かけらの祭礼
「どこに行く?」
「さぁ…、街に出るの?」
校門でみんなと別れて、しかしすぐに近所の橋で立ち止まった俺たち。もちろん、さんざんに冷やかされた。えーこがいくら否定しようが、他の六人にとってこれはデートなのだから仕方ない。
……俺もそう思ってるってことだ。うむ。
欄干にアーチ形の装飾が施された橋の真ん中に立ち、上流側を見渡してみる。右手には清川姉弟が川辺の道を進んでいく姿。祐子さんのバイクが似合わなすぎて気になるけれど、弟の自転車とともに視界から消えた。祐子さんはああいう人だし、使えればいいって感じなのかな…。
「そっちの方に行きたい?」
「なんかあったか?」
「タンメンのうまい店とか」
「興味ないな」
ともかく、橋に用があるわけではない。今必要なのは行き先を考えること。俺は元々計画性のない男だからこんな場所で悩むのだが、えーこもそうなんだとしたら前途多難だ。
時刻は午後四時半。さらに用件がある以上、あまり時間もない。とりあえずどこかへ向かい、着いてから考えるという戦法では遅すぎるような気がする。
「なぁえーこ」
「ん?」
だいいち、街というだけでは漠然としすぎで、果たしてどこかへ着けるのかすら微妙だ。
「ちさりんは何もらったら喜ぶんだ?」
「それは…、ひろちゃんに聞こうと思ってた」
そのまま見つめられて、俺は途方に暮れる。
確かにつき合いはえーこより長い。だけど俺はたぶん、そういうちさりんを知らない。千聡の女子としての領域に足を踏み入れることなんてなかったから。
……変な言い方だな。要するにまぁ、ちさりんが女子の友だちと話すことと、俺に話すことは違っていた。今も違ってるだろう。ファッションとかおしゃれとかごちゃごちゃした話題は女子向けであって、俺は対象外。話についていけるはずがないから当然である。
そうやって話題を使い分けながら誰とでも話せる千聡のことを、正直いえばわりと尊敬に値すると俺は思っていた。当人に言ったことはもちろんないけど。
「まず大雑把に決めよう。食い物かそうでないか」
「食べ物はちょっと…」
首をひねるえーこ。まぁそうか。食べ物を学校に持って行って渡すという時点で、チョイスの悲劇が頭をよぎった。
もっとも千聡は勝ピーほどいやしくはないから、喜んでその場で開けるかも知れない。食い物の好みならそれなりに把握してるから、俺にとっては選びやすいのだが……。
「よし、それならリボン」
「………」
「は冗談として」
「うん」
今やえーこのトレードマークとなったものを贈られても困るのは目に見えている。あー難しい、どうせならギャグで済ませたい。同じ髪につけるものということで白髪染めとか育毛剤とか。うむ、それだ。
「ひろちゃんって真面目に考える気がないの?」
「う、…悪い」
「悪い」
おかしい、まだ口に出してなかったはずだ…と思ったけど、どうせ顔に出てたんだろうな。反省。
うーーーーーむ。
「ヒロくん」
「え?」
「真っ赤なスカーフ」
「えーこって真面目に考える気がないの?」
「……真似しないで」
真似したくなるだろ、なぁ。
というか、いくら田舎のテレビは再放送だらけといっても、今時こんなギャグを口にする女子高生がいていいのだろうか。ついでに、それを一発でギャグと見抜く男がいていいのか。
要するに似たもの同士でおめでとうってことだな。まさしく自画自賛。
「とりあえず、身につけるような物でいくか?」
「…そんな感じで」
向こうがひるんだすきにさっと決める。なかなか手際がいいけれど、この程度の取り決めでは相変わらずほとんどイメージが湧いて来ないのも事実。えーこの方が得意だろうから任せてしまおうという思いも、少なからずある。俺という人間にセンスという言葉など無縁なのである。
自転車のえーこが右で俺は左。いつもと逆に二人で歩道を進む。彼女のカバンは自転車のかご、そして自転車は身体の右側にあるから、この並びなら…と思ったけど、どうも落ち着かない。
おかしいよな。二人の並ぶ位置に決まりがあるはずもないのに。
「えーこ」
「え?」
「ここは俺に任せろ」
「………」
ちょっとだけ躊躇して、自転車のサドルを渡す彼女。二人の位置が入れ替わって、いつもの配置におさまると、なんだかこれからの買い物までうまくいきそうな気がする。ついでに、かごに詰め込まれた二人のカバンも楽しそうに見えるが、間違いなく気のせいだろう。
風に揺れる欅の葉。川沿いの道は、いつもなら同じ制服が並んで帰る時間なのに、今日は見渡す限り誰もいない。大人は車に乗るから、いつも子供しかいない街? だけど、いるところにはいるのだ。
「デパート入ったら怒られたりしない?」
「なんで怒られるんだ?」
「男子と女子が一緒だから…」
そういえば去年の春、そんなことを心配する奴が確かにいたことを思い出す。中学校は学区が違うとどうとかいろいろうるさいし、勝彦お得意の不純異性交遊だし。
もっとも、不純って何だろう。中学生の男女が神社巡りしたら、不純どころか表彰されてもおかしくない。今時こんな信心深い中学生がいるだろうかと、大人は感嘆の声をあげるのだ…。
「………」
「えーこは手をつなぎたい子なんだな」
「うん」
ちょっと意外だ…と言おうとしたけど、少なくとも今の自分にはまったく意外じゃないから口にするのはやめておく。
グーパンチも平手打ちも、たぶん彼女にとっては同じこと。それは確信しているとかいう以前に、予感としてある。そして俺にとっては、その他大勢に紛れずに、確実に自分が注目されているという安心感みたいなものがある。
「俺はまだ、公衆の面前でやる覚悟ができてない」
「公衆なんていないような…」
肉体的には負担が大きいけどな。
「そんな残酷なこと言ってはいけないぞ」
「はーい」
確かにびっくりするほど人はいない。ただでさえ人口が減り続けてるらしいし、買い物はみんなバイパスに行くから仕方ないけれど、本当に十万都市なのか怪しく思える。
まぁそれでも上流側の橋を左折すれば、車の列。どんな車の中にも必ず一人はいるから、一応言い訳は成立する。言い訳っつーか、冗談抜きに恥ずかしい。
四車線の道は、わりと最近まで二車線だったのを広げたばかり。なんだか急に町が新しくなって、そしてスカスカになっていく感覚だけど、それではネガティブ過ぎるから、便利になったって言わなきゃいけないんだよな。
死んだじいさんは、舗装されたばかりのアスファルトのにおいが好きだった。俺もちょっといいにおいだと思ってた。
「こっち?」
「まぁ、なんとなく」
一つ目の交差点で右折すると、えーこが首を傾げる。
気持ちは判らなくもない。まっすぐ進んだ方が道も広いし、こちらが近道というわけでもないから。だけど俺はいつもここを通るのだ。正確にいえば、通らされたのだ。
「豆腐屋があるぞ」
「ヒロくんちには来るの?」
「たぶん来てる」
「うちは引っ越す前は来てたけど…」
この道は山王の上社が接している古い道だった。別に行商する豆腐屋に歴史があるかどうかはともかく、こういう景色を必要以上に喜ぶ奴がいたから、わざわざ通っていたのだ。
「通ったことなかったか?」
「…あんまり」
古いと言ってもやっぱり道幅は広げられて、左右には変わり映えのない町並みが続く。それでもえーこはしきりに辺りを見回している。
「ヒロくんはこの町が好きだよね」
「いや、これは…」
良の真似だと言おうとしたけれど、彼女がそれに気付いてないはずがないのでやめた。
あのマイ・ペース野郎にとって、三年前の俺はやっぱりそう映ったのかも知れない。まるで自覚はない…どころか、普段は悪口ばかり言ってるのに。
「えーこに川南でも案内してもらわないとな」
「うちに来るってこと?」
「え、…い、いや、そういうわけじゃ」
そのまま会話が途切れて、やがて辿り着いたアーケードの廃墟。
彼女の自転車がカラカラ回る音は聞こえないけど、邪魔する者の姿は目にすることのない道。誰も聴いてないラジオ。遠くで車の排気音。熱風をまき散らすエアコンの室外機。開いてる店がなぜ潰れないのか不思議だ。
こんなアーケードに、何がある?
僕と君はこんなアーケードで何を思う?
「結局、ここなんでしょ?」
「他に候補があれば遠慮なく言ってくれ」
「さぁ…」
アーケードが交差点で途切れたところ。それは何の工夫もない行き先、街の中心にあるデパートだった。
赤字続きで何度も売却されて、微妙に名前も変わったが、それでも父親曰く「我が地方唯一のデパート」らしい。駅前とか隣の市にもあるじゃねーかと、当時小学生の俺が疑問を投げかけたら、あれはスーパーでここはデパートなんだと返された。未だに理解出来ないままだ……けど、この際そんなことはどうでもいい。
地上五階建のビルは、どこか白がくすんだ感じ。それでも周囲に人の姿を確認できる。見るからに年老いた人が多いけど、高校の制服もちらちら見える。同級生に見られたら困るな…と一瞬考えたら、思わず顔がにやけてしまう。
「どうしたの?」
「いや、ただの妄想だ」
「ふぅん…」
「気にしないで案内頼む。どこ行っていいか判らない」
「…世話の焼けるひろちゃん」
堂々と教室で宣言した俺たちが、今さら何を恥ずかしがるのだ。あほらしくなって笑ったらばっちり見られていた。まぁしょうがない。どっちにしても彼女に頼るしかないのだ。
正面玄関から入った先にはドムドムがあって、半分はバス待合室みたいなベンチに老人が休む景色。とりあえず涼しい。いつもなら残り半分は高校生のはずだが今日は少なめで、うちの制服は見かけない。まぁ、学校帰りに立ち寄る連中が今頃いる方がおかしいのだ。ゲーセンとかお好み焼き屋ならともかく。
ベンチの老人を無視して進んだ先は、左右に化粧品などの売り場が並ぶ。並んでいることは知っているけど、ここはいつも全速力で通り過ぎる。下着売り場もどっかに混じってたような気がするから、男は立ち止まるのも恥ずかしいと思っていた。
………。
覚悟を決めてえーこの後を歩いたのだが、なぜか売り場を通り抜け、そのままエスカレーターに乗ってしまった。ほっとする一方で、ならどこへ行かされるのかと不安になる。
二階は婦人服。通過。三階は紳士服、礼服。通過。彼女の背中越しに「ちょっとーでかーけってーみーまーせんーか」と愉快な歌を聴かされながら、ただ上へと向かう。謎だ。まさか降りるのを忘れているのでは…。
「最上階か」
「………」
問いかけにも無言。そりゃまぁ、問いかけるまでもないことだけど。
この階はおもちゃ売り場があって、奥には食べ物屋が並ぶ。時間がないというのにわざわざ何かを食べるとは思えないが、●ティちゃんグッズを買うというのも冗談がきつい。そういえばちさりんの部屋には、とりあえずネズミかウサギみたいなのの置き物があったな。いや、ネズミと言って蹴られたからウサギだ。
「…………」
「え?」
いきなり立ち止まったえーこ。何か怒らせたのかと思ったが、別にそういう顔ではなかった。
なら…と辺りを見回して、目の前で何やら開催されていることに気づく。
「ダイトウキイチ?」
「当たり」
「…………」
いや、漢字のテストじゃあるまいし。
目の前の催事場では、文字通りワゴンに沢山の陶器が並べられ、数名の老人が物色中。これは………………まさか?
「心配しなくても、ペアのマグカップぐらいあると思う」
「はぁ…」
これは身につけるものなのか…とため息をついて、じっと彼女の笑顔を見た。そして俺は背中を向ける。
「エレベーターんとこで待ってる。えーこが選んでくれ」
「え?」
彼女にたとえ悪気がなかったとしても、やはり嫌になる時はある。早足で会場をすり抜けて、一番奥に見える扉へ向かい、そばにあったベンチに座る。木製のベンチはガタンと音を立てた。
こんなところで座るのは小学生の時以来だ。
ため息。視界の端に見える会場で、ぽつんと立つ彼女が見えたから、もう一度大きく息をついて下を向く。
どうして俺はここにいるんだろう。あまりに衝動的だったから、いざ座ってしまうと後悔ばかり。それなら戻れよと思うけど、正直言って戻っても彼女に合わせる顔がない。
………。
いっそこのまま帰ってしまおうか。
それもダメだよな。だって俺はな………。
……………。
そうだ。脱ネガティブだ。
「よし!」
「わっ!」
勢いよく立ち上がった瞬間、間近で悲鳴。
なんのことはない、目の前までえーこが来ていたのに、俺はまったく気づいてなかったのだ。
「……えーと、ヒロくん」
「………」
「いろいろごめん」
「こちらこそ、…ごめん」
どの面下げて彼女に会えるんだと思ったが、覚悟を決めて見上げた顔は、別にさっきと変わったところがない。ついでにその両手にも、さっきと変わったものはなかった。
「ヒロくんは反対かもしれないけど、…私はカップを贈りたい」
「反対と決めたわけじゃない」
「なら一度確かめて」
「………」
一瞬覚悟が揺らぐから、もう一度気合いを入れる。越中になったつもりで、いきなりシャツは脱がないけど、ぐっと握り拳に力を込めて。
恥ずかしくはない。どうせ俺はこういう奴なんだ。
「いい仕事ですねぇ~!」
「え?」
「練習だ」
「…それはしても無駄だと思うけど」
かなり遠くにいた老人がこちらを見て、目を背けた。もしかしたら俺はバカなのかも知れない。ポリポリと頭をかいて、彼女の後を進む。
それにしても大陶器市だ。入り口付近に並んでいるのは別に贈答用なんて代物じゃなく、値札も安い。もしもペアのマグカップがほしいなら、何もここで探す必要はないだろう。名前のわりにはさして広くない会場で、きょろきょろと彼女の後をつけながら何度も首を傾げる。どう見てもそれは単なる不審人物だった。
「これだけど…」
「はぁ」
中心部に近いあたりに、少し高めのコーナーらしき区画があった。そこに箱入りのカップが数セット。彼女が指さしたのは……。
「メオトヂャワンって書いてあるが」
「夫婦に限るわけじゃないので…」
そりゃまぁ、購入の際に身分証明が必要なわけじゃないけれど、やはりこの名前には抵抗がある。抵抗どころか、悪い冗談って感じだ。
うーむ。
しばらく首をひねって、それから周囲を見回す。せめてもう少し穏当な品物はないんだろうか。
「……一つ質問していいか?」
「どうぞ」
「えーこはこの名前で選んだんじゃなくて、たまたまこれが一番良かったんだよな?」
「そう思ってください」
「はぁ…」
もう一度ため息をついて、辺りを見回して、またため息をつく。
なるほど、他のカップはカップで問題がある。夫婦の心得とかぐちゃぐちゃ書かれてる茶碗は冗談じゃないし、洋風のカップもどことなくピンとこない。何より、あの二人に洋風というのは似合わない気がしてくるのだ。
「それと…、ヒロくん」
「ん?」
「箱には何も書いてないので…」
他の店で探せばもっとマシなものが見つかるのでは、と頭の中でぐるぐる回る疑念。しかし他を回ってもやっぱり似合わないものしか見つからないかも…。
あーーーーー、困った。いっそ総理大臣湯呑みでも買ってやろうかと自暴自棄になって、ようやく冷静になる。
「あなたの熱心さには負けましたっ!」
「……えーと」
「オヤジくさい趣味の野郎と年代物の自転車を駆る女子にはお似合いだ」
「難しい結論ですね」
苦笑しながらえーこは「夫婦茶碗」を持ってレジに向かう。ぼんやりとその様子を見送った俺は、支払いの半分が自分だということにようやく気づき、慌てて後を追う。そういえば値段をまったく見てなかったぞ。
……………。
値段はまぁ、妥当な範囲だった。元々がそういう品物なんだから当たり前か。見慣れた包み紙にくるまれた箱に、もう「夫婦」の面影はない。そう思いたい。
「時間は……五時半か。早いな」
「早く行かなきゃならないでしょ」
「一つ質問」
「なんでしょう」
再び二人並んでエスカレーターに乗る。
聞こえるのは相変わらず同じフレーズばかり。この歌聴いた時にはもう出掛けてるじゃねーか、とツッコみ続けてもう何年になるだろう。
「用がなかったらもっとじっくり選ぶのか?」
「うーん、……あんまり変わらないと思う」
外界とつながったままで、だけどそこかしこに持ち込まれた停滞感や、住み着いてしまったけだるさに足を取られそうな場所。僕はこの遺跡にも似た世界の空気を吸っては吐いて、空白の過去を取り戻す。
ショーケースに保存された一ヶ月前の僕。壁に染みついた思い出。切れかかった蛍光灯のオートマチックな点滅。君はまだ隠れたまま、きょろきょろと落ち着かない僕を見守っている。
「ひろちゃん」
「ん?」
「自転車取って来たら良かったね」
「……そうかも」
時間があるなら、別に歩いたって問題はないけどな。自転車だとえーこと話せないし。
アーケードには向かわず、デパート前の道を進む。市役所の交差点で信号待ちをしながら、ちらっと彼女を見た。陽射しはさすがに夕方って感じだけど、まだ何もかも見渡せるほどに明るい。
「そういやぁ」
「………」
「……………いや、なんでもない」
ふと一つ疑問が浮かんで、口にしかけて慌ててごまかす。
ごまかした時点でもうダメなんだが。
「祐子さん?」
「……………うむ」
「それで?」
「まぁ……、今日は学校どうしたんだろ、と」
俺という人間には他に秘密がないのか、と自分に呆れる。それから、いつもワンパターンの反応ばかりしてるからダメなんだと反省。
ともかく、ばれてしまった以上今さらごまかすのも面倒くさい。それに、疑問自体は別に後ろめたいことでもない。
えーこはしばらく黙ってこちらを見ていた。信号が青になっても、数秒は変わらぬポーズで。怒っているわけでも苛立ってるわけでもないから、却って俺は困惑する。
「かなり無理して休んだって聞きました」
「え?」
「今ごろ学校に戻ってると思う」
信号を渡って、まっすぐ進んでもたどり着けなくはないけれど、歩道がないと並んで歩けないから左に折れる。
大きなケヤキの木の下を歩いて、やがて奥の細道と書かれた石柱を右へ。
「悪いことしたんだな」
「楽しみにしてたって言ってました」
「いつ?」
「えーと、休憩時間」
「連れ……、いやなんでもない」
「蹴っていい?」
「未遂だから許してくれ」
静かで活気のない町の、中途半端な広さの道はゆるい下り坂。そのまま川へと続いている。
祐子さんが今日の反省会を楽しみにしていたことは、もちろん知っている。俺たちの予定に関わらず、四時までに終わることになっていたから、忙しかったんだと想像も出来た。
それでもどこか違和感は残る。いつものネガティブ思考が首をもたげてきたから? そうかも知れない。俺が主役のイベントに価値なんて…。
「祐子さんは…、私と同じぐらい嫉妬深いと思う」
「はぁ?」
老舗旅館の看板が目に入った瞬間、聞こえた台詞。思わず振り向いて、だけどぽかんとしたまま目の前の顔を見つめた。
脈絡のない話題。いや、祐子さんをどう評価するかという以前に、自分は嫉妬深いと堂々宣言しないでほしいと思うのは俺だけだろうか。
………俺だけか。
どうせ困るのは俺一人だし、困る必要すらない、困るなんておかしいって言い方すらあるわけだ。世の中の風は厳しいねぇ。
「一応断っておきますが」
「うむ」
「祐子さんがヒロくんを好きだって話ではありません」
「そうですか」
「そうです」
これまた言い切られて、実害はないけどどこか釈然としない。
どこをどう考えても、俺にとって祐子さんがそういう対象にならないように、祐子さんの視界に俺が入るはずはない。けどばっさり切り捨てなくともいいじゃないか、なぁ。
………。
それを言うことはこの身を危険にさらすんだよな。
「なぁえーこ」
「………」
下り坂がきつくなって、自転車のバランスに意識が向かう。
なんだかもう自分の物になってしまったみたいだ。
「それもトイレの話題なのか」
「休憩時間です」
いったい何を話していたんだろう。祐子さんがあの場で誰かに嫉妬するとも思えないから、そういう場面が想像出来ないまま、川が近づいてくる。ここは高校の下流側、もう小型の船も横付けされて港のようだ。
色の落ちたアスファルト。川沿いの道は中央の分離線も消えかかって、ただ夕方の光を照り返す。自転車のサドルも一瞬光る。行儀良く二つ並んだカバンも。
「ひろちゃん」
「ん」
「ご飯は何で食べてる?」
対岸には緑、そして古めかしい倉庫の群れ。
「茶碗」
「………」
「プラスチックの」
この街に住んでいればつまらない景色だけど、日曜になれば観光客もいる。えーこにとってはどうだろう。今はあまりきょろきょろしてないから、それほど珍しくはないってことかな…。
「プラスチックは軽すぎない?」
「もう慣れた」
「原因がラーメンだって、お父さんは…」
「俺から言ったことはない」
「そう…」
遠ざかっていた記憶。
確かそのころテレビでやってたアニメの茶碗がほしいと嘘をついて、それから二度ぐらい嘘を重ねた。本当に陶器じゃダメなのかなんて問われても困る。いや、さっきがそうだったように、どうでもいいのだろう。だけどそれを意地になって守ることに、何か価値がありそうな気がしていた。そしてもう一つ、守っていた方が気楽だった。
いつかのバス停を通り過ぎ、前方に橋へと続く坂が顔を出す。もう一度こっそり彼女の顔を覗こうとして、目があった。
「自販機ならそこにあるけど…」
「これからはタカリのえーこと呼んでやろう」
「ぶー」
別に何か飲みたいってほどでもなかったけど、暑いことは暑かった。
ちょっと悩んだ末にお茶のペットボトルを一本だけ買っておく。その間、えーこの右手は俺の左手を掴んでいる。俺が抵抗出来ない時をねらって手をのばしてくる彼女は、策士というより卑怯者だった。
「さぁ中津国までレッツラゴーだ」
「あ…」
勢いよく身体を反転させると、その拍子に彼女の指が離れる。
それは俺にとっては単に出発の合図だったけど、えーこの漏らした声がかすかな後悔も呼び起こした。それは冷たい仕打ちだと、非難されそうな気がした。
坂を登る。いつものように家路を急ぐ車が続いていくそばで、歩道だけは人影も少ない。無言で並びながら、だんだん息苦しくなっていく。
「温水プールだな」
「え? ………うん」
とりあえず目の前にあったから口に出してみたが、却って微妙な空気が流れてしまった。
まぁ彼女は毎日通ってるんだから仕方ないか。もう一度チャンスがあれば良かったけれど、そのまま橋のたもとに着いてしまう。ずいぶん短い坂だった。
…………。
一度大きく息を吐いて、青信号を確認して踏み出した左足。
「少し涼しくなった?」
「この前よりか?」
「さっきより」
曖昧に笑う。
デパートの中はもっと涼しかったと思うけど、それ以前と言われたら仕方ない。とりあえず緊張は解けたから笑ってみた。顔を見合わせて、彼女も笑う。
幅一メートルほどの歩道に並ぶ俺たち。彼女の左に続いている、白く塗られた鉄製の欄干の隙間には、茶色と緑の混じった景色。いつもより水の見えるまでが長い気がする。このままどこまでも干上ったままだったら、今からでも駆け下りて…。
「妄想中」
「かもな」
穏やかな表情のまま、また手をつないでいた。
子どもの頃はこんなふうに誰かと並んでいた。じいさんと川を見に来たことはあった気がする。幼稚園のころの自分にとっては、ここだって遠い彼方だったのだ。
「もう効き目がなくなった?」
「そういう目的じゃないと思ってた」
「………」
返事の代わりに、指先に力が加わっていく。
もう夕暮れだから、そして車のヘッドライトは歩道を陰にするから…。いろんな言い訳が思いつく自分に呆れる。
「次はどうしようかな…」
「何を」
「やめさせる方法」
ゆっくりと橋の継ぎ目を確認しては、二人並んで踏み越える。自転車は小さく弾み、その衝撃がわずかに右肩を揺らす。少し離れた、車のゴトッゴトッというリズミカルな響きは、もうどこか余所の国の出来事になっていた。
「なぁ」
「ん…」
「ほんっとーーーーーに、やめさせたいのか?」
「…わりと」
欄干の隙間が暗く輝き始めた刹那、だらんとぶら下がったままの左腕にもう一度力を入れてみる。
「それは無理だ」
「どうして?」
「それは……」
答えるよりも、まず苛立つ。誰に…というわけでもなく。
たとえばこの場の空気にすら、腹を立てそうな自分がいる。
「たぶん、あれがないと俺は平静でいられない」
「そうなの…」
やがてちらちらと視界に入るノイズ。
「ヒロくん」
「………」
「一緒に妄想できたらいいなーって」
「へ?」
思わず顔をあげたら、彼女の髪は欄干の鈍く光る平面に流れ、その向こうに平らな大陸。それは雄大な景色に思えたけれど、もう一度戻ってきた意識は繋がれた二人の腕に戻って、俺はちょっと赤面する。
もう何時間も繋いだままなんじゃないか。
「ひろちゃんに質問」
「今さら断ってするほどの質問なら却下」
「ぶー」
「ふーうー」
前後に大きく腕を振る彼女。そのうち脱臼しそうだけど、それでも離そうとはしない。
「ということでひろちゃん」
「難しい質問だな」
「からかってる?」
「おそらく」
今度は立ち止まって、じっとこちらを見ている。
何か方法を考えているのは判るけど、このポジションで手を離さずに出来ることは…。
「とにかく質問!」
「おう」
「ひろちゃんは妄想したこと全部覚えてる?」
「え…」
てっきり足を狙われると思っていたから、一瞬面食らって思考が止まる。
一度深呼吸して、それから質問の意味を考えた。自分が妄想して、自分が覚えてないって状況…。
「なぁ、まさかとは思うが」
「なんですか?」
その瞬間の彼女はちょっと意地悪な笑顔だったから、ふっと息を吐いて再び左腕に目をやった。もちろんまだつながれたまま。
このままじゃ頭も掻けないし、肩を回すのも難しい。思った以上に不自由なポーズだった。
「つまり、俺は妄想しながらゴロウになってないかってことか?」
「妄想とか言いながらツルさんに浮気してないかってこと」
「どうやってそこまで飛躍するんだ」
「さぁ…」
ちょうどその時、一台の自転車がこちらへ向かってくるのが見えた。慌てて欄干の側に自転車を寄せて、不自由な姿勢のなかで二人の手が離れる。
…………。
白髪のオヤジがふらふらと自転車を漕ぎながらすれ違う。たとえ見知らぬどこかの酔っぱらいでも、この町では他人で済むとは限らない。また顔が少し火照りはじめた。
「今朝目覚めた時…、見てた夢を忘れていたから不安になった」
「夢なんて覚えてる方が珍しいだろ」
「……たぶんそう、だけど」
前方から人影は消えた。ついでに反対側も確認したが、同じく誰もいない。
それでも避けたままのポーズで、橋の上に立ちつくす俺たち。夕焼けの光が肌を刺して、絡みついてやがて動きを止めてしまうような感覚に襲われる。
「もしかしてゴロウに浮気してたんじゃないかって思った」
「はぁ…」
「でも目が覚めたらヒロくんが大好きなんです」
「俺だってえーこが好きだぞ」
結局は他人に聞かせられないような恥ずかしいことばかり話して、最後は笑う。こんな中身のないやりとりでいいんだろうかと、俺は悩むべきかも知れない。残念ながら、えーこが可愛いっていう時点で思考が止まっているけど。重症だった。
「要するに、えーこは朝から妄想にいそしんでいるわけだ」
「………」
「その妄想に基づいて俺を責める。あー理不尽だ」
「だって……、ひろちゃんは一日中だから」
再び近づいてくる細い腕。
しかしこの状況で黙って受け入れるわけにはいかないのだ。なぜ?
「俺なら、覚えてない夢は見なかったことにする」
「……そうしろって意味?」
「解釈は任せた」
自転車のタイヤが半回転する程度にゆっくり体を動かし、掴もうとする指先と距離を取る。そして、そんなどうでもいいことに集中していた意識が一瞬途切れた。
もしかしたら。
今までのえーこは、忘れてしまったことを何でもツルのせいに出来た。確かに自分じゃない者がいれば、安心出来ることだってある。結局それだけのことなのかな…と思ったけれど、えーこに確認する気にもなれない。
たぶん、してはいけない質問。なぜ?
「着いたね」
「うむ」
なぜ俺はゴロウをもっと利用しなかったんだろう。なんの迷いもなく悪者に出来る存在がいたのに、なぜ――――。
「自転車ありがとう」
「……好きでやったことだ」
答えの出ない疑問ばかり湧く俺はどこかおかしい。それだけが今判っていること。
目に映るもの。薄暗い世界でも、まだ紺色の名残りを感じさせる時間。縦に延びた輪郭は幼稚園児にすらなぞれそうだが、きっと書きあがったものはまるで似ていないはずだ。
自転車を止めて、かごに入っていたカバンを彼女に渡す。別に入ったままでもさして困らないだろうけど、そう思った時にはもう引き返せない位置にあった。
「ひろちゃんはお節介だよね」
「お互い様だろ」
「こんな時ぐらい黙って褒められてもいいのに」
「いーや、そうはいかない」
「どうして?」
「俺は意地悪だからだ」
「ふーん」
そうなんだよな。ため息をつきながら一つの理由にたどり着く。
自分はいつでもダメな奴であるべきだった。それなのにゴロウごときにネガティブな部分を押しつけるわけがないのだ。あんな奴のせいにするなんて勿体ないんだ。
完璧だ。きれいに答えが完成して、ちょっとした満足感に浸る。
「じゃあ、白い船の記憶は?」
「は?」
意味が判らず振り向いて、それから半ば無意識のうちに肩を回していた。今のうちだと心の声がした…のかどうかは自信がない。
「えーこの夢は川下りなのか」
「たぶん違うと思うけど」
「覚えてないのに断言するのか?」
「覚えてないからたぶんです」
この場所に立っていても、何かが変わることはない。
いたずら好きな子どものような目でじっとこちらを見つめる彼女は、さっきデパートにいた彼女だし、意地悪なことばかり口走る俺も同じ。そんな都合のいい展開が今さらあってたまるか。
その時、少しなま暖かい風が吹く。
彼女の髪を靡かせ、そしてリボンを揺らす。
「月曜は、もしかしたらって思った」
「………」
「だから自転車降りて、少し探したら遅くなりました」
「ふぅむ」
今日は月曜日だけど、今朝の話じゃないことぐらい知っている。
言われてみれば、確かにあの日のえーこは遅かったな。俺は俺で早く来すぎたから、そのときはあまり意識しなかったが。
「えーと、……ひろちゃん」
「ん?」
一度橋の下に向いた視線を戻すと、なんだか懐かしい顔があった。
懐かしい?
「ごめん、ちょっとだけ嘘」
「嘘か…」
たとえば、このリボンをどこかで見た記憶があったならどうだろう。
それならもしかしたら納得出来るのかも知れない。なぜ? なぜだ?
「教室に着いて、ヒロくんがいなかったらどうしようと思ってた」
「………」
「だからなるべくゆっくり行こうって」
「えーこはずる賢い子だったんだな」
「まぁ、多少は…」
照れ笑いの顔が可愛いから、なんだか笑顔になっている自分。
自分が嫌いだというわりに、えーこはいつも自信をもって俺を先導していた。だから今さらじゃないかって気もする。それでもやっぱり、彼女が先にいたら俺はそれだけで混乱していたはずだ。
「ひろちゃんの背中は広いね」
「まだまだだろ」
「何が?」
「…忘れてくれ」
確かに、こんな言い訳もあった。
俺を特別な人だと、「ヒロくん」と呼びたい人だと言ったのは彼女が先だ。それなら、きちんとした告白は俺から始めないとフェアじゃない、なんて。
……思い出しただけで馬鹿馬鹿しくなって、意味もなく視線を左右に動かす。まるで船を探すみたいに。
数えようのない長い時が流れて
繰り返しばかりの退屈な日々が過ぎて
今は手のひらからこぼれ落ちる雫。
だってここには青い空が広がって
ただ陽射しが身体に満ちていくばかり。
僕の不完全な指先を駆け抜ける
遠い昔に忘れた景色。
のび続ける爪のような影があるなら
飛び上がってもまたどこかへ辿り着ける。
蒸発して、
朽ちて、
枯れ果てて、
そして燃え尽きた。
だけどここにいる。
僕はここにいる。
手のひらのパズル。
背中に描かれた暗号。
空に溶けていく耳たぶ。
それから、うなじは川の流れ。
「ヒロくん」
「ん?」
ぼんやりしていた。
軽く肩を回して、声のする方を向こうとしたら、目の前に細い腕がのびてくる。
「気のせいか、少し背が伸びたような…」
「気のせいだろ」
えーこはしきりと俺の頭に手を当てて、自分との差を測っている。
彼女の少しだけの重みを感じる。
二ヶ月前にせいぜいミリ単位だった差は、今だって計れるわけはないから、それはどちらかといえば滑稽な景色。だけど、やっぱりえーこが可愛いからこれでいいと思う。要するに俺はただのダメな男だ。
「そこまで気にするようなことか?」
「うん」
「どうして…」
口ではそう言いながら、なんとなく納得している自分に気づく。
きっとえーこは、いつも俺を父親と比べている。えーこの話を聞く限り、背丈以外に似ている点なんて何もなさそうなんだが…。
「父親にはなれねぇぞ」
「まだ子どもを作る年齢ではありません」
「………」
「……今のは忘れてください」
あまりにも微妙なギャグに、一瞬凍り付いた景色。結構不用意なんだよな、えーこは。
落ち着かない表情のまま、彼女は欄干に片腕を置いて固まっている。俺は黙ってもう一度中津国に向き直る。彼女もやがて視線を移して、暗がりに姿を消しつつある景色に目を凝らす。
吸い込まれそうな空気の流れ。集中しすぎたら、それは却って俺たちを危険な何かに誘う景色だ。
「お」
「なに?」
何度も肩を回して、鉄柵にかけた指を少しずらしていく。冷たい金属の感触。きっとあの世界はそれ以上に寒くて、一晩だって生きてはいられない。
「影がのびた」
「はぁ…」
四月に測って、それから三ヶ月。自分で意識するほど変わるはずはないけれど、この身体が何一つ同じままってこともないだろう。それでもどうせ一年後にしか測らないのだから、一年間は同じ数字ってことにしてもいいよな。何も積極的に越えたいわけでもないし。
…いや、消極的にでも同じことだ。俺が彼女の父親よりでかくなったからってなんの意味があるのだ。
「あそこまで届く?」
「ここは高すぎるから無理だな」
車のライトが不規則に動くから、留まるはずのものだってゆらゆら翻弄される。二十一世紀に迷いこんで接続してしまった、か弱く声を発することのない者。
彼女は大きくなりたかった。別に数十メートルのひょろ長い身体じゃなく、どこにでもありそうな数字。どうでもいい目標。どうでもいいから、何かの機会に忘れてしまうだろう。
「ねぇ、…ヒロくん」
「………」
「お父さんは私をえっちゃんって呼んでた」
そこで一度息を吐いて、またこちらを向いた彼女。
「でもヒロくんにはえーこって呼んでほしい」
「えっちゃん」
「………」
「冗談」
「ハンマーパンチでいい?」
返事をするより早く伸びた拳。だけど、避けるに避けられぬまま立ちつくす俺の頬にちょこんと触れたものは、もうグーパンチと呼ぶようなものじゃなかった。
……えーこは困った子なんだ。
少しずつ下がっていく指先に、俺の少し不細工な指を差し出した。そのまま腰のあたりまで下降しながら、絡んでいく二人の指。
なんだろう。まるで少女マンガの恋人たちみたいだな。こんな橋の真ん中じゃ、あんまり雰囲気良くないけど。
「なぁえーこ」
「ん…」
「理想は…、やっぱり両方揃ってることなんだよな」
「たぶん」
それは僕の身体が覚えていたこと?
君と僕がこうして長い影を地上に落としていく景色。
君と僕の影が、ちらちら揺れながらつながっている景色。
「だけどそれは、ヒロくんに聞きたかった」
「え?」
「ヒロくんは両親とうまくいってますか?」
「…………」
それはもちろんおどけた調子。
僕には両親がいて、君にもいる。そうだよ、どこかの芸人だって言ってたよ。違ったっけ。
「いってない…ことはない」
「………」
「ただ少し、つき合い方が判らなくなってる」
「距離?」
「たぶん」
巨大な橋の下で、周囲よりも早く眠りに落ちる中津国。
いつか降り立つ俺たちは神になるのか、それともやはり船に乗る人草なのか。
「私のことは?」
「……まだ。ごめん」
「謝るようなことじゃないと思うけど」
物分かりが良すぎるから、いつの間にか距離を測れなくなってしまう。たいしたことじゃない。深刻に考えることじゃない。このままでも何が変わるわけじゃない。
たとえば良の父親みたいな存在なら、もっと違った今があっただろう。毎日マイ・ペースなんて聴かされたら発狂しそうだ。
「えーこはもう話したのか?」
「うん」
「どうやって?」
「口で」
「……三十七点」
「あと三点おまけしてください」
だけど俺が良の立場になったとしても、良がどうにかしたように出来る自信はない。その時はやっぱり経験者の奴に助けを求めるのか? 想像つかないが…。
アホか。
想像するだけ無駄だ。
「お母さんは、一度顔を見たいって言ってます」
「…………」
「聞こえた?」
「一応」
なんだか話がずれてきた気がする。いやまぁ、続けたい話題ではなかったけれど、このズレ方もそれはそれで困る。
しかし、そんな簡単に話すものなのか。出来るだけ隠していたいと思った俺の方がおかしいんだろうか。真面目に考え始めたら混乱してきた。
「念のため質問していいか?」
「どうぞ」
「反対されなかったのか?」
「何を?」
彼女の母親という第三者に審判される自分。それはやっぱり耐えられないほどの重圧だ。引き受けられるものと受けられないものは確かにある。
肩を回そうとして、そのたびにつないだままだったことに気づく左腕。
「こんな秘密もあります」
「秘密?」
「小さい頃はお母さんが嫌いだった」
「え…」
仕方ないから、軽く腕を振ってみる。
困った子はえーこだけじゃない。もう十年以上もやったことなかったけど、ごく自然に二人の手が揺れた。簡単だ。
「最後に……、えっちゃんって呼ばれなくなって、それから」
「たとえそれでも恥ずかしいぞ」
「そう? クラスで一番人気の格好いい男の子だって…」
「ダウト!」
逃げ回りながら周りをうらやんだって仕方ない。語ってしまえばささやかな歴史でも、それは作るものであって、黙って待つものじゃないから。
風が吹く。しばらく忘れていた車の排気音がまた聞こえはじめて、少し興奮しかけた気分も醒めはじめる。
眼下に発泡スチロールを探そうと、今ごろになって思い出した。こんな国に留まっているはずがない。あの二人にとってここは中津国じゃなくて――――、確か母親がいたんだっけ?
「えーこ」
「ん?」
そうだった。
聞かなきゃならないこともあったんだ。
「川南はお父さんが住んでたのか?」
「ううん」
そこで一度彼女は笑って、ゆっくり言葉を続ける。両親が結婚して家を買い、離婚で売り払って、今度は別の家を借りた。ややこしいけれど、古くからの住人ではない。だから例の人たちの子孫でないことは確かなようだ。
「じゃあお父さんは…」
「川の北から南に移っただけ」
「なるほど」
例の人たち。どこかから川南に流れ着いて町をつくったという三十六人衆の物語。祐子さんだけじゃなく、良とちさりんもあのエピソードが十万都市の起源のことだと気づいていた。そして言われてみれば、小学生の頃に俺も聞かされた記憶があった。
もっとも、俺自身はきれいさっぱり忘れていた。せいぜい南から北に移ったぐらいの記憶しかなかったはずなのに、ゴロウは気持ち悪いぐらい的確に物語った。三十六人衆が一人の女性を護っていたことも、それが確かに奥州の地からやって来たことも。
「ヒロくんの家は?」
「通りは昔の武家町らしいけど…」
だが山際家はあくまで農民。じいさんがいつも口籠っていたことは鮮明に覚えている。
今の屋敷は元々はばあさんが生まれた場所で、三男坊のじいさんは行き場がないから住みついた。じいさんがひがみっぽくなったのはそのせいだと、昔親戚に聞かされた覚えがある。
結局、たいした参考にはならない。まぁ今さら、決定的な情報が飛び出すなんて期待はしてないけどな。
ふっと息を吐いて彼女を見たら、カバンを開けていた。ここで開けたら川に落ちそうな気がして、少しだけハラハラしてしまう。
「どうぞ」
「あ、そうだっけな」
カバンから現われたのは元夫婦茶碗。例のデパートで買った時、彼女がそのまま自分のカバンに入れてしまったのだ。ふだんならカバンにそんなものを入れるスペースなんてないけど、今日はテスト最終日だからわりと余裕があった。
あくまで連名なのだから別にどちらが持って、どちらが渡しても同じこと。だけど最初に約束した俺から渡してほしいと、レジで金を払いながら頼まれた。えーこは何にせよ形にこだわる。俺にはよく判らないけど、拒否するほどの理由もなかった。
受け取って自分のカバンに押し込む。適当に突っ込もうとしたが、隣でじっと見られていることに気づき、仕方なく中身を整理してからそっと入れる。大事なのは気持ちであって、箱なんてどうでもいい……と、確か去年ちさりんに主張した。一撃で退けられたのは言うまでもない。
………。
おかしなもんだよな。一年経ったらなんでもなくなったことに、去年は胃が痛くなるほど緊張していた。
「もーそーちゅー」
「子どもみたいな真似はやめたまえ」
「ぶー」
ぶんぶん手を振る彼女。そりゃまぁ、既に手をつないでるから他に方法はないんだろうが、どんどん子供っぽくなっていく気がする。クラスではしっかり者と評判のえーこなのに。
まぁでも、千聡経由の情報はどこまで本当か判らない。俺をクラスで三番目とか平気でうそをつく女だからな………。
というより、クラスの女子が二十人いたとして、その中で三番目って具体的に何票なのだろう。あんまり誰が人気だとか聞かないから――俺の耳に入らないだけか?――、もともと票はばらけそうだ。一票でも入れば三位タイかも知れない、しかもその一票はえーこ自身かも知れない。うーむ、何の意味もないな。
正直、それでもえーこはみんなに評価されてほしい、と思う。評価されたらもしかしたら、ちさりんのように嫉妬に狂うかも知れないが、ちさりんのような自分という時点で想像もつかないからそれ以上考えるのはよそう。
「誰のこと考えてる?」
「こんな瞬間にもツルに浮気してんのか、俺は」
「そうなの?」
答える代わりに腕を振ってやる。んなわけあるか。
お返しとばかりにえーこも腕を振る。ますます対抗心のわいた俺は、思いっきり振り回そうとして、ふと彼女の腕の細さに気がついた。
「これぐらいにしとくか…」
「うん」
さすがに脱臼させたらまずい。彼女と一緒だと加減が判らなくなってしまう自分に呆れる。
…いや。
彼女というよりも、女子と男子の違いなんだろう。勝ピーにプロレス技かける時はまったく躊躇しないのだから。女子のことをよく知らないのに、いきなりつき合って手をつなぐなんて危険過ぎるのかも知れない。
「今は浮気じゃなさそう」
「そのココロは?」
「落ち込んでるから」
こういう時ぐらい顔に出ないようになりたい、と思った夕暮れ時であった。
いやいや、いつも落ち込んだ顔で妄想できれば、えーこの追及を逃れられると考えればポジティブスィンキング。あり得ない話をするのはよそう。
「けどなぁ」
「え?」
それでも落ち込むのに飽きたら、ちょっとした疑念が頭をもたげてくる。ちょっとしたどころか、体重五百五十トンぐらいありそうな疑念だ。もちろん意味不明だ。
「たとえ、たとえだぞ、えーこ」
「はぁ」
「たとえツルのことが好きだーって妄想があったとしても、それは俺がゴロウになってる時の話だろ? 違うか?」
「………」
いつの間にか、俺は身振り手振りを交えていた。まさに熱弁だ。さっきの良に見せてやりたい。
「つまり俺がツルを好きだってわけじゃない」
「はぁ」
「それを浮気と呼ぶのはおかしいと思わねーか?」
ちょっと最後は声がうわずった。
別に嘘をついたからではない。浮気浮気と大声で叫ぶ行為がたまらなく恥ずかしかっただけである。
「うーん」
「どうだっ」
「それは私も考えたけど…」
もう一度越中になれそうなぐらい気合いを入れて俺は立っていたが、彼女の反応はぬるかった。藤波にいなされてる気分だ。グラウンドコブラに気を付けろ。
「でもヒロくん」
「ん…」
「本当に二人は別々だと思う?」
「………さぁ」
勢いよく否定するはずが、どもっておかしな返答になってしまう。
別々という感覚を、俺は理解していない。いつもゴロウは「いた」というだけで、俺はただ途切れ途切れな記憶をつなぎ合わせて一人の自分を生きている。ゴロウは最初からいなかった、そう言ってもいい。
………違うか。
あの最初の体験があった。ドライブインで記憶をなくす直前、そこにいた俺のような存在はツルという名を受け入れていた。そういう一瞬は確かにあった。
「まだ流されてないって結論なんだよな」
「どちらかと言えば…」
もう一度、否定しようと努力してみる。結果は変わらないけど。
もちろんあの「祭」が失敗したとは思わない。それは彼女も同じだろう。何も変わってないわけじゃないから。
「まだ残ってると仮定して、それならもう一度流すのか」
「さぁ」
「さぁって」
もう俺の中に熱い男越中はいなくなって、なよなよとただ翻弄されている。
四十過ぎて結婚したサムライシローも、きっとこんな感じで変わってしまったに違いない。嘆かわしいことだ。
「これはあくまで直感だけど」
「直感?」
俺が肩を回したがっていることに気づいたえーこは、最後に強く握ってからゆっくり手のひらを開いた。
「流す必要なんてない、だって…」
「だって?」
「これは私だから」
次第に見分けがつかなくなっていく彼女の顔を、俺はじっと探していく。
「そして、あなたはヒロくんだから」
「………」
「でしょ?」
その瞬間、確かに何かがうなづいた気がした。最初のドライブインで名を呼ばれた記憶と重なっていく、吐き気のようなもの。
あの日の俺は、もしかしてドライブインに着く前からおかしかったんじゃないか。新たな疑念も浮かんでくるけれど、すぐに思い直す。途切れ途切れの記憶をつないだら、ネガティブだった自分を作るばかり。記憶にないことをつなげたらゴロウになる? そんなバカなことがあってたまるかって。
「それじゃ、今日はこの辺で」
「おう。気をつけてな」
「うん。ひろちゃんも事故らないで」
「事故りそうに見えるか?」
「そういう問題じゃありません」
最後にこつんとグーパンチを食らって別れた時、もう周囲は夕暮れを過ぎ、車のライトばかりが飛び交う暗闇に変わりつつあった。
独りになって、もう一度覗いた先は何も見えなかったけど、なんとなくそこに村がないかと探したくなっている自分。絶対にありはしない。その絶対という安心感が、果てのない闇に引き込もうとしている。
…………。
山際博一はここにいる。だから。だから終わらない? それは何よりもあり得ない結論じゃないか。




