三年目の浮気
チャイムが鳴る。カランコロンなのかキンコンなのか、昔父親と論争した記憶が蘇ったが、この際なんの必然性もないので瞬時に忘れることにする。
「ハックン、終わったぞっ!!」
「みんな知ってる」
当たり前のことを叫ぶ役目は勝彦様と決まっている。ある意味ではチャイムの一部と化した感もあるが、全般的には冷たい視線を集める方向とみて間違いない。
とはいえ、興奮する勝彦に呆れながら、どこかで同意する自分もいる。もうすっかり夏となった月曜の正午、外はミミズが干からびる世界だ。そしてそれとはまったく関係ないが、地獄のような期末テストは今ここに敗れ去ったのだ…。
…………。
敗れ去ったのはお前だとかツッコまないでくれ。そんなことは知っているのさ。ふっ。
「さーてと、勝ピーは今からどうすんだ?」
「何がだ」
これまた当たり前のことを聞いたにも関わらず、敵意剥き出しで返される。
ヤツはどうせ、俺が逃げ出すんじゃないかとか、どうでもいいことばかり考えているのだろう。まったく仲のいい姉弟である。
「この時間にやることって言ったら昼飯だろ」
「む…」
残念ながら今日の俺に弁当を恵んでくれる人はいない。えーこは月曜に弁当が作れない主義らしい。
嘘だ。単に早起きが苦手なだけ。
人間味があっていいぢゃあないかと朝はとりあえず讃えておいたが、テスト前なのでさして反応はなかった。もしかしたら拗ねられただけかも知れない。どちらにせよ、今後も俺の側から早起きをせがむことはないだろう。
「さ、さてはハックン!!」
「とりあえず叫ぶなバカ」
「わ、悪い。………さ、さてはハックン」
「………」
小声にして言い直せと頼んだつもりはないが、いちいち指摘すると三度目がありそうなので黙って少し冷たい視線を向けてみる。
勝ピーはこっちに指を突き出していつものポーズ。しかしそれもどこかせせこましい。何も声に合わせる必要はなさそうだが、いちいち指摘すると…。
「ハックンは、俺様が弁当を作ってもらえなかったとでも言いたいんだろうっ!!」
「うむ」
「ふ、甘い、甘いぜハックン!!!」
叫ぶうちにまた声がでかくなって、ついでにポーズも大袈裟になる。興奮したからだといえばそれまでだが、これでは新日に入団したところで中西みたいな筋肉バカが関の山である…って、なぜこいつの将来を心配せねばならんのだ。
カバンをごそごそ探り始める勝彦。時間にして一、二分。ざわついた教室の視線が離れるには十分過ぎるし、俺の集中力も切れていく。そろそろ眠くなってきた頃にようやくカバンの中から何かが取り出されたことに気づく。すでに弁当でないことだけは想像がついていたが、机の上には一枚の千円札。
「どうだ。これで今からリッチな昼食だぜ!」
「………」
今頃叫ぶなよと、ぼんやりした頭を何度か左右に振って、それから清川家は金持ちだったっけと考えて、そんなことが思い浮かんだ自分があほらしくなる。
間違いなくこれは祐子さんの金だろう。なんだかんだ言っても弟に甘い姉だ…が、これは非難しているわけではない。このようにリッチな姉ならば、俺も欲しいと常々思っているぐらいである。
「ふぅむ」
「…約束してんのか?」
その瞬間にテンションが下がったのが判る質問。
まだなんとなく、彼女が絡む話題は難しい。
「いや。えーこは自分の弁当食うだけ」
「ならレッツゴーだぜ!」
「どうすんだ。時間はあんまりないぞ」
ちらっと前方の壁を見る。
今は昼の十二時半。祐子さんは一時までには来るらしい。三十分という時間は、俺たちが飯を食うだけなら余裕だが、店を探すところから始めては厳しい。
「ハンバーガー食うにも往復二十分はかかる」
「ハックンは俺という男をまだまだ知らねーな!」
また立ち上がる勝彦。その行動だけで何をやられるかと俺はびくびくすることを、きっとヤツは知らない。
「いいか。川んとこでカップ麺。大盛りだ!」
「は?」
「しかも一人二つまでオッケーだ。どうだ!!」
「どうだって…」
いや、確かに俺は勝彦という人間をよく判っていなかったのだ。それだけは自信をもって言える。
………さて。
「まぁともかくさっさと行くか。遅れて叱られたら嫌だし」
「おう、楽しみだなハックン!」
俺はいつか、こいつに「リッチ」という言葉の意味を教えてやりたい。ふつふつと暗い情熱が湧いてくるのを感じながら席を立つ。
それでも一言えーこに断ってから…と思ったら、もう彼女はすぐそばに来ていた。毎度のことだが気配を消すのがうまい。比較の対象が勝ピーでは、誰だって一流の忍者になってしまうが。
カバンを手にした彼女の前では、千聡が机の向きを変えている。ということは…。
「あれ、ここで食うのか?」
「うん。ヒロくんは?」
「これからリッチな外食だ」
「ふぅん」
とりあえずリッチという部分に力を込めておく。却ってそれはイヤミに聞こえるだろう。そして勝彦は気づかない……んじゃ、誰に聞こえるのか謎だ。
それはそれとして、ここで弁当か。ということは良もここに来て、三人で飯? ちょっと不思議な組み合わせだな。
「そこで食べていい?」
「……汚い席で良ければ」
せめて消しゴムのカスぐらいは払っておくか。ちらっと表面を見渡して、それから隣でセット済の側を同じく確認する。とりたてて違いはない。ただの規格品の机。
ともかく、いくらカップ麺でも時間がないことに変わりはないので、ちょっかいもほどほどに教室を出る。えーこはもっと話したい顔だったけど、まぁ夕方があるから我慢してくれ。
………。
そう。今日の予定は祐子さん主催の反省会と、えーこと二人のデート。嘘だ、千聡様への貢ぎ物を探すのだ。プレゼントなんていつでも構わない気もするけど、えーこはなるべく早く渡したいらしい。それは自分の誕生日にはさっさと渡せってことだよな…。
「暑いぜ!」
「判りきってることをいちいち叫ぶな」
「…ハックン」
いつの間にやら昇降口。廊下でも十分暑かったが、やはり陽射しを浴びる場所は違う。
しかし足を踏み出そうにも勝彦の顔が迫っている。何か不満があるらしい。俺は至極当たり前のことを指摘したに過ぎないが、キレやすい若者を相手にするのは…。
「そんなこと言ったら小島はどうすんだ!」
「小島?」
誰だっけ、そんな名字はクラスにいねぇし……と、そこで気づく。気づく必要のない名前だったが。
「無言でラリアートじゃ盛り上がれねぇ」
「プロレスラーは街を歩きながら叫ぶのか」
「レスラーは二十四時間レスラーであるべきだ。天龍さんだってそう言ってる!」
「いや……」
真顔でこんな話題を振る男につき合わされる俺は不幸に違いない。そう結論づけてさっさと店に向かう。頭の中ではすでにカップ麺の組み合わせが決まっていた。バカにしておきながら、結局二つ食おうとしている自分がおかしかった。
「どうだハックン、まだ食えるか!」
「なんで最後がコーラなんだ」
「コーラ飲めたらリッチだろ!」
結局不毛な会話にいそしみながら、二十分弱の優雅な食事を終えて戻る。
と、昇降口に見慣れた顔が二つあった。
「キミたち、こんな時間に学校で何してるのかね」
「バカピーを待ってんでしょ、このバカ!」
ご丁寧にバカを二度も重ねられて、ちょっとだけめげた。
しかし、えーことちさりんだけが俺たちを待つ理由がどこかにあるだろうか。判らん。
「ちさりん、まさか逃げ…」
「さっさと履き替えろバカピー!」
「ぐっ…」
というか、バカピーで済ますのやめてほしいぞ。勝彦様のバカを俺が背負わされてたまるか。
もちろん、一度目のバカピーは俺が勝彦を巻き込んだわけだが、それはまぁなかったことにしてくれ。
「…もう祐子さんは来てるみたい」
「そうか」
だったら先に行ってれば…と言おうとして、なんとなく事情が飲み込めた自分。
付き添いの千聡がギャーギャーうるさいのも仕方ないか。彼女に注目されて少し緊張しながら靴を履き替え、さっと先頭に立った。
えーこはすぐに俺の左に並んで、旧校舎への廊下を歩く。テストの順位表はまだ貼られていない。当たり前だと思ったら、そこから少しだけ空気が澱む。目の前の景色は数百メートルだったり数センチだったり、行く末を幻惑するばかりで役に立たない瞳は、投げ捨てても投げ捨てても、まるでゴムでつながれたみたいに引き戻される。
それは天気がいいからだ。
薄暗い天井すら突き抜けるような、それは僕らが生み出した未知なるもの。
「旧校舎ってクーラーあったか?」
「あると思う?」
ふっと正気に返る。ちさりんの声だけで気分が沈んでいく自分に呆れて、ちらっと隣を見れば不機嫌な顔。暑い部室は誰だって嫌だよな…と目と目で会話をしてみたら、彼女の目は一瞬大きくなって、それから逸れていった。
何となく、彼女は妄想する俺に怒ってるだけのような気もしてきたが、そんなやりとりではなかった。根拠はなくとも断言することが大切だ。うむ。
ともかくじわりじわりと熱気が肌を刺す。それは夏がライブの季節だとかいう理由なら、まだあきらめもつくのだろうか。たとえライブの中身がモボショーワンマンショーだったとしても…と、結局妄想をやめられないまま部室に到着した。
薄汚い扉は開いたまま。その時点で内部の気温はおよそ想像がつく。
「あら、いらっしゃーい」
足を踏み入れようとすると、懐かしい声がする。
…などと言ってもあまり意味はない。祐子さんの左右には良とショー。いつもより少しだけ明るい部屋に、だけどいつもと同じ位置で並ぶ姿に、特別な感慨が起こるはずもない。ショーの隣にガタガタ音を立てる扇風機があるのが珍しいぐらいだ。
「なじんでますね」
「当然でしょ」
ふんぞり返る祐子さんを見ながら、ふと勝彦の言ったことを思い出す。そういえば心は高校一年生だったっけ。うーむ…。
「つき合うんだって?」
「あ、…はい」
「ふーーーん」
俺とえーこは入り口に並んで立ったまま、じろっと、祐子さんの突き刺すような視線にさらされる。というか、どっちかというと俺ばかり見てるような気がする。なぜだ? 返事したのはえーこなのに。
「大変だと思うけどね、これから」
「はぁ…」
………。
そのまま重苦しい空気に包まれていく地研部室。いったい何が起きたのだろう。いたたまれなくなって隣の彼女を見ると、彼女も同じような顔でこっちを見てた。
とりあえず、あんまり歓迎されてないってことだよな、これは。
……ふう。
正直、親に反対されるより気が重い。
「とりあえず全員集まったし、チョイスでも食べましょ」
「チョイス?」
「あんたはホワイトロリータだっけ」
「違う! 俺は昔っからチョイスだ!」
「へー」
立ち尽くしているわけにもいかず、いつもの位置に座る俺たち。
いつもの位置…だけど、えーこは隣。以前より少し、距離を近付けて座る。好きな相手だから近付くわけじゃない。今までは、変な勘ぐりされないように、必要以上に離れていた。それが意識しているってことだったと言われれば、たぶんそうなんだろう。
テーブルの上には紙コップとペットボトルにチョイス。勝ピー様への配給といい、今日の祐子さんはやけに親切だ。反省会を早くやりたいと、勝彦を急っついていたって話だからなのかも知れない。それならいいのだが…。
「そこの二人も遠慮しなさんな」
「………」
「断っとくけど、あんたたちに別れろなんて言わないわよ」
「……はい。ありがとうございます」
ちょっとだけ、空気が和む。なんというか、祐子さんとえーこは互いをよく判っているんだな、と思う瞬間。
もちろん俺だって、悪意がないことなら知っている。知っているけれど、祐子さんは時々すごく難しい問いかけをして、俺はただ混乱して、彼女はそれに応えている。確かにそれは同い年ってことなのかも知れない。
チョイスの箱は三つもあった。いくら七人いるといっても多すぎな気がする…はずだったが、勝ピー様のペースを見ているとそうでもなさそうな雰囲気。
だいたい、ヤツは俺からのプレゼントを、午前中のテストの休み時間に食ったばかりだった。それも、一応は俺たちにも食えと言ったけれど、俺とちさりんが一枚ずつ取ったのを確認すると、あとは黙々と腹に流し込んでいた。ちさりんが顔をしかめてそっぽを向くほどのペースでヤツの身体はチョイスに満ちていく。既にヤツの血や肉をルーペで拡大すればそこらじゅうチョイスの文字が溢れているのだっ!
「えーこはつきあい始めたら放っとく主義?」
「まさか。……皆さんの邪魔ですから、これは」
「…………」
おっかない会話が耳に入って、思わず背筋を伸ばす。険悪な表情なのはえーこだけで、あとは笑っている。仕方なくちょこっと頭を下げて、チョイスに手をのばした。既に一つ目の箱は最後の一枚になっていた。
「んだばいがのー!」
「オッケー!」
???
何だか判らない合図を交わして、突然立ち上がったショー。
「ちゃーらーぁちゃらららら」
「……って、いきなりかよ!」
叫ぶ間もなく、さだの歌。あーまた意識が遠の………かないぞ。いつものタイミングを過ぎても、モボショーの美声がいつまでも響いている。
ショーは思いっきり扇風機の前に立ちはだかったから、ここは灼熱のライブ会場。そのうち気が遠くなる可能性はある。
ふと隣を見たら、目が合った。苦笑いしながらこっちを眺めているえーこも、同じくどう考えてもえーこのままだ。
「変化なし?」
「え、…はい」
「彼女も?」
「はい」
どうやら最初から試す予定だったらしい。相変わらず祐子さんは当事者の了解を取らない人だ。事前に知らない方が正確な結果を求められるのかもしれないけど、今まで知ってたかどうかで結果が変わったことなんてなかった気もする。
それにしても、モボショーの美声にはもうみんな慣れてしまったのか? 黙々とチョイスをかじっては茶を飲むちさりんが不思議だ。太るぞ。
「あれから、現れたことは?」
「一度もないです」
「ヒロピーは……、聞くまでもないっと」
「どうせなら聞いてください」
考えてみれば、あれからまだ十日も過ぎてないのに、ゴロウに怯えていた自分はすっかり過去の人になっている。長い間悩まされていたえーこにとっても。どんなに深刻な出来事も、終わってしまえばあっという間に消える。
今はまだ、時々会話に出るけれど、一ヶ月も経てばすべて忘れてしまうのか。すると俺とえーこが出逢った…。
「………」
「それって凶暴過ぎ、えーこ」
「そうかなぁ」
頼むから人前でグーパンチはやめてくださいよ、ねぇ。天龍じゃないんだから。
痛みの残る頬をさすりながら、しかしえーこに文句も言えず、他のターゲットを探す自分。早くも負け犬根性が染みつきつつある…と、分析してどうする。
「それにしてもショーはテストの日にギターか」
「しんぺすんな、まんずや」
いや、別に心配はしてないが。
なんというか、話を逸らすにこれほど都合のいい反応もないといえば、褒めたことになるわけですかい?
「ちゃんど朝たがいで来で、こさ隠しておいださげ」
「ショーは偉い奴なのよ、みんな褒めて」
「はぁ…」
しょうがないから良を見る。俺の代わりに褒めろという無言の合図である。
当然のように良は動揺して、口をぱくぱくさせるばかり。この男はアドリブがきかないのが難点だ。よくもまぁ漫才師を目指すとかほざけるものだ。ほざいてないけどな。
「ま、それじゃはじめましょうか」
「おー、んだがや」
「時々不意打ちで歌っていいから」
「フォーグゲリラだが」
なんか疲れそうな予感。つーかゲリラってどういう意味だよ。
「ちさりん、用意は?」
「は、はい」
疑問だらけの自分は無視されたかっこうで、メインエベントが始まる。まぁいいや、別に何も起きないなら、ちょっとやかましいBGMというだけだ。立ち位置だけはどうにかしてほしいが。
目の前では緊張した顔で千聡が立ち上がり、チョイスの粉を払ってプリントを配る。それがゴロウとツルが話した内容のメモだってことは、もちろん知っている。
千聡が配り終えると、祐子さんも同じく紙を配布。祐子さんの方が手慣れていて、しかも紙のサイズは大きくて、びっしり書き込んであるのが見える。まぁちさりんにとっては相手が悪いし比べるのもかわいそうだけど、良は反省すべきだ。うむ。地研の将来は暗いぜ。
「先に説明して」
「はいっ」
「ちさりんがやる?」
「…いえ、俺が部員ですから」
無駄に盛り上がってたら、目の前でもなんだか熱いやりとりが繰り広げられていた。やや誇張しているが。
すくっと立ち上がる良は、見るからに気負っている。顔が赤い。別にこれは部活じゃないだろ、と今さらツッコんだところで始まらないので、みんな黙ってプリントに目を落とす。
ノートに鉛筆で書かれたらしい文字は、コピーするとやや薄めでちょっと読みにくい。文字は……、見慣れた女子の文字だ。どうせ部員を主張するなら良が書けばいいのにと思うが、奴の字はけっこう読み辛いからなぁ。
「えーと、主にゴロウが話した内容を箇条書きにしました」
「ふーん。ツルさんは?」
「……理解出来た範囲では」
「それで十分」
書かれた内容はまぁ、俺とえーこ以外はその場で聞いたことだし、俺たちも勝ピー経由で知っているから、別に良が読むまでもない。けれど良はいちいち解説を加えながら、十五分ほどかけて音読した。少し眠くなった。
「良はこういう発表初めてだった?」
「あ、はい」
「もっと抑揚つけないとねぇ。念仏じゃないんだから」
「…すみません」
元部長の指導が入る。
まぁ正直、これでも良にしてはマシな方なんだが、やはり厳しい指導が必要だよな、うむ。
「あんたはいつもそんなしゃべりなわけ? ボソボソ声で「ち、ちさりん、好きだ」とか言う…」
「祐子さーん」
「冗談だって」
しかし、すぐにいじめに移行するのが祐子さんの悪い癖である。そうは思いませんか…と、埃をかぶった本棚に問いかけてみる。祐子さんに見られると自分が危うくなるからな。
とはいえ、真顔で「ち、ちさりん」とかつぶやく良は一度見てみたい気がする。なんだかんだ言って、一度も良が好きだと言うのを聞いたことがないし、ちさりんも同じ。俺たちのように堂々と叫んでみやがれ。
「二発目です」
「二人っきりだったらどうしてる?」
「えっ?」
祐子さんのあまりに鋭い質問に黙り込むえーこ。
やっぱり一枚上手だな…と、ひりひりする頬をさする。今の俺は身を削って笑いを取る芸人のようだ。
「とりあえず、こっちの紙も説明して、それから質問タイムね」
「は、はーい」
「ちさりん、居眠りしたらえーこのハンマーパンチね」
「……ハンマーパンチは誇大表現だと思います」
………。
何も見なかったことにしよう。うん。
…………。
拗ねるえーこが可愛過ぎる。うー。
「ヒロピーはにやつくの禁止」
「ぐぇ」
思いっきりばれていた。祐子さんは何にせよ鋭すぎだって。しょうがないので一度咳払いして、チョイス。二箱目はまだたっぷり残っている。
祐子さんは一通りからかい終わると説明を始める。話の大筋は勝彦から聞いたようなことだが、プリントにまとめられると判りやすい。あれこち太字で書かれてあるのは重要な部分らしいが、こういう配慮が良にはまだ出来ないんだよな。俺にも出来ないけど、奴は地研の未来を託されているんだから、厳しく評価すべきだ。うむ。
…意識がちょっと遠のく瞬間。
別にゴロウがやって来たわけじゃなく、祐子さんの話があまりにうまいから眠くなる。やっぱり良みたいな聞きづらい方がいいのか。イライラするよりは眠りたい…。
「わっ!」
机を激しくたたく音と、びっくりした千聡の悲鳴。
すいません。瞬時に事態を悟って頭を下げる。それからゆっくり顔を上げると、何事もなかったように祐子さんは説明を続けていた。睨んでる顔も三つぐらいあったので、曖昧に笑っておく。
相変わらず姉思いの弟。たぶん同じくウトウトしていたに違いない悲鳴の主。それから、もしかしたらハンマーパンチを用意してるのかもしれない彼女。山際博一と愉快な仲間たちだ、ふっ。
………。
きっと今、俺の脳にはカビが生えているのだ。
「ま、こんなところね」
「ありがとうございます」
「良はいつも礼儀正しいわねー。それに比べ…」
「ありがとうございましたっ」
なんか先生に目を付けられた悪ガキのようだ、と思った。
ようだっていうか、わりとそのまんまかも。相手は先生だし。
「じゃ、ここで五分休憩」
「はーい」
今の時間は? きょろきょろと部室で時計を探すと、目の前にすっと細い腕が突き出された。
いやーきれいな腕だ。声に出すべきか悩んだが、たぶん逆効果だろうからやめる。
「まだ二時間あります」
「これからは起きてると思う」
「当然でしょ、バカ」
捨て台詞を残して彼女は部室を出て行った。やっぱり呆れられてるか。当事者意識があれば寝るわけないからなぁ。
ため息をついて、やることもないから部室の壁に寄りかかる。見渡せば、祐子さんとえーこがいなくなっているだけ。勝ピーは相変わらずチョイスに夢中で、ショーは何か弾いている。平和な光景だ。
………。
しかしこれって、あの二人が連れションってことか。
「ちさりんはしなくていいのか?」
「女の子にそういう質問するなバカピー!!」
「うぐ………」
激しく蹴られてしまった。どう考えても自業自得なのが悲しい。
まぁどっちにしろ、いちいち騒ぐような話題ではない。連れションなんてありふれた話だ。うむ。
……待てよ。
女子の場合、連れションといってもそれぞれ個室に入るだけじゃないか。これではわざわざ一緒に行く意味がない。
たとえばトイレがすごく混んでいたなら、並んでいる間におしゃべり出来なくもないし、隣の個室に話しかけることも可能だ。しかし少なくともこの時間の学校で女子トイレが渋滞するなんてあり得ないし、かといって下手に個室で話し始めたら、もう一方の隣で聞き耳を立てる女子がいたり、何かと危うい状況が想定されるのだ…って、なぜ俺は女子トイレで盛り上がるのだ。阿呆だ。
「よし、良も行くか!」
「……どこへ?」
首を傾げる良を無理矢理連れ出して、向かうは言うまでもなく男子トイレ。くだらない妄想を取り除くには、自ら実践するのが一番である。
旧校舎のトイレは階段の向こう。文化部の陰気な扉が続き、薄暗い廊下がいちだんと暗くなっていく。冬はかなり寒いらしいけど、今は蒸し暑くてしょうがない。
西部劇に出てくる店のような扉を勢いよく押して足を踏み入れれば、いつもの芳香。昔は緑の玉めがけて発射するのが趣味だった。早く消えてしまえと思いながら、あの香りに耐える。その快感は女子には判るまい。ふっ。
「ヒロ」
「…なんだ?」
どんなに洗ってもきれいには思えない、白い便器。どうせなら最初から黄色にしてあれば…、ますます嫌になるだけだな。
「仲がいいな」
「そうか?」
「うむ」
「…………」
少しかがんだ格好のまま、どう反応していいのか困る。
今までは一方的に俺が良をからかう役だった。それは俺にとって、自分の領域を浸食されることのない気楽なポジション。いつ見ても危うい良とちさりんを心配するふりをしながら、自分一人が楽しんでいたわけだ。
「で、…ヒ、ヒロ」
「どもるな、気持ち悪い」
「……二人きりなら殴られないのか?」
思わず隣の男を見る目が大きくなっていることに気づく。
こいつはスケベな奴だ。俺は昔からそうだと思っていたのだっ。
「その質問は自分に返ってくるって知ってたか?」
「……………、忘れてくれ」
「心配するな。俺は聞きたくもない」
「そうか」
手に触れられるのだと正直に言ったところで、相手が良ならたいして問題にはなるまい。何せこいつは教室で堂々と頭を撫ではじめる奴なのだ。人目に付かない場所なら何をやりだすか。
…………。
どうにも無理があるな。なんたってちさりん様と良だからなぁ…っと、最初から想像するなよ。
「次は自分で書けよ、良」
「…おう」
「あと、あんまりおどおど話すな」
「うむ」
立ちションのわずかな間に、いろんなことが頭に浮かんだ。中学校のトイレはもっと汚かったから、少しだけ思い出も美化されて、それから俺は覚悟を決める。
今さらじゃないか。
俺が良の性格を知るように、奴だって俺の考えることぐらい判る。それだけのこと。
「十秒遅刻!」
「す、すいません」
教室に戻ると、もう祐子さんもえーこもとっくに席についていて、いかにも俺たちが来ないので苛立っているような雰囲気。
こういう時は良を前に立たせる。こちらから責任を押しつけなくとも、奴は自分から謝りたがる。そういうしつけなんだと、自嘲気味に言うのがいつもの癖。俺はどちらかというと、やめさせたいと思っていた癖だ。
けれど奴だって、ただ親に教えられたからやってるわけでもないだろう。最近はそんな気もする。今は地研部員として気負っているから好きにさせるべきだ、とも思う。部員らしくふるまえる機会なんて滅多にないのだ。
「じゃ、今からフリートークね」
「ビッシビシ行くからな!」
「バカは黙りな!」
「ぐ…」
今のは勝ピー様のお約束だと思う…けど、祐子さんは判って叱ってんだろうな。
何しろ勝彦といえば歩くワンパターン野郎だ。きっと家でも毎日のように同じネタを披露しまくっているに違いない。たとえ祐子さんにプロレスの知識がなかろうと、暗記出来るほど聞かされて嫌になった……なんて考えると、祐子さんに同情してしまう。すごいな、さすが実の弟だ。
「では最初にヒロピー」
「え?」
「何か言いたいことは?」
「…すいません」
部室が笑いに包まれる。ここでのお約束男は俺自身のような気がしてならない。
「ま、妄想バカはほっといて」
「………」
「大雑把にいえば、ゴロウとツルは村人に殺されて、だからその後は村に祟るようになったと、その辺の推測は外れてなかった」
「……祐子さん」
「何? 手は挙げなくていいからね」
「す、すみません」
真面目そうな顔で手を挙げたのは、言うまでもなく地研部員。
言うまでもないけど、意外だ。フリートークに一番向いてなさそうな男なんだが。
「ヒロが祟り神の話を知ってたから、そういう話に…」
「なった可能性はあるでしょ。もちろん」
「はぁ」
だけどわりとよくある話だから、俺の記憶をなぞったとも言い切れないと祐子さんは付け加える。良は納得したともしてないとも判らない顔。俺は奴以上に判らない。
確かに祟り神の話は印象に残っている。思い出して語ったとしても不思議ではない…が、俺にはゴロウとしての記憶なんてはじめからないのでどうしようもない。それに、俺自身の乏しい記憶だけで、あれだけ長くて複雑な物語は作れないし、そんな才能もない。
「あの…」
「なぁに?」
「私は詩を書けないので…」
「そう? ヒロくんラブリーとか書いてない?」
「か、書きません!」
うーーーーーーーん。ここでからかわれると発言出来なくなるぞ。普通は。
でも、えーこは大丈夫かも知れない。
「まぁ二人の本体の話はやめましょ。結論なんて出ないから」
「はーい」
間の抜けたちさりんの声で、一同チョイスに手を伸ばす。早くも二箱目がなくなってしまった。ペットボトルも半分以上空いたが、これは暑いからしょうがない。勝彦がコーラを飲んでる分、減りは少ないとすらいえる。
「気になるのは、二人の家臣とか幼なじみがいたってことねー」
「いたらおかしいのか?」
「バカは黙ってなさい!」
「なんだバカって! 当然の質問じゃねーか!!」
微妙な空気が流れる。
弟の発言にまったく同意できないわけじゃない。けれど祐子さんならすぐに意味を教えてくれるだろうから、余計なツッコミ入れるなよ、とも思う。どうもこの弟は、姉が前にいると無駄に張り切るんだよな…。
「ともかく、二人以外にもわりと活躍した人物がいたってことは」
「………」
祐子さんは勝彦から少し視線を逸らしながら話を続ける。
相変わらず不平そうな顔の弟も、前のめりになっていた姿勢を正した。
「今どきのありがちな転生物なら、きっとみんな生まれ変わってるって展開ね。二人の身近で」
「……そ、それって、この場の誰かってことですか?」
「ちさりんかもよー。ある日突然オジャルとか言い出したら…」
「えーーーっ! それは嫌っ!!」
祐子さんはいつも通りの調子で千聡をからかう。けど、本当なら笑い事では済まない気がする。俺たち以外にも本当にいるなら、また流さなきゃいけないじゃねーか。思わず周囲を見回すと、みんなそれぞれ疑心暗鬼な顔で互いを見つめていた。
パズルの正解探しなんて生やさしいものではなく、正体を見破ってやるという邪悪な瞳だらけ…に思えるのは、自分がそうだからかも。俺とえーこは該当しないわけだから気楽だ。
「けど、祐子さん」
「なぁに?」
その気楽なはずのえーこの声。
あまり邪悪ではなさそうな瞳の彼女に、俺はちょっとだけ反省する。だけど奥には、たぶん今し方の俺と同じぐらい邪悪なちさりんが見える。………。
「ゴロウさんの家臣なら、とっくに現われていいと思うんですが…」
「そうねー。さすがゴロウの本体の彼女だけあるわね」
「そ、それはこの際関係ないかと……」
…………これは反則だろ。さすがのえーこも完全にうつむいてしまった。
とはいえ、ここで俺が声を掛けるのは火に油を注ぐだけだ。それに、実を言うと真っ赤な顔でうつむくえーこも、かなりとってもすごく可愛い。あーダメだ。俺は果てしなくダメ人間になっていく…。
「ま、この二十一世紀に家臣も若殿もないからねー」
「そんなこと関係あんのか姉貴」
「どういう意味よ」
「姉貴のマンガじゃ、そのまんま生まれ変わってたぞ」
「マンガと一緒にするなバカ!」
「マンガみてぇなもんじゃねーか!」
祐子さんは誰かが転生するマンガを読むのか…と、そんなことはどうでもいいけど、弟の言い分にも一理あるような気がする。マンガみたいなものしか想像出来ないという意味では、俺も似たようなものだ。
同意を求めたくなってなんとなく隣を見たら、えーこはさっきより少し顔を上げて、祐子さんの方を見ている。まだちょっと赤いかも知れない。
祐子さんはしばらく無言で弟の顔――気のせいか髪の毛――を眺めて、それからいきなり立ち上がる。なんだろうと思ったら、壁の黒板まで移動したのでほっとする自分。いやまぁ、ほっとするのもマズイか。
地研部室の備品は、たいていどこかの教室で使われなくなったものの再利用らしい。そんなことを教えられても困るだろ、と良に言ったら、ちさりんはそれなりに喜んでいたと返されたのが、たぶん四月の終わり。次の日に思わず、良を甘やかすなと口に出してしまったことは、俺にとってあまり思い出したくない記憶だ。千聡にとっても忘れたい過去だろう。
祐子さんはチョークの埃を払って俺たちに背を向ける。一応は黒板と表現してみたけれど、チョーク同様に埃まみれで、単なる壁の一部と化しつつある長方形の模様。それでも背筋を伸ばした祐子…先生が立てば、それなりの景色に見えてしまうのが不思議だ。
「転生っていうのは元々仏教用語だけど、まぁこの場合それは考えなくていいでしょ。ともかく、昔生きてた人の人格が今に現われるわけですね、ガキ」
「知ってるぞそんなもん!」
………。
まだ現役の部長だった頃の祐子さんは、きっといつも黒板に向かってたんだろうな。違和感がない理由が学校の先生だからじゃないことに、なぜ気づかなかったのかと自分に呆れる。
「うるさいわねぇ。で、問題は今に現われるってどういうことか。八百年前の武士が今そのまま現われたら、まぁギャグマンガにしかならない」
「はぁ…、そんなもんでしょうか」
でも今さら高校生の祐子さんを想像したところで、目の前の先生がどう変わるわけでもない。もう一度考え直して、目の前のやりとりに耳を澄ます。
………。
なぜか一瞬ショーと目があって、そらされてしまった。俺は嫌われているのか?
「というか、根本的にそれは誤解してる」
「誤解?」
いかんいかん、邪念は捨てよ。今日は行儀良く祐子先生の授業に臨むのだ。いつもこんなに真面目なら、優等生山際博一の誕生もそう遠くない…と、すぐに余計なことを考える自分が悲しい。
それにしても祐子さんの文字はやたらときれいだ。うちの英語の教師と代わってほしいくらい読みやすい文字。思わず見とれてしまいそうになる。
「お化けや幽霊はともかく、誰かの体を借りる時に、その誰かを完全に消し去るなんてことは普通あり得ない」
「はぁ……」
「当人が意識するかしないかとは別にね」
「…よく分かりません」
いかんな。見とれるとまた非難の対象になりそうだ。文字ぐらいいいじゃないかって思うんだが。
もちろん、えーこの字も悪くはない。俺より読みやすい――では褒め言葉になってないぞ。どっちにしろ、チョークは使い慣れないと難しからな……。
「今回の例でも…、ツルはどんな言葉で話してた?」
「え?」
「あんたと同じだったでしょ、ちさりん」
「………はい」
ぽかんとした表情の千聡。たぶん俺もそんな顔だろう。なかなか集中できなかった自分が、一気に引き込まれてしまう。それほどに、言葉の問題は盲点だった。
……もしもツルがオジャルとかマロワとか言ってたら、さすがに考えただろうな。いや、マロは男か。
「どんな格好で何しゃべったっていいの。確かにツルだっていう何かがあれば」
「はぁ」
「確かにツルだっていうものって…」
言いかけて口をつぐんだのは、ツルの本体。
なんだろう? 気がつけば、この場の視線は俺に集中している。
………。
確かにゴロウと判るもの、か。考えてはみるが、何も思い浮かばない。俺は目撃していないのだから当たり前だ。いったいみんな、何を期待してるんだ?
「その人の物とわかる何かを持ってるパターンが一番多いかな」
「その人の物?」
「扇とか琵琶とか…」
「ツルさんだったら何でしょう」
えーこの質問に、祐子さんだけじゃなく全員が考える。俺も一応考えてみる。
「普通に考えれば、仏像かお経でしょうね」
「…そうですか」
「持ってる?」
「いえ」
即答するえーこ。当たり前だ。
確かにゴロウとツルの話のなかで、それは大事な物だったけど、いくらなんでも今時の女子高生が持ってるはずはない。周りの反応が微妙なのも、たぶん思い浮かんで真っ先に否定したからだろう。
「神棚だばあんなんねが?」
「…母の実家になら」
「仏檀ど一緒だが」
「ううん、うちは神道だって」
神道?
この辺は禅宗ばっかりだと思ってたが…。
「あ、えーこの実家って山の麓じゃなかった?」
「え?」
祐子さんが何かに気づいた顔。というか、顔より前に声で判ってしまう。
「神道って、いではの法師でしょ」
「法師…?」
「あーそっか、そこから説明しなきゃ」
いきなり元気になった祐子さんについていけず、ただ機械的に声の主を見比べる。素で驚いた時の無防備なえーこもなかなか可愛い。祐子さんと結構似たタイプなんだよなー……って比べてる場合かよ。反省。
それにしても、えーこの実家がどこなのか、はっきり聞いてなかったのは失敗だったかも知れない。あんまり楽しい思い出がなさそうだったから、積極的に聞けなかったのも事実だけど。
祐子さんの手が激しく動き、だんだんきれいだった字が崩れていく。なんだか厚化粧が汗で落ちていくみたいだ…と口に出したらはり倒されるだろう。
「廃仏毀釈って習った?」
「習ってない!」
「あんたじゃあてになんないでしょ」
確かに勝ピーでは…と思うが、この場合は一人でも知らないなら教えてほしい。
だいたい、実は俺もよく知らない。音はなんとなく聞いた記憶があるが、それでは勝彦と同レベルだ。
「しょうがないわねー。ま、ちさりんも知らないだろうし」
「な、なんでわかったんですか!?」
「テスト勉強みてりゃわかるでしょ」
「あぅ…」
今さらだが参加しなくて良かったぜ。
ともかく祐子さんは黒板を使って説明を始める。要するに明治のはじめ、仏教は外来の宗教だといって寺院を潰したり壊したりしたらしい。そして、いではの法師もその時に神主に姿を変え、山も寺から神社に変わったという。
「今もお寺はありますけど…」
「残ったのが三つぐらいだったかな。一部は仏像を引き取ったりしたはず」
「そうなんですか」
「聞いたことなかった?」
「たぶん…」
曖昧に笑う彼女。実家で過ごした年月はもちろん、それ以前だって何度も立ち寄る機会はあったに違いない。だから知ることはいくらでも出来たはず…だけど、知りたいことではなかったのだろう。なんとなく理解できる自分。
……そういえばあの日の俺も、会いたくもない親戚の家から帰る途中だった。
別に親戚が嫌いなわけじゃない。それはきっとえーこだって同じ……ならば、話すべきなのかも知れないな。
祐子さんの話は続く。神社に形を変えたあとも、法師がやったような祈祷が続いた可能性はあるし、法師のまま残った者もいただろうと。ともかく、えーこはそういう環境で育ったということだった。
「でも、それとツルは本当に関係あるんですか? えーこが特に興味もってたわけでもないし」
「直接の関係はないでしょ」
「はぁ」
説明の終わった祐子さんは、カバンからウエットティッシュを取り出して、チョークまみれの手を拭いた。用意がいいなぁと感心してしまったけど、毎日やってるんだから当たり前か。
「関係があるかどうかなんて探しようがないの、いい?、ヒロピー」
「は、はい」
「だけどツルとゴロウの話には、私たちが意識してないけど、どこかで記憶してたかもしれない内容が含まれているわけ」
「…はい」
それはもちろん、俺とえーこに限定出来るほどの話ではない。いではの法師にしても、法螺貝を吹くイメージぐらいなら誰だって浮かべられる。転校組の良がたとえ歴史にまったく興味のない男だったとしても、三年も住んでいればテレビで知っていたはずだ、と祐子さんは語り、真剣に良がうなづく。
逆に言えば、良が転校しなかったなら、可能性は乏しい。ツルとゴロウはとにかくローカル過ぎる。ナントカ菩薩とかだったら違うんだろう。どっちにしても漠然とした話だ。
「村の都会には行人みたいな人がいた?」
「ギョーニンてなんだけが?」
「あんたみたいに放浪する人」
「なんだや、流しだが」
…………。
行人は法螺貝吹く山伏みたいな人たちだと、さっき祐子さんが説明してた気がする。ショーにはショー向けの言い方があるってことか? 全然理解できない。ショーは同じ言葉をしゃべらない奴なのだ。
「人形だばあたけのー」
「へー、さすが都会ね」
「まんずもっけだごど」
褒められてショーは照れている。どう考えても皮肉だと思うが、喜んでるんだからあえて口にするのはやめておこう。
しかし人形が実在するとはなぁ。この辺って自分が想像してたよりずっと田舎なのかも知れない。相変わらず俺自身は全然知らないってとこがひっかかるけど。
祐子さんはその後も質問を繰り返す。ショーに一通り聞き終わると、次はちさりんへ。残念ながら千聡がまともに答えられたのは四郎三郎ぐらいで、しかも四郎三郎の話はゴロウが語っていないから無意味である。さすがの祐子さんも苦笑いのまま隣の男を見て、そして真顔になった。
しばらくは黙って見つめ合っていた、祐子さんと良。
「良」
「…はい」
妙な緊張感。けど俺たちがその雰囲気についていけないわけでもなかった。
「思い当たる節があるなら話してみて」
「はい」
「………」
「転校がなかったら、歴史に興味はもたなかったと思います」
意外なほどに淡々と、良は昔を語り出す。たぶん俺と千聡ぐらいしか知らなかっただろう、父親との関係までも。
それは馬鹿馬鹿しい景色だと、一瞬俺は思う。
ありもしない関わりを探して、集まった七人がそれぞれの隠したい過去を晒し合う。過去が見つからなければ必死に探して、乏しい自分の歴史を作っては披露する。そのくせ、結局は何も確信出来ずに終わるだけだ。
良がどんな風に郷土の歴史にのめりこもうが、今回の事件に巻き込まれた第一の理由は、俺の友だちだったから。ちさりんだって勝ピーだって同じこと。
……………。
もしも俺たちが知り合ったこと自体が、ツルやゴロウのせいだとしたならば。
「で、祐子さん」
「なぁに、数学だけじゃなく社会も苦手なちさりん」
「…………、えーと、結局ツルとゴロウ以外は転生したんですか?」
「さぁ」
どっかの少女マンガみたいな妄想に、思わず笑いがこみ上げる。
それなら俺とえーこは、俺と彼女は…………、案外信じてる自分がいるのかも。
「もうちょっと観察しないと分かんないでしょ、たぶん」
「まだ観察するんですか?」
「何、良は不満なわけ?」
「いえ、不満じゃなくてその、……もう二人は流してしまったので、今さら…」
「ふーん、なるほど」
その時、隣の腕がこちらに近寄ってくる。
時計を見ろってことだな。どれどれ…と、三時半か。
「はい、そこの二人!」
「え?」
「は、はい!」
これまで聞いたこともないような大声で返事するえーこ。
あーびっくりした。カンニングが見つかったみたいに脂汗が出たぜ。
…いや、カンニングの経験はないぞ。そんな気がするってだけだ。うむ。
「もう二人は現れないと思う?」
「………」
「えーこ」
「はい。……どうなるのか、よく分かりません」
隣で俺もうなづく。
回答としては、あまりにも曖昧でいい加減なもの。だけど考えたところで判るわけもない。ただ、絶対に現れないという確信はもてない、それだけが断言出来ることだった。
「えーこはまだツルが嫌いにならない?」
「はい」
「……ヒロピーは、ゴロウが好きになった?」
「…………」
何か答えようと思ったけど、声にならずただ首を傾げる。
以前のような嫌悪感が消えているという事実。それを指摘されてしまうと、俺は混乱するしかない。悪いことなのかどうかすら、何一つ判らないから。
……違う。
もう流してしまったから、他人事になってしまったから嫌悪感も消えた。それぐらいの回答なら用意していたはずだったのに、口に出せずにいる。用意した回答があまりに都合が良すぎて、やっぱり嘘なんじゃないかと疑いはじめる自分がいる。
祐子さんはしばらく俺の顔を見つめて、ゆっくりと元の席に戻っていく。そして座ろうという瞬間、隣でギター!
またかよ。
「そぉぉさぁー、むがすぃわぁむかしぃー」
「気分は?」
「どっからでもかかってこいって気分です」
モボショーソングの後は、祐子さんがまとめに入る。まとめと言っても、何か確実なことが判ったわけじゃない。ただ俺とえーこからあの二人は現われなくなった。少なくとも、さだなんて無力な存在に過ぎない。俺は勝ったぜ…。
「………」
「い、今のは効いた」
「平手打ちはやめた方がいいわよー。周りがひくから」
「…はい」
あのモボショーの顔すら思いっきりひきつらせるその威力。今さら忠告されなきゃ判らないのかと思うけど、残念ながら俺に発言権はない。せめて忠告された以上はやめてくれと祈るだけだ。
「とにかく、あの祭はそれなりに効果があったと結論づけましょうか」
「それなりに…ですか?」
良の声に合わせたかのように、みんな一斉に祐子さんへと視線を集中させる。
なんというか、このメンバーは思ってるより結束が強いのかもしれない。
「やってみなきゃ分からない祭なんだから、何がどう効いたかも簡単には分からないでしょ」
「は、はい」
「それに……」
良を諭すように話した祐子さんが、なぜかまたこちらを向く。
「同じ時期に、他にも変わったことがあるからなぁ…」
「はぁ………」
思わず顔を見合わせる、俺とえーこ。
それはツルとゴロウの出来事じゃないから関係ないのでは、と思っても、やっぱり自信がないから、仕方なく笑う。えーこも一緒に笑って、それから部室の微妙な空気に気づく。
要するにこれはノロケってやつだ。すまん。
祐子さんは軽く咳払いをして、もうしばらく様子を見てから結論を出そうと結んだ。俺は何度もうなづいておいた。まだ観察されるのかと気付いた時には遅かった。
「じゃ今日はお開き。そこの二人はデートみたいだし」
「……デートじゃないです」
ちょっと情けないえーこの声に、思わず笑ってしまった。以前なら俺が否定してもデートって主張してたのに、急に隠したがる。俺はどっちにしても隠そうと思う。実に一貫している。自慢することかどうかはともかく。
時刻はたぶん午後四時前。廊下に出ると、まだもやもやとした空気が残る。日が照っているのにジメジメと湿っぽいのは、俺が汗かきだからなのか? それは長年謎とされていて、これからもたぶん謎だ。
「祐子さんは勝ち組だと思います」
「なにそれ?」
旧校舎から戻る渡り廊下は、逆向きより少しだけ明るい。そんな気がする。あくまで気分の問題に過ぎないかもしれない。なんたって、薄暗い上に汚い旧校舎を出たところだし。
「姉には早く帰ってほしいって言ってるんですけど、いつも同じセリフで」
「あれ、ちさりんにお姉さん?」
「……実はいるんです」
「姉貴より年寄りだってよ」
「年寄りって言い方やめなさいバカ」
千聡の姉の話題か…。
未だに存在そのものに疑念があったりするけど、まぁきっといるんだろう。まさか二次元ってことは…あるかバカ。そんな選択肢を思いついた自分に呆れる。
「ふーん」
真後ろから聞こえる祐子さんの声には、少しぐらいの妄想なら一発で振り払う威力がある。そういう並びで歩いてるんだから仕方ないのだが、とにかく妙に緊張してしまうのだ。
背後を取られては何をされることか……っと、真横に怒った顔を発見。今ぐらい妄想にふける自由というのもあっていいと思わないか、なぁ。
「で、姉は…」
「就職先がないって言うわけねー」
「はい」
けれど本当は、何も祐子さんの声が…ということではなかったんだろう。耳に入れば、それだけで気が滅入る話題。なかったことにしたいから却って意識して、それが妄想を振り払う。
就職。
学校を卒業したあとはそういう順番と決まっている。だけど、周りの誰もが高校に入って大学までの道筋を示してくれるのに、大学を出たらどうなるのかは口にしない。
地元に帰って役所に就職? それが必死に勉強していい大学に行った末なのか?
「ちさりんは本当にないと思ってる?」
「帰る気がないだけだって、親は言うんですけど…」
「でもそれが言い訳になっちゃうからねー」
………。
結果的にとはいえ、これでは祐子さんの選択を俺が否定したことになる。無意味だ。そんな方向に考えるなら、何も考えないほうがマシだ。
「ま、就職なんてなるようにしかならないって。ちさりんだって一度ここを離れたら戻らないかもしれないでしょ」
「はぁ…」
「今から二年半経って高校卒業したらバラバラになってそれっきり………になったりして」
「え…」
……………………。
その声はもちろん千聡に向けられていた。けれどそれは俺たちにとっても同じことであって、二年半という数字は洒落になってないのだ。
何か言葉を返そうとしても、これだけは…。
「就職以前にどうなることやら」
「………」
「…って高一に言ってもしょうがないか」
一気に暗い気分に突き落とされる。
こういう時は良も役に立たないし、姉貴の弟も無力だ。意表を突いてモボショーあたりが力強い回答でもしてくれれば…。
「まぁ遠距離にならなきゃどうにかなるんじゃない?」
「はぁ~」
「だいたい、三年保つかわかんないでしょ。ねぇ」
「わ、わ、私に言わないでください!」
いやまぁ、相手がちさりんだから多少は冗談になるんだが。えーこに向けられたら困る。まだ一週間しか経ってないのに、三年後のことなんて想像もつかないから。
「しっかし、一番年上の私だけフリーなわけね」
「瀬場さんは?」
「ちーさーりーん、アンタ言っていいことと悪いことがあるって知ってたー?」
「わー、ごめんなさいごめんなさい!」
結局渡り廊下の途中でまた立ち話。後ろから変形スリーパーで羽交い締めにされた千聡を見ても何の同情も湧かない。自業自得だし、遠目には楽しそうにも見える。もう祐子さんを姉と呼ぶ資格が十分にあるのではなかろうか。
しかし瀬場さんはそんなにダメなのか。勝ピーも名前が出ただけで悪口いい放題だけど、けっこう仲良さそうな気がしたんだが…。
「ゴロウ! ツル!」
「へ?」
「………」
突然の声に、思わず声の向けられた先を探してしまう。
…いや、もちろんそれは俺たちだ。どう考えても他になかった。
「祐子さん、いったい…」
「私の名前を呼ぶのはだぁれ?」
「……小川悦子です」
「えーこ?」
「はい」
午後四時といっても、もう夏だから昇降口もまだ明るい。だけど白い壁に慣れきった目にはやたらと暗くて、振り返った先は一瞬の漆黒と立ちくらみ。消えかかった景色が復元されていくなかで、なぜか暖かくて懐かしい気分に浸ってしまう。
「えーこの隣は?」
「クツバミ、ゴロウ」
「え?」
「………ではないです」
その瞬間、下半身に痛み。目の前にはものすごい顔で怒る千聡がいる。
ああそうだ、きっと蹴られたんだ。俺の冗談がつまらなかったから。
…………。
けど、別にそう呼ばれてもいいと思ったんだ。俺は無言ですねをさすると、そのままの姿勢で靴を履き替える。
「ということで俺たちはここで…」
「こんな時間からデートなのー?」
「どっかのババァに献上するんだろ!」
今度は華麗に避けた。
というか、さっきはなぜ避けなかったのか。相変わらず自分で理解できない行動が多い。それは以前なら不安でしかなかったけれど、最近はわりとどうでもよくなった。
「あーあ、ちさりんがババァじゃ私はなんだろうねー」
「ぐっ…」
しかし見事に祐子さんも敵に回してしまった。これも俺の意志ではないが、さっきの自分とは違う気がする。
訳の判らない自分じゃなく、ただ失言する不用意な自分。わりとよくあるタイプの俺だ。
「ゆ、祐子さんはまだまだこれからですよ!」
「あんたが慰めるな、ガキ」
「………」
目の前には呆れた顔でこちらを見る彼女がいる。こんな調子で三年も保つんだろうか。疑問を感じてしまったらもう遅いのかも知れない…って、そんなわけあるかよ。気を取り直して校舎の外に飛び出した。
「次回は外でやりたいわねー」
「もっけだのー」
「誰もモボショーライブだなんて言ってねーだろ」
「まんずおめだば…」
爽やかな天気の下、爽やかな歌声が響く校庭。言葉にすればくさい青春ドラマのような時間も、時には耐え難い苦痛を伴うことを知って、僕らは大人になっていく。
嘘だ。いや、そんなことで大人になれるなら、もう俺たちは老化を始めている。そういやぁ、ゴロウとツルは何歳だったっけ。まさか俺より若いわけないだろうが、年上の野郎に乗り移られたと考えると嫌な気分になる。
向こうは若い身体を手に入れてウホウホだ。いや、ウホウホは年寄り臭いからウッシッシ…じゃなくて。
「えーこって本当は嫌われてんじゃない?」
「…………」
ざわめく木々に紛れて、俺はどこかへ飛んでいく……………だったらいいなぁと思った月曜の夕方。ここは安住の地ではない。あってたまるか。




