内なる者の物語
騒々しい一日はとにかく始まった。もはや感覚が戻らないとか頭が回らないなんて口にしても、言い訳にしかならない。それほどに俺たちは渦中の人だった。
まぁ、当たり前だ。
俺はたぶん緊張していたのだろう。その上に、直前に千聡としゃべったせいで気が抜けた感じになった。悪い意味でリラックスしてしまった。だからとっさの一言は、自分の想像を遙かに超える大声になっていた。
しかも、えーこの返答がこれまた大きな声だった。クラスにいる時の彼女はあまり感情を表に出さないのだが、実際は俺と同じぐらい緊張していたに違いなかった。
ただ…、彼女は俺とは違って、周囲にはまだおとなしい女子生徒と思われている。それだけにインパクトは絶大だった。相手がたとえ俺みたいな奴だろうと、話題性は十分過ぎた。
………。
いかんな。もうネガティブ思考はやめるんだった。せっかくえーこは他の誰でもない俺を選んだっていうのに。
けど、ネガティブ思考の反対ってどういう頭なんだろうか。俺様は人気があって当然だとか言い出さなきゃいけないんだろうか。おかしい。無茶だ。ジャイアンだ。えーこに嫌われそうだ。
「それにしてもさぁ…、ヒロピー」
「なんだよ、呆れるなら勝手に呆れてくれ」
「当然呆れてるけど…、あんたもつくづく変わったよねー」
「……そりゃあな」
三時間目が終わった休み時間。片肘を頬についたまま、いかにもな声で話しかけるちさりんは、それでも事情を知っているだけまだ冷静な方だ。
ちなみに二時間目が終わった休み時間には、意味もなく良が顔を見せて、一言「おめでとう」とつぶやくと慌ただしく消えた。奴も千聡と同じ程度に物知りだったはずだが、しっかり動揺していた。相変わらず小心者だ。人前で漫才披露するのに比べればたいしたことない…わけはないな。
「それより、昨日は泣いたそうだな、ちさりんは」
「あんたが見てなくて良かったわ」
勝彦は無言のまま後ろの席にいる。後ろの席にいるのは正直当たり前だが、とりあえず今は何となくそれが怖い。背後から黒っぽい霧が迫ってくるような感覚だ。永久追放にでもなりそうだ。
「いいや、見てたぞ」
「は?」
もちろん霧のままでは困るから、昨日のことで感謝の言葉なんぞも贈ってみた。いつもより余計に笑顔でサービスしてみたものの、ヤツは一度大きくうなづいただけだった。判りやすく不機嫌だった。
「なんたって目の前にいたんだからな、俺は」
今はテスト前。言うまでもなく、勝ピーに勉強で世話になる可能性は髪の毛の先ほどもなかろう…が、不穏な空気を背中で浴び続けていてはこちらが消耗してしまう。
………。
まぁ要するに、テストが終わってから土曜の続きを口にすれば良かったってことなんだよな。こうやって自然に会話してるつもりでも、すでに訳が分からなくなってるし。
「ま、まさか、あんた記憶してるわけ?」
「あったら怖い」
けど、それは絶対に無理だった。土曜に「ヒロくんとえーこ」を受け入れた俺が、何も言わずにどうやって月曜を迎えられるというのだ。
言い訳がましく、何度も自分に言い聞かせてみる。それでも足らないから上を見る。天井はただの天井。直線が交差する中に、思い出したように蛍光灯が光るけれど、別に美しくはない。
「ヒロピーってバカ?」
「ちさりんより数学の点が上のバカだ」
機械的にノートを開く。開いた瞬間に、己の字の汚さに眩暈がするが、もしかして気が紛れるのではないかという期待も高まる。
あとはちさりんの声がフェードアウトすればいい。この短い休み時間なら、席を立たなければそれなりに乗り切れるのだ。
「正直言うとさー、よくわかんない」
「……何がだよ」
しかし唯一の障害物はなかなかフェードアウトしない。する気がまるでなさそうだ。
「帰って寝ようとしたら、ゴロウの話でなんで泣けたんだろうって不思議になって」
「ふぅん」
「で、結局何があったのか説明出来ないわけ。あんなに泣けたのに」
………。
冗談で返して切り上げるつもりだったが、千聡は妙に真剣だった。
考えてみれば昨日の今日なのだ。ちさりんはちさりんで、俺たちに話したいことが沢山あるのだろう。だからといって、今の自分に応える余裕があるとは思えないけれど。
「あの場の雰囲気に流されたってことか?」
「さぁ…」
「そういや、え…」
言いかけて、慌てて口をつぐむ。
この話題にはつなげない方がいい、俺はそう直感したのだが、すぐに千聡の表情が変わってしまった。もう遅かった。
「…あのことはもう本人に聞いた?」
「まさか。…だいいち、会話する機会すらないだろ」
「自業自得じゃん」
「まぁ、あえて否定はしないが」
昨日、泣いた人間は二人いた。その一人はよく思い出せないらしい千聡で、もう一人は絶対に記憶しているはずのないえーこ。推理小説ならそこに見えない糸を発見するかも知れないが、俺には名探偵なんて通り名はないから無理だ。
何も判らない涙。だけどそれを口にするのは憚られる。
あの涙は間違いなくえーこのものだった。それは間違いないけれど、どこかで不安をかき立てられてしまう。えーこに泣く理由なんてあるはずがない。なら……。
ふぅ。
一度息を吐いて、後ろを向く。昨日の事情…と思ったら、無意識に俺は後ろを向いていた。そしてしっかり勝彦と目があってしまったが、ヤツはすぐに目をそらしやがった。どうやら話は聞いてるようだな。相変わらず下手なごまかし方だ。
からかってやろうか。一瞬そんな気分になりかけた…が、すぐに黒い霧が迫ってきた。また不機嫌モードに戻ったらしい。やれやれ。
残念ながら、ヤツが不機嫌になる理由は判る。判るけれど、だからといって勝彦に気を使うってのも変だし、嘘ついてごまかすわけにもいくまい。たぶん俺は、どんな相手に対してもえーこのことは隠せないだろう、そんな予感がする。
「ということでヒロピー、ノート!」
「何がどう関係するんだ」
「時間つぶしてあげてんじゃない。それとも学校中でしゃべって来た方がい…」
「好きなの持ってけ。今日は出血大サービスだ」
正直、ちさりんが黙っていたところで大した意味はない。せいぜい二日で広まる予定が三日に延びる程度の話だろう。むしろ今日ぐらいは、祭で世話になった恩返しをしたい、という気分だったりする。
もちろん俺のノートに正解が書かれてあるとは限らない。それを写した挙げ句、毎度の「ヒロピーのせいで間違えた」攻撃に終わる可能性も大いにあるが、ちさりんの理不尽攻撃など軽く流す自信がある…って、間違ってなきゃいいだけだろ。
「遣唐使船に乗って二人の僧侶が…」
…もっとも、俺という人間は単に今朝の件だけじゃなく、千聡に山ほど弱みを握られているわけだ。ということは、下手に怒らせると、誇張と嘘を織り交ぜながらしゃべりまくられる可能性がある。
ふだんなら、どうせ俺のネタなんて誰も聞かないだろうからどうでもいいけど、今日はそうじゃない可能性が高い。だいたい、俺一人の話題じゃない。うーむ。
「嵯峨天皇は京都の西に隠棲し……」
よし、俺も戦おう。千聡に対抗して、俺もちさりん秘密情報を暴露してやるぜ。ククク、互いに身を削る壮絶な戦いが、今始まる。ふっ。
……始めんなよ。
アホか。さっさと授業に集中しないと。
「京の鬼門の地を守護すべく……」
気がつけば、いつも通りのよどんだ空気の中。日本史の授業は淡々と流れていくから、いつもなら汚れた空気に包まれながら、眠気に耐え続ける時間だ。
それでも今は、これでも貴重な安らぎの空間。テスト前なんだから、本当は安らいでる場合でもないけれど。ようやく少し冷静になって、シャーペンを動かす。リズミカルな動きから、自分ではきれいに書いたつもりの文字が生み出されていく。俺は筆圧が高いから、Hの芯でガリガリと削るように書いていく。
「平安京に二つ設けられたうちの東の……」
真面目に話を聞き始めたら、今度はモヤモヤが襲ってくる。
ゴロウとツルに関わってから、歴史の授業に違和感を覚えはじめている自分。テスト前なのだし、教科書の内容を覚えなければならないと頭で判っているけれど、どこか醒めた自分がいる。
昨日、ゴロウとツルが何をしゃべったか、俺はまだ知らない。知らないけれど、確信出来ることがある。それは絶対に教科書に書いてないし、教科書の内容と矛盾するだろう、ということ。
だから教科書が嘘だとは、もちろん思わない。教科書の過去が嘘だったなら、その延長になる現在だって違ってしまう。仮に平家が源氏を滅ぼしたなら、足利も徳川もいなかった。それは間違いなく嘘だ。
ただ、ゴロウとツルが生きていようが死んでいようが、恐らく教科書の内容に影響はない。村で身分を隠したまま殺された者のせいで、まさか一国の運命が変わりはしないだろう。つまり、ゴロウとツルが語る物語が本当だとしても、別に俺のテスト勉強が変わることはない。ないのだが…。
「天皇家や貴族の厚い信仰を得て……」
はぁ。頭が回ればこれだ。これならぼんやりしてる方がマシかも知れない。呪縛から逃れるように手を止めて、窓の外に茂る緑を眺める。緑を見ると安らぐらしいからな。
………。
それにしても、月曜というのは悪いタイミングだ。土日という逃げ道もなく、これから一週間フルにさらし者になるわけだ。
しかも月曜の二時間目は体育だった。これがまた、隣のクラスと合同だったりしたもんだから、朝っぱらに無茶をやらかした俺様は、あっと言う間に隣のクラスにまで名を広めてしまったわけだ。遠からず学校中に広まりそうな気がする。そこら中で指差されそうな気がする。いやー、人気者は辛い。
………。冗談はよしこさん。
でもまぁ、俺はそれで構わない。白い目で見られるぐらいならもう慣れている。
問題はえーこだろう。それなりの常識人としてクラスでもコミュニケーションの輪を広げつつあったのに、ぶち壊しだ。いきなり俺と同類で、ちょっと…どころか相当ヤバい人になってしまう。
どうにかしなくては…と思うけど、何もしようがないのが辛い。えーこはヤバい人じゃない、目を覚ましてくださーいと俺が叫ぶのは、どう考えても逆効果だ。
だいいち朝の出来事の後は、えーこの座ってるあたりに視線を向けることすら出来ずにいる。出向くなんて論外だ。これだけ注目を集める中で、教室の後ろにノコノコ足を運んだらどうなるだろう。何度も頭の中でシミュレーションしては身震いする。バカだ。やっぱり、こっそり告白すりゃ良かったんじゃねーか。
…………。
我ながら、よく判らない。あの瞬間、俺は何の疑問もなく大声で好きだと叫んだけれど、今はそんな自分を理解出来ずにいる。周期的に、あれが必要だったという言い訳が湧いてくるし、一時間のうち十分ぐらいはそれで納得している。そしてあと五十分は、納得していた自分に呆れる。よく判らない。まるで泣いた理由が判らない千聡のように……って、関係ないか。
ループを続けながら、やがて昼休みが近づいてくる。黒板横の時計を見れば、あと五分。俺の頭は再び、どうしようもないほどに回転し始めた。
今日の自分で一つだけはっきりしていること。俺はえーこが好きだ。好きだ。好きだ。どうしようもなく好きだ。
そろそろえーこと話したい。幾重もの障害を乗り越えて、どうにかしてたどり着かねばならない。そのためには何をすべきか、徹底したシミュレーションが繰り返された。
「ハックン!」
「な、なんだよ、いきなり大声だす…」
「ハックン、こっちだ!」
しかしそんな努力は一瞬にして無駄となった。朝から無言を貫いていた勝彦が、いきなり呼び止めるとは想定外だったのだ。
俺は計算を修正する間もなく、問答無用で勝彦に引っ張られていく。そして連れ出された先は、単なる教室の反対側。そこには数人のクラスメイトが、まるで俺を待ちかまえているかのように立っていた。というか、ほぼ確実に奴等は待ちかまえていた。
「よく来たな山際!」
「来たくて来たんじゃねーぞ」
俺はそいつらの顔を知っていた。名前も知っていた…のは当たり前だが、そいつらがなぜ勝彦と仲がいいのかも知っていた。なんのことはない、ヤツのプロレス仲間に囲まれたわけだ。
「よし勝彦!、山際の幸せを祈ってドラゴンスリーパーだ!」
「静かに眠れ友よ」
幸せを祈るなら他の方法があるだろう…と突っ込む間もなく、俺の体はねじ曲げられる。そういえばヤツと腋臭の話で盛り上がったことがあったな………。
「いだだだだ、足かけるな!」
「おっと冬木スペシャルになっちまったぜ」
「角度は合ってるか?」
「こら捻るなバカ!」
「やかましい! 貴様は我々の夢を奪った! その報い受けるがよいっ!」
何が夢だバカヤロ…と、生ぬるい腕に包まれながら記憶が薄れていく。ああ、最期の瞬間にボクは笑ってられましたか………って。
「甘んじて受けるわけねーだろ!」
「あ、逃げるぞ猪木!」
「元気ですかーーーーっ!」
「カツピー、ボンバイエ!」
「あーもうやかましい!!」
訳の分からない怒号が飛び交うなか、無理矢理腕をほどく。幸い勝ピーの腕はさして太くない上に、三沢のフェースロック並に極まりが浅かった。解説するのもアホらしいが。
さて逃げよう…とするも、まだ囲まれている。しつこい奴らだな。
「しかし山際」
「……なんだよ」
敵意剥き出しで反応しながら、こいつらがプロレス者として女子から煙たがられていると、千聡に聞かされたことを思い出す。
まぁそれは半分以上、目の前にいた勝彦に対して向けられたイヤミだったし、別に女子が煙たがろうが俺にはどうでもいい話だった。俺自身だってどうせ似たようなものだと知っていたから。
要するに、俺はそれなりにこいつらの味方だった。今は違うけどな。
真面目な顔で次はいったい何をしやがるんだ? ロックアップでクリーンにスタートか、それともいきなりラリアートで倒してストンピングか?
後者なら断固拒否するぞ。俺はハイスパートが嫌いだ。あれはロマンがない。
「朝のあれはだな、結局ヤオじゃねーのか」
「そうだ、ヤオだヤオだ!」
「む……」
しかしなぜか言葉責めに遭った俺は、当然のように答えに詰まる。というか、これは考えもしなかった方面の糾弾だった。
…が、だんだん腹が立って来た。俺にとっては一生一代の出来事だったというのに、それをヤオと呼ばれて頷く奴がいるだろうかいやない。
「いや、一概にヤオと断言は出来ねぇ」
いつの間にか因縁をふっかけられた気分の俺だったが、勝彦の声でまた冷静になる。
勝ピーは妙に真面目な顔だ。いや、よくよく覗いてみれば、みんな真剣に悩んでいるような顔だった。うーむ、ヤオかどうかはそれほどまでに重要なのか…って、分析してる場合かよ。
「じゃあなんだ、勝ピー」
「あれのどこがガチだ」
「たぶん俺が思うに…」
眉間に皺を寄せながら返答しようとする勝彦は、まるでプロレス学の権威のようだ。俺のノート丸写しするヤツとはとうてい思えないほどに。
思わず一緒に耳を澄ましてしまう。勝ピーはそれから数秒黙り込んで、ゆっくりと口を開いた。
「あれはまぁ…、プロレス内ガチってとこだな」
「へ?」
「うーむ、なるほどなぁ」
しかし結論は意味不明…だったはずだ。まるで理解出来ない用語なのに、俺だけが驚いている。
こいつらは判って頷いてるんだろうか。そうだとしたらきっと住んでいる世界が違うのだ。頼むからそうあってくれ。
「どっちにしろ許せねぇ!」
「だからなんでだよ!」
テンションが突然上がったり下がったりする連中の相手は難しい。まるで勝ピーが増殖したようだ。というか、勝ピーはまだ常識人に思えてきた。
「プロレスラーには女神が必要なんだっ!」
「女子プロか?」
「違うっ! 女子プロではなくプロレスラーの女神だっ!」
なんだかどっと疲れがでる。こいつらは普段から女子プロを認めないとかわめいてるし、別にえーこをレスラーにしたいって話じゃなかろう。なら女神もクソもあるか。
「まぁ女神は他をあたってくれ、サラバだ」
「待て! 女神がどこにでもいると思ってんのかてめぇ!」
また捕まりそうになったが、一瞬しゃがんで隙間を抜け、ダッシュで逃げる。なんだよ別に誰かのものだったわけじゃねーだろー。
廊下に出て一息つく。一息ついて、あいつらが女子に、まさに毛虫のように嫌われる理由だけはよく判った気がする。残念ながら、判っても何の意味もなかった。
結局未だにえーこと話せていない。とっても、実に、すごく、極めて非常に寂しい。あー、やっぱりもっとこっそり告白すべきだったか…と、ループする思考。
しかし、祭を終えた俺たちが新しい日々を歩み出すには、あれぐらいのインパクトが必要だ。またそんな気もし始めた。何の根拠もないけれど、やっぱりループ。
とりあえず、あてもなく廊下を歩く。薄汚れた天井に支えられた空間は、いつもと同じように慌ただしく人々が行き交い、埃が乱雑に舞い上がる。せいぜい通行の邪魔にしかならない俺に、いちいち声を掛ける奴はいない。そんな空気を、だけど俺は望んでいた気がする。居場所のない世界は気楽だ。
………………。
けど、何となく視線を感じた。よくよく周囲を見渡してみたら、行き交う連中は必ずしも俺を無視していないようだ。むしろ、あからさまに不審者を前にしているような目つき。どうやら既に噂は広まりつつあるらしい。
ここからも逃げるしかないか。
だいたい、まだパンを買ってない。早く行かないとパン屋が帰ってしまうぜ。
またもや言い訳を繰り返しながら階段を降りる自分。別に悪いことなんてしてないはずなのに、目立つという事実そのものが悪に思えてしまう。ネガティブだ。帰り支度のパン屋をつかまえたものの、揚げあんパンしかなかった。どうしようもなくネガティブだ。
「こんにちは」
「わっ!」
滅入った気分のまま階段を昇り終えたところでいきなり呼び止められ、思わずよろけてパンを落とす。格好悪い…と思う余裕はなかった。だって声の主は…。
「…ごめん」
「いや、ぼーっとしてた俺が悪い」
逢いたくてしょうがなかった相手が目の前にいた。階段を昇りきった水飲み場の前。何となくここはそういう場所だった気がした。
「…えーと、昼飯は?」
「もう食べた」
「そうか」
まずは落ちつこう。当たり障りのない質問をしながら肩を回す。そういえば肩を回すなんて当たり前過ぎることすら、今日は忘れがちだ。
ふーっと息を吸って、彼女の顔を見る。そしてもう一度混乱した。俺はアホだ。
けれど、何度か繰り返すうちには落ち着いていった。俺だけじゃない。目の前のえーこも、いつもと雰囲気が違っていたから。
…死ぬほど緊張しているのは俺だけじゃなかった。
「なぁえーこ」
「ん?」
冷静になったら、まずやることは…。
「ここで食ってもいいか?」
「行儀悪いと思う」
「まぁな」
昼休みはもう残り少なかったから、まずは食わねばならない。やっと逢えた彼女に最初に訊ねる言葉じゃないかも知れないけど。
さっきに比べれば、いつもに近い表情のえーこが呆れたように笑う。それでも反対しているわけではない。だいいち、反対されても他に食べる場所なんてないのだ。
教室に戻れば二人は離ればなれになる。かといって外は暑くて耐えられないし、まさかパン一個のために旧校舎まで遠征するわけにもいくまい。
「お互い今日は注目の人だね」
「今日だけで済めばいいけどな」
もっとも、水飲み場前だって当然ながら人通りが絶えない。行儀が悪いとかいう前に、ここでも注目を集めてしまうことに変わりはなかった。人混みの中にはクラスの奴もいるから、恰好のネタを提供したとすら言えなくもない。
けど、今はそんな先のことなんてどうでもいいのだ。ガサガサ音を立てて揚げあんパンの袋を破る。指にべったりとつく油をなめるのが日課だ――「体に悪い」とか千聡に何度か止められた。おせっかいな女だ――が、さすがに今はやめて一気に囓る。
甘い。一瞬だけ幸せを感じる。実は甘いものが好物なのだ…。
「ヒロくんはね」
「………ん?」
呆けた表情を見られたか?
とりあえずにやけた顔を戻そうとする自分。
「格好いいらしいよ」
「えーと…」
けどその表情はひきつった笑いに変わる。
とりあえず、慌ててパンを囓っている時に、難しい話はやめてほしいと思ったりする。全然難しくないかも知れないが。
「特に目元がいいって」
「はぁ………」
だいたい、昨日まで一度も聞いたことのなかった話だ。仮にそんな話題があったら、千聡がすぐに喜んでしゃべったに違いない。俺の目を指差して笑う姿が目に浮かぶようだ。
……まぁでも、プロレスの女神だってそうなんだよな。
いくら鼻つまみ者の集団だろうが、ふだんからわめいていたなら俺に伝わらないはずがない。どっちにしろ、出来れば一度として聞きたくはなかったが。
「みんながいろいろ教えてくれるから」
「………」
「ちさりんも言ってたけど、クラスで三番目ぐら…」
「なぁ」
「え?」
あっという間にパンを流し込み、傍らのゴミ箱にビニール袋を捨てた頃には、もうこの話題に耐えられなくなっていた。
いつも千聡がニヤニヤしながらこういう話題を口にするたびに、俺は必死に聞き流したり宿題を広げたり苦労しているのだ。それをなんで、えーこの口から聞かされなきゃならねーんだ。
「言っておくが俺はえー…」
「………」
苛立った勢いでしゃべりかけて、すぐ我に返った。もしかして、とんでもないことを言う気なんじゃないか、俺は。
だけど気がついた時には、もうえーこがじっと続きを待っていた。今さらやめるわけにはいかないのだ。はぁ……。
「俺はその…、えーこの見た目に惚れたわけじゃねーぞ」
「よーく存じております。何しろ同じクラスにいたのに、悩んでようやく名前を思い出すぐらいのようだから」
「ぐぇ…」
結局は、思いっきり墓穴を掘っただけだった。
もちろんあの瞬間は、悩むとかいう次元ではなかった。けれどいろんな事情を除いても、俺にとってえーこが単なるクラスメイトだったことは否定のしようがない。しかしだな…。
「なぁえーこ」
「ん…」
冷静になってみれば、問いただす意味などなかったはずだが、俺は意地になっていた。何となく、負けは許されない気がした。
「じゃあえーこは、俺のこと知ってたか? 名前以外に」
「うん」
「え……」
「教室にいれば、嫌でも目立つ人たちだったし」
うーむ…。
そう言われれば否定しきれないのが空しい。要するに、おバカな連中として世に知られていた、と。
「いつも楽しそうで、憧れてた」
「あ、憧れ?」
「うん。ちさりんと勝彦くんがいて、中心にはいつもヒロくんがいて、…私もああいう輪に入りたいって思ってた」
「………」
中心が俺、というところに違和感を覚える。どう考えても、俺と勝ピーが千聡を中心に周ってるだろ。
それとも、今のえーこにはそういう記憶になって残ってるってことだろうか。
「ヒロくんは嫌がるだろうけど、ツルさんのおかげでその輪に入れて…」
「…今さら嫌がるかよ」
「だけど最初に怒鳴られて悲しかった。それは今も鮮明に覚えてる」
「う……。申し訳ない。あれは反省している」
「反省してください」
笑顔。しばらく見とれてしまう自分がいた。
………。
俺だってもちろん覚えている。わけも判らず怒鳴り散らす自分に対して向けられた、敵意に満ちたえーこの瞳。
だけどあの時は、それで安心していた。
女子と関わることは、俺にとって恐怖だった。好きだとか嫌いだとか、それすら説明出来ない世界に踏み出すなんて、とんでもないことだと思っていた。
えーこは、あの瞬間だってきっと俺を狂わせただろうから。
「ヒロくん」
「え?」
ぼーっとしていた自分に気づいた時、もうチャイムが鳴り始めていた。
「とりあえず、昨日のことを聞かないと」
えーこの声は、いつもの聞き慣れた声に戻っている。そういう話題だから…なんだよな。俺の頭も一気に醒めていく。
「…そうだな」
「ヒロくんから伝えといてね」
「おう」
俺の返事を待っていたえーこは、軽く右手をあげて、駆け足で教室に戻って行く。その様子を俺はまたぼーっと眺めていた。
ツルの話題が終わった途端に、切り替わってまた熱病にかかっていく俺の頭。やがてふと階段に人影を感じて、ようやく我に返った。もう教師がやってきたのだ。
俺の机はまだ四時間目のまま、片づけられてすらいない。今さらのように疲れた顔で走り出す。こんなに頻繁に頭が切り替わる自分は、もしかして天才少年なんじゃないかと、どうでもいい妄想に囚われながら。
午後の授業。眠気に襲われるけれど、必死に教師の声を追う。テスト前だからあてられる心配はない。そんな理想的な授業なのに、みんないつもより熱心に聞いている。
…そうなんだよなぁ。
こんな時期につきあい始めて大丈夫なんだろうか。テストの結果が悲惨なものだったら、絶対このせいだと言われるんだろう。元々が優等生ってわけでもないのに。
……………。
ふと、悪魔のささやきが聞こえた。
ふっふっふ。それならえーこと試験勉強すればいいじゃねーか。
うむ。つきあいはじめで悶々としているぐらいなら、そこで開き直った方が正解かも知れない。えーこはなかなか頼りになりそうだ。少なくとも隣の女や後ろの男よりは数段上だ。一緒に勉強すればいい結果が生まれるに違いない…って、また言い訳ばかり浮かんでくる自分がちょっと情けない。
「ハックン」
「他人のノートを写すのはヤオだ」
「そ、そりゃそうだ」
残り一時間までこぎ着けた休み。勝彦の声に思わず昼休みの悪夢が甦ったが、振り返った先は、午前中のむすっとした顔に戻っていた。
「さっきは悪かった、ハックン」
「気にすんな。それより…」
ぐっとヤツの側に寄る。直前に確認した時点で、千聡は女子の連中に囲まれていた。今ならいけるだろう。あれを聞かずにいれようか。
「勝ピー、女神って何だ?」
「んー………」
あからさまに顔をしかめた勝彦。しかめられても困るんだがな。
「結局、でまかせなのか?」
「違う!」
「うっ」
今度は耳元で大声だ。相変らず勝ピーは面倒くさい。俺だって相当に不安定なつもりだが、こいつはふだんですら難しいヤツなのだ。
仕方なく少し顔を離す。こいつは近寄ると却って興奮する傾向があるのを忘れていた。
「えーこちゃんは、プロレスが好きになるはずだ」
「…………」
「とりあえず、それは確かだ」
「……………そうか」
既に目の前にいるのは昼休みの勝彦大先生だった。一瞬にして突っ込む気を失った俺は、曖昧に笑ってさらに顔を離す。これ以上近くにいては、プロレス者がうつってしまう。疲れた…。
机の上に開いたままのノートを片付けると、もうチャイム。その瞬間、視界の右端にニヤついた表情が映った。
聞いてたのか?
遠からず追及されそうな予感がして、また気が滅入る。というか、俺は勝彦に他の用があっただろう。なんで必要な話じゃなくて記憶から抹消したいことをしゃべったんだ、俺は。バカだ。俺はバカだ。
………だけど。
今の自分にとって、ゴロウとツルのことはあまり興味がもてないのだ。それは正直な気持ちだった。
この俺の口から、俺じゃない誰かの物語が語られた。それはもちろんとんでもない事態だし、具体的に何が起こったのか知りたくないわけじゃない。けれど今は、えーこのことが第一だ。
生まれて初めて好きだと叫んでしまった相手に、同じく初めて好きだと答えられてしまったんだ。所詮は他人でしかないゴロウとツルより重要に決まっているだろう?
………。
いかん。興奮した。というか、また言い訳してしまっただけじゃねーか。必要なら聞く、それだけだ。やれやれ。
妄想も一息ついて、ノートに目を落とすと、指先が触れた部分がふやけていることに気づく。俺は元々が汗かきだから、この時期はこうなりがちだ。何も緊張しているから、というわけじゃない。
外は厚い雲に覆われている。天気予報では、明日あたり雨らしい。湿気の多い季節の俺は、いつもならすっかり滅入っておとなしくなっていたはずだ。
いつもと違う七月。けれど今日はほんの入り口でしかない。この先は、間違いなく体験したことのない夏だろう。
えーこと何かをしたい。一緒に………、何をするんだ? 冷静に考えてみると、俺はそういう方面の知識がまるでなかった。今までは必要のない知識だったから仕方ないけど。
…うーむ。身近な例を探そうとして、すぐに隣の女子生徒を思い出したが、さっそく記憶から抹消する。神社巡りが一般であろうかいやない。
もっとも、たとえ良と同じ行き先を選んだとしても、俺は絶対に奴の同行は求めないから、少なくともデートと呼んでも間違いにはなるまい。えーこは歴史に興味がありそうだから、いつか実現はしそうだ。が、やはり初回は避けたい。
結局、良にしても出掛けるあてがないから神社になっただけ。それは実に安易な選択だ。しかも俺たちは二番手だから、苦しまぎれの良を真似たことになってしまう。千聡に格好のネタを提供してしまうのだっ!
………。
アホか。今は授業中だ。我ながら今日の自分はどうしようもない気がする。いつもにもまして暴走する妄想。冷静になろうとしても、それはたぶん無理なのだ。
その後もどうでもいいことばかり考えて、一人盛り上がっては呆れる繰り返し。放課後まで続いた未来のシミュレーションは、当然何も生み出しはしないし、まして勉強にとっては大いなる妨げだった。
「じゃっあねー」
「お、もう帰るのか」
担任が去ってすぐ、まだ教室はざわめいているというのに、千聡があっさり教室を出て行った。無駄話で時間をつぶす日課はどうしたのだろう。だいたい最近は、地研に向かう良がちゃんと教室に立ち寄るから、偶然教室に残っていたようなふりをする必要があったのだ。
まさか俺たちに気をつかったのか?。
ちょっと考えてみるが、そんなことをする理由は見あたらない。どう考えても今さらのことだ。むしろ、騒ぎに巻き込まれるのが面倒なだけかも知れない…って、それも嘘だな。それなら自分から巻き込まれて、先頭に立って俺をからかうはずだ。
………。
さーて。一度肩を鳴らす。
今は千聡の事情よりも勝ピーを引き留める方が先だ。というかまず自分が、これから話を聞く必要があると思わなきゃ。
いずれ祐子さんを迎えて反省会を開くから、それまでには一通り話は聞くべきだ。それに勝彦は日一日と記憶を失っていくのだ。さっさと聞かないと何一つ覚えてない可能性があるのだ。
うむ。それなりに必要な気はしてきた。ともかく今は邪魔する奴もいない。よーし、いくぞーっ!
「ヒロくん」
「ぐぁ」
なんてタイミングがいいんだ。思いっきり出鼻をくじかれた。
「………」
「いや、気にしないでくれ」
俺があまり歓迎してないような空気が流れたので、慌ててフォローをいれる。そして自己嫌悪。
きっとえーこは、クラスの連中が帰るまでこっちには来ないだろうと思っていた。だから今勝彦を説得しても十分間に合うという計算だったのだ。もちろん、よく考えれば何の根拠もないのだが。
ゆっくりと体をずらし、すぐ横に立っている彼女を見る。すると思いっきり目が合ってしまい、動揺した。今日何度目だろう。律儀な自分に呆れてしまう。
「ちさりんはもう帰ったの?」
「ああ」
「そう…」
えーこの声が少し沈んだ気がする。急いでここに来た理由を考えたなら、確かに千聡がいないのはマイナスだ。そんなことに今さら気づく。
なら、まだ勝彦に用件を伝えていないのはどれぐらいマイナスだ? ヤバい。えーこにばれようが、逃げられる前に…。
「で…」
「いだがーーっ!」
「…………」
さっと後ろを向いた俺は、とりあえず勝彦がそこに座っていることだけは確認出来た。
が。
それと同時に、教室に響いた奇声。最早突っ込む気も起きない。
「まんずめでてあんねがー」
「あ、ありがとうショーくん」
なんで今さらショーなんだ。教室は一気に静まりかえり、冷やかな視線が一斉にこちらを向く。そして静寂を破るギターの音。何のためらいもなくショーが歌い始めた時、どうにも説明しようのない懐かしい感覚が戻ってきた。
ああ、俺はこういう世界にいたんだよな。どんどん気分が落ちついていく。こんなことでいいんだろうかと思うのだが、いろんな意味でショーはいつもと同じだったのだ。
「センキューゥ!」
そうして一曲歌い終わったショーは、あっさり去って行った。まるで正月番組にしか出番のない芸人みたいだ。フォークよりもっと向いてるものがあるのでは…じゃない。奴の将来を案じてどうする。
「で、勝ピー」
もう恥ずかしいとか、そういう感覚はない。それに、ショーが来た以上、勝ピーが逃げ出す心配もない。無理に褒めるなら、ショーは偉大だ。
「なんだ貴様、また冬木スペシャルを…」
「知るか。俺には角度なんて関係ない」
「ヒロくん、話をそらさないで」
「ぐ…、悪い」
いつものやりとりで行きかけたはずが、微妙に狂う。その瞬間はなんというか、妙に居心地が悪かった。
これが俺たちにとっては精一杯のコミュニケーションなんだ! 別にえーこを非難するわけじゃないにせよ、思わず叫びたくなる…が、目の前の顔は、一緒に叫んでくれそうな雰囲気ではない。むしろ、えーこのツッコミに同意するかのようだ。
どうやら今日の勝ピーは、終日冗談を受け付けない方針らしい。なんだか寂しいぜ…と、今はそんな話じゃなかった。
「昨日の話を聞かせてくれ、勝ピー」
「偉そうに言うな」
「ごめんなさい」
「え、えーこちゃんが謝ることは…」
とにかくこうなったら聞くしかない。
昨日の祭で、勝彦の役割は俺の押さえ役兼聞き役だった。そして、どうやら俺――ではなくゴロウ――は一度も暴れなかったらしいから、ヤツは何の障害もなくすべてを聞けたはずなのだ。
「だいたいなぁ、ちさりんが残ってるうちに言えよ。俺一人よりずっといいじゃねーか」
「俺は筋を通したいだけだ、勝ピー」
「筋?」
「聞き役はお前だ」
「…………」
意味もなく指差してみる。指先の勝彦は黙って一点を見つめていた。
もちろん勝ピー様が勝ピー様であるが故の限界はあるだろうが、ここで聞かないことには何も始まらない。聞き役という役目に何か意味があるのならなおさらだ。
…未だにその意味は全く見当もつかないけどな。
「まぁともかく、チョイスやるから教えてくれ」
「持ってんのか?」
魔法の合い言葉。勝ピーの目が輝いた。チョイスは偉大だ。さすがは清流菓子とかよく判らんシリーズも作ってた工場の菓子だ。本社が隣の県でなけりゃ言うことなしだ。
「いや、今から買ってくる」
「川んとこならダメだ。あれはいつのヤツか判らねぇ」
「うーむ」
「それと、長いの買えよ。良のバカみてぇに数の少ねぇの買うと…」
「どこまで買いに行かす気だ」
勝ピーはすっかりチョイス評論家になっている。
確かに川沿いの駄菓子屋は期限切れの食い物の宝庫だが…。
「たとえば、今からヒロくんのおごりでお茶なんてどうでしょう?」
予想外の声に思わず振り返る。勝彦と動きがかぶっていた。
というか、なぜ俺のおごりという前提なんだよ。
「それは遠慮する」
「そう…ですか」
返答する勝彦は少し元気がなかった。
えーこが提案する理由も判るけれど、やっぱり今日は無理だと俺も思う。俺とえーこがどうなろうと、勝彦と疎遠になる理由はないのだが、気まずくないはずもない。
結局、後日俺がチョイスを献上するという約束で、教室で話を聞くことになった。昇降口でジュースを買うぐらいはしたけれど。
勝彦はコーラを所望した。せめて高級なジュースでも選んでやろうと思ったが、あの自販機で高いというのは単に量が多いだけだからやめといた。
どうでもいいが、俺はコーラが嫌いだ。じいさんに「コーラを飲むと歯が溶ける」といつも聞かされたせいなのは内緒だ。
「話したのはほとんどハックン…じゃなくてゴロウだった。途中で…ツルさんが生い立ちをしゃべって、たまに一緒に話す時もあって」
コーラを持って戻った時には、もう教室は三人だけの世界だった。
千聡の席にえーこが座って、二人で勝彦の話に耳を傾ける。どう考えても奇妙な光景には違いないが、別に誰が見てるわけでもない。
「ゴロウちゃんは、どんな話し方だったん…」
「話し方っていうか、ただ事実を並べていただけだった。ゴロウは、ゴロウはって自分で言ってたし」
「ゴロウがしゃべったって感じじゃねーんだな」
「まぁそういうことだ」
特にこだわりもなく、思いつきで質問する自分。判らないことを聞くんだから当然だが、あれこれと質問を繰り返すうちに、勝彦の表情が多少和らいだように思える。
正直、筋を通したいなんてのはその場の思いつきに過ぎなかった。それでも、とりあえず間違った選択ではなかったってことなんだろう。
「ツルは…」
「ツルはほとんど歌ってた。歌詞は無茶苦茶難しくて覚えられなかったが」
「歌?」
ツルが歌ったってことは、えーこの声で歌っていたってことだな。うーむ、聴いてみたかったかも…。
「歌って言っても七不思議みてぇなもんじゃねーぞ」
「七不思議って?」
「あ……」
慌ててこっちを向く勝ピーに、何度も手を振った。頼むからこっちを見るな…と思った時にはもうばれている。
「ヒロくんは知ってるの?」
「日和山には夜な夜な官軍兵士の幽霊が……」
「ふーん」
仕方ないのでごまかしたが、まるで信用されてない。一応俺とえーこは本日よりつき合うことになったはずだから、せめて初日ぐらいは騙されてほしい。無理か。無理だよな。
「それで、二人の話はどんな内容だったの?」
「話せば長くなるが…」
ピンチに陥った我々だったが、えーこはあっさり次の話題に移っていた。勝彦を急かすように、どんどん質問を繰り返していく。彼女の関心の高さに、今さらのように俺は圧倒されてしまった。
しかし問題は、対する勝ピー様の説明がやたら判りやすいことだった。正直、どうせ詳細は祐子さんに聞くまで判らないと思っていたのだが、六番目の五郎、鎌倉殿の弟の若武者が来て…と、びっくりするほど詳細だ。まるで俺は今、学校一の秀才を前にしているかのようだ。
「勝彦くんは説明うまいね」
「そ、そうか?」
「間違いなく上手だと思う。すごく判りやすかった」
俺は心の中で留めていたが、えーこはストレートに褒める。俺も褒めるべきだったのかも知れないが、なんとなく照れくさいし、やっぱり少し釈然としない。
しかも勝彦自身、褒められてもあまり嬉しそうな顔ではなかった。
「実を言うとこれはヤオだ」
「え?」
そして口を開くのはプロレス者。
判りやすく困るえーこの顔を見て、三たび昼休みの悪夢が頭をよぎった。
「どういう意味だ。一般人向けに説明しろって」
「んー」
「一般人…」
一般という言葉に力を込める。出来ればえーことプロレスの接点はなくしたい。さっき聞かされた呪いの言葉から逃れなくては。
もちろん当事者のえーこは未だぽかんとしたままだ…けど、この際フォローは必要ないだろう。ともかくヤツにしゃべらせれば、自然と彼女も判っていくはずだ。
じっと勝彦の顔を見る。そして心の中では早くしゃべれと唱え続ける。しかめっ面のままだった勝彦もやがてプレッシャーに負けて、いかにも嫌そうに口を開いた。
「姉貴だ」
「は?」
「昨日の夜、姉貴にいちいち質問されたんだよ。それを姉貴がメモって…」
「そうしてる内に、自然に自分でもまとまっていったってこと?」
「メモったもん読みながら抜けてる所聞いて来るからな」
「…なるほど」
そりゃ説明もうまくなるはずだ。
というか、祐子さんはちゃんと勝彦に答えさせたわけか。祐子さん自身の方が絶対覚えてそうだし、どれほど意味があるのか疑問も感じるけどなぁ。
「ハックンは、姉貴がわざわざ俺に聞く必要なんてねぇと思っただろ」
「……思ったぞ」
「ふっ、そこが素人の浅知恵ってもんだ」
「ほぉ…」
半分呆れながら、勝彦がすっかりいつもの調子に戻ったことに気づく。
これで聞くだけ無駄な説明が始まればばっちりだ。
「一人の記憶じゃ頼りねぇから、必ずその場にいた人間からは話を聞くらしい」
「さすがは地研部長だった祐子さん」
「ふぅむ…」
それはしかし、勝彦だけじゃなくて千聡や良やショーや瀬場さんにも聞くってことじゃないのか、と疑問が浮かんだが、あえて口にするのはやめておく。
「おかげで昨日はかなり睡眠時間を削られたぜ」
「…それで今日は居眠りしてたの?」
「いや……」
さりげなくイヤミになってるぞ、えーこ。…まぁそれぐらいの方が気楽でいいけどな。
とりあえず、祐子さんのこだわりは納得出来るし、そうして勝彦が多少なりとも役に立ったのも間違いないのだろう。少なくとも、俺たちにとっては非常に役に立った。どうも相当長い話だったようだから、一から勝ピー任せではどうなったか想像もつかない。
「じゃあ祐子さんは、今度そのメモを持って来るってわけか」
「良も持ってくるはずだ」
「良くんも?」
「姉貴が電話してたからな」
「…それにしても仕事が早いな」
もしかして千聡がさっさと消えたのはそういうことだったんだろうか。なら一言教えてくれたって良さそうなものだ。
まぁ頼るしかない俺たちは、偉そうなことをいえた義理じゃないが。
「なぁ勝ピー」
そろそろ話題も尽きてきた頃、何となく気になっていたことを聞いてみる。
「なんだ」
「ツルの歌って、いつものえーこの声と違ってんのか?」
「俺はえーこちゃんの歌声なんて知らん」
「あ、いや……」
が、結果は場を気まずくしてしまっただけだった。
何となくいつもの雰囲気に戻ったから、調子に乗って聞いてしまったが、冷静に考えれば今日の話題には向いてなかった。
「ハックンは本当に何も覚えてないのか」
「ない」
「私も…残念ながら」
「ふぅむ…」
勝彦は不審そうにこちらを眺めていた。
人の気配がしない教室で、チョークのにおいが鼻をつく。なんだか眠気に襲われるのは、粉塵で脳がやられるからだと昔聞いた気がする…って、どうでもいいぞ。
「あれだけしゃべったのになぁ」
「………」
遠い目の勝ピー。しかしこちらも反応のしようがない。
決して俺たちが嘘なんてついてないことは、ヤツだって判っているだろう。もちろん、勝彦がそれをにわかに信じがたいことも。
何度口にしても仕方ないことだが、おかしな出来事だった。
「とりあえずだな、ハックン」
「…おう」
「昨日の出来事はとんでもねぇことだったと思うぜ。テレビ局が来そうなぐらいだ」
「テレビは困るな。あとあと面倒だ」
「急に親戚が増えるかもしれねぇな」
冗談交じりでも、勝彦の顔を見れば本気で驚いていたらしいと判る。
というか、あれで驚かない方がどうかしてる。残念ながら俺たちは知らないから、一番の当事者なのにいまいち盛り上がれないが。
「もうゴロウはしゃべらねーのか?」
「俺に聞かれて判るかって」
「なんだよ、なんかこの辺にゴロウがいやがるぜって感じはねーのかハックン」
「あるか!」
勝ピーはご丁寧に身振り付きで迫ってくる。が、いくら胸や腹をさすっても、そこにゴロウはいない。いてたまるか。
…………。
でもそれなら、ゴロウはどこにいた?
たとえ今はいなくとも、昨日までは俺の中にいたはずだ。けれどそんな感じはまるでなく、ショーの歌で突然意識を乗っ取った。どこから湧いて出たんだ?
「ま、ともかく今日はこれぐらいでいいか?」
急に声のトーンが下がる。勝彦の顔はいかにも疲れているようだった。
「え、…ああ」
「ありがとう、勝彦くん」
「いいってことよ。これが俺の仕事だ」
最後に妙なポーズをビシッと決めて、勝彦は一足先に教室を去っていく。いつの間にか「聞き役」は偉いヤツになってしまったようだ。
…まぁ今日のところはヤツの機嫌が直ればそれでいいか。確かに今日の勝ピーは偉かったしな。
教室は夕暮れ時。ただし曇っているから空は染まらず、ただ光を失いつつある景色。大木に覆われた窓からは、それすらもかすかに覗くぐらいしか出来ない。
「帰る?」
「そりゃ帰るだろ」
当たり前のように返事をしながら、ちょっと後悔する自分がいる。
二人きり。朝から待ち望んだ時間は離ればなれになるためだったのか。ふっとため息が出た。
「ヒロくん」
「…あ、ああ」
ぼんやりした頭にえーこの声が響いた。
結局、俺は疲れているのだろう。とりあえず忘れ物がないか確認して立ち上がる。右の手のひらが椅子に触れた。少し湿っぽかった。
「それにしても」
「え?」
彼女の後を追うように廊下に出た。もちろん人影はない。
そういえば地研はちゃんと活動してるんだろうか…と、どうでもいいことが頭に浮かぶ。
「今日のヒロくんはちょっと緊張してた?」
………。
気がつくと俺はじっとえーこの顔を見つめていた。
「ちょっと…というか、ものすんごく緊張してるぞ」
「どうして?」
「どうしてって…」
ちょうど階段にさしかかったので、動揺を抑えつつまずは足元に視線を向けた。
カツカツ音がする。俺は少しつま先立ちで音を立てる主義なのだ…って、そんなことはどうでもいいだろ。
何を聞きたいんだ、えーこは。今日の俺たちが緊張しないわけがない。だいたい昼休みはえーこだって緊張してたじゃねぇか。
「えーこに質問」
「どうぞ」
こういう時はこちらから攻めるが吉だ。
リズミカルに音を鳴らしながら、リズミカルに問いただしてやろう。
「冷やかされただろ」
「うん」
「どうだ、緊張しただろ」
「さぁ」
「さぁ?」
今一つノッてこない彼女に、苛立ちにも似た感情を抱く自分。
俺にとって今朝の出来事は、間違いなく生まれて以来一番といっていいものだった。今でも思い出すと赤面して逃げ出したくなる。きっと何年経っても同じだろう。俺という人間が死んだ時も、きっと生涯最も緊張した瞬間として語られるに違いない。誰が語るのかはあまり想像したくないな…。
「じゃあ私も質問」
えーこの声で我に返る。
また妄想に走った自分を、彼女の瞳はなじるわけでもなくじっと見つめていた。それは言葉で指摘されるよりも、遙かに俺を冷静にさせた。
「…お手柔らかに」
「今日のヒロくんはえーこが好きですか?」
「す、す、好きだ」
声がうわずった。つーか、なんて質問だ。いきなり顔がほてってきたぞ。せっかく冷静になったのに。
「じゃあ先週のヒロくんは?」
「え?」
「先週のヒロくんはえーこが好きでしたか?」
………………………………………。
ああ、今さら実感することでもないがえーこは策士だ。俺なんていつも彼女の手のひらで弄ばれているだけだ。
「……好きだった」
「先週のえーこもヒロくんが好きだったらしいよ」
「そりゃ良かったな、と今日のヒロくんが言ってるぞ」
別にこう言ったからといって、えーこが緊張してなかったわけじゃない。所詮は互いに言い訳を重ねながら、だけど事実は事実。
俺はいつから好きになっていたんだろう。思い出そうとしても遠い昔のことになってしまっている。たった三ヶ月前に初めて知った顔なのに。
「種明かしをすれば、もうみんな知ってたから」
「え?」
「私がヒロくんを好きだって、もうとっくにばれてたってこと」
「………なるほど」
思い当たる節がないわけじゃない。俺だって千聡には毎日のように冷やかされていたのだし、昼休みのヤオもそういうことだろう。
「でも正直言うと私、今朝まで自信なかった」
「俺だってない。今だって半信半疑だ」
「今は自信もっていいと思うけど…」
都合良く解釈すれば、推測はいつだって出来た。けれど、そんな推測は最初からあり得ないことになっていた。俺はそうやって身を守っていたから。俺なんか誰も相手にするわけがないと、いつも言い訳が出来るように生きていたから。
昇降口にたどり着いた時には、緊張感もなくなった俺たち。えーこはいつものように笑顔をみせて、たぶん俺も笑っていただろう。元がむすっとした面だから、端から見たらどうか判らないけれど。
「ところでヒロくん」
「ん?」
「一つ報告があります」
「報告?」
おどけた調子のえーこの右隣に、ちょっと首を傾げた俺がいる。
別に何も頼んだ覚えはない。が、悪い話をするわけでもなさそうだ。
「悦子という名は、家政婦だそうです」
「は?」
厚い雲に覆われた校舎前で、思いっきり俺はのけぞった。
な、何を言いたいのかねキミは。
「あ、ごめん。順を追って話します」
「そうしてくれ」
相当に突飛な発言だったはずだが、えーこはにこにこ笑ったままだ。
今さらだけど、えーこのノリは少し変わってる。同じ女子でも千聡とは相当に違うし、祐子さんとは全然違う。それしか比較対象がない自分が虚しい。
「えーとね、ちょっと勇気を出してお母さんに聞いてみたの」
「……自分の名のことを?」
「うん」
「で、家政婦?」
「…あの、正確に言えばまだ家政婦シリーズやる前にファンだったとかで」
「ふーん」
まず最初に、安易な名だと思った。次に、家政婦以前の某女優なんて知らないから想像のしようがなかった。とりあえず家政婦やってるあの女優は、間違っても俺の好みではない。というか、そういう発想が可能な相手ではない。無茶だ。自分の親より年上なのだ。
こちらを見つめる彼女は、絶対に似てはいない。出来れば今後も似てほしくないと切に願う。本当にあの顔で若かったらどうなるのかは判らないけれど。
「ヒロくんって、好きなタレントはいるんだっけ?」
「いないと判ってて質問してるだろ」
そういえば土曜もこんな他愛のない話をしてたんだよな。
土曜だけじゃない。彼女がデートと呼んだ時間は、いつもこんなものだった気がする。俺はただえーこと話すのが楽しくて、えーこが笑う顔が見たくて…。
「もしかして、とは思って聞いてるんだけど」
「期待も虚しく、いない。残念」
「残念ではないけど、じゃあこんな顔で良かったの?」
「いい。文句なし。サイコー!」
「………」
思いっきり蹴られた。
別に嘘じゃなかったんだが…。
「罰としてヒロくん」
「え」
「ラーメンについて」
「う」
痛みの残る脚で思わず後ずさりする。
つくづく人の弱みに付けいるのがうまいな、えーこは。自分が当事者でなけりゃ感動モノだ。残念ながら当事者であるからには、どうにか逃げるしかないのだが。さーて。
「ヒントで勘弁してくれ」
「まぁ……、残念ですが妥協しましょう」
こうやって手玉に取られるのもいつものこと。今にして思えば、プロレス者にヤオ呼ばわりされても仕方なかった。
けれど、それはやっぱり今朝があったから言えることだ。土曜までならきっと単なる勘違い。俺たちにとって、今朝はガチだ。絶対にガチだ。
「麺類でラーメンが特別ダメになったのは偶然だ。うちの親がラーメン好きだっただけ」
「……問題は麺の種類じゃないってこと?」
「たぶん」
えーこはじっとこちらを見つめながら考え込む。俺には理解しがたいほどに、その表情は真剣そのものだ。てっきり、推理ゲームでもやるようなもんだと思っていたけれど、どうもそんな雰囲気ではなさそうだ。
「ヒントはあと何回あるの?」
「……そんなに知りたいのか?」
「うん」
「どうして?」
「知りたい?」
「おう」
なんか途中で攻守が入れ替わった気がするけど、まぁいいか。
実際、知りたい。確かに俺はあんまり身の上話なんてしたことないが、ありふれた高校生の生い立ちなんて普通話すものでもないはず。
「きっとラーメンは、ヒロくんにゴロウがやってきた理由」
「え?」
「…………につながってるような気がする」
「はぁ」
さすがに気が抜けた。
けど同時に俺は、自分とゴロウが結びついた原因なんて、これまで考えたこともなかったと気づく。
「そうか…」
「え?」
「えーこは少なくとも、川に縁があったんだよな」
「うん」
それなら俺にだってあるのかも知れない。そう予想することは自然だ。自然だが、だからラーメン嫌いから何かが導き出されるかといえば、どうだろう。
「長くて白っぽくてひも状のものが嫌い?」
「サナダムシみたいな表現はやめてくれ」
「熱いお湯」
「まさか」
「化学調味料」
「何にだって入ってるだろ」
「チャーシュー」
「好物だ」
「ぶー」
いや、そこでブーイングされても。
俺だってえーこが望むような発見が欲しいのだ。別に意地悪はしてないぞ。
「ヒロくん」
「………」
「ラーメン鉢でしょ」
「……かもな」
彼女のいつもの自信。別に怖くはない。それどころか、今の俺は予言を求めているような気がする。自分では見つけ出せないものが、自分の中にある。それはゴロウが教えてくれたことだ。
いや、今だってこの身体のどこかに奴は潜んでいる。
確信するだけの理由など、どこにもあるわけはない。ただ、確かに存在したという感触がないなら、消えたという感触もない。どこまでもゴロウは、俺の制御を離れた存在なのだから、まだいるかも知れない。
こういうのを取り憑いてるって言うんだろうか。単なる二重人格? しかし平安末の人格なんて無茶だ。まさか自縛霊…。
「ということで」
「へ?」
「ヒロくんの妄想が始まったのでおしまい」
「う、うむ…」
勢いよく妄想にふけっていた俺は急ブレーキをかけられ、心の中で前のめりになっていた。まさしく、彼女に翻弄されている。好きなだけ詮索されて、好きなように弄ばれて……、そんな関係を、今日の自分は当たり前のように受け入れている。
…いや、それは今日に始まったことじゃない。他人に詮索されることをあれほど拒み続けていた俺なんて、いつの間にかどこかへ消えてしまった。
……それも違うか。
えーこはきっと特別だった。良や千聡に隠してることまで、彼女の前ではしゃべりたくなる。隠したくない。いつか全部話してしまいたい…。
「今日は手強いね」
「…いつもより余計に妄想だ」
「緊張してるから?」
「of course」
「英語は得意だってちさりんに聞いたけど」
「噂を信じてはいけないと教えられなかったか?」
相変わらず不安定な自分。とめどなく続く妄想を振りきるように、目の前の笑顔を眺める。ぼんやりではなく、かなり熱心に。吸い寄せられるように。
今日は特別な日だ。俺は激流に巻き込まれるように、ただ翻弄されていたけれど、それは今日だけの話だと自分に言い聞かせてみる。
…………。本当にそうか? 少なくともえーこには、明日から先もこうやって弄ばれそうな予感。なんだかしまらない未来図が広がってしまう。
けどまぁ、別にいいのかも知れない。相手がえーこなら。
「じゃあ今日はこれで…」
靴を履き替えて、自転車置き場まで歩く。いつもよりゆっくりとしたペースでも、ほんのわずかな距離。騒がしかった一日が急に寂しくなった。
「ヒロくん」
「ん?」
自転車の鍵を開けたえーこは、そのまま立ち止まって俺を見つめる。
その立ち姿は薄暗い景色に溶け込みそうで、だけどはっきり識別出来た。
「お勉強会を開きたい…なんて思いませんか?」
「…………思う」
「今日は無理だけど、明日」
「ああ」
ふっと息を吐いた。明日なら冷やかしの客も減るだろう。けれどそんなことよりも、えーこと約束出来た。それが正直、俺は嬉しかった。
「…橋まで送ろうか?」
「えーと」
えーこがふと見上げた先に、教室を隠す大樹が黒く立ち尽くす。なんだか見られてるような気もするけど、今はそんなことより困った顔のえーこだ。
彼女の表情なら、見なくとも判る。それなのに見たくてしょうがなかった。
「今日はいい。まだ落ち着かないから」
小さな声で答えるえーこは少しだけ照れ笑い。さっきは俺のことをからかっておきながら…と思うが、もちろん腹は立たない。
「…それもそうか」
「ヒロくん」
「え?」
だが、歩き出そうと体をそらし始めた瞬間に突然名を呼ばれ、慌てて元に戻そうとすると、いつの間にか振り向いたすぐそばにえーこが立っていた。そして次の瞬間、左の指先に何かが触れた。
「…………」
「大好き…だから」
ほんの少しだけ触れたえーこの指先から、ぬくもりが伝わってくる。熱くジメジメした夏とは違う、もっと穏やかなもの。
「じゃ」
「…気をつけてな。そのうち雨になるだろうし」
「うん」
暗闇と呼ぶにはまだ早い世界で彼女を見送って…というよりただ呆然として、随分長い間俺は校門の前に立っていた。ほんのわずかな接触でも、正直今の俺には大きすぎる出来事だ。はっきり言えば、足がすくんだ。少しの後悔すらあった。
ゴロウなら―――。
奴はきっと後悔していたはずだ。俺が奴なら後悔する…って、奴は俺だったんだよな。混乱してきたぞ。こういう時は深呼吸だ。
息を吸ったついでに体を左右にねじり、それからお決まりのゴリゴリ。だけど目の前を通り過ぎる車が、せっかくの快音をかき消してしまった。なんだか損をした気分だ。かえって気は紛れたけれど。
いつもの帰り道。コウモリの姿を探して、雲の厚さを知る。明日は間違いなく雨だ。えーこはどうするんだろう。雨の中であの橋を渡るのは危険だ。大事を取ってバスにしてほしい。金かかるけど。
…………。
急に彼女がか弱い存在に思えてくるのは何故だ。
夕方だからなのか、それとも雨だから?
…………。
どれも違うんだろう。
再び頭を支配し始めた感覚。ゴロウは俺の中にいる。今日のすべてを肯定してしまう、言い訳がましい自分はきっと自分じゃない。最後に大きな言い訳をつぶやいて、漆黒のアスファルトを駆け抜けた。




