雲下の一群
朝。
薄暗い部屋で、何かの音を聞く。雨だ。狭い部屋がいつもより狭く、俺の体を押し潰そうと迫ってくるかのようだ。
梅雨らしい雨。家庭菜園なんてものに精を出す母親は、しきりと雨が少ないとぼやいていたから、今頃は機嫌もいいだろう。
俺だって雨がなければいつか干からびる。だけど濡れるのは嫌だ。それはおかしなことだと、中学二年の頃は悩んでいた。今にして思えば、何の意味もない悩みだった。
「長靴履いてけよ!」
「履くか、格好悪い」
父親といつものやり取りをして、早めに家を出る。玄関には農作業に最適な真っ黒い長靴が置かれていたけれど、もちろん無視。誰が高校に履いていけるかって。
……………。もしかしたら履いてきそうな奴の顔が、二つぐらい浮かんだ。鬱だ。
アスファルトの方々に出来た水たまりを避けるようにステップを切る。こんな軽快なリズム、絶対長靴では無理だぜ。ゴボゴボと変な音を立て、そこら中でクネクネ曲がる靴など世の害悪だぜ。
……朝から熱っぽく語ってしまった。今日も絶好調になりそうだ。
けど、いつから長靴を捨てたのだろう。小学生の自分は、長靴で水たまりを選んで歩いていた。ぬかるんだ土に心ときめいたのだ。今となっては信じ難い過去だ。
「おはようさん、今日も朝の修行とは熱心…」
「ヒロピー!」
「……………なんだよ」
結局駆け足になってしまったので、教室への到着もかなり早かった。なのに残念ながら既に見慣れた顔がいる。一度は誰よりも早く登校してみたいものだ。
…その気になればいつでも可能なんだがな。
まぁいい。とりあえず目の前では、なぜか千聡が手のひらをこちらに突き出している。どう見ても、俺に何かをせびっているようにしか見えないポーズ。
「ノートならせめて席についてか…」
「このバカピー!」
「ぐえっ」
と、声が終わる前に鋭い蹴り脚。完全に不意を衝かれた俺は、避ける間もなく直撃を喰らった。
「痛ぇな、俺が何をした!」
「今日はなんの日だった!?」
「なんの……って、テストの三日前か?」
「…………」
すごい視線で睨みつけられた俺は、言い終わってからようやく、この手が何を意味するのかに気づいた。ちょっと遅かったかも知れない。
しかし、しかしだな…。
「なぜ俺がプレゼントしなきゃならねーんだ。良にせがめよ」
「もらえるもんは多い方がいいでしょ」
「なんだ、ハックンなんかくれんのか?」
勝彦乱入で、話がややこしくなってくる。というか、俺だってかなり早かったのに、それ以上に早く登校するとはいったい何事だ、勝ピー。天変地異の前触れか?
「勝ピーは放課後でもいいわよー」
「は?」
「一つババァになったんだよ、要するに」
「誰がババァだ、ガキが!」
ぽかんとする勝彦を眺めながら、こんな景色を去年も見たことを思い出す。こんな景色というか、俺が千聡をババァと呼んで、千聡が俺をガキと呼ぶ、そんな関係。成長してないなぁ、我ながら。
今日は千聡の誕生日。去年だって事前に何も聞かされていないのに、いきなりプレゼントをせびられた。あの時は…、俺は俺で何をあげたらいいのか判らず、千聡の側にもいろいろあって、結局ショートケーキで手を打った。本当は東根の饅頭にしたかったが、あっさり却下された上に初めて回し蹴りの犠牲になったという記念すべき一日である。
………。すごくどうでもいい想い出だな。
正直、俺自身は誕生日なんて来たって嬉しくもないから、すぐに忘れてしまう。目の前の顔が突然老けたわけでもないし。
「おはよう」
そこにやって来たのはお姫さま…じゃない、俺の彼女。三人の視線が一斉に浴びせられた先に、なんだか嬉しそうなえーこがいる。今日は真っ赤じゃないけど赤っぽいリボンだな。
じっとその目で見つめられても、もう混乱はしない。不思議だ。それこそ、昨日と何が変わったわけじゃないのに。
「おはよう、えーこ」
「うん、おはようヒロくん」
周囲が周囲だからかなり照れくさいが、じっとその目を見つめたまま、彼女の名前を呼んで朝の挨拶。
理由はよく判らないけど、名前を呼ぶと安心する。それに、彼女もきっと呼ばれたいんだと思う。俺も呼ばれたいから。
「あれ、今日は遅いじゃない」
「バスだったから」
「あ、そうか」
千聡が振り返るのに合わせて、今度は残り三人が一斉に窓を見た。
薄暗い外の景色は、大樹に遮られても容易に雨だと判る。予想した通り――俺が予想するまでもなく、天気予報がそう言ってた――、昨夜のうちに降りだして、今も音が聞こえるほど激しい。登校中の記憶が甦ってくる。
雨は嫌いだ。
濡れるにつれて、どんどん自分がみじめに思えるから嫌いだ。
「こら」
「いてっ」
「バーカ」
こつん、と頭をなぐられる。別に痛いってわけじゃないけど、責められるほどの妄想でもなかったような。
少し悲しくなって後ろを見たら、えーこが笑っていた。まぁいいか。簡単に許せてしまう自分が笑える。
「けど、さっそく熱々ぶりを見せつけるのも程ほどにしてほしいわねー、えーこ」
「べ、別にそんなつもりじゃ…」
いや、どう考えても見せつけてるぞ、とツッコミたいところだが、正直俺だって同罪だ。彼女の顔を見た瞬間から、加減なんて判らなくなってしまう。
それに、困った顔のえーこがこれまた可愛いのだ。ダメだ、どうしようもない。
「そういえば、えーこって誕生日いつ?」
「え…、えーと、九月一日」
「俺は十一月二十三日、全国民が祝ってくれるぜ!」
「誰も勝ピーの誕生日なんて聞いてないっ!」
「ぐっ」
勝彦の自爆はともかく、さっきまでの話題がそれだったことを今さらのように思い出す。どんなに話が逸れても無理矢理元に戻す、まさに蛇のように執念深いちさりん。
…………。
いかん、またゴツンとやられそうだ。とりあえず九月一日、覚えておかないと。
「ヒロくんは?」
「あ、まだ知らなかったの?」
千聡の反応に、少し不服そうな顔でえーこがうなづく。
いや、俺は何も隠してたわけじゃねーぞ。
「九月七日だ」
「そ、苦難の日」
「そんな覚え方したのはちさりん一人だろ」
「良くんも言ってるしぃ」
千聡とやり取りしながらも、えーこの反応が気になってしまう自分。
彼女は何か考え事でもしてるようだ。少なくとも、笑ったり怒ったりはしていなかった。
「でも六日違いだったら、一緒にやれるんじゃない?」
「何を?」
「何をって言ってるよー、えーこ」
「…………」
今度は判りやすく怒っていた。俺はそういう難しいこと考えるの苦手なんだよ。
「去年はちさりんもプレゼントあげたの?」
「ヒロピーに? うちに置いてあった本あげた」
「あれをプレゼントと呼ぶのか」
ちさりんが平然と言ってのけたプレゼントとは、奥村家秘蔵の数学問題集だった。というか、その場で突っ返したのに、帰ったらカバンの一番奥に鎮座しておられた。大変神秘的な出来事…なわけはない。
一番問題だったのは、それが良と相談して決めたシロモノだってことなんだが、そこは追及しだすときりがないのでやめておく。
「じゃあヒロピーはえーこと選んでよ」
「テストの後でいい?」
「全然問題ないって」
「ごめんね、ちさりん」
ぼんやりと忌まわしい思い出に浸っているうちに、勝手に話が進んでいた。
まぁこの際、えーこと選ぶってのは良しとしよう。いや、さりげなくそういう機会を設定してくれたんだから、俺もちさりんに礼を……言う必要はないだろ。結局貢ぐだけじゃねーか。せっかくだから去年の問題集を返してやりたいものだ。どうせもらったまま手も付けてないし。
けど、えーこがきっと反対するだろうな。仕方ないからあれは勝ピー様に献上してやるか。誕生日も判ったことだしふっふっふ。
「ところでヒロくん、今日は…」
「えーこ、チャイムが」
と、話題を変えようとするえーこ。
俺の口からはとっさにナイスな出任せが飛び出した。どこがナイスかは内緒だ。
「まだ鳴ってないけど」
「今鳴りそうな気がした」
「バカ?」
千聡の冷たい一言も、今は甘んじて受けてやる。仕方ないのだ。あれは………、えーと、その。頭がこんがらがってきた。
えーこは見るからに何か言いたそうな表情だ。困ったな。
「あとでノート貸してよ。今日はそれで許してあげるから」
「………」
しかし、ごまかすよりも先に千聡があっさり引き下がってしまう。ちょっと拍子抜けだ。
というか、今日はテスト前。別に急いで借りるようなノートなんてないと思うんだが。
「それじゃ、また」
「おう」
少しだけ困惑したような顔で、えーこも自分の席に去っていく。勝ピーもさっさと教科書を並べていて、俺一人取り残された感じになった。
仕方なくカバンを開けると、ようやくチャイムの音。遅い。遅すぎる。
「ある僧の礼盤上りて、少し顔気色違ひたるやうになりて、撞木を取りて振りまわして打ちもやらでしばしばかりありければ……」
朝から聞かされる古文は、まるで寝言のように意味不明な響きを奏でている。他のクラスより遅れていたらしく、今になってハイスピードの授業。これで覚えろという方が無茶だ。
ちらっと後方を見る。一番後ろの席でぼんやり黒板を眺める彼女を確認して、視線を元に戻す。何も特別なことをしていなくとも、いつの間にか一瞬で識別出来るようになった。不思議だ。昔、両親が留守の時に訪ねて来た人を「目と鼻と口があって、男」と教えたほどの俺なのに、今なら正確なモンタージュ写真が作れそうだ。
………またいつもの癖が出た。肩を回して教科書をめくる。正直、どこを読んでるのか判らなくなっていた。
「この僧、首をひねりて、「きと夜部もして候ひき」といふに、大方とよみあえり。その紛れに早う逃げにけりぞと」
とにかく、今日は勉強会だ。えーこと二人でなら、聞き逃した箇所も補えるんじゃないだろうか。果たして俺が聞いてえーこが聞き逃した内容なんてあるのか疑問だけどな。
…本当は、余所のクラスの奴がいた方がいいんだろう。この授業を一緒に聞いた二人より、――たとえば良あたりがいた方が。そうすれば自動的にちさりんも加わって、なし崩し的に勝ピーその他も乱入する。うーむ。
どうなんだろうな。
二人にこだわる自分に、朝から違和感を抱く自分もいる。はっきりしているのは、このまま独力でテストに突入すればヤバイというだけだ。
「ヒロくんは古文得意なんでしょ?」
「そんな話は初耳だ」
二時間目が終わったところで、廊下に出たらえーこに出会った。わざわざ追いかけてくれたのは嬉しいけど、また噂になりそうだ。
「いつもそういうの読んでると思ってた」
「えーこの想像って大袈裟だな」
でも本当は、俺もえーこのことをそんな風に見ていた。昔のことに詳しいから、きっと読んではいただろう。そこまではたぶん確かで、あとは妄想。
…ともかく、あの授業は彼女にも厳しかったようだ。
あれは間違いなく教師が悪い。普段から時代劇の話とか、どうでもいいことで時間をつぶしやがって。
「放課後はよろしく」
「いや、それは俺が頭を下げたい」
「はぁ…」
また何か言いたそうな顔のえーこ。
俺の考えることなんてきっと見破ってそうだ。ならば……、ごまかすのはやめよう。別に隠したからって格好いいわけじゃない。
「どうしたらいい?」
「え?」
「せっかくだから二人で勉強したいけど、二人じゃない方がはかどるだろうし」
「…うん」
えーこは力なくつぶやいて、少しうつむく。
俺はなんとなく、彼女は即答するんじゃないかと思っていた。どっちを選択すべきかなんて判りきってるのに、迷ってしまう。けれど彼女もそうだった。正直、それはほっとする反応だった。
「ヒロくん」
「ん?」
再びこちらを見た彼女は、まだ自信のなさそうな表情だった。
「私が顔を出すと、空気が変わる気がする」
「…………」
「それでいいのかな?」
えーこの抱える不安。それは気のせいだと言って笑い飛ばせるほど、かすかな変化に過ぎない。それに、教室の窓側前方で繰り返される関係だって、えーこと出逢うほんの一ヶ月前に成立しただけのことだ。
けれど……。
あこがれという言葉の意味を、今さらのように考えてしまう。
「……仕方ない」
「そう?」
「俺とえーこは特別な仲だからな」
変化することは、壊すこととは違う。だから思い切って口にしてみたけれど、言い終わった頃にはとてつもなく恥ずかしくなって、思わずえーこの顔を見た。
えーこの顔もちょっと赤かった。その反応がますます俺を緊張させるけど、一方で安心するのも確かだ。男心は難しいのだ。
「そのうち意識されずに済むようになる…と思う?」
「なるだろ。元々えーこはショーの歌が好きな人間だ」
「………どういう意味?」
「変わってるってことだ」
さっと伸びてくる脚を避け……たつもりがかすってしまった。考えてみれば、千聡とはリーチが違うんだよな。
かすっただけでも痛い。真面目な話、じきにアザだらけになりそうだ。
「なぁえーこ」
「………」
「そろそろ手加減も必要だと思うぞ」
「そうかなぁ」
すっかり元に戻ったえーこの不敵な笑みと同時に、チャイムが鳴った。一瞬だけ主導権を握りかけて、結局彼女に奪い返されている。揺らぐリボンをぼーっと眺めて、慌てて教室に戻った。
どうしようか。授業中ももやもやは晴れない。
隣では黙って黒板を見つめる千聡。勉強会なんて、俺ですら思いつくようなことだ。ちさりんだって良と一緒に勉強するつもりかも知れない。そういえば昨日もあっさり消えたからな。
…………それよりも。
なんとなく、朝から千聡の様子がおかしい。避けられてるような気がする。
「本気で理由が判らないの?」
「え、……あぁ」
「…………」
次の休み時間、今度は恐る恐る教室の後ろに行って助言を求めた。
けれど、えーこの機嫌は悪そうだった。冷やかそうと見守っていた連中がそのまま固まってしまうほど、傍目には険悪な雰囲気なのだ。
「ヒントは?」
「もう言った」
「……判った。同じことなんだな」
まぁそれは、本当のえーこを知らないというだけのこと。怒った時は体いっぱいにそれをあらわしてくれる。こういう飾りっ気のなさは悪くない、と思う。
チャイムとともに、周囲の視線は離れていく。その瞬間、えーこは笑っていた。俺にだけ見せてくれるのは嬉しい…けど、この場合誤解が晴れたほうがいいような気もする。つき合うって難しいもんだな。
とにかく、えーこは怒った。怒ったってことはそういうことだから、昼休みになったら千聡と良にも声をかけよう。どうせ教室で勉強するだけなんだし。
「ハックン、今日もパンか?」
「確認するまでもなくパンだ」
「カンカンランラン」
「勝ピーは今年何歳になるんだ?」
「ふっ、それは秘密だ」
そうして昼休みになったのだが、肝心のちさりんは教師の後をつけるかのように慌ただしく教室を出ていったので、いつも通りのマヌケな会話に従事せねばならなかった。
うーむ。まだ避けられてるか?
わざわざ探すのも大袈裟過ぎるから、仕方なく昇降口へ向かった。ちょうどラッシュに重なってしまい、かなり消耗したが結局戦果は揚げあんパン二個。別に買えなかったわけじゃないけど、大きさが変わらないのに百円もするパンに手を伸ばせなかった。いつの間に俺はこんなに貧乏性になったんだろう。反省の意味を込めて牛乳を買い、教室に戻った。
ちらっと後ろに視線をやると、数名の女子に囲まれた彼女の姿が見える。つき合ってる男女が一緒に飯を食うなんてのもありがちな話だよな…と思うけど、揚げあんパンごときのために遠征するのは気が引ける。座ったと思ったら俺の食事は済んでしまうのだから。
「早いなハックン」
「ご褒美にそのアスパラ巻よこせ」
「あ、食うなバカ!」
「んー、この食感はあんパンにも劣らぬ…」
「やかましい! 極悪非道なハックンめ」
シャキシャキとアスパラが音を立てる。勝彦の弁当はいつも豪華だ。これがうちの親だったら、同じアスパラでも冷凍のふにゃふにゃしたヤツになってしまう。実に嘆かわしい。我が国の食文化はどうなるのだっ。
……興奮してしまった。きっと勝ピー様がアスパラ巻一つで騒いだからに違いない。ヤツの好物なのは知ってるが、好物ならさっさと食えばいいのだ。
席についたが千聡はいない。まさか良と昼飯食ってるんだろうか。そんな大胆なことをするとは正直思えないが…。
「一口よこせ」
「口を3センチ以上開けるなよ」
「ハックンは聞きしに勝るケチだ」
「お前にゃ負ける」
隣人の協力もあって、まだ牛乳にストローを刺してもいないのにパンが消滅してしまったころ、ようやく千聡が戻ってきた。教室に入る時の顔は、特に苛立った感じではなさそうだ。
「今日もあんパンなわけ? 変わり映えのない」
「ほっとけ。弁当持ち」
すでに揚げあんパンは袋しか残っていないにも関わらず、なんの躊躇もなく当ててしまうとはあなどれない女だ。
嘘だ。袋に白い粉――ヤクじゃないぜ――が付いてる時点でバレバレだった。
まぁそれでも今日は牛乳なんてリッチな飲み物も買っている。どうだ、豪華な食事じゃないか。
「どーでもいいけどさぁ、ヒロピー」
けど、席についたちさりんは自分の弁当を広げるだけで、牛乳にはまるで関心を示さなかった。腹立たしげに俺はストローに口をつける。まだ辛うじて冷たい…。
「なんだよ、どうでもいいなら飲み終わってからにしろ」
「良くんってかっこいいよねー」
「ぶっ」
噴いた。
「きったなー」
「誰のせいだ誰の!?」
「お、ハックン伝統芸人だな」
カバンを探るより先に千聡がティッシュを差し出したので、まずは周囲を拭いた。被害はたいしたものではないが、乾いた後の臭いが嫌なんだよな…って、そんなことはおいといて、だ。
吹き終わった俺は、思わずまじまじと隣の女子を見つめていた。
「それよりちさりん」
「何、牛乳臭いヒロピー」
「だから誰のせいだ」
「勝手に吹いたんでしょー、でなんの用?」
「ん…」
けらけら笑う姿に呆れつつも、ほっとする。どうやら機嫌はなおったようだし、今のうちに話してしまおう。
「今日の放課後は暇か?」
「テスト前に暇なんてあるわけ?」
「…いや、もしかして良とでも先約があるのかと」
「もちろん、あるっ!」
さりげなくその瞬間、千聡の右手はグーの形に握られていた。世に言う控えめなガッツポーズのようだ。かなり変だと思ったが、同時に目撃した勝ピーも固まってるので、あえてツッコむまでもないと思い直す。
「ならちょうどいいや、俺たちも混ぜろ」
「嫌」
「良と二人じゃ偏った勉強にしかならねーぞ」
「…………」
千聡はすねていた。なんだかアホらしくなって勝彦の顔を見たら、やはり目が死んでいた。勉強と聞いた時点で自動的にこうなってしまうのか、別の理由かは判断がつかない。
世界は狭い。
囲いのない箱庭で俺たちはいろんな感情をばらまいている。そしてそんな箱庭に憧れる人間もいる。
……そりゃそうだ。居心地がいいから、ありもしない箱庭に閉じ籠るんだ。ともかく放課後の勉強会は、参加者五名を数えることとなった。昨日より段取りがマシになったのは、やはり一日経ったせいだろうか。
「最近、良くんやさしいんだ」
「ふぅん」
けど、えーこに会いたいことに変わりはない。今だって、女子に囲まれたままの彼女が気になって、ちらちら視線を動かしてしまう。
「あんたの呪縛から解き放たれたってことね」
「…ストレートに言うもんだな」
「今さらでしょ」
さすがに無視できずに振り返った。けれど千聡は何事もなかったかのようにカバンから教科書を取り出していた。今日は千聡にしては食べ終えるのが早かった。
………。
数秒の間眺めていたが、何も口に出す言葉が見つからない。ふと自分の机に目をやると、揚げあんパンの粉砂糖らしき物体が散乱していた。ぼんやりとそれを確認した俺は、そばに放置してあった、さっき牛乳を拭いたティッシュを取り上げて、適当に左右に動かしてからふっと息を吐いた。
今さら…か。
そりゃそうだよな。俺でさえ判ってることを千聡が気づかぬはずはないのだし、だいたい、あれだけ見事な掛け合いが出来るようになったんだからな。
もっとも、あれだけと言ってはみたが、残念ながら俺は前半しか観賞出来なかった。ゴロウ登場後にもう一度あったらしいのも含めて、どうせならビデオにでも撮っとくべきだったんじゃなかろうか。永久保存にして、何かあったら嫌がらせに使う……と。
ダメじゃん。
そのビデオには俺…じゃなくてゴロウも映ってるわけだ。どう考えても俺の方が不利だ。
「…というわけで五人でやることになった」
「うん、わかった」
「早くテストが終わるといいな」
「祐子さんに会えるから?」
「…………」
えーこに情報が伝わったのは、五時間目の後。昼休みに教室の後ろへ出掛けるのはなかなか難しい。今だって妙な視線に絡まれている。
もう一日経ったんだし、今さら俺の顔なんか見て面白いんだろうか。自分では、もう過去の人になった気分なんだけどな…。
「ところでヒロくん、今朝は髪とかしたの?」
「たぶん。リボン似合ってる」
「…ありがとう」
「いや…」
でも、やっぱり昨日の今日か。適当にごまかしただけの台詞で頬が火照ってしまった。人間ってこんなに赤くなれるもんなんだなぁ。会話が続かなくなって、慌てて席に戻った。席に着く頃にちょうどチャイムが鳴る。その音に紛れて動揺をごまかそうとする自分。
「ヒロピーさぁ」
「な、なんだよ」
それでもしっかり見られていたようだ。やれやれ。
「ちょっとがんばり過ぎじゃない? 二人とも」
「……そうか?」
教科書を並べながら、それでも思わず声の側を向いてしまう。それは意外なツッコミだった。
「私たちみたいになりたくないんだろうけどさぁ」
「べ、別にそんなつもりはないぞ」
慌てて両手を振るのは、図星と言ってるようなものだ。
確かに千聡と良のことは頭にあった。何せそれは、俺がこの目で逐一確認してきた唯一の先例なのだからしょうがない…けれど、あくまで貴重な先人に対する敬意であって、「彼らのようには」なんて意味ではない。
デートの行き先ぐらいだろう。絶対に真似したくないことなんて。
「ま、その辺はどうでもいいんだけど」
「………」
「つき合うからって特別なことしなくてもいいでしょ。元からつき合ってるようなもんだし」
「元からぁ?」
もう教師が来そうな時間。それでも教室はどこもざわついてるし、別に俺の声が注目を集めはしなかった。危機一髪だ。
「あったりまえでしょ。毎日二人きりで話して、デートもして」
「う…」
あれはデートではない、と言おうとした。が、えーこはデートと呼んでた気がする。やはりそう考えた方が自然なのだろうか。
「だいたい今までよく我慢したもんよねー。端から見ればとっくにラブラブなのに、「俺じゃない、ゴロウなんだ」とか言い聞かせてたわけ? バッカじゃないの」
「……自信がなかったんだよ。悪かったなクソ」
「ヒロピーもたいしたことないわねー」
言われ放題だった。この時ほど教師が早く来てほしいと思ったことはない。たぶん。
つき合ってると意識しても、結局先週と同じことしかやってない。それは事実だ。正確にいえば、先週出来たことすら今は出来ずにいるけれど。
………案外、誕生日と似ている。比べたって何の変化もないのに、ある日を境に見る目が変わってしまう。俺もいつの日か、誕生日になったとたんに人が変わったようにはしゃいだり緊張するのだろうか。
「あーそれからあんた」
「なんだよ、まだ何か用か」
ぼんやりしていたが、なぜかまだ教師はいない。自習か? しかしテスト前に自習は別に嬉しくないぞ。
「えーことはいつ約束した?」
「え?」
「一緒にテスト勉強するつもりだったんじゃないの?」
「…いや」
「今スイミングアイしたでしょ」
変な英語使うなよ…とツッコむ気力も起きない。俺は生まれつき隠し事が苦手なのだ。仕方ないのだ。
「えーこは怒ってない?」
「怒るかって」
「そうかなぁ。嫉妬深い彼女のことだから案外…」
「いい加減勘弁してくれ…」
やっと教師が来て、俺は地獄の責苦を抜け出した。こんな調子で毎日やられた日には、じきに俺の胃に穴があくぜ。
………。安心しきっていただけに、急に不安になってきた。理性的に考えれば、この選択は正しい。それはえーこだって十分判っているだろうけど、最初から理性で押し切れるなら悩む必要なんてなかった。
昨日の朝まではたぶん無かった…のか、それとも押し殺していただけなのかは思い出せないけど、今の俺はえーこを独占したくてしょうがない。独占していないと、それだけで関係が崩れてしまいそうだ。
彼女がそこまで同じなのかは判らない。判らないけど、そんなに違ってもいないとは確信してる。いや、きっと自分と同じなんだと思う。
ふっと息を吐いて、リズミカルなチョークの音に耳を澄ましてみる。離れている。授業中は彼女と離れて座って、話しかけることも出来ないから不安になる。不安になるからチョークの音で目を覚まそうとあがく。そんな自分はおかしいと何度も言い聞かせていくけれど、うまくはいかない。
こういう時、どうすりゃいいんだろう。良にでも聞いてみようか…とも思うが、奴は奴で普通じゃないし、やはり俺からは聞きにくい。確かに、千聡がいう通り今さらのことだが、そんな台詞が言えるようになったのはせいぜい昨日が最初なのだ。
「…………」
ふと視線を感じて右の方を見ると、何やら小型の物体が落ちていた。いや、単なる消しゴムで、持ち主も後ろのヤツだと一瞬で判った。
「ほれ」
「センギュー」
「それやめろ」
手渡した瞬間、ヤツのノートが一瞬目に飛び込んでくる。あり得ない光景。びっしりと書き込まれた計算式は、一瞬にして俺を冷静にした。
俺は今、勉強しなくてはならない。慌てて黒板を見たら、すでにチョークの跡は二巡目突入だ。どうやら今日は、誰かのノートを写すところから始めなきゃいけない雲行きだった。
「いだがーっ!」
「いねぞーっ!」
「おーちさりんだばまんずもっけだ」
「あんた人の話聞いてる?」
とにかくこんなグダグダの末に、楽しい楽しいお勉強会の時間の時間がやってきた。五人のはずが、ちゃんとショーにまで伝わっている。村の都会のモボショーですら、今日はギターを持っていなかった。期末テストとはそれほどに恐ろしい敵だ。
「妄想はテストに出ないと思う」
「よく知ってたな」
「うん」
相変わらずのツッコミ。本当は授業中にツッコんでほしかったが、隣の席にでもならない限り無理だし、どう考えても声じゃなく脚でツッコみそうだから微妙だ。
「聞いてる?」
「妄想をしてはいけないと妄想したぞ」
「それで?」
「……いや、ごめんなさい」
せっかくみんなが集まったそばから、あっさりやり込められてしまう。えーこは俺の妄想をやめさせたいのか、それとも単にからかって遊びたいだけなのだろうか。正直、俺という人間から妄想を抜いたら何も残らない気がする…って、それも大袈裟過ぎだ。
とにかく気を取り直して――取り直すのは俺一人だ――、はじめは俺たちの要望で古文となった。もちろん良とショーが頼りだ。ショーについては未知数だが、期待する相手は多い方がいい。
「せーまるくーすーすか」
「先生、なまったら意味ないと思います」
「なまてねぞー」
驚くべきことに、ショーは出来る子だった。中学時代は生徒会長だったとかいろいろ噂は聞いてたけど、何せ生徒自体が少ない中での話だから、本当に優秀だとは思わなかった。サダは許すがタニムラはダメな奴だけあって、何事も意表をつくのが得意なのかも知れない。
頼もしい先生を得た古文はあっさり終了。まぁ、朝にすっ飛ばされた分は二人のノートを写すだけで十分だし、元々このメンバーは国語が得意…じゃないまでも他よりマシなのだ。
「さぁ次は数学だ。ちさりんが何でも答えてくれるぞ」
「ヒロピー!」
「ふ。そんな反応はお見通しだぜ」
軽やかに脚を避けてポーズを取る。すぐに彼女の視線を感じて反省する自分がいるけれど、俺はこういう人間なのだから勘弁してくれ。
だいたいが俺たちを常に悩ます敵、それが数学だ。横書きの教科書を目にすれば、いくら彼女の前でも冷静ではいられないのだ。
勝ピーとちさりん大先生と良、そして自分が役に立たないことは世に知られた事実。なら残り二人でどうにかなるか?
「…判った人が教えればいいと思う」
「えーこみたいな常識人が増えたらいいのにねー」
…………。
いや、さすがに自分で常識人だと主張はしないけどな。
「まず…30ページからです」
「あれ? 範囲ってそこから?」
「甘い、甘いぜちさりん!」
「何が!?」
えーこの提案をなんとなくみんなが受け入れた。けれど所詮は他人任せのプランなので、当然のように教室は殺伐とした雰囲気に包まれる。少なくとも、未知の存在二名も決して得意というわけではなかったのだ。予想通りだがな。
「ここからやり直すと判りやすいって先生が言ってた」
「先生?」
「ちさりんは昼寝してたのか?」
「起きてた! ぜったい起きてた!」
「ま、そういうことにしてもいいが」
それでも六人いれば、どうにかなっていくのも事実だった。俺だって一問も解けないわけじゃないし、千聡ですら稀に自力で解くことがある。数学の教師はどっちのクラスも同じなのに、片方での説明はわかりやすくて片方はさっぱりなんてこともあった。
「すげえな、俺200点いけるかもしれねぇ」
「覚えてりゃな」
「ハックンは今俺をバカにしたな!?」
かくして最大の懸案は、それなりの時間をかけてほぼ解決した。もしかしたら生まれて初めて、人的資源なんて言葉の意味を知ったのかも。大袈裟だな。
時刻は六時近くになっていた。真っ赤な夕闇とは似ても似つかない、大粒の雨と灰色の空だ。まるでさっさと切り上げろと言わんばかりの天気。別に千聡が年寄りになったからじゃないだろう。おそらく。
荷物をまとめて誰もいなくなった校舎を歩く。そこでも少しだけ俺は悩んで、結局勝ピー様と階段を駆け下りる競争になった。しかも負けた。屈辱だった。
「でさぁ勝ピー」
「な、なんだ、コーラ飲む奴はガキっぽいとか言うな」
「言ってないじゃん」
えーこと並んでいたいと、思わなかったわけがない。でもこの顔ぶれの中では、隣にいなければ奪われてしまうなんて極端な発想も消えていく。一群は彼女と俺と同時進行だった。今だって、それの何かが変わったわけじゃない。
とにかく俺と勝彦は、昇降口で他が降りてくるのを待った。そこには買えとばかりに自販機もあった。計算疲れの頭には糖分が必要だと自分に言い訳をしながらコーヒーを買ったら、真似するみたいに勝彦もボタンを押したのだ。押した場所は違っていたが。
「祐子さんは、頼んだら勉強教えてくれる?」
「…姉貴に頼むと漏れなくバカバカ言われるぞ」
「いいじゃん、バカはバカだし」
「俺がバカだって言いたいのかーっ」
「バカでしょ」
「ぐっ」
ちなみに、ショーはすでにここを去っている。鉄道の時刻は不動だから、どんな豪雨でも修行僧のように無言でカッパを着込み、躊躇なく帰る。まぁ実際、濡れたくないとかウジウジしてる俺たちは恵まれてるんだよな。
「私も姉貴って呼んでいいかなぁ」
「ダメだ」
「なんでよー」
せっかくモボショーを讃えているというのに、隣から何やら妙な会話が聞こえてくる。
そういえば、ちさりんと勝ピーがサシで話してるのを見るのは珍しい。たいがい俺も加わってるから……ってことは、俺のいない時はこんなものなんだろうか。
「姉貴と呼んでいいのは俺だけだ」
「あんたってケチねー」
「違う! 姉貴が嫌がるんだって」
「なんで?」
聞き耳を立てるほど重要な会話でないことは判りきっているのに、聞き入ってしまう自分がいる。
いやまぁ、俺にも祐子さんは姉のように思える――というか、祐子さんは血のつながった弟のように容赦なく攻撃する人だから、全く無関係でもないってことだ。
「いいかちさりん、笑うなよ!」
「真面目に聞いてるじゃない」
「姉貴はなぁ、ちさりんやえーこちゃんと同い年のつもりなんだぞ!」
「えっ!!」
思わず千聡とハモっていた。
笑ってはいない、決して笑ってはいないぞ。
「ふ、見たぜ聞いたぜ」
「なな、何が」
「二人とも今笑ったな」
「わ、笑ってねーぞ、なぁちさりん」
「笑ってない笑ってない、祐子さんはきれいだ…」
「もう遅い!」
いきなりコーラのコップを投げ捨てた勝彦は、俺たちを右手で交互にびしっと指差した。なんでこいつが勝ち誇るんだ。
「今の反応、姉貴に言ったら傷つくだろうなぁ」
「言うな!」
「あんたもそう思ってるんでしょ!」
「ぐっ…」
しかし勝利を目前にした勝彦だったが、鋭いツッコミにひるむ。追い込まれた時のちさりんは怖いぜ。この一年に関していえば、俺は最大の被害者だからな。
勝彦は数秒じっと千聡の顔を見て、それから目をそらすように腰をかがめ、投げたコップを拾った。誰が見てもヤツの負けだった。
「でもさぁ、同い年っていうんじゃ祐子さんって呼ぶのもダメじゃん」
「呼び捨てたら姉貴は怒るぞ」
「それじゃ瀬場さんだしなぁ…」
要するに祐子さんはワガママってことだな。判りやすい結論だ。だいたい、あんなミニスカートで人をからかっておきながら同級生って言われてもなぁ。
…………。
視線が自然と下を向いて、気がついた時にはえーこの脚を見ていた。やばいと思ったがもう遅い。少し離れた場所で、彼女は不機嫌なオーラを発している。
「でも呼びたいなぁ」
「そんなに姉が欲しいのか?」
「姉ならいるけど」
「へ?」
「あれ? ヒロピーは知ってたんじゃないの?」
「初耳だって」
しかし目の前の会話が意外な方向に転んでしまい、彼女の機嫌を直すどころではなくなった。というか、彼女もこちらに身を乗り出してきたから、直すまでもなさそうだ。ついでに、この期に及んでトイレに行きやがった良も、タイミング良く戻ってきた。
「あんた、家にまで入ったくせに気づかなかったわけ?」
「え…、いや、まぁ」
「ヒロくんって、ちさりんの部屋にも?」
「あの……」
うーむ…。
千聡がいつもの調子でなじるだけならいいのだが、えーこが加わると話がややこしくなってしまう。何しろ想像力豊かな彼女だから…って、これぐらい誰だって判るか。
とにかく、昔の話を伝えるのは難しい。難しいけど、別にえーこを怒らせるような過去なんてないから、千聡の部屋に行ったのはあくまで良の付き添いだと力説して、あとは良自身に言い訳させた。
「女子の部屋に行くのは緊張するから、…ヒロに頼んだ」
「良くん…」
「…いや、あの頃は」
今だって緊張してんだろとツッコみたいが、さすがに俺がいないと入れないってことはなくなったわけだ。自分の部屋にちさりんを連れ込んで、父親と対決するほど強くなった……と、いやぁ青春だ。
まぁそれはおいといて、あれは紛れもなく奴の意志だった。男子が女子の部屋に入るなんてあり得ないと思っていた俺は、ちさりんの家族に問いただされたら自分を何だと説明すりゃいいのか、真剣に悩んだのだ。
「ちさりんの部屋ってそんなすごいのか」
「部屋は全面どぎついピンクで、巨大なキティちゃんの抱き枕…」
「このバカピー!!」
しかし、多少の誇張が混じったとはいえ、千聡の部屋の印象は強烈だった。中に入ったのは三度ぐらいあったと思うが、特に初回は思わず目を奪われたのだ。
キモい抱き枕もショッキングピンクのカーテンもないけれど、あの部屋は女子の部屋だった。古めかしい家の中で、千聡の部屋だけが浮きまくっているのだ。あそこには女子がいるぜと主張しているのだ。
――――そうだ。
あの家に他にも女性がいたなら――あ、母親はいたぞ――、いくら何でも気づかぬはずがない。
「うちの姉は音信不通だから」
「……はぁ」
「大学へ行ったはずがどっか消えちゃって、たまーに電話がくるだけ」
点滅する蛍光灯をぼんやり眺めながら、千聡はぽつりぽつりと話し始める。あんまり見たことのない表情だ。
「警察に届けたのか?」
「勝ピーってバカ?」
「し、心配してんじゃねーか」
俺も一瞬は考えたから、あまり勝彦をバカには出来ない。けど、たとえ話だってことぐらい気づくよな、普通は。
ちさりんは大きく溜め息をついて、疲れた顔で勝彦の方を向いた。隣で良は苦笑いしている。良は知っているようだ。まぁ本来、彼氏と友人一号の情報量が同じじゃおかしいのだ。
「居場所は判ってるわよ。ただ帰ってくる気がないだけで」
「…かなり年が離れてるんだな」
「十歳違う」
「ふぅむ…」
何となく見えてきたようなこないような話。こんな漠然とした情報から、ちさりんの姉がどういう人なのかと想像したところで実りは少なそうだけど、要するに姉貴と呼びたくなるような存在じゃなかったってことだけは判る。
ちゃんと存在するのにそう呼べないのは、やっぱりストレスが溜まるのかも知れない。俺は一人っ子だからよく判らないが。ちらっとえーこの顔を見たら、彼女もこっちを見ていた。きっと同じことを考えていたんだろう。
………けれど。
そんなに長い間不在なら、俺が気づかないのも当たり前じゃねーか。
「よくわかんねーが、そんなら姉貴に頼んでみるぜ」
「頼むなバカ」
「じゃあどうすりゃいいんだ!」
「もうほっといて。あんた私よりバカなんだからさっさと家帰って勉強しろ!」
「ぐ…」
それにしても、バカ正直な勝彦には軽く感動を覚える。ちさりんが本当に姉貴と呼び始めたら、それはそれで楽しそうだが。
公認の妹にでもなったが最後、きっと祐子総裁はビッシビシ鍛えてくださるに違いない。泣き叫ぶちさりんは見物じゃないかククク…。
「いてっ!」
「…えーこも律儀ねぇ」
そういう問題じゃねぇだろ、と思っても怒りのやり場がない。はぁ。そのうち黒ずんだ脚を見せたら考え直してくれるか?
「じゃあ今日は帰る」
「良と相合いがっぱだな」
「…えーと、二人羽織?」
「本気にしないでよ、えーこ」
とにかく外は雨だ。
良が家まで送っても、何も不自然ではない。
「俺も帰る! さらば地球よっ!」
「待てっ!」
「なんだ、コスモクリーナーが要らないとでも言うのかっ!」
「ふっ…」
さらに一足早く、低くて暗い空の下へ――昇降口に比べりゃ高いけど――飛び出していこうとした勝彦を、俺は無理矢理呼び止める。いや、別にこのタイミングが必要だったわけではなく、単に忘れていただけだ。
カバンからさっと取り出した、それはチョイス! 昨日、家の前まで歩いてから思い出して、慌てて買いに走ったチョイス! 俺の記憶ではブルボンだったのに、箱を見たら思いっきり森永って書いてあったので焦ったチョイス!
「…………」
「黙って持ってけ」
「……いや」
ヤツのことだから、てっきり目を輝かせて受け取って、下手するとその場で半分ぐらい食ってのどを詰まらせる、いわゆるサザエさんの真似だってやりかねないはずだった。
けれど、勝彦はじっと箱を見つめると、なぜか千聡を指差した。
「誕生日おめでとうっ!」
「あ、あんたねー!」
いやさすがにそれは無いだろ。
当事者の千聡だけじゃなく、その場の全員が同意していないようだと、すぐに気づいた勝ピー様は、今度は黙って俺の顔を見た。何だよ、まさか俺にプレゼントか?
「仕方ねぇ、今日はハックンに預けたぜ。さらば地球よ」
「同じネタ二度もやって恥ずかしくないわけ?」
「見逃した良い子のためだぜっ」
「…………」
差し出したままの自分の手が妙にみっともなく思えて、無言で再びカバンにしまう。
まぁ要するに、チョイスは俺たちのチョイスであって、祐子さんへの献上品ではないってことだな。周りを見ても、誰も不思議に感じてなさそうだからそうなんだろう。やれやれ。
しかし、何も慌てて駆け出すこともないのに…と思う。たぶんヤツはヤツで、残った四人に気をつかったんだろうが。あれで自称鋭いかーくんだし、実際俺より多少はマシだし。
「で、どうするの? えーこはバスなんでしょ?」
「あ、うん」
「彼氏に送ってもらう?」
「…えーと」
理由はどうあれ、四人になった。その四名は二人と二人に分裂必至の四名で、さっそく容赦ない千聡の攻撃が開始され、うつむくもう一人。もう一人っつーか、えーこは自分の彼女なのに他人事みたいに言うなよ、俺。
けれど、助けてやらなきゃ…とは口だけで、真っ赤な顔の彼女が可愛すぎて何も出来ない自分がいる。ああ、俺ってこんなダメ人間だったのか。
結局、俺とえーこが最後に残っていた。千聡のたくらんだ通り…というよりは、俺たちの意志だ。何も主張はしなかったけれど。
「バスの時間は?」
「ちゃんとメモってます」
「…偉いって褒めるべきか?」
「なんでも褒めてもらえたら嬉しい」
二人きりになったとたんに、えーこの表情が変わった気がする。いやまぁ、俺だって変わってるんだろう。嬉しいから。やっぱり、えーこと二人で話したいから。
ここからバス停まで歩いて五分。そしてバスの時間まであと十五分。それなら選択の余地はない。二つの傘を並べて、俺たちは歩き始めた。
「相合い傘は?」
「濡れるだろ」
「ふーん」
通り過ぎる車はもうライトを灯していて、その光線が雨粒に拡散する。嫌な景色だ。景色だけじゃなく、体中が湿っぽくなって、やがて靴が濡れてくる。いつもならどうしようもなく虚しい気分で、黙々と歩いているだろう。
だけど隣に彼女がいたら、簡単にすべて忘れてしまえることに、今俺は気づいた。
「テストの自信は?」
「あると思うか?」
「あったらいいなって」
「まぁな」
近道に抜けようとして、一瞬足が止まる。川の土手は舗装されていないから、ぬかるんでそうだ。別に俺一人なら構わないけど…。
「遠回りでいいだろ?」
「うん。…まだ十三分あるから」
もう十三分しかないのか。思わず焦って歩幅が大きくなってしまう。別にどう歩こうが十三分がそれ以上にはならないと判っているのに、俺の思考回路はあっさり破綻していた。
彼女はだけど、ちょっとだけ小走りについて来て、ペースを元に戻した。数メートルの距離がついた時、立ち止まった俺はようやく理性を取り戻していた。
「ごめん」
「うん」
雨は少しだけ小降りになった。住宅地の入り組んだ道を、迷路を抜けるように二人で歩く。彼女は俺のカバンを軽く掴んで、たぶん見慣れていない景色を、暗がりの中でもじっと観察していた。
「ヒロくん」
「ん?」
「今ならツルやゴロウがいても不思議じゃないと思う?」
「……そうだなぁ」
見上げるその途中で、彼女の控えめなリボンが目をかすめていく。
閉じこめられたような空の下で、本当の姿を現したならきっと、つかまえたくなるだろう。
「えーこの初めての景色は、えーこのものだと俺は思う」
「川の向こうなら、ヒロくんの景色?」
「きっとそうだ」
「そうですか。…ヒロくん」
「ん?」
カバンを掴んでいた彼女の指先は少しだけずらされて、その持ち手の位置にあった。見なくとも判る、感触。
「ゴロウは毎日口にしたと思いますか?」
「…思う」
「私も実は同意見」
「気があうもんだな」
「うん」
煙ったような町で、規則正しい街灯の光が照らすもの。それはツルじゃなく、それはゴロウじゃないから、町は静まり返る。誰もいないような、そこら中に満ちているような。
「今日も大好きだ、えーこ」
もうちょっと気の利いた言葉はないんだろうか、と思ったりするけど、飾ったところで彼女には届かない。俺の彼女はいつだってこの身体をズタズタに出来る。
「私もヒロくん大好き」
剥がれかけたアスファルトの向こうがぼんやりと輝いて、何かの花が咲いているみたいな景色。踏み出す二人の歩幅に合わせてそれは距離を変え、やがて俺たちを包み込む。
きれいな花だ。
君はだから、盗んでしまおうとつぶやいて、僕もそうしようとうなづいた。手を伸ばせば、いくらでも掬い取れる花を、僕と君はこぼれるほどに集めたけれど、いったいどこへこれを持って帰るのか、分からなくなった。遠い記憶。
「間に合ったか?」
「あと二分」
「ナイスだ」
「うん」
川に近いバス停に、待っているのは俺たちだけだった。
水しぶきを上げて行き交う車は、その二台に一台はあの橋へと向かう。今頃はきっと渋滞が激しくなっているだろう。
「テストまであと二日と数時間」
「……わざわざ確認しなくてもいいだろ」
「明日はそれぞれ勉強する予定?」
「さぁ…」
視界の端にバスらしきものが映ったのに、少しの間黙り込んでしまう自分。
すべてを知ったかのようで、えーこのことなんてまだ何も知らない。突然そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回るから、何も言えなくなってしまう。
「雪…」
「まさか」
そして再び、俺たちは旅に出る。
粉雪の舞う野原。彼方には鳥の群がる…川だ。川が見える。傘をさしたままの君は、小さな足跡を残しながら少しずつ遠ざかって行く。
追いかける僕は、暗闇の中に何本も引かれた青白いラインに惑わされて、今はかすかに輝く傘だけが頼りだ。生き物みたいに揺らめくラインは、時々行く手を遮ってしまうけど、右腕を左右に振れば、いつの間にか道は開ける。まるでヒーローになった気分で、だけど追いつけない君を追う。
傾斜を増した道の彼方に傘は揺れる。
声をかけたくなっても、きっとそれはラインの波が流し去ってしまう。ただ荒い息を吐きながら、僕はただ前へ前へと進んだ。
「デートの予定二つ入れていいか? 一つは明日の教室、それからテスト終わった後の…」
「ラーメン?」
角張ったバスの扉が閉まり、手を振る彼女がわずかに見えた。
ヘッドライトの先に大粒の雨を見て、俺は無言で傘を見る。真っ黒な傘は、いつか貫こうと攻撃する者たちの姿を隠すけど、危機が迫っていることは音で判る。今なら長靴でも恥ずかしくはないだろう。どうでもいいことを思い出して、一人笑う。
あとは帰るだけ。水たまりを避けて、よろめきながらステップを踏んだ。湿りきった靴では、朝のような軽快さは期待できないけれど、これは待ち望んだ雨なんだと自分に言い聞かせて、路地を小走りに駆け抜ける。
…誕生日のプレゼントはどうするんだ? 脈絡もなく頭に浮かんでは、次の瞬間には忘れていく記憶。今日は雨だから、都合の悪いことはすべてなかったことに出来る。
明日は?
明日は…、明日もきっと雨だ。




