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川辺の祭  作者: nats_show
攘却
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闇の彼方――祭の終わりと始まり(e08)

 もう完全に日が沈もうとしている夕暮れの川辺。生ぬるかった風は、いつの間にか肌寒いものに変わっていた。

 俺は瀬場と並んだ位置で、黙々と進められていく祭をただ眺めている。何もやることはない。手持ちぶさたなまま、ぼうっとする頭を時々左右に振って、あくびを繰り返しながら見る。ゴロウたちの声を聞く。

 ゴロウとツルの過去が、まるで判らないわけじゃない。少し古くさい口調の上に展開が早すぎて、時々置いてけぼりになるが、大雑把な内容なら覚えている。たぶん覚えていると思う。だけどまるで現実感がない。

 見渡せば、険しい表情の姉貴がいて、よく判らない良がいて、目を閉じたままのショーがいて、泣きじゃくるちさりんがいる。ちさりんの泣き顔なんて、予想外だった。まさかこんな光景になるなんて思いもしなかった。

 泣く機会はいくらでもあった。これでも小さい頃は泣き虫で有名だったし、今だってプロレスの名勝負を見れば涙ぐらい出るはずだ。二人が裏切られ、川に捨てられる物語――――だけど、どこかで俺は違う気がしていたのかも知れない。真面目に考えれば、すべてこんがらがって、結局は何も判らない。


「掛け軸!」

「…は、はい」


 ひとしきりゴロウとツルがしゃべって、そして静まり返った一瞬。姉貴の叫び声にバカ良は驚きながらも、すぐに立ち上がって言われた通りに掛け軸を広げはじめる。そして足元を見つめながらゴロウたちの前に進んだ。ジャリジャリと、奴の歩く音が響いた。

 良は二人の頭上に掛け軸を掲げ、ゆっくりと数回揺らした。それがゴロウの語った話と同じだってことぐらい、ちゃんと俺だって気づいている。俺はたぶん、真剣にゴロウの話を聞いていたはずなのだ。何をやってもすぐ飽きると、姉貴にいつも叱られた俺様が、一応眠らずに聞き通したのだ。昔なら姉貴が頭を撫でてくれた。さすがにこの歳でそれは恥ずかしいが。

 頭上の掛け軸を良が引き戻した時、まだ二人は目を閉じていた。掛け軸が目の前で振られてもなんの反応もなく、ただ静かに座っていた。もう言葉を発する様子はなかった。


「ちさりん!」

「は、はい!」


 再び姉貴の合図で、今度は緊張した声のちさりんが二人に近寄っていく。そばで良は掛け軸を片づけていた。どうやらもう用済みらしい。

 ちさりんはゆっくりと二人の前に近付くと、最初にえーこちゃんの前にしゃがみこむ。右手には何か長いものが握られている。なんだ?


「…焦らなくていいから」

「はい…」


 カチッと音がすると、白っぽい棒の先に火がついた。どうやらでっかいライターのようだ。なんか名前があった気がするが、思い出せねぇ。

 ちさりんはしゃがみこんだまま、えーこちゃんの側に寄っていく。そして一瞬炎が広がり、焦げ臭いにおいがした。気になって近寄ると、燃えていたのは紐だった。えーこちゃんの指から延びた紐だ。

 ちさりんはすぐにハックンの方に寄って、また火をつける。今度はジリジリと音がする。かなり湿っていたようだが、じきに紐は切れた。その間ちさりんは一言もしゃべらず、それどころか息もしてないかのように見えた。

 そんな顔を見ているうちに、思わず俺も息を止めていた。当然息苦しくなって、すぐに口が破裂しそうになる。つくづく俺はバカだと思った。


「ギター」

「ん…」


 姉貴の合図に、ショーがギターを弾き始めた。ただ適当に弦を鳴らしているだけのようにしか見えないが。

 ちさりんはそのギターの前に移動して、今度はギターから垂れ下がる紐に火をつける。ショーは目を閉じて、いつの間にか気持ちよさそうに体を動かし始めたので、紐は激しく揺れている。まるで蚊を見つけた時の父ちゃんみたいに、ちさりんは紐を追い回して、やっとのことで火をつけた。とりあえずショーという男はマイペースだ。こんな状況におかれても、こいつだけは恐ろしいまでにいつも通りだった。


「流して!」

「はい!」


 ギターから延びた紐も切れた瞬間、わずかに船が揺れる。けれどそれだけで流れるわけはない。しゃがんだままのちさりんに良が近寄った。小さなバケツを持った良は、川の水を汲んでは慎重に砂を流す。支えていた砂が流れるにつれて船は傾くが、なかなか岸を離れない。ちょっとイライラする。


「なぁ、こうガッと押せな…」

「あんたはもうワゴンに戻っていいから!」


 …………。

 やっぱり瀬場はバカだ。

 五回ぐらい水をかけた時、半分水に浸かっていた船は、左右に揺れて岸を離れた。ゆっくり前方に漕ぎ出した船は、しかしすぐに方向を変える。小刻みに船首が揺れる。不格好な人形も激しく揺れる。そういえばここは流れが速かったことを思い出した。

 船はそれでも発泡スチロールだから、沈むこともなく流れ始めた。すでに沈みきった夕陽の向こうへ遠く離れていくその姿を、みんな声も出さずに見つめている。ショーのギターだけが聞こえる。

 俺もただぼーっと眺めていた。何も口にする理由はなかった。

 そしてほんの数分で、船は完全に見えなくなった。


「…それじゃ、ショー」

「ん…」


 ギターが音色を変える。急に強く弦を鳴らし始めるから、ぼーっとした頭にやたらと響いた。けれどすぐに、どうでも良くなった。いつものメロディだった。

 ショーは特にいつもと変わりない調子でタニムラを歌う。相変わらず楽しそうじゃないが、しかめっ面というほどでもないショーの顔を、ぼんやりと俺は見ていた。


「あ、起きた!」


 いつもの歌が終わりに近づいた頃、ちさりんの大声にみんな一斉に振り向いた先。そこには薄目を開けた二人がいた。えーこちゃんは、まるで今の自分のようにぼんやりとこっちを見ていた。しかしハックンは、いつも昼寝から起こされた時のような、見るからに不機嫌な顔だった。


「あんた、名前は?」

「カズ。ヤマギワヒロカズ」

「………。隣の御方は?」

「小川悦子です」

「よし! お帰り、えーこ」


 ちさりんの一言に照れ笑いのえーこちゃんを見て、それでもやっぱりほっとする。こんな感情が湧くなんておかしい…と思うが、それを言ったら今日のすべては馬鹿げたことだ。


「祐子さん!」

「なぁに?」


 急に元気になったちさりん。すっかりいつもの大声で姉貴を呼ぶ。河原だから教室ほど響きはしないが。


「祭はこれで終わり…ですよね?」

「そうね、ちさりん頑張ったわね」


 笑顔のちさりんに歩み寄った姉貴は、また肩を抱いて撫で始めた。今度はちさりんも嫌がっていない。緊張感が一気に解けていく。

 結局、どうあがいてもちさりんは撫でられるキャラなのだ…などと意味のない結論が頭に浮かぶ。別にそんな結論を出したところで、俺が撫でるわけじゃねぇからどうでもいいや。


「寒くなったなぁ、祐子」

「真っ暗になる前に撤収しましょ」


 姉貴が言うまでもなく、俺たちは瀬場のワゴンへ歩き始める。持ち物は掛け軸とギターぐらいだから、流してしまえばあっという間だった。

 当事者の二人はあまり元気そうではなかったが、手を貸すほどではなさそうだ。ハックンに手を貸すなんて、セコンドみたいで嫌だぜ。まるで俺は戦ってねぇ……んだ。なんか落ち込んだ。


「ところで祐子」

「馴れ馴れしく呼ぶなバカ」

「バカはねーだろ…はともかくだ、拾いに行かなくていいのか、あれ」

「……あれって何?」


 ワゴンの扉に鍵を差し込みながらつぶやいた瀬場に、ものすごく不機嫌そうな姉貴の声が返ってくる。

 暗闇で聞く姉貴の声はけっこう怖い。昼も怖いが。


「だから、船…」

「アンタはもうどーしようもないバカ! 良!」

「は、はい!」

「こんな大人になっちゃ駄目だからねっ!」

「……は、はい」

「返事しやがんな、俺は今深く傷ついた」

「二分で治る傷でしょ!!」


 姉貴は車に乗った後も怒っていた。いつもなら困った事態だが、今日は別だ。この調子なら瀬場とは今日限りだな。ザマーミソラソ!

 まぁでも、冷静に考えればあれはゴミってことになるから、瀬場の言い方も判らなくはない。だいいち下流の人間がもしもあれを見つけたら、きっと気味が悪いに違いない。大騒ぎになって、マスコミがかぎつけて新聞沙汰…はねぇか。所詮はただの発泡スチロールだし、だいいち良が作った時点であんなものは船に見えるわけがねーんだ。

 どうせならシベリアまで流れていけ、と思う。父ちゃんの話だと、河口に身投げした人はかなり北の半島まで流されるが、海の向こうには行かねぇらしい。それじゃつまんないよな。

 とにかく祭は終わった。だから蚊に刺されるだけのあんな河原はさっさと脱出するのだ。


「えーこ、大丈夫?」

「あ…、うん」


 ワゴンのエンジン音に紛れるように、女子二人の声がする。ちさりんはえーこちゃんの心配ばかりしている。正直、ずっと泣きじゃくってたちさりん自身の方が、俺は心配だったが、他人の心配が出来るならもう大丈夫なんだろう。

 うーむ。俺もたまには我が友の心配でもしてやるか。


「なぁハックン、生きてるか?」

「たぶん」


 ………我が友はやたら素っ気なかった。俺はちょっと不安になったが、それ以上追及する間もなくワゴンがスピードを落とす。なんだよ、もう到着なのか?


「ところで……祐子さん、質問してもよろしいでしょうか」

「妙に礼儀正しいわねぇ、なんか困らせるつもり?」

「ち、違います」


 ワゴンは見覚えのある駐車場に入って、止まってしまう。前の座席で姉貴が指差した先は、特に珍しくもなく面白くもないコンクリートの建物。例の青龍の滝ドライブインだった。


「冗談。元部長に聞きたいことがあるなら遠慮しなさんな」

「はい…。それで、今日の段取りをどうやって考えたのか教えていただけませんか?」

「ふーん…」


 はっきり言うが、俺は非常に不満だった。どうせ姉貴のおごりなんだから――そうじゃなかったらごねてやるぜ――もっとまともな店にしてほしかった。ガキじゃあるめぇし、こんなところで今さら焼きイカ食って帰れるわけねぇだろう。

 さっさと車を降りる姉貴に俺は不満をぶつけた。いや、穏当な提案をした……が、あっさり無視されてしまう。

 というか、運転手の瀬場も続けて不満を口にした。奴だけが同じセリフを口にしてしまったのだっ。だから俺は折れるしかなかった。

 なんで他は黙っているんだ…と思ったが、ちさりんはそれどころじゃなさそうだし、良は言いそうにない。ハックンが戦力になれば…。


「どうしても聞きたいわけ?」

「はい」

「勉強熱心ねぇ。隣の彼女も?」

「え!? いえ、その……」

「きっかけは趣味の不一致、と」

「祐子さーん…」


 ドライブインに立ち寄るのは何年ぶりだろう。小さい頃は、家に帰る途中ここに寄るのが楽しみだった。居心地の悪い実家からやっと抜け出せて、しかもソフトクリームが食えるからだ。

 今日も当然のようにソフトクリームをオーダーした。正確に言えば、それは食堂のメニューじゃねぇから、外の焼きイカ売場の隣まで買いに行かされたわけだが、ともかくこれだけが楽しみなのだから当然だ。

 買い出し役はハックンと二人。全部で五つ、これを二人で運ぶのはわりときついのだが、ほかは動く気配もなかった。

 一歩外に出ると、さっきの河原と同じぐらい寒い風が吹いた。ここだって河原とたいして変わりないのだから当たり前なのだ。うむ。本気でソフト食うのか? 急に不安になって、ハックンの顔を見たが、ハックンはどこを見てるんだかよく判らない表情だ。あんまり役に立たなさそうだ。まぁどうせ中で食うから大丈夫か。

 俺が金を預かっているから、先にハックンが三つもらって中に戻って行く。待ってる間にハックンは「暴れなかったか?」とだけ聞いてきたから、川に向かってブランチャしやがったと教えてやった。ハックンは「当然お前も続いたんだろうな?」と笑っていた。トペで返すのが当然だと俺は自慢げに言った。やってないのに自慢する自分はバカなんじゃないかと思ったが、相手がハックンだからどうでもいい気がした。


「今日のプランはねー、おおよそ行き当たりばったり」

「そ、そうなんですか」


 俺が戻った時、姉貴は両脇に良とちさりんと従えて、解説をはじめていた。


「前例がないから、何をやれば確実なんて判らないでしょ。それとも良くんは、幣でも持って誰かが踊ればいいとでも思った?」

「ま、まさかそれは…」

「そりゃいいな。祐子の…」

「エロボケ野郎は黙ってなっ!!」

「す、すまん」


 必要もないのに話に加わって怒鳴られた瀬場は、一瞬だけしょげて、何事もなかったかのようにソフトクリームをなめた。

 結局オーダーしたのは俺、姉貴、ハックン、瀬場、そしてなぜかショー。並べて見ると嫌な顔ぶれだった。

 だいいちショーはズルズル音を立てて吸っている。俺が昔、姉貴に怒られた食べ方なのに、誰も何も言わないのが腹立たしい。

 瀬場は思いっきり舌を伸ばしてなめるから、気味が悪かった。おかげで黙ってなめてるハックンがまるで渋い俳優のようにかっこいい。おかしい。俺だってかっこいいよな、たぶん。


「魂が紐を伝って移動するってのはよくあるけど、今回はそこにギターもあるから、もしかしたらって思ったわけ」

「…はぁ」

「魂を呼び出す時には、よく弦楽器を使うわけよ。琵琶とか三味線とかね」

「あ、ああなるほど」

「ショーのギターはそういう役割を果たしたんだと思う。あんたには不本意だったかも知れないけど」

「ん…」


 ショーは一瞬姉貴の方を見て、すぐに吸い込み作業に戻った。どうでも良さそうだった。


「太子像は…」

「あー、あれは偶然。こいつの家にあったのを思い出したから、とりあえず持って来いって言っただけ」

「なんだー、それだけなのか祐子」

「そうよ。それがなかったらアンタに電話なんかしないって」

「ぐ、今の一言は俺を傷つけたぞ」

「どうせ一分以内に立ち直るでしょ」

「…ま、まぁそうだが」


 傷ついたとか言ってるが、瀬場は今、猛烈に感動しているはずだ。俺はもうこいつの頭の中なんて手に取るように判るのだ。

 姉貴に相手にされているだけで幸せだ…と、そう説明したくはないが。そう結論付けてしまうと、結局俺もそうなってしまう。

 そりゃあ姉貴に無視されたら楽しくはない。そんなこと、姉弟なんだから当然だろ……………。


「夕方を選んだのは…」

「適当」

「え…」


 ハックンは黙々とソフトをなめる。えーこちゃんも口を開かず、時々思い出したようにコーヒーを飲んでいる。話を聞いてる感じもない。

 まだ少しいつもと違う気がする。プロレスの話をしたんだからゴロウなわけはないが。


「まぁ一般に夕方は魂が抜け出る時間だから」

「そ、そうなんですか」

「まだまだ勉強不足ねぇ、良くんは」

「…すみません」


 いつまで話が続くんだろう。姉貴の声がだんだん苦痛になってくる。

 瀬場を見る…と、いつの間にかマンガを読んでいた。よれよれに波打ってる雑誌は、そういえば入り口の電話のそばにあったな。うーむ。

 ……でも俺は読んじゃまずいか。もう祭は終わったんだし、この会話まで聞き続けなきゃいけないわけでもないんだろうが、瀬場と同じってのがまず嫌だ。それに、バリバリ音の立つマンガなんて、たいてい大昔のものと決まっている。今時平気で「新連載! 川俣先生教育日誌」とか書かれてあるに違いない。わざわざ読む必要はない、ないぞ。


「夕暮れ時は昼でも夜でもないから、不安定だって考え方があるわけ」

「ゆーぐーれどーきーはぁ」

「寂しそうでもなんでもいいけど、それ岩手じゃなかった?」

「ん、んだの…」


 姉貴のよく判らないツッコミにショーが照れる。今さらだがショーって奴は不思議だ。

 あーしかし……、まだマンガに未練が。


「結果的には、元の祭も夕暮れ時だったみたいだし、ちょうど良かった」

「太陽が沈む時間ってことですよね」

「ゴロウの話はそれっぽかったから、たぶんそうでしょ」


 どうでもいいことで悩む間も、姉貴を囲む会話は続く。もう今日の話なんて聞きたくねぇから悩むのに、こんな時に限って頭は冴える。授業中の何倍も鋭く、俺の頭脳は働いている…ような気になってしまう。

 だいたい、夕暮れに何か意味があるなんて言われても困る。

 こっそり告白すると、俺はバカボンの歌を思い出していた。西に沈む夕陽を眺めながら、あの歌は確かに間違っているとしみじみ感じていた。振り返ると相当に情けない思い出だった。


「それで、祐子さん…」


 姉貴の隣でおとなしく紅茶を飲んでいたちさりんが、突然立ち上がった。真剣な顔。姉貴を見つめるその表情に、俺はなぜかたじろいでしまう。

 別に俺に向けられたわけじゃないのに。姉貴は平気な顔してるっていうのに。


「なぁに?」

「祭は………、成功したんですか?」

「……………」


 姉貴はちさりんと無言のまましばらく向き合って、それからふっと横を向いた。

 そこには黙ってコーヒーを飲むえーこちゃんと、ソフトがなくなって手持ちぶさたのハックンがいる。二人とも姉貴に気づいた気配はない。目は開いてるんだが…。


「失敗ってことはないでしょ、たぶん」

「はぁ…」

「それ以上はよくわかんないのよねー、ヒロピー!」

「は、はい」

「あ、返事した」

「……………」


 ハックンは姉貴に呼ばれた瞬間、確かにいつものハックンだった。緊張した顔で返事をした…けれど、やっぱり元気がない。

 そばにいるえーこちゃんは、もっと元気がない。


「二人とも意識は戻ってんのよね?」

「はい」

「えーこも?」

「大丈夫です、祐子さん」

「そう…」


 大丈夫っていうかまぁ、姉貴の名を呼ぶぐらいだからツルじゃねぇだろう。


「いつもと違うって自覚は?」

「多少は…」

「どんなふうに?」

「えーと………」


 姉貴はえーこちゃんを質問攻め。それに対して、ちょっと困った顔で返答するえーこちゃんは、少なくともさっきまで紐でつながれてた時とは違っている。


「気分がちょっと…」

「悪いの?」

「…車酔いみたいな感じがします」

「ふーん…」


 姉貴はじっとえーこちゃんの顔を見つめる。それはまるで、嘘をついてないか確認するかのような動作だった。


「ここで最初に逢った時は、ヒロピーが車酔いだったっけ?」

「…はい」

「えーこは?」

「酔うってほどじゃなかったと思います」


 俺は今頃になって、ここを選んだ理由に気づいていた。姉貴はきっと、はじめからここで二人のことを確認するつもりだったのだ。でもなぁ……。

 軽く身震いをする。その瞬間、ちさりんの視線がちらっと動いて、また元に戻った。

 ソフトクリームをなめ終わったせいだろうが、やはりちょっと寒くなってきた。元々、ここの居心地は当然のように最悪だ。天井には赤っぽく変色した蛍光灯。元は白かっただろうが薄茶色にくすんだ壁には、演歌歌手のポスターとか、盆踊り大会の案内とか、一目で目をそらしたくなるものしか貼られていない。

 どさくさに紛れてもう一つ何か頼もうかな。まだ姉貴にさっきのお釣り返してねぇし。


「今日はいつより長い時間意識が乗っ取られたわけだし、戻りが遅いのは予想の範囲だけど…」

「はい」

「気分はマシになってる?」

「ワゴンに乗った時よりは、かなり」

「そう…」


 姉貴と話すえーこちゃんは、もういつもと変わりなさそうに見えた。元々がちさりんや姉貴みたいにはしゃぐ性格じゃないから判りにくいが。

 もしも姉貴だったら、おとなしいってだけで大騒ぎになるはずだ。一度見てみたい気もする。ほとんどホラー映画だよな。

 姉貴の質問はその後も続いた。ハックンもえーこちゃんも、聞かれたことにだけポツポツと返事していた。えーこちゃんはともかく、ハックンの調子がなかなか戻らなかったのだが、姉貴の結論は車に弱いからというものだった。だらしないヤローだって、ついでだから言ってやった。ハックンは苦笑していた。


「ま、しばらく様子見ね。おとなしく流されたのかどうか」

「…淋しいですね」

「そうね。あんなすごい生きた資料、滅多にお目にかかれないからねー」

「はい」


 軽く皮肉を言った姉貴に、それと判った顔でえーこちゃんが笑う。どうやらすっかり元に戻ったようだ。

 ハックンはまだぼんやりしている。外に出て展望台まで歩いても相変わらずだった。とりあえず吐き気はないって言うから、まぁ俺にはどうでもいいが。車に乗ってからいきなり膝にやられたらしゃれにならねぇからな。

 父ちゃんの言葉で言えば「ションベンカーブ並み」の滝は、もちろんもう見えなくなっている。もちろん音なんて聞こえるわけもない。柵の向こう側はひたすら真っ暗で、どこが対岸になるのかすら判らなかった。


「滝は見える?」

「………」


 姉貴はこの状況でもバカ正直に質問している。ハックンが最初に暴れた月曜に聞かされたのが、ここでツルに逢った話だったことぐらい、俺様が忘れるわけはない。でもこの状況で、正気にかえった二人に何を聞いたって無駄じゃねぇのか、と思う。

 その二人は首を傾げながら柵のそばまで歩いて、すぐにハックンは振り返って首を振った。当たり前の反応だった。

 けれどえーこちゃんは、柵に手をかけたまましばらく動かなかった。もしかして何か起こったのか? 慌てた顔でちさりんがそばに寄って覗き込む。

 ちさりんは数秒覗き込んでから、こっちを向いた。いかにも困ったような顔で、だけど何かが起きたわけではなさそうだった。


「祐子さん…」

「……なぁに?」


 ようやくえーこちゃんが振り向いたのは、たぶん三分ぐらい経った後。苦笑いの表情。けれども、それは普段のえーこちゃんと違うわけじゃない。


「見えそうな気がしました」

「そう…」

「けど、今はちょっと寒いですね」

「長袖でも?」

「はい」


 姉貴はふっとため息をつく。


「じゃ、今日は帰りましょうか。主役は寒がりみたいだし」

「…ごめんなさい」

「どっちにしたって、もうやることもないでしょ」


 姉貴の言葉にちさりんがうなづく。俺も同意だ。というか、なんとなくここに居続けるのが嫌だった。

 ここはまだ、さっきの河原とつながっている。これ以上何も起こってほしくない。さっさと二人を家に帰してしまいたい。


「あらためて、今日はお疲れさま」


 ワゴンに乗り込む前に、姉貴が挨拶をすると、すっとえーこちゃんが前に進んだ。その姿は普段と変わらぬものだった。


「あの、みんなありがとうございました。私とヒロくんのために、こんな…」

「いいってことよ、なかなか面白かったぜ!」

「あれだけ居眠りしといてよく言うわ」

「ば、バカ、居眠りは見物の華って言うじゃねーか」


 せっかくえーこちゃんが頭を下げたのに、瀬場がしゃべってしまったんじゃ全部ぶち壊しだ。結局こいつの話になってしまった。

 …………。

 ハックンは何も言わないな。いつもならさすがに黙ってはいないはずだが。


「では車に…」

「まー、まんづ待だねがや!」

「え?」


 いきなりの大声に、みんな一斉に振り返る。別れの挨拶も終わったし、当然後は車に乗って帰るだけ…なのに、いきなり騒ぎ出した奴。そいつはショーだった。ソフトクリームをズルズル大きな音を立てて吸いやがったショーだった。あとは亡霊のように無言のショーだった。

 ……実際、姉貴に返事したのと姉貴に突っ込まれた歌だけで、あとは一言もしゃべってなかったな。


「なんか用?」

「まんづや、一曲歌わしてくんねがや」

「まだ歌いたいわけぇ?」

「あいだば歌た気ぃさねさげまんづ」


 ショーの要求はいつもとまったく変わらないが、今はさすがの姉貴も呆れている。つーか、もうちょっとタイミングがあるだろ。こんな真っ暗になってから言い出さなくたって。

 だけど姉貴はすぐに返事をせず、少しの間黙って考えている。非常に嫌な雰囲気だ。却下しないという時点で雲行きが怪しい。


「あのー」


 そこに聞こえたのはえーこちゃんの声。その瞬間、俺は腹をくくった。この際仕方ねぇやと覚悟を決めた。

 別にショーの歌が嫌いなわけじゃねーんだ。ただ夜も遅いから、ちさりんとえーこちゃんを早く家に帰さなきゃいけないってだけだ。


「私は…聴きたいです。たまにはちゃんと」

「そう? 物好きねー」

「いつもショーくんには迷惑かけてるし」

「おー、んだがー」


 えーこちゃんはすっかりいつもの笑顔に戻っている。そばではちさりんが何か言いたそうな顔…というか不服そうな表情で立っているが、この際ガンガン聴くのが男の道ってもんだ。

 …うげ、ちさりんは女子じゃねーか。


「よーす、んだばいぐぞー!」

「イ、イエェーイ!」


 思わず声を出してしまう。まさに本能ってヤツだ。血が騒ぐってヤツだ。俺はきっとバカだ。

 しかし、何を歌うんだろうか? さだなんて歌われたら怪談映画のBGMだぜ。


「夏ださげ夏な歌うだわねばねのー」

「と、とりあえずイエェーイ」

「んだば線香花火だがのー」

「えーーっ!」


 あからさまに非難する女の声が聞こえた。同時に二ヶ所ぐらいから。

 しかし線香花火なんて地味だ。思いっきり怪談モードだぜ。打ち上げ花火とかねぇのか? …まぁいいや、足りねぇなら俺が騒いでやる。俺はショーの味方だ。

 見渡すと、姉貴はワゴンにもたれて目を閉じていた。いかにも聴きたくなさそうだ。どうせなら姉貴のそばで騒いでやるか…と思ったが、もう始まったから黙って聴く。すきあらば縦ノリの準備をする。あとは成りゆき任せってヤツだ。


「ふぃとづーふだづみっづぅー」


 う、この歌聴いたことあったな。

 自慢じゃないが俺は曲名なんて覚えねぇからな。歌は一瞬の爆発なんだ、なぁ!


「きみぃわぁーぁせんこぅはなびぃのぉーけむりにぃーむぅせぇたーとぉ」

「ちょ、ちょっとえーこ!」

「え?」


 しかし突然の大声。ちさりんの叫び声に、気持ちよさそうに目を閉じていたショーは歌を止め、そろそろ体が動き始めていた俺も、行き場を失った。振り上げた拳をどうすりゃいいんだ。

 みんなはえーこちゃんの方を見ている。嫌な予感がする。とりあえず暗くてよく判らないから、仕方なく近寄ってみたら、ちさりんやバカ良に見守られて、えーこちゃんが泣いていた。


「…あの、大丈夫です」


 ようやく口を開くえーこちゃん。その声はどこか困惑して、だけどまだ涙は頬を伝っているように見える。


「え、えーと、誰?」

「小川悦子。ツルじゃない…と思う」

「そ、そうなの…」


 ちさりんとのやり取りを、遠巻きに眺める姉貴に気づく。隣にはさっさと思考を放棄した瀬場の顔。なんか、見るんじゃなかったって気がする。


「何があったの、えーこ」

「……気がついたら泣いてました」

「記憶は途切れた?」

「いえ、…全部憶えてます」


 泣くような理由がないことは、はっきりとした口調で答えるえーこちゃんを見れば判る。けれどまだ、終わっていないのか? このまま何事もなくなるはずじゃなかったのかよ。頭が混乱してきた。

 姉貴はポツポツと質問を繰り返す。まるでさっき店でやったようなやり取りで、えーこちゃんも同じように返答する。何も変わった点はない。ただ涙が流れているだけだ。


「ねぇ」

「…………」


 急に姉貴の声が変わる。その顔は間違いなくえーこちゃんを見ているが、何か友だちに語りかけるようにみえた。

 えーこちゃんは、ただじっと姉貴を見つめている。表情はほとんど窺えないけれど。


「今は二十一世紀」

「…………」


 い、いきなり何を言いだすんだ姉貴は。

 わけが判らなくなって周囲を見渡すと、いつの間にかみんな揃って険しい表情に変わっていた。ちさりんも良も、それどころかショーの眉間にも皺が寄っていた。何も変わってないのはハックンだけだ。


「あなたはただ」

「………」

「そばにいたいだけなんでしょ」

「………はい」


 えーこちゃんは小さな声で、だけどはっきり聞こえる声で答えた。

 判らない。いったい何を言ってるんだ。問い詰めたい気分になるが、周囲が同意しそうにないから余計判らない。

 姉貴はえーこちゃんの前に立って、その髪に触れた。二人の身長差が妙に気になって、すぐに無言のハックンが目に入る。瀬場すら真顔で息をのんでいるのに、当事者が無関心なんておかしい。まさか…。


「ゴ、ゴロウ!」

「………俺は山際博一だ」

「そ、そうかよ」


 思いつきはあっさり外れたらしい。それならそれで、腹が立つことに変わりはないが。アホらしくなってハックンのそばを離れようとする…と、背後に人の気配を感じた。

 慌てて振り返る。

 そこにはえーこちゃんが立っていた。いつの間に?


「ゴロウ…」

「…………」

「そんな気がするでしょ」

「さぁ」


 笑顔のえーこちゃんに、今度はハックンも笑っていた。さっきの不機嫌そうな反応と何が違うんだクソ。

 ……………。

 ま、何が違うかは判りきってる。俺は鈍くはないからな。


「どっちにしろ、まだやらなきゃいけないことが多いみたいねー」

「ま、またやるんですか!?」

「ちさりんは勘違いしてんじゃない?」

「う………」


 とりあえず、寒いのでワゴンに乗り込む。乗り込んでも話ならいくらでも出来る。

 姉貴の提案は、単なる反省会だ。まぁ反省ったって、一人ずつ「俺が悪かったっ!」とかいうわけじゃないだろうが。だいたい俺に反省すべきことなどないのだ。ちゃんと言われた通り、ハックンが暴れないか監視を続けた――無駄骨だ――し、二人の話を聞いた。あえて言えば、聞いた話の大半を覚えてないのだが、それは俺に頼んだ時点でしょうがないのだ。あんな長くて難しい話は、姉貴でもなきゃ覚えられないのだ。


「それで、祐子さん…」

「なぁに?」


 助手席の姉貴に向かって、えーこちゃんが話しかける。

 河原を離れてから初めて、いつものように質問した気がする。今度こそ元に戻ったのか?


「あの…、ゴロウちゃんとツルの話はわかりやすかったですか?」

「全然」

「はぁ……、ごめんなさい」

「気にしなさんな、ネヴァーマイン」

「粘っこいのか?」

「あんたは運転手。しゃべるな!」


 最後まで瀬場は相変わらずだった。もう会うことはないだろう。俺様とも、姉貴とも。会うな、頼むから会わないでくれ。

 ………。

 それにしても、なんでえーこちゃんが謝るんだ? しゃべったのはゴロウとツルだ。しかも大半はゴロウだ。あえて謝るならハックンだが、さっきから隣で黙って座ったままだ。おしゃべりというわけじゃないにしろ、どうもなぁ…。


「元気ですかーーーーーーっ!」

「嫌いなのに無理するな」

「やかましい、バカは黙って寝てろ!」

「くっ…」


 ハックンに向けてささやいたはずが、姉貴に聞こえるとは誤算だった。

 それにしても、声を掛ければまるでいつもと変わらない反応が返ってくる。いつも通りなのに、しゃべった後はまた黙って、どこか違う。


「なぁ勝彦」

「え?」


 と、背後から話しかけられた。車も動き出したから、危うくハックンにボディプレスかますところだった。

 声の主はもちろん良。どうも俺は奴が苦手だ。別に危害を加える奴じゃねぇのは知ってるが、思わず身構えてしまう。

 やれやれ。三人の真ん中に座るのは疲れるぜ。


「まだ車に酔ってるんじゃないか」

「………」


 しかし、目に見える形で動揺したつもりだったが、何もなかったように良は話しかけてくる。つくづく今日の顔ぶれはマイペースな奴ばかりだ。俺なんてかなり常識人だ。うむ。


「ヒロは相当弱いらしいからな」

「…ふーん」


 聞こえているはずのハックンは何も答えず、窓の外を眺めている。仕方なく俺も、狭い窓を奪い合う。だけどたいしたものは見えないまま、ワゴンはまず清川駅に着いた。

 ショーはここから最終に乗って帰っていく。時間はまだ早いが、もう駅の周りに人影はない。昼間もないから同じだな。

 実家のばあちゃんはもう寝る頃だ。午後八時には布団に入ってラジオを聴く。ラジオといってもFMじゃねぇから、当たり前のように演歌が流れてくる。雑音混じりの演歌は怖い。思い出すとぞっとする。

 再びワゴンは川辺の国道に戻り、下流へ向かう。一人減ったと言っても、俺たち三人が一番後ろで座ることに変わりはない。二列目の女子と一緒に座るのは、さすがの俺様でも遠慮するぜ。

 相変わらず無言のハックン越しに、窓の景色が流れていく。やがて何となく周囲が広がった気がして、遠くにちらちらと明かりが見え始める。ゆっくりと左右に動く光を見ながら、今さらのように発泡スチロールの船が気になりだした。

 あの船はどれぐらいの速さで川を下るのだろう。随分さっきのドライブインで時間をつぶしたから、もう船はとっくに河口に着いているんだろうか。

 ばあちゃんに連れられて来た時に、繰り返し聞かされた言葉。川の流れは速いと、いくら聞かされても俺には理解出来なかった。走れば俺の方が速いとわめいた。嫌な思い出だ。結局俺は今日一日、そんなことばかり思い出している。明日からはプロレス道に邁進せねばなるまい。レスラーになる気はないから、邁進するってのも変だが。


「ところでさぁ、この車臭くない?」

「わ、悪かったな」

「やっぱオヤジのにおいよねー、ちさりんもそう思うでしょ」

「え、えっ…」

「祐子ぉ、これ以上いじめねぇでくれ~」


 疲れきった車内に、姉貴の声ばかりが響いた。いつの間にかうとうとしていた俺に、それはまるで子守歌のように聞こえた。

 姉貴のガナリ声で眠れるなんて、世界広しといえども俺一人だろう。自慢にもならないことばかり考えながら、やがて本格的に意識が遠のいていく。まるで誰かが歌でも歌ってるようだ。

 ………。

 本音を言えば、自分が役に立ったかなんてどうでもいい。今日は楽しかった。絶対口にすることはないだろうが………。











夜はすべてを一続きにしてしまうから、

道標は途切れがちな息づかい。


だけど、あると思えるならば、

委ねても怖くはない。

海底を漂う砂よりも温かく、

朝日を浴びて佇む山よりも深く。


手のひらほどの深海には一輪の花が咲く。

暗闇を重ねた花びらは、やがて粉々に散っていった。

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