雨あがり
君は今、フィーバーしてるかいっ!?
…………。
すまん。冗談だ。声にはなってないはずだから許してくれ。
今はテスト初日の昼休み。正確に言えば、テストは午前中だけだから、放課後と呼ぶべきかもしれない。ちょっとだけ解放されたようで、けどすぐに気のせいだったと気づかされる時間。うーん、詩人だな。
…………これも冗談だ。
ともかく、既に担任もいない教室は、いつもより控えめにざわめいている。クラスにはテストなんて最初から投げてる奴もいれば、上位になって廊下に貼りだされたい奴もいるから、けっこうな温度差を感じる。俺みたいに中途半端な奴が一番多いんだがな。
中学までは点数が貼りだされるなんてあり得なかったから、最初に旧校舎への渡り廊下であれを見てしまった時は、ちょっと怖いと思った。
そこに誰の名があったかはまるで覚えてない。だから全然興味ないというならそれで良かったけれど、俺はたぶんそうじゃない。どこかで名前を載せてみたいという欲望が渦巻いている。
…それから。
どうせ載りやしない。
どうせ上位なんて無理だ。そんな独り言を繰り返す自分も、まだ確かにいる。
「何か敷かなくていいの?」
「揚げあんパンのプロと呼んでくれ」
「うん」
「…呼ばなくていいからな」
結局、何も変わっていないのか。すっかりネガティブになっても腹は減る。どうせ俺は弁当持ってるわけでもないし、このまま帰っても構わなかったが、家に帰ったところで誰もいないから、結局いつもと同じようにパンを食うことにする。
たまには優雅に学校帰りの外食なんてしてみたいものだ。でもそれは口だけで、浪費する勇気なんて俺にはない。もしも二人だったら、何か変わっていくのかも知れないけれど。
いつものようにとぼとぼと昇降口に向かうと、見るからに暇そうなパン屋がいる。普段より少な目に持ってきたというパンが、数えるのも面倒なほどにごっそり余っていた。
どうせ捨てるんなら安く売ってくれと、俺はいつもの交渉に望もうとする。それは極めて容易いはずだった…が、パン屋のオヤジはいきなり先制攻撃を仕掛けてきた。最近は売れ行きが悪いとか、発売まで一年かけた自信作の人気がなくて悩んでいるとか、そんなことを高校一年生相手に愚痴られても正直言って返答のしようがない。これも値引きの代償なのだと我慢した。するしかなかった。
「ヒロくん、一口食べる?」
「…えーこが腹をすかせたら困る」
まぁ手間取ったせいなのか、教室に戻るとかなりの人数が消えていた。俺の前の席も帰ってしまった――まぁ、この席の女子はいつも教室右奥の友だちと食うんだが――ので、勇気を振り絞って彼女を呼んでみたわけである。
というかまぁ、自分の彼女が教室の後ろに一人座ってるのを眺めながら、やはり一人座って飯を食うのは不自然だ。そうだろう? 頼むから同意してくれ…。
「さりげなく大食いだって非難してる?」
「被害妄想だ」
「妄想するのはヒロくんだけだと思う」
「嘘つけ」
さすがに一週間近く経つと、俺たちも少しは目立たなくなった。少なくとも、教室でえーこと向かい合って話す程度なら、異様な視線にまとわりつかれずにすんでいる。
…さすがに飯食うとなると、ちらちら覗かれてるけどな。
だいたい、つき合ってるのは俺たちだけじゃないそうな。えーこを通して教えられたけど、ああそうだっけ……と、興味は湧かない。名前は知っている。結局それだけなのだ。
何も変わっていない。ふとしたきっかけから、女子生徒の一人との関係は大きく変わっていって、それが俺という全体にどれほど影響を与えているだろう。ため息をつきかけて、ふと視界の端に彼女の赤が映る。こんなシチュエーションでなぜグダグダ落ち込んでるんだ、俺は。
気を取り直してパンの袋を破った。偉そうなことを言った関係上、慎重に粉をこぼさず開く。正直言えば、いつもなら適当に開けて、食べ終わってからこれまた適当にティッシュで拭くだけ。拭き残すと教科書にシミがつくし、隣の邪悪な女子生徒の罵声がおまけについてくることもあるが、まぁたいした問題ではない。
ちなみに、その邪悪な視線を向ける女子生徒も今はいない。実にすがすがしい気分だ。ラジオ体操第一ぐらいなら軽いかも知れない。
「ヒロくんは弁当嫌い?」
「まさか」
「ふーん…」
ラジオ体操はいろんな意味で目立つからやめておこう。うむ。
ともかく向かい合って座り、飯を食う。外では何度かあった景色だけど、やはり教室でとなると不思議な気分だ。ましていつもなら、ここでの対面はむさ苦しいプロレス者と決まっている。
…決まっていてほしいわけじゃないぞ。
そのプロレス者は弁当を作ってもらえず、真っ先に帰ってしまった。あそこは母親が専業主婦だから、きっとアスパラ巻そのほかの豪勢な昼食が待っているのだ。所詮ヤツは我々の敵である。
「嫌いなものはラーメンぐらい?」
「……イカのわたは食えないが」
「塩辛?」
「まぁ、それも含む」
「ふーん…」
邪悪な女子生徒は、はっきり言わなかったが彼氏とどこかへ消えたようだ。どこかというか、たぶん間違いなく地研部室だろうがな。残念ながら弁当を持っている以上、外には出ないだろう。
地研部室には、居てもせいぜい幽霊部員だから、あのカビ臭い部屋で二人っきりだ。実に不健康だ。親が泣くぞ、まったく。
「二つ作ったら、食べる?」
「え?」
「残念ながら毎日は無理だけど…、明日」
「………」
少しの間、言葉に詰まる。幽霊部員は幽霊だったのか…じゃなくてだ。馬鹿馬鹿しい妄想のまっただ中だったから余計に困ってしまうが、これは彼女の狙い通りかも。
とりあえず深呼吸、そして肩を回す。えーこがくすっと笑う。窓際で見る彼女は少し肌が白くて、黒い髪には暗い赤色のリボン。最近この色が多い気がする。
……うーむ。
もちろん、拒絶するわけじゃない。ただなんというか、現実感がない。あまりにも少女マンガな展開に、思考が止まってしまっただけだ。
俺は王子様なのか。目がすんげー大きくて、バラの花に囲まれて登場するのか…。
「いてっ」
「…………」
「あ、悪い」
我ながら、返答前に妄想にふけるのは大胆過ぎると思う。反省…しとくか。
「それで?」
「は、はい、是非一度ご相伴にあずかりたい…というか、自分で作ってたのか?」
「…いつもは寝坊してます」
照れ笑いのえーこにつられて俺も笑う。
しっかりしてるんだか、してないんだか。難しい性格だなぁと彼女に言ったのは昨日だったけど、お互い様だと返された。俺のどこがしっかりしてるんだ?
今日の弁当は、ごはんに卵焼き、しみ豆腐にゆでたほうれん草と、あっさり目のラインナップだった。必ず揚げ物が入ってる勝彦とは違うが、ちさりんとは近いような気がする。大きさは…、あえて言うまい。
「テスト前なのに勉強時間つぶれて大丈夫か?」
「一人分でも同じだけつぶれるし」
「…そりゃまぁ、そうか」
自慢じゃないが俺は電子ジャーで飯を炊く方法しかしらない。弁当作りの苦労というものを、あまりリアルに感じられないのだ。
「気分転換だから気にしないで」
「おう…。楽しみにしとく」
それでもやってくる、夢にまで見た弁当ライフ。勝ピーの隙をついて盗む必要がないなんてすばらしい。ワンダホー…って、そんな問題かよ。やれやれ。まだ俺の思考は破綻してるようだ。
けどなぁ。改めて想像してみても、それは理解を超えた出来事にしか思えない。今だって女子生徒と向かい合って飯を食うという、かなりあり得ない状況なのだ。それが揃って弁当で、しかも……。いかん、頬が火照ってきたぜ。
とりあえず、これ以上の妄想は恥ずかしいから、無心でパンを食おう。そう思った時に、揚げあんパンはすでにこの世のものではなかったけれど。
「明日はいよいよ数学」
「…えーこは喜んでるのか?」
「お勉強会の成果が出るから…」
お勉強会は、結局二日間続いた。
初日が古文と数学で終わったので、翌日はバケ学と英語。生物が次に控えていたが、時間切れだった。一日三教科はどうしても無理だ。
昨日はなし。連日お勉強会というのもかえって疲れるから、直前はそれぞれでやった方がいいと、ほぼ全員の意見が一致した。ちなみに、ほぼ…というのがミソだ。
「えーこはああいうの初めてだったんだっけ?」
「うん」
「…まぁ、楽しかったよな」
「うん」
「けど……」
ちさりん一人は、しぶとく三日目を主張した。どうせ良が話に乗らないのだから、どうでもいい意見だけどな。ふっ。
………。
というか、千聡は地研部室にでも閉じこめて、一度一人っきりでやらせるべきだ。去年は確か、クラスの女子と連日勉強会をやっていたし、五月の中間テストもそうだった。勉強会は単なる娯楽なのだ。
「たった二日間の勉強で、突然バカが天才には化けないぞ」
「……それは予防線?」
「うむ」
「素直なヒロくん」
「ごまかしようがない」
「そっか…」
今日も、一緒に勉強する予定は入れてない。目の前の相手に申し込もうと思えば出来るが、そういう雰囲気でもない。
二人きりでの勉強会は、どうしても互いに意識してしまうから、たぶんうまくはいかないだろう。なんとなく互いに、そう気づいていた。つき合って何年のベテランならともかく、俺たちはまだ数日。自分をおさえる術なんて身につけていないから。
けど、そんな術がいつか身についてしまったら、それは嬉しい変化なのだろうか。自分をコントロール出来ない時、一番つき合ってるという実感がある。それがすべて理性で動けるようになったら、なんだかただの友だちになってしまいそうだ。
「けど祐子さんってきれいだよね」
「えーこのほうが可愛いぞ」
「そう?」
「そう」
「…そう」
それにしても、この脈絡のなさはいつもながらすごい。最近はむしろ感心してしまう。どさくさに紛れて恥ずかしい台詞を吐く俺も俺だと思うけど。どうせ他に聞こえるような声じゃないから問題ないよな。
「えーこの方が楽しそうだよな」
「え?」
「祐子さんと話す時は、なんかちょっとプロレス者の香りを感じる」
「…プロレス者って、なに?」
「知らん」
「………………」
金曜、土曜に月曜日までが試験で、終わったその日の夕方には祐子さんがやってくる。もちろんそれは、あの日から決まっていた反省会。えーこが頬をふくらますような日ではない。
だいたい、なぜ祐子さんのことをそういうふうに意識するのか、根本的に疑問だ。いくら美人だろうと、祐子さんはせいぜい姉、本音を言えば母親みたいに思える。
…………。
それはえーこも判ってるんだろう。だから余計困る。溜め息をついて視線をずらすと、薄日の射した窓が見えた。
「今日は自転車だっけ?」
「うん。なんとか」
「降られなかったか?」
「ちょっとは……」
梅雨の長雨は今朝まで続いた。日が射さないとナスが育たないとか母親はぼやきはじめ、勝彦はとうとう黒い長靴を履いて、えーこは毎日バスに乗った。あの国をいつもの数倍のスピードで通り過ぎながら。
沢山の水滴が俺たちを川から遠ざけていくほどに、またあそこに出掛けたくなっている自分。今頃はもう無くなっているかも知れないけれど、それならそれで、冷酷な視線で見つめていたい。どうせあの国には降り立てないのだ。
ぼんやりしていたら、えーこが弁当箱に箸をしまう姿が目に映った。俺と無駄話しながらも、あっさり空にしたわけだ。
「ごちそうさま」
「礼儀正しいな」
「ヒロくん、前も言わなかった?」
「そうだっけ」
勝ピーと比較したなら、たぶん似たようなスピードだろうが、ちさりんが標準ならかなり早い。毎日顔を合わせてるわけだし、今さら彼女の体が大きいなんて感じることはないけれど、ちょっと考えてしまう。大食いだから背が伸びるわけじゃないし、本音を言えばいくら伸びようが構わないけどな。
「バス停まで案内しよう」
「うん。よろしくひろちゃん」
「ひろちゃん?」
「ダメ?」
「いや、別にいいけど…」
何故自転車の彼女をバス停に案内するのか我ながら謎だったが、そんな疑問も流れてしまう。なんか昔、誰かに呼ばれたなぁ。思い出せなくてもやもやしたまま席を立った。
夏服の彼女は、教室を明るくしてくれる。蛍光灯みたいな白だから…って言ったら、蹴りが飛んでくるんだろう。いつか自爆しそうだ。
もう数人しか残ってない教室をあとにする。残ってる数人は勉強会でも始めそうな雰囲気だったから、俺たちは邪魔だったかも知れない。俺たちは周囲の気を散らせる存在なのだ、えっへん。
「山が見えるよ」
「お、久々だな」
別に急いでないから、窓の景色にもいちいち足を止める。
ここでは何度か彼女と密談した。それはまだ一ヶ月も経ってない記憶なのに、遠い昔のことみたいだ。
あのころはまだ、そこまで彼女を意識してはいなかった。……本当か? ここで彼女を待つのが楽しみじゃなかったのか?
「!!」
「………」
突然の感触に、俺の全身は硬直した。冷や汗が出た。
「目が覚めた?」
「……おう」
そりゃ覚めるだろ…というか、心臓に悪いって。
………。とりあえず深呼吸と肩回しを決行する。まだドキドキしてるぞ。えーこが俺の手に触れたのはほんの一瞬に過ぎなかったけど、その効果は前蹴りの比ではなかった。
「えーと、…オリジナル技です」
「知ってる」
「好評のようなので、またいつか」
「………」
どこが好評なのかよく判らない。まぁ青アザは出来ないから、慣れれば蹴られるより遙かにマシだろうが、その前に心臓マヒにならないとも限らない。ふー…。
…………。
笑顔の彼女を見て、ようやく気づく。どうやら俺はにやついていたらしい。なんて正直な反応なんだ。どっちかというと、人前でこのニヤニヤ顔をさらす方がよっぽど問題かも知れない。
とにかく靴を履き替えて、えーこは自転車置き場へ向かう。後をつけても良かったけれど、なんとなく校門前に仁王立ちしたくなった俺は、まだ明るいのに人影の少ないわずかな距離を歩いた。
外はすっかり晴れ上がって、湿っぽくて暑い。今日でこれなんだから、明日は真夏日確実だ。振り返ると校舎を覆うように大樹が並び、その彼方に雲が流れていく。なんの見栄えもしないコンクリートの校舎も、こうやって眺めればそれなりに見えなくもない。そういえば……。
「…何か思い出した?」
「へ?」
ぼんやりしているうちに、彼女がすぐ左に立っていた。自転車とってくるだけなんだから当たり前か。
「にやにやしてたけど」
「う」
我ながらどうにかならねーかなぁ。
まぁ、これはこれで隠し事のない関係には違いないけどさ。
「………」
「ばれちゃあしょうがない、まぁ聞きたまえ」
「はぁ」
思い出した記憶は、別に隠したくなるようなものではない。えーこになら、むしろ話してしまいたいぐらいだったから、勿体ぶった割には身を乗り出してポーズをとる自分がいた。そう、それは去年の秋。高校受験という話題が避けられなくなった頃のことだった。
「むがーしむがし」
「………」
「あれはまだー、武藤の殿様がおった頃のことぢゃ」
「へー。五百年前の話?」
「……ごめんなさい冗談です許してください」
きれいに墓穴を掘ったところで気を取り直して再開。仁王立ちポジションはさすがに落ち着かないので、少しテニスコート寄りに移動する。
えーこはそれなりに興味ありそうな顔。好奇心にかけては俺より上だ。
「良と千聡と俺の三人で、一度ここへ来たことがある」
「入学前に?」
「そう」
発案者は言うまでもなく千聡。といっても、自分の志望校を一度見てみたいという、とりたてて珍しくもない理由だ。
問題はちさりんの志望校というヤツが、要するに良の志望校というだけで、当人には特に志望する理由なんてなかったこと。まぁそれはあくまで内緒にしてるつもりらしかったから、あえて口にはしなかった。というか、隠してるつもりだったのは千聡一人……って、それはどうでもいいぞ。
三人は自転車で奥村家に集合。ここまで来たついでだからと、他の高校も眺めることになった。ちさりんの家の周辺には三つぐらい高校があったから、先にそっちを回って、それからこれまた千聡の強い要望で少し離れた私立校を経由して、最後に志望校へ。
公立の高校はどこも変わり映えのしない景色で、強いて言えば制服が違うだけだ。男の場合それも一緒だから、なおさら興味が湧かない。正直言って、かなり退屈だったけど、かといって私立校のブレザーにも抵抗があった。が、ちさりんはそこの女子制服が気に入っていたらしく、やたらチェックが細かい。ぶつぶつと一人つぶやく声がまるでお経を聞くみたいに意味不明で、俺と良は顔を見合わせるしかなかった。
そしていよいよ志望校に到着だ。校門からの景色を見た途端に、ちさりんは無言になった。無言というか、いかにも何か言いたそうな顔で、しかしそれを必死に我慢しているのがミエミエだった。
「…………」
「…悪意はないからな」
「うん」
煮え切らない千聡の姿は、今思い出しても苛立つことがある。だけどそれが俺の悪意だったのか、違った感情だったのかなんてもう判らない。きっと判らなくてもいいことだ。
とにかく、ここで千聡は黙りこんだ。良の志望する高校だから悪く言えないのは、まぁ判らないでもなかったから、適当に俺が口を挟んでごまかす。目の前にあった、校舎を隠す大樹を褒めて――葉は枯れかかってたが――、ついでに左側に見える土手もいいかも知れないとかごまかした。そうしたらまぁ、この土手は城の名残りだと良が雄弁になって、あとは気を使うまでもなくなったわけだ。
しかしまぁ、良は良で世話の焼ける奴だった。もしもあの雄弁がちさりんに対する配慮ならたいしたもんだが、絶対違うと断言出来る辺りがなんとも。どうせ昔の話だけどな。
「そんなにダメなのかなぁ」
「さぁ」
「…私は気に入ってるけど」
「どうせ第一印象だからな」
今さらのように振り返る彼女の後ろ姿を、俺はぼんやり見つめる。これなら見とれても気づかれないだろうとか、良からぬことばかり考えながら。
正直、校舎の見栄えなんて気にする意味が俺には判らなかった。よっぽど汚いとか、今時教室に冷房が入ってないとか、ガラスが割れまくってるとか、べっとの大群に襲われるとか、そういう問題なら重要かもしれない……けれど、たとえそれらが気になったところで、他に行き先なんてないのだ。
中学の成績でだいたい受験先は振り分けられる。その時点でもう、あとは落ちるか落ちないかの違いだけだ。ブレザーの私立校は、たとえ千聡が希望したって許される行き先じゃないのだ……って。
「二度目」
「…それはたぶん幼稚園児でも数えられるぞ」
「うん」
今度はさっきより長い時間、俺の手が握られていた。
長いといっても、たぶん計れば一秒が二秒になった程度なんだろうけど、この際それは問題ではない。
「あの…」
「ん?」
陽射しの下で見るえーこは、なんだか光ってるようだ。今度はたぶん、蛍光灯じゃないはず。
「嫉妬するなって叱ってくれたら嬉しい…かも」
「…………」
少しだけ肩をすぼめて、笑顔。
その後ろには斜めに校舎があって、もう一方には交叉するように自転車置き場の屋根が続く。奇妙な遠近感に一瞬めまいがして、思わずこめかみを押さえた。
「いーや、…嫉妬すりゃいい」
「え?」
「えーこがそういう性格だってことはみんな知ってる」
「………そ、そう?」
最近あんまり運動してないから、体がなまっているのかも知れない。とりあえず屈伸したくなったが、彼女の前でいきなりやると不自然なので、とりあえず肩を回す。二人というのは何かと厄介だ。
えーこはあまり納得してなさそうな顔。彼女にとって不本意なのは判るから仕方ない…けれど、千聡のようにはっきり口にしなくとも、みんなとっくに気づいている。そこは残念だが自信がある。
………。
本当はそういう問題じゃない、と言いたいならそれも知っている。
「放っといても、そのうちふくれる理由はなくなるだろ」
「それはまぁ…」
「………」
「ヒロくんしだいかな」
「…うーむ」
そう切り返されると何を言っていいか判らず、曖昧に笑って体を動かした。色あせたアスファルトに映る影も、少し遅れて左右に揺れる。さっきより暑くなった気がする。もしかして、さっきの立ち眩みは陽射しのせいだったろうか。
とにかく、いくら時間があるとはいっても、もう帰ったほうがいいだろう。付け焼き刃の勉強なんて必要ないと言い切れるほど、俺たちは才能に溢れていないのだ。ふっ。
けれど再び校門に歩きだそうとして、考える。
バス停まで送る約束はまだ生きてるんだろうか。意味がないだけじゃなくて、えーこの帰りが遅くなるよな…。
「そこの橋まで…」
「うん」
妥当な結論は、えーこが出してくれる。彼女はもう、あそこより先へつき合えば俺の家が遠くなってしまうことを知っているから…なんて言うと、まるで俺の家に来たことがあるみたいでまずいか。
………。
俺がえーこの家を知らなくて、ちさりんの家を知ってるのはやっぱりダメなのかなぁ。今さらのように理不尽な彼女の怒りを思い出したが、すぐにもっと緊急な問題に気づき、慌てて隣を見た。
「…残念」
そこには手をのばしかけたえーこがいる。どうやらギリギリセーフだったらしい。なんてスリルいっぱいの関係だ。余所様もみんなこうなのか?
………………………。
んなわけあるかって。
「妄想しながら倒れたことは?」
「決してない」
「…いつ起こってもおかしくなさそう」
「たぶんない」
さっきのあれを見られてたか? あれは滅多にないと思うけど、自信がないのでそれ以上主張せず、ゆっくり歩き始める。
カラカラと音を立てて自転車を押す彼女と、ほんの一分ほどの距離。アスファルトの道は大きく右に折れて、また左に戻る。いかにも高校が道路を邪魔しているようだが、これは城跡だからじゃないかと良が言ってた。
毎日通っても、こんなところに城があったなんて想像も出来ない。それでも、見える人には見えるってわけだ。まったく貴重な友人である。
「もう着いたな」
「うん」
坂というほどもない十歩ほどの登りで、橋に着く。渡った先には信号があって、数台の車が橋の上に停車中。人は……遠く右手の方に誰かいるような気がする。動きの乏しい景色のなかで、上空を旋回するウミネコだけが妙な声をあげていた。
「あの山はきっと二人と関係があると思う」
「……理由は?」
「理由はないけど、ひろちゃんもそう思うでしょ?」
「え…」
慌てて振り返っても、山はいつもの山。
さっき窓枠の向こうにあったものが、今は解き放たれている。それはまるで、この小さな目の前の川を遡れば、程なく辿り着けるかのような景色。だけどそれは目に映るだけの幻影だった。
「なぁえーこ」
「ん?」
「雪は残ってるか?」
「そろそろ消えた」
「だよな」
上流側に侵入するウミネコの軌道が、山の左半分を切り取っていく。麓の余計なコンクリートも削られて、いつか純粋な山と川だけが浮上して……、それはまた妄想という蛸壺を埋める。
「水の色は青だといいかもね」
「誰に伝えたらいいんだ?」
「……とりあえず、ヒロくん」
「俺かよ」
「うん」
自転車の車輪が再び周りはじめて、山が背後に位置を変えていく。目に映る川岸は、ゆるくカーブしたまま濃い緑へと続いている。
そしてすぐに、足元から砂利を踏むにぎやかな音。少しだけ俺は、彼女の先を進んでいた。
「…どうする?」
「汚れても大丈夫だから」
彼女の肩に続くみたいに、山が見えた。
きっとこのまま絵にしたなら、幼稚園児も真っ青な遠近法になりそうだ。
「まぁ、ハイヒールじゃないからな」
「イヤミ?」
「まさか」
今朝まで降り続いた雨で、土手にはまだいくつもの水たまりが見える。
いくらかかとが高くないといっても、泥まみれになって構わないはずはない。だから俺はちょっと躊躇したけれど、彼女はあっさり土手の道を選択した。
自転車だから、それは余計なお世話か?
「それじゃ、また明日」
「……今日も言うのか?」
まるで風のない川辺で、俺はまた人の姿を探している。
まだ夕暮れには遠い空の下だから、たとえウミネコだろうと気恥ずかしい。
「うーん…」
「…………」
「まぁ…、ひろちゃんに任せます」
「任せられてもなぁ」
この儀式に疑問を抱く自分なら、いつだっている。だけど押し切られて、…あるいはどうしても言いたくて、もう四度繰り返した。
俺はもしかしてゴロウと張り合いたいのだろうか。彼女をつなぎ止めていたはずの奴が消えて、それで不安を覚えるのだろうか。
……そんなことはないと、大きく息を吐く。
別に俺はツルを好きになったわけじゃない。だいたい、もう俺の中にいない存在なんて、今さら意識する必要があってたまるか。
「うー、……やっぱり大好きだ、えーこ」
「うん。ヒロくん大好き」
「今度はヒロくんか」
「そういう気分だったから…」
けど口にしなかったら、ストレスがたまる。言わなくたって判りきっていても、男にはやらなきゃならぬ時がある。
嘘だ。それでは俺だけ叫ぶことになってしまう。
「弁当楽しみにしてるからな」
「グルメなひろちゃんは、ぶつぶつ文句言うの?」
「…言わないって」
「たぶん?」
「…………まぁ」
後ろ姿の彼女をじっと見送る。ゆるやかなカーブに合わせて自転車をこぐえーこの髪が、だんだん伸びていくような錯覚にとらわれて、ため息をついた。
さぁ、テストだ。俺にはテストが待っているぜ。やがて視界から消えた彼女を忘れようと、少しだけ声を出してつぶやいてみる。
きっとウミネコも土手の雑草も、テストなんて興味ないだろう。どうせならゴロウじゃなくて勉強の出来る奴だったら、もうちょっと仲良く出来たかも知れない…などと、途方もなくバカな妄想を最後に振り払う。もうすっかり汗をかいた身体は、動かすだけで不愉快になれた。




