌で天龍の記事を読んでいる時に、勝彦がぼそっと口にして、すぐに話を逸らしたきりの話。


「とにかく結論は、父親より息子に問題がある」

「……そう言い切るのも」

「いいの。どう正当化しようと残るものは残るんだから」

「…………」


 合いの手をえーこが入れたので俺はちょっと緊張した。

 ついでにその返答は理解出来ない。えーこも苦笑いだから完全に判ったわけじゃないだろう…けど、それなりに納得するところはあった、という表情。

 納得したくなる感情なら、俺にもある。それが何故かを問わなければ。


「だいたいさー、父親と一緒が嫌だから白い肌でいたいなんてちょっと変態でしょ」

「ウガッ」

「そ、そんなどうでもいい理由だったのかよ」

「やかましい、男にはいろいろ深い事情ってもんがあるんだ、なぁ弟よ」

「だから弟って呼ぶな!」


 一気に緊張が解けて、みんなかき氷消滅活動を再開する。

 日焼けした肌と父親がイコールになる発想が、俺にはよく判らない。うちの父親も日焼けはしているが、それは接待かつ趣味のゴルフ焼け。自分が黒くなっても、別に親の真似ではない。日焼けを真似と言い出したら、オリジナルは人類の祖先まで遡りかねない。

 ……そういう意味じゃない。もちろん。


「こっちの彼氏は大丈夫?、えーこ」

「…えーと、大丈夫じゃないです」

「そう?」

「ちょっと複雑そうですけど」


 そして今度は俺に話題が移っていた。

 えーこがためらいもなく返答する。それは実に危険である。というか、そこまで俺は詳しく話したことがあったんだろうか。


「困った子なのねー」

「大丈夫です、祐子さん」

「そう?」

「私がなんとかします。ヒロくんの彼女ですから」


 ぐぁ。思わず頭を抱えてうつむいた。なんて恥ずかしい台詞を堂々と。

 困り果ててちらっと彼女の方を見ると、ちょっと赤い顔でえーこが笑う。自分も照れてるんなら言うなよ、と思うけれど、今さら嫌だとも言えない。


「それよりも祐子さん」


 俺はえーこの彼氏なんだからな。


「なぁに、今さらごまかしたって意味ないわよー」

「ち、違いますって」


 とはいえ、この微妙な空気をそのままにするのもどうかと思うので、ちょうど思い出した話をふってみる。ここに入る時に千聡が口にした違和感。

 要するにごまかすのだ。うむ。

 もちろん、俺だって気にならないわけじゃないし、かといって答える術がないのだから、この場で解決してもらうのが一番だ。照れ隠し半分で、口真似を交えつつ熱演してみる。そのうちちさりんの逆襲に遭うかも知れないが、そんなことでひるんでいては世知辛いこの世界の荒波を渡ってはいけないのだ。

 多少誇張した。

 祐子さんは別に笑うこともなく聞いていた。俺の演技がつまらなかったのも、たぶん原因の半分ぐらいをしめているだろうが、ともかくじっと聞き終わると、なんとなくちさりんの頭を撫で始める。いや、なんとなくというのは俺の主観だ。


「ちさりんはプロレス嫌いなのよねー」

「は、はいっ。大っ嫌いです!」

「そ、そこまで断言することねーだろ、いいかちさりん、プロレスには…」

「バカは黙れ!」


 勝彦の気持ちも判らなくはない。というか、なんの脈絡でこの質問だ?


「ちさりんは真面目でしょ」

「え…」


 思わず漏れた声に、一斉に注がれた視線。

 すまん。俺の声だった。あまりにあり得ないもんだから。えーこと席が離れてて良かったぜ。


「問題は乗れるか乗れないか、それだけだと思うけど」

「……祐子さーん、全然わかりません」

「そりゃそうでしょ。ここでわかるほどなら悩まない」

「あぅ」


 しょげた千聡の頭をしきりに撫で回す祐子さん。

 こういうシーンを見て、良はどう思うんだろうか。目の前でえーこが撫でられたら…、うーむ、祐子さんならどうでもいいかも。


「たとえば、男と男の勝負だ、負けたら引退だとかいって試合して、負けちゃったのを見て泣いてみたり」

「…はぁ」

「折り鶴兄弟を見て自分も折ろうと思ったりするバカだっているわけ。どうして?」

「ど、どうしてって…」


 そのバカというのが勝ピーだと、この場の全員が判っているだけに答えは難しい気がする。要するに、勝ピーはなぜプロレスに熱くなれるのか。この質問に意味があるのだろうか。


「おかしいって思うのは外側にいるからでしょ」

「外側?」

「プロレス見て泣くバカを外から眺めたって、バカは理解できない。バカはテレビで起きてることを全部信じて浸ってるんだから」

「バカバカ言うな!」

「だったら、ちさりんも信じるしかない」


 微妙な空気が流れたままの喫茶店。

 どう考えても祐子さんはプロレスをバカにしている。けれど自分の弟が夢中になっていることを、説明しようと思えば出来てしまう。その事実はちょっと感動だ。じーん。

 ………。

 いやまぁ、それだけで済めばいいけどな。程度の差はあれ、俺もそうだって言われてるようなもんだし。


「で、ちさりんはあれをなかったって言える?」

「いえ…」

「じゃあしょうがないでしょ」

「はぁ」


 しょうがない、と言われればそれまでのこと。千聡だってそれは判っているだろうが、だからといって疑念を払えるわけでもないような気がする。

 祐子さんは撫で続けた手を止めて、ストローに口をつけた。すでにアイスはなくなったただのアイスコーヒー。それはあんこしか残らない宇治金時よりリーズナブルに思えた。


「昔話とか伝説って言われてるものは、そういうものだと思うわけ」

「そういうもの?」

「そう。起きた出来事がわけわかんないから、物語にして納得する」

「は、はぁ」


 まさかという表情で良が返答する。けれど瀬場さんは何事もなかったように解けたかき氷をすすっている。何度もそういう話があったんだろう、と想像がつく。

 先生モード…というか地研顧問モードになって解説を始める祐子さん。たとえば繰り返される祭に対して、それを説明する物語がなぜ生まれるのか。そこで疑問を抱くこと自体が俺にとっては難しいけれど、ともかくそれは祭を理解できない者を納得させていくために生まれることもあるのだと、祐子先生は言った。

 状況としては、まさに今回の千聡も同じ。ならば千聡は……、自分でまとめたツルとゴロウの物語を読み直して納得するのか?


「ちさりん、あの場で泣いてたでしょ」

「え……、たぶん」

「それを嘘だって思った時、祭は終わるのよ」

「………」


 つまり、信じるか信じないかを考えるんじゃなく、出来事を受け入れること。当たり前だ。俺とえーこは少なくともそうだ。

 ……でも、なぜ自然に受け入れられたのだろう、と疑問に思うことはある。テレビのイタコは絶対に嘘だと思うし、怪談特集もバカにする俺なのに、と。


「まぁ信じていいことだってあるでしょ、ねぇ」

「…信じるっていうのはよくわかりません」

「そう?」

「でも、いいことはありました」


 ……………。

 またもや居場所を探す自分。

 えーこと一緒にいる時間は、時々拷問のように思える。それとも慣れるしかないのか? 彼女にそれをやめさせる術がないのなら。


「それで、ツルとゴロウは?」

「そう名乗る人はいません」

「ふぅん」


 だが、ダメージを負ったのは俺一人。えーこは祐子さんと真面目な話題に戻っていく。

 それは俺がおかしいのか。

 ふっと息を吐き溶けた水を飲み干す。相変わらず自分に当事者意識が乏しいのは事実だし、ゴロウがいなくなっただけでほっとしているのも事実だし、だけど。


「だけど時々ぼんやりします」

「いつものことじゃない」

「それはヒロくんだけです」


 ぼんやりする。確かにそうだ。俺は昔からそういう困ったガキだった。えーことつき合っても相変わらずだ。

 ………違う。

 妄想と呼んでいたものは、そのまま口にすれば笑われる程度のこと。現実のいびつな延長。あるかもしれないがおそらく起きない出来事。


「その時のことは憶えてる?」

「だいたいは…」

「それは不思議なこと?」

「ちょっと不思議です。でもヒロくんがいます」


 たとえばこんな居たたまれない状況を忘れたくて、どこか意識を飛ばそうとする。

 店の入口に貼られた、アイスコーヒーと書かれた紙。ビキニの水着の人が笑う。毎年貼り直してるはずなのに、その写真は古めかしくて……。

 辿ってゆく空想の連鎖の一部始終を、俺は憶えている。いや、じきに忘れてしまうけど、それは憶えておくほどの価値がないだけだ。えーこの言う「それ」じゃない。


「単につき合いはじめで舞い上がってるだけってことは?」

「えーと…」

「どうなのヒロピー?」

「ゲッ」


 思いっきりうろたえる自分。

 都合の悪い時だけ俺にふるのはやめてくれ…と彼女に無言で抗議しようとするが、そういう自分の顔はおそらくニヤけているのでなんの説得力もない。

 祐子さんはまた脈絡もなく千聡の頭を撫でて、さらに経過を追うべきだと言う。ちさりんと会話するツルはもう現れないかもしれないが、違った形で出現する可能性はあるだろう、と。

 仕方ないというため息をついて俺は笑い、それからやはり脈絡もなく良を見る。良は複雑な表情で、俺とは違うところを見ていた。隣のショーも同じ方向だった。

 ともかく、ようやく俺は解放され、話は地研に移る。一度まともな活動をしたいと良が懇願し、瀬場さんがそれに感動する展開。瀬場さんの性格はだいたい見えてきたから、予想通りという感じだ。

 祐子さんはぶつぶつ独り言を唱えて、カバン――じゃなくてディパックから手帳を取り出した。それは単に空いてる日を確認するだけなのだが、なぜかみんなの視線は集中する。もちろん俺も。

 やがて顔を上げた祐子さんは、特に表情を変えることもなく八月上旬のある日を指定する。そしてそこから、怒濤の参考書列挙が始まった。数えてないからよく判らないけど、十冊近くあったのではなかろうか。くそ真面目な顔で良はそれをメモっていた。きっと心の中では泣いている……わけないな。充実感に浸りきっていそうだ。

 ―――と。

 気がつくと、周囲はみんな一緒にメモっていた。俺だけぼんやり眺めている、それはどういうことだ。なんのことはない、地研の活動ってこの面子でやる話ってことだ。早い話、それって地研の活動じゃないだろってことだ。


「今日は楽しかった?、ちさりん」

「はいっ」

「良の裸も見れたし」

「そ、そ、それは別にですね、えーと…」


 店を出た時間がだいたい午後四時。支払いは祐子さんと瀬場さんの折半だった。気前のいい大人が一緒にいるのは素晴らしい。祐子さんのおもちゃにされる苦難すら、おごりに比べればたいした問題ではない。

 ……俺一人が延々弄ばれたらたいした問題だが。

 現在のおもちゃはちさりんだ。主催者らしく有終の美を飾っている。もちろん適当に言ってみただけだ。

 だいたい、あんな貧弱な裸なんて見ても……っと。

 やばい。今頃になってえーこの水着姿を思い出してしまった。危険だ。もう一度見たいけれど危険だ。次は一緒に泳ぎたいけど危険だ。まだ浮くのがやっとだから、たぶん次も一緒に泳げるとは思えない…というのは余計な心配だ。


「なぁ祐子、次はふ…」

「たりで行って来い! 兄弟」

「冗談じゃねぇ、誰がこんなエロオヤジと!」


 車組四人が乗り込んで、見送るのは四人。あのワゴンに四人しか乗らないのなら、ショーの車内ライブだって夢ではない。いや、夢であってほしいだな。

 祐子さんは助手席からなおもちさりんを撫でる。別れの瞬間までやらなきゃならないのかは謎だ。まるで爪の手入れに余念のない猫のようだ。


「じゃ…」

「ヒロピー」

「は、はい」


 車のエンジン音が響く。

 夕方近くなっても、駐車場のアスファルトは照り返しがきつかった。


「送っていきなさい」

「……はい」


 隣でうなづく彼女も苦笑い。

 そんな俺たちに手を振って、車は発進する…かと思いきや。


「ところでえーこ」

「は、はい」


 いつの間にかえーこの髪にリボンが揺れていると気づいた瞬間、また祐子さんが窓から首を出していた。

 交通安全のおじさんが真っ先に注意することを、学校の先生がやっている。それはなんだか楽しそうだ。


「その格好は自分の趣味?」

「…気に入ってます」


 一番後ろの席でぶんぶん手を振るショーとともに、車は去って行く。

 白いシャツに青のジーンズ。それは別に珍しいファッションじゃないはずだけど、あんまり女の子っぽくないのかなぁ、と今さらのように思う。

 そこでちさりんの姿を確認して、シャツに変な小動物が描かれていることに今頃気づいたのは内緒だ。慌てて彼女のシャツに模様を探したのは、もっと内緒だ。

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