鶏子
今日という一日は、夏という季節に分類される。それを証明するものは教室の端に掛けられたカレンダー………と思ったが、カレンダーにそんな文字はなかった。仕方なく首を動かして、ついでに肩を回せばいい音も鳴るが、それは夏の証明ではない。
それでも今日は夏だ。夏なんだ。そう、夏は来た!
………。
……。
…。
天井にはこれも音ばかりうるさいクーラー。それでも雪の日に動かしたらきっと寒いだろう。実に夏だ。あー、夏だ。夏だ! それだけだ。
………。
……。
…。
もう一度見回しても、そんな文字はない。いや、黒板にチョークで書けば間違いなくそれは存在する。その気になればいつでも出来る。たぶん書き順すら間違えはしない。ふふっ。どうだ夏だぜコノヤロウ。
しかし一般的な見解として、自分で書いた文字などインチキでしかない。書いた瞬間に俺という人間の信用は地に墜ちて、すぐに多くの罵声を浴びせられるに違いないのだ。困った…。
「ハックンはちょっとフィーバーなポーズだぜ」
「ハッスルじゃねーのか」
「ハッスルは認めん! あれは間違ってるっ!」
「左様か」
…………。
どうしてこいつはなんでも自分に都合よく解釈するのだろう。今時フィーバーってわけが判らんぞ…と思ってるうちに俺は、さっきまで悩んでいたことを忘れていた。たぶん忘れる程度の話題だった。
テストも終わり、あとは夏休みを待つだけの七月半ばだから何かとダレる。いやまぁ、周囲はふだんから人を弛緩させる空気を発散しているし、意味もなく腰をねじったポーズの俺も、おそらくはその仲間である。
「なぁハックン」
「なんだよ」
一応は報告しておこう。テストの結果は可もなく不可もなく。残念ながら貼り出されるほど優秀な成績とはいえないが、親が卒倒することもない。
いやまぁ、意図せずに卒倒させるのも却って難しいかも。中間テストでもお勉強会メンバーに赤点はいなかった。まぁだから期末も大丈夫ってわけはないけど、我々の目標はそこにはない。
ならどこにある?
「今日は金曜だぜっ!」
「そりゃそうだ」
結局目標なんて曖昧なもの。たとえば俺はちさりんに平均では勝った。しかしその差はわずかで、あまり嬉しくなかった……ということは、千聡に大差で勝つのが目標? ちさりんが赤点なら俺も赤点勝負になってしまう。
………そんな目標があるかよ。
「時は来た!」
「それだけか」
まぁ冗談はともかく、みんなそれなりの点数だった。良は秘密主義な男なので正確には判らないのだが。
奴は自慢するのは格好悪いという美学で生きている。だから隠すのは出来がすごーく良かったからかも知れない。ただ、本当に良かったら代わりに千聡が俺を罵倒するはずだから、たいした点数ではあるまい。ふっ。
「ハックン、今日空いてるだろ?」
「どうせインタビューで穴埋めしてるだけじゃねーのか」
「何言ってんだ、今がビッグマッチに向けた大切な時期だ!」
そもそも千聡にも教えないのが正しいあり方じゃねーか、と思うのは内緒だ。ま、ナルシストは放っておけ。
えーこは俺よりはるか上の点数じゃないかと予想したが、大差なし。ただし日本史と古文は名前が貼り出されていた。日本史は俺もわりと上位だったから、やはり僅差。追いつけそうで追いつけない目標だ。
……これもちょっと無理のある表現だ。でも彼女が目標ってのはなんか悪くないな。
「大切だからサイパンとかハワイで日焼けすんのか」
「今の発言は悪意が感じられる!」
「悪意が籠もってるだろ、そりゃ」
…まったく朝からしつこい野郎だ。
だいたい、何が悲しくて真夏の放課後に本屋でプロレス雑誌なんだ。一緒に読むなら、もっとふさわしいプロレス者がいるじゃねーかと常々思っている。思っているが口に出さず、ダラダラと会話は続く。
別に耐えがたきを耐えているわけじゃない。それどころかはっきりヤツに言ったこともある。が、どうやらプロレス者にはプロレス者同士でいろいろ派閥があるらしく、一度雑誌を前に大喧嘩になって現在に至るそうな。
いつも仲がよさそうなのは、そういう対立を我慢しなきゃならないほどプロレス者の絶対数が少ないからであって、増殖すればたちまち抗争に発展するわけだ。青春ハリケーンだ。まったく、奴等は教室の火薬庫である。
「今日はプロレスの日だっけ?」
「お、えーこちゃん」
そんな昼休みの優雅ではないひととき、ふっと顔を見せる彼女。
やや遠慮がちに、しかし決定してもいないことを口にしては勝ピーを喜ばせる。
「もしかして俺は邪魔か?」
「ううん。ちさりんに呼ばれてたから…」
「ちさりん?」
余計な気をつかう勝彦に苛立ちかけたが、意外な名前に思わずハモる男二人。
隣の席の女子生徒なら、昼休み突入とともにどこかへ消えたままである。
「えーと」
「説明したいなら聞いてやっても良い」
「なんだハックン偉そうだなー」
えーこは苦笑しつつ、十二時四十五分にここで集合だと言った。えーこと俺と勝彦に召集がかかってるらしい…って、俺たちもかよ。
後ろ向きの身体をねじって、黒板斜め上の時計を見る。時刻はほぼ四十五分を指していた。相変わらず細かい性格だ。
「いったいなんの用だ?」
「それはちさりんに聞いて」
「俺とハックンはもう予定が詰まってるぞ」
「たぶん今日の話じゃないと思う」
「…………」
どさくさに紛れて勝彦がとんでもないことを口走ったが、突っ込む間もなく教室前方の扉から話題の主が現れる。ちらっとこっちを見て、しかしまっすぐここに来るわけでもなく、あちこちの席に立ち寄っている。もしかして俺たちをじらす作戦ではないかという疑念が浮かんだが、たぶんいつもの全方位外交だろう。
「お、集まってる集まってる」
やっと自分の席に戻ったちさりんは、まず手さげ袋をカバンにしまう。出っ歯の動物が描かれていて気色悪い袋だ。あんなものを喜んで使う女が学校の制服にケチをつけるのだから笑わせる。
中身はもちろん弁当箱。どうも湯呑みは部室に常備されたらしい。本当の名を知っている俺にとってはゾッとする話だ。知らなくとも同じことだが。
「勝手に集合かけるな」
「そうだそうだ、俺たちの権利を守れ~」
「うるさい! 今時プロレス話するようなバカに権利などない!」
「なんだとコラ、プロレスをバカにする奴は…」
特に理由もなく彼女のほうを向いたら目が合った。一応笑顔を作ってはいるが、どこか無理が感じられる。
千聡に迫害される勝彦という構図そのものが、もはやプロレスだ。プロレスがショーなのではなく、人生がショーなのだという至言もあるが、彼女はまだ理解出来ていないだろう。
出来なくて当然……というか、あんまり理解してほしくなかったりするのが正直なところ。えーこは器用だから、いつか一緒にプロレスごっこを始めそうだ。そうすると俺も加わらねばならない。いつか教室は、権力欲と裏切りが渦巻くジャングルと化すの…。
「ぐぇ」
「えーこちゃん、それは違うぞ」
「え?」
「空手チョップはこうやるんだ、こう」
「…えーと、こう?」
「うむ、そうだ。これなら亡き大山先生も納得だ」
……………。
すでになじんでいるのかも知れない。考えてみれば相撲の張り手に天龍のグーパンチと、えーこには格闘家の血が流れているのだ。
しかしなぁ。
勝ピーが喜んで指導しているのが、アニメの名場面のパクリだとえーこは気づいているのだろうか。頼むからあんまり理にかなった攻撃はしないでほしいぞ。
「で、なんの用だちさりん」
「は?」
「は、じゃねーだろ」
にやついてる女子生徒を攻めて話題を逸らす――のではなく元に戻す。あっという間に本題を忘れてしまえる素敵な女だ。元からその程度の話題なんだろう。
「どうしても聞きたい?」
「全然」
「聞きたいわけね、よしよし」
「おい!」
「簡単に言うとデートの予定について」
「で、デート?」
声が裏返っていた。それは半ば無意識な返答。それは千聡の邪悪な微笑を導くだけの返答。
「あんた、まさか私とデ…」
「絶対に気のせいだからさっさとしゃべれ!」
「へー」
「……トイレ行ってくる。小さい方だ」
アホな会話の最中にガタっと音がして、勝彦が教室を出ていった。
ちょっと気まずい空気。俺のせいか? 違うよな?
「冗談だってわっかんないかなー」
「冗談でもいたたまれねーもんだ、ちさりんよ」
「ふーん…」
そうなのだ。ほんの少し前までの自分がさんざん感じていたこと。
いや、俺には逃げ出す自由すらなかった。まして「小さい方」などとナメた台詞などあり得なかった。
当事者二人はいつも半分被害者面だから、俺が余計なトラブルを増やすわけにもいかず、じっと耐えてばかりの日々。なんの問題もないはずなのに怯える滑稽な景色に、一年以上も耐えた俺に比べれば、勝彦は随分マシである。
たとえて言うなら、せめてえーこを含めた三人でプロレス雑誌を立ち読みしなければ、俺の境地にはたどり着けまい。いや、それでもたぶん俺は怯えないから違う。
なぜだ? なぜ俺は怯えようとしないんだ? 無理矢理なポジティブ思考なんてしてないはずなのに…。
「…………」
「………」
「はっきり言うが、痛いぞ」
「教えられた通りです」
四本の指を半月状に曲げた形は、確かに力道山がヤシの実を落とした時と寸分変わりのない形であった。解説する自分が虚しい。
「仲いいよねー」
「え?」
「毎日じゃれててさー」
…………。
一度顔を見合わせて、それから俺の頭は元の位置に戻る。えーこの顔だけが赤くなっているのは、俺にはそういう自覚があるからだ。
しかしまぁ、このまま真っ赤にさせておくわけにもいかねぇし…。
「その論理でいくと、毎日撫でられてるちさりんはどうなんだ」
「……………」
話題をそらすつもりだったが、千聡はその瞬間ニヤリと笑った。とりあえず何か良からぬことを思いついたに違いない。
「そーぉだ、えーこに教えとかなきゃ」
「え…、な、なんでしょう」
まだ立ち直ってない彼女は、少し小さな声を返す。
昔はもっとポーカーフェイスだった気がする。昔と言ってもたった二ヶ月前の話なんだが、無防備な彼女を守るべく、ファイティングポーズをとる自分。
「嫌な予感がするぞ」
「予感も何もないでしょバカ。良くんに頭を撫でろって、こいつが教えたのよ、こいつが」
「………」
にやけた顔の千聡が俺を指差したその瞬間、隣の彼女には無茶苦茶不審な目つきで睨まれた。
俺のポーズに対する侮蔑も含まれていそうだが、そんなことはこの際どうでもいい。なんでこうなるんだと嘆きたいから頭を掻きむしろうとして、これ以上侮蔑の種を増やしてもしょうがないと思いとどまる。
……問題は、だ。
全くいわれのない中傷じゃないところが辛い。すっかり忘れていたけど。
「まずは、まぁずは冷静になって聞いてくれ」
「………」
「あーれは良に聞かれて仕方なく答えただけだ」
澱みきった教室の端でちょっとマヌケな声をつくりながら、俺はフォローにはいる。後ろめたいことなど何もない。あってたまるか。うむ。
「とにかく良はなぁ、とぅ、とぅきあうことになったがどうしたらいいか判んねぇとか言うから、そんならとりあえず撫でとけって言ったんだ」
「…とりあえず撫でるの?」
無理矢理でも笑顔を作りながら、声色付きで軽く弁明したわけだが、相変わらず微妙な空気が流れたままである。
確かに「とりあえず撫でる」というのもアレかも知れない。もちろん本当は、そこに至る長い長い道のりもあった。しかしここでそれを再現するのも無茶だ。
「俺だって経験ねーんだから」
「本当に?」
「こんなムスッとした男がもてるわけないじゃん」
「ぐ…」
「…………」
非常に腹立たしい発言だったが、ちさりんはこれでもフォローしてるつもりなのだろうからじっと我慢の子。それを言うなら、俺以上に不愛想な良はどうなんだと言いたいが我慢の子。
………最後はどうせ顔だよな。判りきったことを今さら指摘されたくもないから、なおさら我慢の子。
「とにかく、向かいの家の猫みたいに撫でとけって…」
「そーそー。おかげで何かというと頭撫でられた」
「はぁ…、向かいの猫」
千聡のフォローが入ったわりに、まだえーこは納得してないようだ。そんなに深刻な問題なのだろうか。うーむ。
……とりあえず、向かいの猫は余計だったかも知れない。必要ないとこばかり具体的にしゃべってしまうのは俺の悪い癖だ。
「なーんか良くんの様子が不自然だったから、一週間ぐらい経ってから相談したのよねー」
「ヒロくんに?」
「うむ」
「………」
相変わらず人前では「ヒロくん」以外使わないんだよな。謎だ。
「あの頃はさー、まさかそんなつまんない入れ知恵するようなバカだとは知らなかったのよねー」
「はぁ」
「坊やだからさ」
「……………」
「私が悪うございました」
ギャグで済まそうとしたのに、結局睨まれる。どうあがいても俺が悪者にならなければ物事が解決しないわけだ。つくづく損な役回りである。
それならさっさと逃げれば良かったのだ…と言われれば返す言葉もない。
「まぁとにかく過ぎたことだ」
「あんまり喜んでなさそうに見えたのはヒロくんのせいだったの…」
「そうそう」
「嘘つけ、じゅーぶん喜んでただろ。毎回律儀に赤い顔してたじゃねーか」
「ヒロピー!」
「ぐがっ!」
見事な同時攻撃。千聡は座ったまま水平蹴り、そしてえーこは左の頬へ袈裟切りチョップ。
これがマンガなら女の子に囲まれてチョー幸せな場面だろうが、少なくとも痛い。これは幸福の感覚ではない。
「あ、痛かった?」
「えーこって本当に遠慮しないねー」
「…うん、まぁその」
「ちさりんも恐れるほど凶暴なんだよ」
「あんた少しは思いやりってものがないの、まったく!」
二人そろって俺を睨みつける。小心者は目をそらしてうつむくしかない。
なんで被害者が加害者に思いやりをかけねばならないのか。嗚呼、世の中とは実に不条理だ。
「それはともかく、じゃあ今も撫でられるのは…」
「今はいいの…って、そんなこと答えさせないでよえーこ」
「いいじゃねぇか、減るもんじゃなし」
「ヒロピー、その台詞すぐに自分に返るからね」
「う…」
冗談抜きに冷や汗が出る。
えーこはどうも、隠すという発想を持ち合わせていないようだからな。
「ま、ともかく今は良くんの意志だから」
「最初からそうだって」
「……たぶんあんたの言う通りなんだろうけど」
「ごめんね、ヒロくんが迷惑かけて」
「なんでそういう結論なんだよ」
いい加減この話題離れたいぞ。まっ昼間の教室でやるには恥ずかしすぎる。だいたいちさりんは、こういう話題をあちこち言いふらしてるらしいし。
「あー昼休みもあと五分しかねーなー」
「それよりさぁ、ヒロピー」
「………なんだよ」
別に嘘を言ったわけでもないのだが、またも強引に話題を戻そうとする千聡に呆れる。一瞬、ジリジリとアブラゼミの声が響いた。ざわめく昼休みの教室でも、時々こんな瞬間はある。ちさりんの声だけが響いたなら、俺はまた渦中の人だ。
うーむ。
何か用があって呼び出したんじゃねーのか? まさかこんな話題で俺をいじめるのが目的なのか?
「えーこのこと、やっぱり毎日撫でてる?」
「………」
背筋にひんやりしたものを感じた。
やばー…。
「良くんにアドバイスして、自分がやらないなんてことないよね~」
「まだ…なの」
俺がどうこうするまでもなく、えーこが答えていた。それも凄まじく不機嫌な声で。
振り返った千聡も、あまりの表情に固まっている。どうしてくれるんだちさりん。
「…えーとだな、物事には順序がある」
「どんな?」
「そりゃあ、つき合っていきなり撫でるなんて早すぎるって思うだろ」
「思いません」
「あう」
即答されてしまった。
うーむ。
…………。
良が相談してきたのはつき合って一ヶ月だったのだ。俺たちはまだ半月しか経ってない。最低二週間ぐらいは猶予があったっていいだろ…と、彼女に言って納得してもらえる可能性はあるだろうかいやない。
「では努力目標ということで、サラバ!」
「あ、逃げるなヒロピー!」
結局俺も逃げ出すわけだ。こんなことでいいのかと一瞬ためらったけど、もう結論は出ているのだから勘弁してもらうしかない。
もちろん、俺だって撫でるのが嫌なはずはない。
いや、撫でてみたい。えーこのリボンにだって触れたことないけど、いつか触ってみたい。許されるなら、今すぐにでもだ。
「ハックン」
「あ?」
「なんの用だった?」
「知らん」
廊下ですれ違った野郎がやたら爽やかな笑顔だったから、そのまま首根っこ掴んで垂直落下式……という気分になったが、パイルドライバーで死人が出た話を思い出して我慢する。
そしてそんなことよりは自分も爽やかになるべきだと考え直し、芳香漂う一角を目指す。行かなくとも我慢は出来そうだったけど。
午後の授業。計算式を書いている自分は、たぶん一日のなかでもっとも冷静だ。もちろん、長い長い計算の末に答えが出そうになったら、それはそれで興奮する。答えが出た時点で興奮は最高潮に達し、だから計算が正しかったのか検証するのが億劫になる。繰り返し繰り返し、俺はそうやって失敗してきた。
他人の失敗なら的確に指摘出来る。自分が同じことを繰り返しても、他人の繰り返しは許せない。そんな自分。そんな人間のクズ。褒められるはずのない男。だけど褒められたくて、そして褒められながら自分が嫌になって、でもまた褒められたくて、だからあの日の俺は吐き気がした。
………。
なんだよ、そりゃ。
「あんた、なんで逃げたのよ!」
「無駄話ばかりだったからだろ」
五時間目が終わると、さっそく隣の女に攻撃を食らう。
食らってる間に、視界の端にえーこが見えた。また召集かけたようだ。そこまで大事な用ならなんでさっさとしゃべらねーんだ。
「とにかく今度こそ相談だから」
「あーそうか、手短かにやってくれ」
「ヒロくんは悪ふざけが過ぎると思う」
「…………」
俺か、俺のせいなのか。彼女にはせめて味方になってほしかった…と悲しみに暮れる午後であった。
「で、ヒロピー!」
「おう」
「もうすぐ夏休みになるって知ってる!?」
「…そりゃ知ってるだろ、普通」
思わず勝ピーと顔を見合わせる。こいつバカじゃねーのって感じのポーズ。
しかしちさりんに与えたダメージはせいぜい一ポイントだ……って、ゲームかよ。
「夏休みには神社じゃなくて海に行くものよ!」
「そんなこと俺に怒鳴るな」
…なるほどね。
千聡の魂胆は実に判りやすかった。というか、こんな程度で勿体ぶるなよ。もう一度呆れたぜのポーズを決めてから、さっと向き直る。
「要するにちさりんは、俺たちをダシにして良と海へ行きたいわけだ」
「まぁダシでもザシキワラシでもいいからヒロピーは行きたいでしょっ!」
「…………」
「さっさと返事しろ!」
忙しい女だなしかし。照れ隠しも入ってるんだろうが、それにしても横暴だ。ここは一つ意地悪してやるのが常道というものだろう。
………っと。
冷たい視線に気づく。
これ以上ふざけるなという視線と、それから……。
うーーーむ。
海辺の町に住んで海水浴に出掛けるのはごく当たり前のことだ。そんなことでいちいち反対するってのも、不純異性交遊と同レベルで嫌だな、勝ピーよ!
「よしちさりん、俺も男だっ、勝負だっ!」
「何それ」
「行ってやるってんだよ。解説が必要だなんて悲しいなぁ、勝ピー」
「ちさりんは常識知らずだ」
「な、何よこのバカピー!」
無難に返答するつもりが、思わず訳の分からないことになってしまった。まぁいいか、結果的にこれで勝彦も拒否し辛くなったわけだし。
まだ盛り上がりそうな千聡は無視して、えーこの方をちらっと見る。相変わらず会話についていけてないとはいえ、当然二つ返事でOKするはずだった…が。
「………えーと」
「あれ、どうした?」
「その……」
「あー、まさか内緒にしてるの!?」
「な、なんだ?」
あっという間にダメージの癒えた――最初からないという説もある――千聡が大声を出すと、ますますえーこはうつむいていく。
おかしい…のは当たり前だ。内緒にしてるってどういうことだ?
「はぁ…」
「言っちゃいなさいよ早くぅ」
「ちさりん、……わざとでしょ」
「さぁねー」
えーこはこっちに体を向けて、深呼吸する。
なんだろう? そんな大それたことなのか? 俺も深呼吸ぐらいしとくべきか?
「えーと、ヒロくん」
「う、うむなんだね」
「私は泳げません」
「へ?」
「ご近所でも有名なカナヅチです。だから海は嫌い…だったんだけど」
ぽかんとしてしまった。
いやまぁ、海辺の町に住んでいても泳げない人はいる。小学校の頃は、確かに毎年クラスに二人ぐらいいた。たいていは、そのうち泳げるようになったけど。
「でもいつまでもそれじゃダメかな、とも思う」
「はぁ」
「だからヒロくんがどうしてもと言うなら行きます」
今度は目が据わってる。怖いよ。
とりあえずこのノリをどうにかしたいから、視線をそらして肩を回す。ゴリゴリ鳴らしながら、たかが海にそこまで深刻になるのもなぁと思った瞬間、今度は千聡がこちらを睨みつけていることに気づく。
う、うーむ。
これは明らかに「どうしても」と言え、という無言の圧力だ。じきに有言になりそうなぐらいあからさまな圧力だ。いつの間にか深刻な事態に突入だ。困った。不純異性交遊で逃げた方がマシだった…わけはないな。
「と、とりあえず気を楽にして考えるべきだ」
「………」
「たとえカナヅチでも楽しいことだってあるだろ。貝殻拾うとかかき氷食うとか」
「か、かき氷…」
「よし決まり! じゃ集合場所とか時間は電話するから」
そうしてなし崩し的に決定してしまう。千聡の思惑通りってやつだ。
しかし、事前にしゃべっていたんなら自分で説得すれば良かっただろうに。妙なところで律儀なんだよな…。
「人数は?」
「成り行き次第。勝ピーも来なさいよ」
「………」
「あんたのお姉さまにも声かけるからねー」
「ぐっ。ちさりんは卑怯者だっ」
ふーむ。別にダブルデートにこだわってるわけじゃないのか。勝ピーに召集かけた時点でそうなんだが、神社巡りの代わりにしたいなら二人っきりにこだわる方が普通だよな。
もちろん、海に行くからといって神社巡りがなくなるとも思えない。あれはデート以前に良という男の趣味なんだから、絶対に行くだろう。そして今のところ俺に声をかける気配はないから、二人っきりのデートになるだろう。蜘蛛の巣を払いながら若い男女がウッシッシだ。なんか不純だ。不健康だ。
…………。
最近の俺は巨泉が乗り移ったみたいでやばいぞ。巨泉というか、巨泉の真似をする親が…だけど。
結局、そのまま放課後になってしまう。どこかでプロレス談義という予定が反古になる機会を狙っていたのだが、残念ながら既成事実と化していた。
しょうがない。どうせ週に一度のプロレス雑誌。たとえヤツにつき合わなくとも、読もうとするかも知れないぢゃあないか。
覚悟を決めて教科書を片付け、後ろを向く。ところがそこには、独りでさっさとどこかへ出掛けようとする勝ピー様がいた。
「おい、勝ピー」
「そこで待っててくれ、ちょっと用が…」
「はあ?」
引き留める間もなく消えたバカ。
確かにカバンは残っているから、いつか戻るのだろう。が、随分と都合のいい話じゃねーか。はぁ。
「あんたってプロレス好きなわけ?」
「…嫌いじゃねぇが」
すでにカバンを抱えたちさりんが、同じく呆れた顔でつぶやく。千聡のプロレス嫌いは筋金入りだが、ここで同情されるのも納得いかない。なぜなら暴力とプロレスは違うからだ。プロレスは人間の春夏秋冬を見せるものだからだ。
「ま、暑苦しい二人で仲良くデートしてきたら?」
「や、か、ま、しい。それよりちさりん」
「何よ?」
むかついている内に思い出したことがある。大切な用だ。
「さっきの海、結局いつ行くって話だ?」
「次の日曜」
「へ?」
ぽかんとする俺と、面倒くさそうな千聡。で、そこにえーこもやって来たけれど、別に仲裁役をかって出ることはないだろう。
「あさってじゃねーか」
「当たり前じゃん」
「まだ夏休みになってねーだろ」
「何か問題でも?」
「………」
いや、確かに問題はないのだが、ついさっき夏休みって言ってたじゃんか、なぁ。
助けを求めたら視線を逸らされた。なんて意地悪な彼女だ。
「だいたいヒロピーは分かってないんじゃない?」
「何がだ」
「早く行かないと海はクラゲに占拠されてしまうのよ! アンタ、そんな海でか弱い女の子が泳いでいいと思ってんの!?」
「えーと……、誰がか弱いんだっけ」
その瞬間、思いっきり袈裟切りチョップ。別にあなたのことじゃないと思うんですけど。
頭がクラクラした中で、ちさりんは去っていく。なんか腹は立つが、今はそれどころではない。次の日曜ならさっさと準備しないと。
海パンは授業で使ってるやつでいいのか? あれ安物だよな、でもまさか競泳用は嫌だしなぁ。
………。
水着か。これは危険だ。
そういや、瀬場さんも来るのかな。勝ピーから聞いた話じゃ、相当なエロオヤジらしい。瀬場さんのめあてはどうせ祐子さんだろうけど、えーこの水着だって穴があくほど見つめるに違いない。最悪だ……。
う。
しかしそれは、俺自身にも当てはまることではなかろうか。祐子さんはああいう人だ。地研部室ですらからかってくるのだから、絶対に狙われるに違いない。ただでさえ刺激の強い水着姿が三人もいて、しかも一人は自分の彼女なのだ。これは相当にピンチだ。取り返しのつかない事態に陥る可能性も否定出来ない。ぐあ…。
「ひろちゃんは忙しいね」
「あ、な、何がだ」
不意を衝かれて慌てた俺は、露骨に不審な態度できょろきょろしてしまう。
いつの間にか教室はがらんとして、さっきまで千聡が座っていた位置にえーこが一人だけ。おんぼろな冷房がガタガタ響く。涼しい。じっと見つめる視線も涼しい。
「なんかスケベなこと考えてた?」
「違う。……ただ水着の準備をしなきゃいけないなと」
「ふーん」
授業中はちっとも効かないクーラーが、今は嫌になるほど効きまくっている。
俺は一瞬彼女から視線を逸らそうとして、しかし思い直して姿勢を正す。いかんぞ、俺には何もやましいことはない。たぶんない。ないと思う。
「ひろちゃん」
「お、おぅ」
「私の水着姿が見たい?」
「え? いや、その」
「見たくない?」
「…どちらかと言えば見たい。かなり見たい。申し訳ない」
えーこは笑って、それからため息をついた。
「別に見られるのは構わないんだけど」
「…そうなのか」
「ひろちゃんがスケベなのはよーく知ってるし」
「そ、そんなことは」
ないと答えたかったのだが、えーこの無言の圧力に屈してうなだれる。
所詮俺なんて、彼女に勝てるわけがないのだ。一瞬「かかぁ天下」なんて古めかしい言葉が頭をよぎった。
「そんなことよりヒロくん」
「え」
「人間の体が水に浮くっておかしいと思いませんか?」
「へ?」
さっきから呼び名が二転三転してるのは何か基準があるんだろうか。いや、そんなことで悩む場合じゃないけど、なんというかどう反応していいのか難しい。
「…はぁ」
「うーむ……、まぁきっと大丈夫だ。象だって泳げるんだし」
「……はーぁ……」
とりあえずの励ましは、どうも逆効果でしかなかったようだ。うーむ。
こうまで真剣に悩まれると、こちらのスケベ心も自然に萎えてしまう。彼女が困っているならば、それを救ってやるのが彼氏のつとめに違いない。救うほどたいそうなことは出来ないが、俺は一応泳げるからな。
「よし!」
「え?」
「とにかく、えーこはひたすら特訓だ。泳げ! 破壊なくして創造なし、泳ぐんだ!」
「はぁ…」
「ちさりんや祐子さんがビーチボールとか持ち込んでヘラヘラ笑っていても、えーこの目には入らない。泳がなきゃ自分には遊ぶ資格なんてないんだわ、今は苦しくても耐えるしかないんだコンチクショー…って」
「ヒロくんのバカ!」
「ぐえっ!」
思いっきりグーパンチ。
正直、悪のりしすぎたのは確かだが、グーパンチは自分の拳を痛めるからやめた方がいいぞ。袈裟切りは袈裟切りで肩を痛めるけど。
「軽いジョークだろうに」
「………」
「練習にはつきあうから、な」
「うん」
なだめたりおだてたり、彼氏というのは難儀な稼業である。
けどまぁ、だんだん楽しみになってきた。えーこを指導する自分なんて、なかなか格好いいじゃねぇか。別に俺だって得意というわけでもないし、ちゃんと教えられるという自信はないけど。
頬に当たったままの握り拳を軽く掴んで、ゆっくりと閉じられた指を開いていく。ちっとも力なんて入っていないから、わずかに押せば動く細い指先。
俺は良と違って奥ゆかしい性格だから、人前で頭を撫でることにはやっぱり抵抗がある。もちろんそれは、人前で撫でることの意味をじゅうぶん知ってしまったからだ。俺たちは物識りだ。
机より下でつながれた手。俺の指も白いのに、もっと白い指が絡まっている。それがすごく不思議だから、また自分の指を動かす。ガタガタ音を立てるクーラーの下で、ここだけ温かい感触。視線を合わすこともなく、彼女の側からも指先を絡めてくる。それは機嫌を直すだけなら十分過ぎる効果があった。
「しかし、泳げないんじゃ怖いだろ、中津国だって」
「うん」
「…怖いから、なのか?」
「…………」
えーこは苦笑いのまま、指先を動かしていた。
泳げることの意味。昔見た船だって、泳げる彼女がいたのなら違った像を描いたのだろう。
「溺れるえーこにゃ船がいる、か」
「船に乗るのも怖いよ」
「なるほど」
「うん」
どっちにしろ、えーこは泳げるようになるべきだ。それが船に乗りたいという欲求に関わるならば、なおさら泳げるようになるべきなのだ。
いつかのように、つないだ手をぶんぶん振ってからそっと離す。離したいわけじゃないけど、もう勝ピーが戻るだろう。たぶん。
「じゃ、もう帰るね」
「………ああ」
だんだんむかついてくる。別れたくない別れの後がプロレス雑誌だなんて、そんな理不尽な話があってたまるか。あーあ理不尽理不尽。
思わず無意味に拳をぐっと握って地団駄を踏みそうな瞬間、当のプロレスバカが入って来る。
「お、ハックン悪い悪い」
「悪いに決まってるだろアホ!」
「いいじゃねーか、まぁ」
微妙な空気に戻る教室。
未だ、適当に怒鳴って済ませられるほど割り切れてはいない。俺にしろ、ヤツにしろ。
「じゃあ勝彦くん、あとはよろしく」
「うむ。任せておきたまえ」
「………」
えーこの無邪気な挨拶が、ここではまだ救いだった。
もちろん彼女の無邪気が本物だとは思わないけど、後ろ姿を見送る間の平静があればそれでいい。静かに二人で見送って、そして俺は向き直る。
「つーか、何の用だ? 呼びだしか?」
「ハックン!」
「なんだよ」
微妙な空気はあっさり消えている。
何というか、この切り替えの早さには正直呆れる。
「ハックンは俺がダメ過ぎて先生に呼ばれたと思ってんだろう!」
「そう言ってる」
「甘いぜっ!」
偉そうに手にしていた何かを突き出す勝ピー様。まぁ正直、教室に戻ってきた時点でそれは見えていたから、およそ事情は判っていた。どちらかといえば、呼びだしの方が俺にとってはマシだった。
「どうだ!」
「判ったからまずは本屋へ急ごう。売り切れてるかも…」
「週プロはすぐ無くなるからなっ」
ちなみに、自慢げにヤツが見せたものは昔のプロレス雑誌だった。表紙が今は大阪でゴタゴタ続きのレスラーだから、きっと相当古いものだろうが、あまり興味はない。興味がなくとも、どうせ一週間以内に勝彦大先生の物語に化けるのだ。
校門を出て、近くの橋を渡って街へ向かう。えーこと買い物に行った道をなぞっていると考えれば複雑な気分。もっとも、誰と一緒だろうがそうそう選択肢はないのだし、勝ピーと歩いた歴史の方が古いのだから、えーこが真似をしているとも言える。
…………真似ってなんだよ。
「ハックン…」
「なんだ」
「………楽しそうだったな」
自転車を引く勝彦が一瞬足を止めた。それは目の前の信号が赤になったからだが、しかしこのタイミングでそう来るか。
うーーーー。むかついてくる。俺はキレやすい若者だ。
「うらやましいか」
「…少し」
青になる。俺はわざと大きく脚を踏み出した。
「そう思うんなら、まずは女神とかああいう発想を捨てろ。それと不純異性交遊!」
「ぐっ…」
「自分もしてぇんだろ、不純異性交遊。あー勝ピーは不純だ!」
「…………」
言ってやった言ってやった。
勝彦はむすっとしたまま、しかし自転車だけは同じリズムで引いている。プロレス雑誌が無くなることへの懼れは、どんなことにも優先されるから、多少きついことを言っても大丈夫な金曜日。
「かーつーひこーおんなだいすきかーつーひこーすけべへんたい」
「変態は余計だっ!」
「語呂が良かったからな」
思わず長州の替え歌まで披露してしまう自分。我ながら絶好調だったが、あまりに子供っぽすぎて自己嫌悪に襲われた。
それからは例のアーケードまで黙々と行進。豆腐屋の前も無言で通過する。勝彦と街並について語り合った記憶はない。どちらにとっても珍しい景色じゃないし、勝ピーは歴史なんて興味ないのだ。
「暑い暑い暑い!」
「我慢だハックン! もうすぐだっ!」
そろそろ梅雨が明けそうな日の夕方は、とにかく暑い。肌にまとわりつくような湿っぽさが不快感を増すばかり。
隣の野郎は、シャツだけ見れば白。漂白剤たっぷりかもしれないが白。しかしもじゃもじゃの毛が実に爽やかな……わけがない。死ぬほど暑苦しい。
………。
でもあんまり太くねーんだよな。レスラーを目指してるとはとても思えない軟弱な身体。思えないというか、目指してないんだろうが、けどもうちょっと鍛えるべきだ。ハイブリッドボディの勝ピー。なんて気色悪い話だ。どうせならブッチャーだ。
「ハックン、にやついてるぞ」
「え?」
「いつもえーこちゃんに叱られてるよな」
「……勝彦様の将来を案じていただけだ」
「案ずるな、どうせ体を鍛えろって言うんだろ!」
判ってるならやれよと言いたい。よくプロレス会場にいるみっともないメガネデブになったらどうするんだ。祐子さんにすら見捨てられてしまうぞ。
義憤にかられたまま本屋に着く。例のデパートの手前で、歩道は自転車だらけ。たまに中学の同級生にでくわすから緊張する。
なんとなく後ろめたい。サッカー雑誌なら堂々と立ち読み出来るのに。
「ありゃいいが」
「うむ」
この本屋はプロレス雑誌が店内の棚に置いてある。ただしよく売り切れる。その場合は近くのもう一軒に行かねばならないが、そこの雑誌棚は外なのだ。つまりこの猛暑に耐えながら、男の裸を鑑賞せねばならんのだ。
緊張の面持ちで自動ドアをくぐる。ぐっと冷気が襲う。この瞬間の幸せを誰に伝えよう。
………誰にも伝える必要はないぜ。えーこが一緒なら五、六発グーパンチ喰らっただろう。いや、今日なら袈裟切りか。
「あった」
「うむ」
やたら重々しく勝ピーがうなづいた、そこはスポーツ雑誌の棚。あまり人はいない。サッカー雑誌ばかりが目立つ中に、二大雑誌が一冊ずつ残っていた。最後の一冊だと感動したくなるけど、元々入荷数が少ないことぐらい知っている。
表紙はデブだった。いや失礼、某大手団体の選手で、最近初めてシングルの王座を奪ったらしい。
「俺は認めん。なぁハックン」
「え? ああ」
雑誌が見つかった喜びもつかの間、勝彦の顔は険しくなった。それは例えて言うまでもなく、プロレスの権威となった姿である。
そして始まった演説。どちらかというと勝彦大先生は、表紙の選手が所属する団体を好まない。それは第一に選手の身体が太って醜いからである……と、何度も聞いた話。まぁ実際に酷い写真を見せられる以上仕方ないとも言えるが、毎週見ているのだからいきなりシェイプアップされるはずもない。
「…………」
ページをめくりながら黙り込む時間と、熱っぽくしゃべる時間。勝ピーを見ていると、プロレスは何となく湿っぽいスポーツに思えてくる。なぜだろう。
真ん中のカラーページには、若いレスラーのインタビュー。まるでアイドル写真のような笑顔すら、ヤツのしゃべりを通ると翳ってみえる。
「ここ読んで面白いのか?」
「もうすぐベルトに挑戦すんだぞ!」
「まぁ…な」
「ハックン!」
ちょっとアバラが見えそうな身体はあんまり格好よくねーな、とぼんやりする自分。薬漬けの身体はみっともないけど、この人たちはリアルで苦労してそうだからなぁ。
「ハックンはこんな団体のベルトなんて価値がねぇとか思ってんだろ! 甘いっ! それは甘いぜっ!」
「どう甘い」
「いいか、どんな小っちぇえ団体でもな、ベルトにはその魂がこもってんだぞ。え? その魂のベルトを外の奴に持ってかれたままでいいわけねーだろ?、なぁハックン!」
「判ったからとりあえず店内で怒鳴るなよ」
「う……、悪い」
勝ピーの演説は続く。プロレス雑誌はページ数のわりに中身が少ないし高いと思うが、ヤツのような利用法なら余裕で元が取れるだろう。
ただしそれは、まったく同じ台詞を年に何十度も聞かされて我慢出来る相手があってこそ。俺は月に一度ぐらいだが、数回目にして早くも辛くなってきた。
ベルトが団体の魂だなんて、毎回聞かされている話。一応それぞれは違ったベルトだけど、最近はどこの団体にも同じ選手がいるから、団体の魂なんて言われてもよく判らないのだ。
………。
まぁいいや。結局この雑誌がそもそもループしている以上、勝ピーだけにループするなという方が無理なんだろう。
勝彦様の解説は続く。まったく面白くない四コママンガすら解説されてしまう。つーか、解説が必要なマンガって時点で間違ってるだろ。
今度は最近ちょっと気になってる団体のページ。しかしモノクロ一ページしかなく、怒り出す。だいたい怒り出すと、この雑誌はいつも某選手ばかりひいきにすると編集長批判に至ることになっている。今日の結論も、インディで頑張ってる選手に対して失礼だ、というものだった。あながち間違ってはいないので、毎度のことだが俺は頷いておく。すると勝彦の機嫌はみるみる良くなっていく。単純なヤツなんだ。
アメプロのページは読まずにとばす。それも、紙が破けそうな勢いでめくっていく。八百長をカミングアウトしたのが許せないと、思っても口にすらしないほど嫌っている。こういう時に口を挟むととばっちりを食うので黙々と眺める。
再びモノクロ。読者のコーナーも読む。正直、勝彦の話よりくだらないことばかり載っていて、俺にとっては苦痛この上ないが、ヤツは熱心に読むから仕方なくつき合う。
たぶんヤツも、載っている意見に賛同はしていない。それどころか、蔑みの視線を送っているに違いないが、にも関わらず読む。それはきっと、自分が優越感に浸るための儀式なんだろうと俺は思いこんでいた。いや、たぶんそれは間違ってはいないが、どうやらもっと重大な理由があるらしいと、最近気づいた。
要するに、ヤツのプロレス仲間はリアルでこれほどバカなのだ。バカというか、雑誌に書かれたままを信じているというか、そういう連中と仲良くするには、情報収集が欠かせない……なんていうと格好いいよな。もっとやるべきことがあるだろってツッコミは、この際無駄だからな。
ようやく巻末カラーへ。ここまですでに一時間近くかかっている。本屋にしてみりゃ迷惑な客だから、数軒をローテーション組んでまわる勝彦。しかも、一応俺と読むのは一冊だが、売れ残り気味のもう一冊を続けてじっくり読まねばならない勝彦。木曜の夕方はたいへんな重労働である。
しかも重労働なのに誰にも褒められない。いつも祐子さんには徹底的にバカにされてるらしいし、学校の鼻つまみ者だ。プロレス者とは孤独な者だ。世の迫害にじっと耐えながら、週に一度の晴れ舞台を待ち続ける。そして今、時は来た。
「なぁハックン!」
「あ?」
「聞いてねーだろ」
「……たぶん」
無駄に盛り上がってしまった。相手がえーこなら垂直落下式DDT級の事態かもしれない。
「で、許せねーだろ、これ」
「………」
指さしたページでは、某団体の選手がポーズをとっている。
確かにその姿は越中のように格好良くもない。日焼けはしてるけど貧弱である…………が。
「許せる許せないで言ったら、俺は許せるだな。別にこれよりひどい団体はいくらでも…」
「ヒロピーッ!!」
「ぐぇ」
久々に勝彦火山の爆発だった。
当然のことながら不審な視線を浴びてしまったので、慌てて勝ピーの手から雑誌を取り上げ、店の外まで引っぱり出す。そのうちヒロピーは街中で話題の人になりそうだ。無駄に手際のいい自分が悲しくなってくる。
「まぁ落ち着け。勝ピーの言いたいことは判る。わか…」
「わかってねーだろ! いいか、あんなのはプロじゃねぇ! 学プロ以下のクソ芝居じゃねーか!」
「はいはい」
何度か背中を叩きながらなだめる。もちろん勝彦が判ってないとわめいたことぐらい知っている。ヤツがあの団体を毛嫌いしていることは、クラスのプロレス者だって周知のはずだ。
「だからなぁハックン!」
「その言い分なら暗記するほど聞かされた!」
「う」
「だから次に俺が言う台詞も判ってんだろ」
「……う、うむ」
アーケードの下をしばらく歩いていくうちに、ヤツの興奮はおさまっていく。
こういう時は、無人であることのありがたさを感じる。自分の声ばかり響くってのは嫌なものだ。普通の人間なら、見知らぬ他人だらけの方が静かになれるのだろうが。
勝彦は学生プロレスを嫌っている。それはどうも、某団体の若手選手がインタビューでそういう発言をしたのがきっかけらしかった。だからあくまで選手同士の問題であって、そもそも地元にまともな大学すらない俺たちにとっては、見る機会もないのだからどうでもいいような気がする。
…しかし、選手の発言を常に尊重する勝彦だから、言っても通じることはない。
それよりも、その若手選手のいた某団体にも学プロ出身選手がいることを、俺はたびたび問いただしている。学プロ出身をごまかすために、大学レスリング部に籍だけおかせてもらったことも含めて、結局学プロ嫌いなんてポーズに過ぎないじゃないか、と。
「悪かった、ハックン」
「気にすんな…と言いたいところだが、せめて俺の名を叫ぶな」
「う」
「自分の名なら文句は言わん」
「そ、それは難しい注文だな、ハックン」
ほとぼりが冷めたところで、もう一度本屋へ行く。もちろん再び雑誌を読むほどチャレンジャーではない。ただ勝ピーの自転車を取りに戻るだけである。
「これからもう一冊か?」
「いや、今日はやめとく。どうせ明日でも残ってるから」
「ふーむ」
この場で反省していても、たぶん家に着くまでに忘れて本屋の人だろう。
まぁ一人で読めば恐らく静かだろうし、たとえ騒ごうが俺になんの実害もないからどうでもいいけど。
「それより勝ピー」
「なんだ」
「日曜は海だな」
「はぁ?」
…………。
勝彦にすら教えてねーのかよ。ちさりんに任せて大丈夫なんだろうか。急に不安になった。
「うー、日曜って要するにあさってじゃねーか!」
「祐子さんにはちさりんが連絡すんのかなぁ」
「姉貴は呼ばなくたっていい!」
「同じ家にいて隠せると思ってんのか?」
「う…」
相変わらず浅はかなヤツだ。
とはいえ、勝彦にとって日曜はあまり楽しくない日なんじゃないか、との思いはある。別に見せびらかそうという意志はないが、きっと俺とえーこは見せびらかしてしまう。関係が改善されてしまったちさりんとそのオマケは、自覚が乏しいからなおさら大変なことになりそうだ。
「勝ピー」
「あ?」
デパートの前で信号待ち。ここで別れるのがいつもの経路だ。
どんなに無茶な出来事が起ころうと、ヤツの自転車がある限り繰り返される。そのうち不審な視線に耐えられなくなったら、次の本屋を見つけて……、出来ればそのころには俺じゃない誰かと騒いでほしいものだ。
「祐子さんとはいつも海行くのか?」
「……いや。姉貴はいつも盆しか帰らねぇから」
「盆だって泳げるだろうに」
「ハックン!」
ほーらもう大声だ。
とりあえず、見知った顔がないことを確認する。正直、同じクラスの奴ならむしろ安心出来る自分が悲しい。
「ハックンはそれでもこの町の住人なのかっ!」
「はぁ?」
「いいか、お盆の海といえばクラゲだ。そんな海で泳いだらどうなる! なんにも分かってねーなハックンは!」
「うーむ…」
カンニングしたんじゃねーかと疑いたくなるほど、ちさりんと同じことを言う。確かに言われてみればそうなんだが、しかしここまで根本からバカにされるほどのことだろうか、とも思う。だいたい、打ち上げられたクラゲを蹴って遊ぶのも夏の風物詩じゃないか。
信号が青になる。勝彦はまだ少し興奮していて、色が変わったことに気づいていなかったが、さっと俺は指さして、そのまま別れのポーズ。
「ま、とにかく日曜にまた会おう」
「ハックンは泳げんのか?」
「昨日の授業も覚えてねーのか」
「あ、悪い」
最後まで脱力感に襲われたまま別れた夕暮れ。一人きりになった途端に蒸し暑さでめまい。きっと心労が祟ったのだ。
帰り道。特に理由もなく、彼女と歩いた道を辿る。川へと向かう急坂で、生ぬるい風に吹かれながら少しだけ潮の香りを感じた。
あの橋でも―――。
いつもは背を向けてばかりだから、川はあのドライブインとつながっていた。あさってはどうだろう。やはりサイパンやハワイにつながっているのか? それは嫌だな。ため息をついて、堤防の道を小走りに駆け抜けた。
俺はプロレス者じゃない。そんな言葉が言い訳に聞こえたらおしまいだ。なぜか思い出した安っぽいテーマ曲を、いつの間にか口ずさんでいる自分がいた。




