或る美食家の死
目の前に現れた、それは紙。ペーパーと呼ぶ種族もいる。
安っぽい蛍光灯の下で、白というより薄茶色の表面を、まずはじっと見つめる。ついでに指で触れると、ざらざらと指紋にまとわりつき、少しの匂いもする。
何も意識などしていない。
俺は心の中でつぶやき、一度は紙を裏返すがすぐに戻した。この時点での俺は、勝ち負けなら勝ちだった。
しかし、ようやく目線を近づけ、色の変わった暗号解読に突入したとたん、状況は一変してしまう。ああ俺は囚われた籠の鳥。鳥といってもできれば鶏じゃないほうが嬉しい。食われたくないから。
「はー……」
「うるさいぞ、ちさりん」
「何よ、あんたまさか全部解け…」
「るわけねーだろ」
全面的な敗北か? その総括は未だ為されていない。
いや、厳密にいうならば、まだ敗北と決したわけでもないが、今さら淡い期待にすがるのはみっともない。隣や後にいる歴戦の勇者たちも、すでに運命を天に任せているではないか。
「ま、過ぎたことは仕方ないか」
「そうやっていつも反省しないんだよな、奥村さんは」
「名字で呼ぶなバカピー!」
正直言えば、今回の数学はそれほど絶望的ではなさそうだ。お勉強会の成果が、それなりにはあったから。
具体的に何点プラスかと問われても困るが、全部の問題にとりあえず何らかの答えを書くまではいった。もちろん、かなり苦しい回答もあったから、すべてが解けたとは言い難い。きっと間違ってそうな問題もあるけれど、中間テストよりは遙かにマシだったはず。
「で」
「…何よバカピー」
なんだかんだ言っても、最難関を切り抜けた気分は悪くない。スキップしてもいいぐらいだ。俺は勝ピーとは違うから、脈絡のないことはやらないけどな。
「今日も部室でジメジメこそこそやるのか、ちさりんは」
「人聞きの悪いこと言うなバカ!」
「正確に表現しただけだろ」
「やかましい!」
それに、これで今日の試験はおしまいだ。土曜の昼だから、次の試験まで一日半は猶予がある。猶予って言い方は犯罪者みたいで嫌だな。
とにかく俺は今、ちっとも勉強する気分じゃない。教科書を開くぐらいなら前回り受け身の練習に没頭したい。若干誇張が過ぎるかも知れないが、きっと今日という一日を俺は無駄にするだろう、そんな予感がする…って、誇ってどうする。
「ハックンは遊びにでも行くのか?」
「あ?」
後ろの席からも声。それなりに声が明るい理由がテストの出来のせいなのか、それとも単に何も考えてないだけかは不明だ。
「ハックンも弁当ねぇんだよな」
「プロレス雑誌の立ち読みならお断りだ」
そういえば中間テストの時は、一緒に町に出たことを思い出す。といっても、本屋で雑誌を見ながら、ただひたすらにプロレス談義だ。だいいち、談義と表現してはみたが一方的に俺は話を聞かされただけである。
女神うんぬんでもない限り、たまに聞かされるぐらいならプロレスも悪くはない。だから誘いに乗る選択肢は一応生きているけれど、ヤツと一緒というのはその時点で勉強しない宣言をしたに等しいからなぁ……っと、返答する間もなくいきなり立ち上がった勝彦は、激しく机を叩いた。
「……ハックン!」
「は?」
「俺は、俺はぁっ…」
ま、まさか…。
「俺はこれから勉強だっ!!」
「…………だからなんだ」
「何イっ!」
がくっと気が抜ける。
とりあえずイタコじゃなくてほっとした。つーか、そんなどうでもいいことでいちいち叫ぶなよ……と思ったところで、ほっとしてる場合じゃないことに気づく。
見渡せば、まだ教室にはほとんど全員が残っている。普通にざわついているなかでも、勝ピー様のバリトンは非常に美しく響くから、いつものように冷たい視線にさらされていた。俺が。
そうだ。
なぜか勝ピーが叫ぶと、俺に視線が集まるのだ。
第三者的には、俺に対して叫んでるように見えるからしょうがないのだが、事情を知っていればその理不尽さに嘆かずにいられないはずだ。
「あ、わかった!」
「は?」
そこに今度はちさりんが叫ぶ。
もはやどんな深刻な事態でも受け止められそうな気分だ。
「祐子さんに教えてもらうんでしょ。私も行きたい~」
「うっ」
「………」
あーそういうことか。言葉に詰まる勝彦を見ながら、ため息をつく。弟がテストという時に、あの祐子さんが黙っているわけがない。
でもそれは悪いことのはずがない。鬼嫁がどうとか無駄話で時間が潰れずに済むのだから、誰にとっても望ましいことだ。
「良くんと二人で行くからね!」
「うー…」
勝彦は決して喜んではいないが、かといって拒絶も出来なさそうだ。
良とちさりんが一緒というだけなら、いつもの不純異性交遊攻撃を炸裂させることも可能。効き目があるかどうかはともかく、ヤツに抵抗の手段はあった。が、祐子さんが目的となれば話は別だ。もしも断ったことが祐子さんにばれたら、きっとヤツは苦しい立場に追い込まれるだろう。
結局、祐子さんの勉強会はあっという間に決定してしまった。力なく座り込む勝彦に俺は一瞬同情しかけてやめた。こうやって甘やかすから、周囲の冷たい目が俺に集中するんじゃなかろうか。
「ヒロピーは?」
「いや、俺はいい」
「へーーー」
「別にそういう用はないぞ」
…本当に何もないかと言われたら、ちょっと怪しい。しかし少なくとも、勉強会はない。昨日のように、ただ一緒に飯を食うというだけの話。ただ一緒に…。
ごまかしている間に良がやって来る。奴も心なしか明るい表情だ。別に千聡に会えてルンルンだからではなく、かなり苦手な数学が終わっただろう。さっそくちさりんから午後の予定を聞かされて一瞬驚いていたが、あっさり了承してしまった。
…どうやら元々勉強会を予定していたようだ。きっと毎日ミニに――じゃなくて耳にタコができるほど、某彼女にせがまれていたに違いない。哀れな奴だぜ。ふっ。
………。
「で、ヒロは帰るのか?」
「…いや」
さて困った。あの約束はまだ二人しか知らない。それはまぁ隠したかったわけじゃなく、他が帰った後だったからに過ぎないが、かといってこいつらに囲まれながら食べるのは嫌だ。きっと遠巻きに俺たちの姿を観察してはニヤニヤするのが目にみえている。
そういえば、えーこは来ないなぁ。もしかしてみんなが帰るのを息を潜めて待っているんだろうか。想像するとちょっと不気味だ。
「みんなはもう帰るの?」
「あ、えーこ。あんたも来ない?」
「え?」
…という間に現れてしまった。しかもいきなり千聡に捕まるという、最悪のパターンだ。
幸い、まだえーこは俺の背後の位置にある。わざと目を合わさず、知らんぷりを決め込んでみる。
「今日はちょっと…」
「えーーーーっ」
「そこまで無理に誘うことかよ」
しかし思わず口を挟んでしまった自分。
そのとたんにちさりんの目は輝きだす。あーもうおしまいだ。すまん、えーこ。
「テスト中にデートって余裕ありすぎない?」
「誰もデートするなんて言ってねーだろ」
「じゃあ勉強でもするの?」
「しない。二人ではやらないことに決めている」
「へー」
もうやけくそだ。迫りくる魔の手に俺は抵抗する。もしかしたら抵抗じゃなくて乗せられてるだけかも知れないが。
「…ヒロくん」
「ん?」
いつの間にか盛り上がる俺を、えーこが呼んだ。
振り返ると、苦笑いの彼女。さすがにそれを見たら俺も冷静になっていく。
「えーと…、私が白状します」
「なになに?」
「その………、一緒にお弁当食べようと」
「作ってきたの!?」
「はい」
その瞬間、一斉に非難の目が向けられた。俺に。
なんでだよ。
「へーー」
「無理に頼んだわけじゃないぞ」
「私の気晴らしだから…」
一応弁明をしておく…というか、弁明じゃなくてその通りなのだが、ちさりんはニヤニヤ笑ったままだ。
「ま、理由はどうでもいいし」
「………」
「とりあえず見物しようかなー」
「するな!」
「なーんでよ。減るもんじゃなし」
「ぐ…」
本当に減るかもしれない。しれないが今はそれを口にしても無意味である。無意味どころか、かえって逆襲の機会を与えるだけだろう。
「ま、それは冗談として」
「………」
にやけたまま千聡がつぶやいた瞬間、思わず俺は良の顔を見ていた。なんとなく、こいつは本気で覗くつもりだったような気がしたのだ。
そして奴は目をそらした。図星だな。要するにムッツリスケベなんだよな。
「で、ちさりんと良はどうすんだ?」
「何が?」
「昼メシ。俺は家で食うぞ」
勝彦が事務的な話を始めると、なんとなく俺たちは解放された空気が漂う。
いやまぁ、こいつらだって別に見たくはないだろう。俺たちが見られたくない以上に、見せられる側は苦痛になるはずだ。
………。
別に何も特別なことはしないからな。ただ食うだけ。それだけで十分だ。俺はちさりんと良について回って、二人のラブラブな空気をさんざん吸わされながら耐え忍んできたのだ。
まぁ当人たちに自覚はなかっただろうが。あったら俺の同行は求められたはずがないし。
「二人で外食の予定だったけどさぁ、かーくん」
「かーくん言うな!」
そういえば、最近は良もデートがどうとか相談しなくなった。ちょっと寂しいかも知れない。ちさりんは甘いものが好きだっていうから、東根の饅頭が最近のはやりだとか吹き込んだこともあったが、もう無理なんだろうか。
「祐子さんと一緒なら楽しいだろうな~~」
「なんだぁ、ちさりんタカるのか?」
「自分だけ家で食ったことが祐子さんに…」
「ガーーッ、わかった! わかったって!」
目の前ではハイレベルな駆け引き――とは似ても似つかない茶番が続く。勝ピーが口先で勝つなら髪の色が変わってスーパープロレス者にでもなるしかあるまい。
それにしても祐子さんは便利なアイテムだ。名前一つで弟を好きに出来るぜ。時には俺たちにも牙をむくから、取り扱いが難しいけどな。
紆余曲折の末、四人組はどうやらファミレスデートに落ちついたようだ。あの四人でデートもクソもないが、ちさりんはとりあえず嬉しそうな顔。きっと祐子さんのおごりだし、俺もちょっとだけ行ってみたい気がしないでもない。
「今日はごめん…」
「えーこは気にしなくていいの。ヒロピーが謝れば」
「なんでだ」
しかし行きたいなんて顔に出したら何が起こるやら。祐子さんに対しては何かと神経質な人間がいることを、知っているのはたぶん俺だけだ。
…………。
もしかして祐子さんも気づいてたりするか? まさかなぁ。
「それじゃあな」
「良も大変だな」
「……そうでもない」
ともかく胡散臭い三人がぞろぞろと教室を去って行く。最後にちさりんはもう一度こっちを向いて、にやりと笑った。こういうのを単なるスケベと呼ぶのだ…と、出入り口から視線をずらす。
もうすっかりがらんとした室内に、微妙にずれた机が並んでいる景色。人が座っていないだけで、なぜこうも不気味に見えるのだろう。ため息をついて、それから立ったままのえーこの表情をうかがう。
白いシャツが昨日よりもっと白い。もしかしたら昨日と色が違う…わけはない。
おんぼろな冷房がいくら動いていても、それでもちょっともやもやした空気に包まれた世界。外はきっと地獄の暑さだろう。
「ひろちゃんは大変なの?」
「え?」
「…………」
その瞬間、もやもやは一転して重苦しい空気となった。
もうあの二人をからかうことも出来ないのか。俺はちょっと不幸になったんじゃないか…って、それは嘘だ。
「さーて、どこで食う?」
「あ、ごまかしてる」
「気のせいだ」
「……ここ以外にどこかありそう?」
そう口にしながら、えーこはちらっと視線を動かす。もう教室にいるのは俺たちだけになっているし、今さら行き先を考える必要はなさそうだった。
さっと立ち上がり、前の机をくっつけて椅子をセットする。いつまでも彼女を立たせておくわけにもいかないのだ。さりげなくポーズをとって――ポーズをとった時点でさりげなくないのは内緒だ――彼女を招待すると、苦笑いを浮べたえーこが席に着いた。
「ヒロくんも早く座ってください」
「おう」
腰を下ろすと、正面に彼女がいる。なんだか緊張してしまう。料理番組で後ろから監視されるのも嫌だが、同じ目線というのも厳しい…って、俺は評論家じゃねーぞ。
えーこはカバンから二つの包みを取り出して、縦に並べる。どちらも同じ大きさのようだが、俺の前に置かれた一つを彼女は何度も動かした。動かしたところで何が違うのか知らないけど、そこをつっこんでもしょうがないので黙って見つめておく。
「えーと、お弁当です」
「そ、…そうだな」
数秒、互いに沈黙の時間。どうしたらいいのか、ちょっと迷ってしまう。
それから、今日のリボンは白いなぁとぼんやりして、軽く咳払い。
「開けていい…のか?」
「開けなきゃ食べれないと思う」
「……そうじゃないかと思ってた」
「うん」
くすっと笑うえーこ。その顔はさらに俺を硬直させるけど、数秒のうちに今度は緊張を解いてくれる。ふっと息を吐いて、包んである布の結び目に手をかけた。
………。
包みの最上部にあったものは、玉結び。かなり固い。なぜだっ。俺をあくまで拒むつもりなのかっ!
「あ、ごめん」
「………」
「蝶結びが苦手だから、つい…」
「いーや、弁当に対する限りない愛情が感じられる」
「そ、そうですか」
苦闘すること、それでもたかだか一分ほどで敵は敗れた。こんな弱い敵など問題ではないぜと、包みを開く。山岡士郎ならひん曲がった目でジャジャジャーンとか言うはずだが、俺はそんな若年寄じゃないからクールに開くと、そこには特に目新しくはないプラスチック製の入れ物が、上下に二つ積まれていた。
ドカベン風でないことは、残念ながら包みの形を見た時点で判っていた。いや、そんなものを期待する方が間違っている。少なくとも俺のキャラではないし、たぶん彼女も違うような気がしないでもない。
「いてっ」
「妄想したら一緒に食べることにならないと思わない?」
「…思う。悪い」
あからさまに怒った時はやっぱりグーなんだな。割と暴力的な彼女なんですよええ。
………。
二発目が飛んできそうなので黙ってふたに手をかける。が…。
「どうせなら一緒に開けたらどうだ?」
「…そ、そうする?」
「いや、別に無理にってわけじゃないけど」
俺がフォローを入れた時にはもう、目の前でせっせと結び目をほどく彼女がいた。なんだかギクシャクしてる俺たち。無理にでも、何かの儀式みたいにしようと頑張ってるみたいだ。
「準備完了です」
「よーし、じゃあ1、2、3、ダーで」
「ダーって必要?」
「冗談だって」
ちらっと目を合わせて、それからふたに手をかける。そうして、まるで相撲の立ち会いのように鮮やかな呼吸で二つのふたが開いた。
「あれ?」
「………」
「え、あ…」
いや、弁当箱だと思ったらびっくり箱でしたなんてオチはない。かといって突然巨大化して赤燈台を破壊したり、箱庭のお花畑に飛び回る蝶のように、開けたとたんにトリップしてしまったわけでもない。
「…なんか違う気が」
「き、気のせいです」
誰がどう見ても二つの中身は違っているのだが、作った当人に強く否定されると、それ以上争うわけにもいかなくなる。
まぁ別に深く問うことでもないけどな。
俺の方の中身は……。卵焼き、ブロッコリー、で、何やら刻んだキャベツと鶏の唐揚げに、なぜかうぐいす豆らしき物体。昨日のえーこよりカロリーは高そうだ。
「ふぅむ」
「不審な目つきはやめましょう」
「え、いや別に…」
えーこの弁当を見ると、唐揚げは唐揚げでもなぜか魚で、キャベツではなくハクサイのお浸しが入っている。しかもブロッコリーにマヨネーズがかかってない。
「最近太り気味なのか?」
「……そう見える?」
「見えない」
「………」
またもや気まずい空気。いったい俺たちはなぜ弁当すら普通に食えないのだ。邪念を取り払えっ! お前はただ一心不乱に食えっ! 迷わず食えばそこに道は開けるのだっ!!
「盛り上がらなくていいから食べましょう」
「お、おう」
思わず握り拳を突き出しつつあったことに気づき、慌てて二つ重ねの箱を横に並べる。
そしてもう一つの開けてなかったふたに手を。まぁこっちはご飯だろうから、あまり気を遣う必要は…。
開きかけたふたを、いったん閉じる。なんか模様があったような気が。
「ヒロくんが期待するようなものなら無いけど…」
「な、なんの話かね」
意を決して全開すると、それはただの海苔だった。
が、確かに変な文字に見えたり特定のマークだったりはしないものの、海苔の位置が妙だ。横長の箱に、二枚の細長い海苔が少し離れて貼られている。
「ひろちゃんの眉毛」
「へ?」
「……のつもりです」
消え入りそうな声でうつむきながら、えーこは自分のふたを開けた。そっちも妙な位置に海苔。しかし困ったことに、俺は見た瞬間に何なのか判ってしまう。
「リボンと眉毛って組み合わせはアリなのか?」
「あまり深く考えないでほしい…」
またもや気まずくなる。これって全部俺のせいか?
ともかく埒があかないので、割り箸をさっと両断。
………。
十点満点、パーフェクトである。
「一応、うちにあった最高級割り箸です」
「さすが最高級って感じだな」
少し和んだのは良かったが、手作り弁当で最初に褒めるポイントはここじゃねーよな。
「では、食べるぞ」
「…どうぞ」
厳かな雰囲気のなかで、割ったばかりの箸が輝き出す。そしてその瞬間、俺は料理記者歴五十年の怪物と化して、獲物に襲いかかった。泣ぐごわいねがー。
「あっ!」
「な、なんだ?」
…と、いきなり現実に引き戻されてしまう。若返ったり人間に戻ったりした気もするが、この際それはどうでもいい。
えーこはかなりおどおどしながら、おかずの一角を指さしている。これは…。
「卵焼き?」
「うん」
「………」
「……………」
無言の圧力に負け、俺は箸の位置を修正する。というかまぁ、俺はかならず白い米から食う性分なのだが、そのことに特別なこだわりはなかった。
卵焼きを慎重に持ち上げる。心の中でぐわーんとクレーン車の音を出すのが癖だが、たまに声が出るのが玉に瑕。
…わりとしっかりしているな。
楕円形の切り口はしっとりと濡れていて、とんかつだったら「肉汁があふれてますぅ~」とかバカなリポーターが叫ぶポイントであろうが、これはとんかつではない。
よーし、食うぞ。意を決して持ち上げた物体を我が口に近づけ、鋭い歯で一気に切断。小気味のいい感触だ。うむ、勝ったな。
「あ…」
「え?」
その瞬間、なぜかえーこは悲しそうな顔をしていた。
なんだ、俺は悪いことでもしたのか? それともまさか、卵焼きにいちいち名前をつけて、タローちゃんが噛まれたとか泣いているのか?
「……妄想はいらないから感想は?」
「え、あ、ああ」
どうやら俺の思い過ごしだったことに気づき、慌てて咀嚼し味を確認する。都合良く料理記者歴五十年を呼び出せればいいが、今の俺にはチャイランすら現れはしない。
「甘くてうまい」
「甘い?」
「んー、…うちで食うよりは」
「そう…」
深く考えた言葉じゃなかったから、落ち込まれると焦る。
「あの、だからうまいって」
「うん」
別にお世辞を言ってるわけじゃない。確かに最初の一口は若干違和感もあったけど、間違いなくいい出来だ。次からうちでもこういう味をリクエストしたいぐらいだ。
…とはいえ、そこまで言うと逆効果なんだろう。えーこはひねくれ者だから。あえて何も言わずに、今度こそご飯に手をつける。俺はおかずだけ食べるお子さまとは違う。
「…はえぬき?」
「うん」
米の味には特にうるさいわけじゃないが、食えば違いは判る。これは確かにはえぬき、でもちょっと違うような…。
「説明しましょうか?」
「…よろしく」
何度目かの苦笑。きっと面倒な男に捕まってしまったと思っているだろうが、実際俺は面倒な男だからしょうがない。
ともかく説明によれば、これは母親の実家で作ってる米らしい。だから売ってるものとは精米なんかの過程がちょっと違うとか。まぁその辺は聞いたってよく判らないけど、実家の由緒正しい米となれば、味わって食わねばなるまい。とりあえず肩を回す。
一粒一粒かみしめてみる。それぞれの粒はしっかりしていて、程良い弾力だ。噛んでいくうちに甘みが口いっぱいに広がっていく。いいねぇ、やはり俺たちは米食って生きるんだねぇ…っと。
「………」
「悪かった」
「悪い」
今度は頬を人差し指で押された。
互いのポジションを考えると、手を触るのは難しいんだろう。ハハハ…。
「さぁ、次は唐揚げだぁ!」
「叫ぶな」
「……えーこも食えよ」
「…うん」
まだ緊張が解けないでいる彼女を見ていると、こちらも正常な判断がつきにくい。もちろん正常な判断なんて元から無理…というか、どっちでも大差ない可能性は大いにある。それでも弁当を二人で食うんだから、えーこも食わなきゃ困る。
ゆっくりとえーこが箸を動かすのを確認して、鶏の唐揚げに移行する。囓った感触は、思ったより柔らかい。そして何かこれも、うちとは違う味が…。
「隠し味は?」
「…隠してるわけじゃないけど、たぶん生姜かな」
「ふぅむ」
そんなことも判らないのかと軽くバカにされた気がするが、そんなことも判らない奴なのだ。ともかくこの味は生姜だ。それじゃあしょうがねぇや。寒っ。
これもはっきり言って、かなりうまい。なんか普段の食生活を嘆きたくなってくる。
「それにしても料理うまいな」
「それしか娯楽がなかったから…」
「娯楽?」
「…実家にいた頃の話」
一瞬、褒めない方が良かったんだろうかと思って、すぐに邪念を振り払う。どんな経緯があろうと、うまい飯を作れて悪いはずがない。鬼のような父親に仕込まれた士郎だって、きっと内心親に感謝しているはずだ。
「ひろちゃん」
「ん?」
「とりあえずラーメンの謎をどうぞ」
「……うむ」
一通り感動に浸ったところで攻撃にあう。当然のように断りづらい雰囲気。まさしく謀られたってことかも知れないけど、えーこはそこまで計算づくじゃなさそうだ。
まぁそろそろ、こっちばかり見ないで弁当食ってもらいたい。俺が話し始めたなら、彼女の注意が他に逸れるのは確かだろう。
「それはこのブロッコリーのように些細な出来事の積み重ねだった」
「ヒロくんが一口で食べるように一気に話してください」
「……了解」
成り行き上、一口で頬張って話し始める。ブロッコリーはいつも食う時とさして変わらない。マヨネーズがかかってるからなおさらだ。
「他愛ないことだ」
「………」
「小学生の頃、ラーメン屋でドンブリを割ったことがある」
「うん」
「えーこも?」
「…ただの相づち」
苦笑するけど、あんまり驚いた感じはしない。それもそうか。どうってことのない話だからな。
……違うぞ。
「で、その時は父親と一緒だったから、こっぴどく叱られたわけだ」
「………」
「以来ドンブリを見るのが嫌になった。それだけ」
「それだけ?」
「………、じゃないかも」
「うん」
えーこはもう原因がドンブリだと勘付いていた。それならこの程度の理由は想像していたのだろう。
けれど、ここから先はどう説明していいのか、やはりよく判らない。別にそれで家庭内不和が生じたなんて物語などないのだから。たぶん。
………。
不和じゃない。絶対に。
「聞かない方が良かった?」
「そんなことはない」
「じゃあ一緒にうぐいす豆食べましょう」
「え、…ああ」
なんだかよく判らないけど、言われるままに緑の物体をつまんで口に放り込む。
甘い。いかにもこれはうぐいす豆だ。絶対に富貴豆ではない、湿っぽい食感。
「これはとある人の好物でした」
「ふぅん」
「ヒロくんも甘い物好きでしょ」
返事をする前に、また一粒を口に運ぶ。あと少しだけ力を加えれば崩れ去る豆が、口の中でまさしく粉々になっていくことを、見ることもなくただ感じる。それは「ムホッ」とか叫ぶような大事件でもなければ、片目を閉じて唾を飛ばすことでもない。
「けれど俺は若いぞ」
「年下の男の子?」
「ちさりんみたいな理屈はやめてくれ」
俺は計画的な人間だから、ちゃんとうぐいす豆でもご飯を食う。あまり割り当ては多くないが、仲間外れは良くない…などというのは表向き。うぐいす豆は案外おかずになるものだ。俺の味覚がおかしいのだろうか。
ともかく割当量を難なく消費する頃にはご飯も大半が消え失せ、彼女の説明によれば眉毛らしい部分だけが取り残されていた。
別に目新しい食べ方を模索しているわけじゃないが、気になって残してしまう。ふと向かいを見ると、そこでもリボンみたいなものが残ったままだ。まるで化石でも発掘しているみたいだ。
「なぁえーこ」
「ん?」
しかし結論を先延ばしするにも限度がある。俺は意を決して箸をかざした。
「自分の眉を食うってどんな感覚だろうな」
「気分爽快」
「……………」
「たぶん冗談です…」
しょうがないので、ただの海苔であると仮定して食べることにする。いや、実際物体としてはただの海苔だから、いったん口に入れてしまえばどこにでもある海苔弁だった。
そんな俺の様子をじっと眺めていたえーこは、片眉が消えてマス大山状態になったあたりでようやく自分の箸をわずかに動かしたが、まだ何か迷っている様子。
「…なぁ」
「なんでしょう?」
「今日のえーこは白いリボンが可愛いんだろ」
「…ありがとう。ひろちゃんの眉毛はそんなに濃くないと思う」
「そう言われるとほっとする」
結局えーこは、謎掛けのつもりで自分が囚われてしまっただけなんじゃないか。
今度はなんの迷いもなくリボンを破壊し始める彼女。ブルドーザーのように大胆に、しかし子供のように小さな口でご飯を食べるその姿がやけに可愛いから、見とれてしまう俺がいる。あんまり見とれるような景色じゃないかも知れないけど、少なくとも勝ピーの食事を眺めるより遙かにマシだ。
…なぜ比べる必要があるのだ。あほらしくなって残る片眉を一気に食べ尽くした。
「ごちそうさま」
「…じゃあ俺もごちそうさま」
「家では言わない?」
「あんまり言わないな」
一瞬、えーこは行儀がいいなと言いたくなって、この台詞は三度目ぐらいになることに気づく。でも、毎回そう思うほどに俺はごちそうさまとは口にしない。
正確にいえば、いただきますなら時々言うこともある。幼稚園の頃は昼に両方言わされてたから、その名残りで小さい頃は言ってたけれど、だんだん忘れていったわけだ。
「とにかく…」
それはえーこが望むような俺の過去だろうか。
考えるまでもなさそうな愚問。そうだろ?
「うまかった。これなら鉄人にも勝てるんじゃねーかってぐらい」
「鉄人って、子供が動かすにじゅ…」
「それは照れてんのか?」
「………たぶん」
満ち足りた気分。
いや、満腹というだけなら超豪華揚げあんパンでも大差ないが、何か違う。人間だもの。違う。そんな空虚なものじゃなく、満ち足りている。俺は幸せだ~とか叫んでみたい気分だ。叱られそうだからやめとくけどな。
弁当箱をカバンにしまうえーこも楽しそうだ。あんなおかしな出逢いなのに、どうしてこんな普通の恋人ごっこが出来るんだろう。だんだん不安になる。これは壮大な滅びへの序曲ではなかったか。あとは坂を転がり落ちるように……っと、左の頬に指。
「どんな状況でも欠かさないよね」
「我ながらたいしたもんだと思う」
「……ヒロくん」
そのときはまだ、妄想をつっこまれても今日ならば余裕があると俺は思っていた。
「妄想がゴロウを呼び寄せたってことは?」
「ん……」
弁当をしまい終えた彼女が頭を上げた瞬間、白いリボンが揺れた。
それはまるで複雑怪奇な蝶結びが空を飛ぶように、俺を混乱させていくきっかけ。
「そんな因果関係は証明しようがない」
「証明は出来ないけど、…だけど」
立ち上がる身体より先に、何かが教室を出て行こうとする。いつまでもここに居てはいけないと、つぶやく声もある。
白昼夢。そうだな、今はそう呼んでみよう。
「だけどそう実感することは出来るかも」
「いや……」
昨日よりも遙かに静かな廊下も、どこにも競う相手のいない階段も、俺たちの過ごした他愛のない時間を記憶していくのだろう。思い出す方法のない記憶を。
肩から落ちかけたカバンをかけ直す。忘れかけていた教科書の重みを感じた俺は、なんだか無性に勉強したくなった。
「ゴロウがいるなら、俺の代わりに弁当食ったと思うぞ」
「そう?」
「そうだ。俺が思うにゴロウはグルメな奴なんだ」
「ふぅん」
昇降口までの直線で誰かに出くわしたら負けだ。そんな言葉をぶつぶつ繰り返している自分は、きっと易者のようなもの。
「それじゃあツルさんも大変だね」
「だから二人の仲はやがてほころび……っと」
もうすぐフィニッシュという時にぎゅっと手を握られてしまう。
今日は数秒よりもまだ長く、彼女の指が絡む。細くて、まるでヤリイカみたいに透き通る指先を俺は見つめ、それからヤリイカを何かに置き換えるべきだと反省する。
「それはダメです」
「…うむ」
「だからひろちゃんが大好き」
「だからと言われても困るがえーこが好きだ」
「うん」
昨日よりも圧倒的に暑い昇降口。こんな形式張ったことはもうやらなくてもいいだろうと、彼女を見て笑う。彼女はこの暑さに少し驚いた様子で、それでも一緒に笑う。
たとえ儀式が終わったとしても、ごく自然にえーこは口にするのかも知れない。そこで自然に返せる自分がいたらどこかで………、信じ始めるのか?
「さて、校門だ」
「うん」
ここで水戸の御老公と陰気につぶやけば、俺は良に変身出来ることになっている。突然モテモテになるらしい。さすが印籠パワーは違う。
「今日はこれからどうする?」
「…ごめん。すぐ家に帰らないと」
今帰ったら、俺は勉強の鬼となるだろう。鬼って言っても角は出ないから、虎かも知れない。虎の穴。そういえば、勝ピー様は最近まで虎の穴が実在すると信じていたらしい。ノォーノォーとか頭に鉄球つけた奴が本当にいたら怖いだろ。
「いや、別に謝らなくとも」
「うん…」
虎の穴はともかく、祐子さんたちはいつまで勉強会やるんだろう。たぶんこの時間はまだメシ食ってるだけで、始まってないだろうな。
祐子さんも大変だよな。今日もつき合わされて、月曜もある。
………うむ。
今から乱入すれば間に合うことに気づいてしまった俺は、全力で忘れることにする。祐子さんの話題は危険だ。月曜はきっとえーこも楽しみにしてるのに、俺が楽しみだと言ってはいけないなんて理不尽だ。
「その代わり…でもないけど、ヒロくん」
「ん?」
でも、それなら彼女が月曜を楽しみに待つ理由はなんなのだろう。祭の事後報告を聞くだけなら、勝ピー様だけでもかなりの用は済んだはずだし、祐子さんに会わなければ頬を膨らますこともない。
混乱した頭で彼女を見つめる。降り注ぐ光は一瞬えーこの上半分を薄めて、それから白いリボンとシャツに反射する。
「中津国はまだ残ってます」
「………そうか」
さっきまでとはちょっと違う笑顔で、えーこはつぶやいた。
「水浸しだけどね」
「しぶといもんだ」
俺も笑顔にはなるけど、もうかかとの高い靴はやめようぜというメッセージを込めてある。たぶん彼女には届かない。
「無くなったら困るでしょ」
「まぁ…困るんだろうな」
ふっと息を吐く。もう一度河原に降りる必要は感じないけれど、見下ろしには行かなきゃならないだろう。あれは間違いなく二人が必要とした時間。だから約束は……、別に要らないか。
黙っていても、訪ねる日なんて決まっているからな。
「よし、じゃあ次は月曜。祐子さんと会えて嬉しいなぁ、えーこ」
「ぶー」
「ブーイング とがるくちびる えーこかな」
「……えーと、殴っていい?」
「遠慮しとく」
さりげなく詩人となって、今日は校門でそのまま別れる。自転車の彼女は相変わらず光を反射するから、俺の眼球はくらくら揺れる。そして頭上から押し寄せる熱気にまた揺れる。
そよぎもしない大樹と、足元でまだ生気を放つ苔の緑。この世界を突き進んだ先には教科書の海が広がる。俺はひとしきり溺れて、そして予定調和の救命ボート。
何かがほしかったんじゃない。
…強いていえば、君がほしかったんだ。俺は俺の考えていない過去をつぶやいて、沈みそうな身体でもがき始める。果てのない空の下で、今消え去る者を見据えて。




