おらほの英雄伝説――攘却へのプロローグ(p8)
川辺の風は今日も冷たい。
……………そんなわけあるか。生暖かくって、かなり気持ち悪い。ただでさえ山に囲まれて狭苦しいというのに、曇ってるから余計湿っぽい。最悪だ。
子供の頃、実家に行くのが嫌いだった。そんなことまで思い出してしまう。
「勝ピー、そのポーズはなんだ?」
「ふっ。主役のつとめだぜ」
「主役ぅ?」
クックック。ハックンなど、今日はただの脇役に過ぎない。
これからは俺様、魅惑の二枚目、清川勝彦の時代なのだっ!
「で、いつまでつっ立ってんだバカ」
「ぐぐ、主役に向かって貴様っ!」
「だからなんだ主役って」
毎度毎度ツッコミの多い男だ。
だいたい、誰のせいでこんな場所にいるか判ってんのか。まずは笑顔でサービスしろ!
「どうも、脇役の小川悦子です」
「え、えーこちゃんは主役…みたいなもんだろ」
そこに顔を見せたのは、今日も可愛いえーこちゃん。うむ、隣のヤローは見なかったことにしてやるぜっ。
えーこちゃんはいつも通りにこにこ笑っている。さすがに今日は緊張しているかと思ったのだが、そうでもねぇのか?
「なら俺も主役」
「うるせぇ、貴様は体だけの超脇役だ!」
「えーこだって同じだろ」
まったく不愉快だ。こいつは普段から、どうにかして俺様を蹴落とそうと、邪悪な企みばかりで生きているのだ。許し難い悪人だ。
それにしても、私服のえーこちゃんは可愛い。白の開襟シャツに青のジーンズ、よくよく考えてみれば姉貴とほぼ同じ格好なんだが、まるで男みたいな姉貴とは比べようがない。
足元を見る。えーこちゃんの靴は、いつもと変わりない。ハックンはきっとハイヒール履いてくるぞとかほざいてたが、全くのデタラメだった。当然だ。こんな場所で履いたら転んでしまうぜ。最初からあり得ないことだ。ハックンは昔から嘘が多いのだ。
だいたい俺はハイヒールが嫌いだ。姉貴は見栄っ張りだから今日も履いて来やがったが、あれを履かれると身長が逆転するから嫌いだ。
苦節十五年、ようやく僅差で逆転に成功したというのに、あんな理不尽な仕打ちはない。だいたい、河原に着いたら運動靴に履き替えたのだ。姑息極まりない。学校の先生なんて仕事に就きながら、未だに卑怯な手を使って俺様に勝とうとするとは、まったく呆れた姉貴である。
「えーこさぁ、その格好暑いんじゃない?」
「まぁ、風があるから」
無駄に熱くなっちまったぜ。
えーこちゃんは長袖だ。確かにTシャツのちさりんと並ぶと少し暑そうに見える。
「日焼け対策?」
「違うだろ」
「ヒロピーごときに判るわけ?」
「当然だ」
脇役ヤローがふんぞり返っている。
こいつ、俺様よりも他人のこと覚えてないくせに生意気だ。
「じゃああんたの回答を聞いてやろうじゃない」
「カダ」
「は?」
「えーと、…今さら言っても遅いけど、蚊に刺されると思うから」
「げっ!」
思いっきりちさりんが後ずさりした。
うーむ、それは盲点だった。油断だった……と、あれ?
子供の頃、河原で遊ぶたびに全身刺されていたんじゃなかったか、俺。
「勝ピーと二人で数を競うがいい、ちさりんよ」
「ぐぐ…」
「そんなひどいこと言わないの。刺されにくい人だっているんだし」
「慰めにもなってない気がするぞ」
自分の腕を見る。相変わらず太くてたくましいぜ…じゃない、まだ大丈夫だな?
やれやれ…と、なぜか視線を感じる。
振り向けば、ちさりんだ。
「あんた体温何度?」
「あ、俺か?」
何度だっけな。確か三月に風邪ひいたから…。
「36.4度ぐらいだった」
「よし、じゃあ近くにいてよ」
「なんでだ」
「そりゃ決まっ…」
得意げに答えようとしたハックンの口をちさりんが押さえ込んだ。
怪しい。むちゃくちゃ怪しいぜ。
「………」
「あ、疑ってんでしょ」
「当然父ちゃん完璧母ちゃん」
「あんた、ヒロピーと私のどっちが信用できると」
「さっきの笑顔は人を騙す時の顔だ。これでもちさりんの表情読むぐらい朝飯前だぜっ!」
「そんなの誰だって朝飯前だ」
「ヒロピー!」
「ぐあっ!」
結局ハックンが餌食になった。主役を奪われた気がして、ちょっと複雑だ。蹴られるのは痛いから嫌だが。
「蹴られた以上は教えてやろう。蚊というものはな、一般に体温が高い方を狙うらしいぞ、勝ピーよ」
「……そ、そういうことか」
「そういうことよ。あんた可愛い女子生徒が素肌の危機に立たされている時に、黙って見過ごすなんてことしないわよねぇ?」
「可愛い女子生徒なのか」
「そこにツッコむなヒロピー!」
「ぐ、ちょっとは手加減しろよ」
また主役を奪われた。悲しい。まるで新日におけるレイジング・スタッフや維震軍みたいなポジションだ。ヒロ斉藤の後継者だ。
それとも、ストロング小林か? 大木か? 猪木破壊か!?
「ヒロくん大丈夫?」
「いやまぁ、アザが出来るだけで命に別状はない」
「はぁ…」
「ねーねー、えーこ」
ちさりんはすっかり脇役の方を向いてしまった。俺は蚊帳の外。寂しい。寂しい。寂しいぞオンドリャー!
「いつから「ヒロくん」なの?」
「え、えーと、……昨日から」
「へー」
「とりあえずそのツッコミは明日にしてくれ」
「なんで?」
「明日になれば判るからだ」
「何言ってるか判んないけど…」
そもそもこんな状況を作ったのはハックンだ。腹立たしい。なんで入学式の日からちさりんと仲が良かったんだ。女子と話すなんておかしい! 間違っている!
…そうだ。昔から俺は、女子としゃべるような軟弱野郎が嫌いで、もちろん高校でも一切女子とは交わらず、正しく清い毎日を過ごすはずだった。
なのにハックンはすぐに俺のことをちさりんに紹介しやがった。そしてちさりんも、なんの躊躇もなく俺様に話しかけて来たのだ。
俺様は、俺様は、………そうして敗北してしまったのだぁっ!!!
「ストレッチ運動とは感心だな」
「違うって。どうせどっかのプロレスラーの真似でしょ」
思わず体が動いていた。
俺様が悩んでいるのに、みんな勝手なこと言いやがって。
「あーなるほどな。誰だろ、越中?」
「言うに事欠いて越中はねーだろ越中は!」
「なんだ勝ピー、越中が好きなんじゃねーのか。UWF勢の前に立ちはだかって名勝負数え歌じゃねーのか?」
「む、そ、それはそうだ。越中さんに罪はなかった」
うむ、八つ当たりは良くないな。サムライシローは偉大なレスラーだ。
違うだろ!
そんなことこの際どうでもいいだろ! 男女が仲良くなると、きっと良くないことが起こるのだ。昔読んだマンガでもそう言ってた。
全部ハックンが悪い。ハックンがいなければ、俺はあの時誓ったことを守れていたはずだった。
「はい、じゃみんな集合~」
「はーい」
姉貴の声が響いた。
ちさりんは手を挙げて走っていく。ふっ、まったくこれだからお子さまは。
「そこのクソガキも来るだけ来い!」
「来るだけとはなんだ来るだけとは!!」
「まぁまぁ勝彦くん、…私たちの監視役よろしくお願いします」
「え、……ま、まぁ、しょうがねーな」
えーこちゃんは優しい。それは嬉しいけれど、でもやっぱり釈然としない。
きっとみんな、俺には仕事がないと心の中で笑っている。こいつがなぜここにいるのかと、俺を笑ってるに違いない。クソッ、クソッ、クソッ!
「えーそれではみなさん、今日は天候にも恵まれ、絶好の…」
「せんせー、それギャグですか?」
「ヒロピー、あんた学校でも目をつけられてるわよー。クソ生意気な生徒だって」
「ぐ…、脅迫された」
そうだ。ハックンは昔から生意気な奴だったのだ。
えーこちゃんがいなかったら、今日だって絶対協力なんてしてやらなかったぞ。絶対。
「ま、ともかくこんにちはということで、ショー!」
「んが?」
「ギターはオッケー?」
「まがしどげー」
「んだがー」
ショーは黒のTシャツを着ていた。別にどこででも売ってる安物だと思うが、どうもいつもと雰囲気が違う気がする。こいつはロックだ。フォークにはフォークのスタイルってやつがあるんじゃないか?
「リョーエーンチサリン、船は?」
「……ばっちりです」
「返事が遅いっ!」
「す、すみません!」
姉貴はこれみよがしに英語を披露しやがる。そういえば昔から覚えた単語を自慢していた。まったく、弟として苦労が絶えないのだ。
…でも、最近は教えてくれない。先生だからダメだって言うが、あれはきっと高校の英語を忘れてしまったからだ。今ならもしかしたら英語のテストで俺が勝てるかも知れないぜ。ふっ。
「あとは…、そこのバカ」
「あ?」
思わず声を出したら、もう一人返事した奴がいた。
姉貴の視線はもう一人の側を向いている。ぐ、どうやら俺は恥をかかされたらしい。ちさりんもハックンも、こっちを見てニヤニヤしてやがる。
「こいつは瀬場って言って、昔の同級生。まぁ、あんたらの先輩になっちゃうのよね、困ったことに」
「困るこたねーだろ、祐子」
姉貴の隣で胸を張る男は、ちょっと小太りで角刈りだ。背は姉貴と変わらねぇな。
「あんたがどれほど優秀な成績だったが教えていいわけ?」
「ガッ、あれはたまたま調子が出なかったってーことよ」
「へー、それで毎回学年最下位を争ってたと」
「祐子ぉ…」
情けない男だった。謎の男なんて勿体ぶるからもっとすげー野郎かと思ったのに、がっかりだ。
ふっと、隣のハックンが溜め息をつく。釣られて俺も息を吐いた。一瞬腕に吹いた風は、思ったより涼しい気がした。
「ま、時々つまんない俳句聞かされるから注意して」
「何言ってんだ。いいか、夏の日にぃ、沓喰ゴロウ、現れる」
「それのどこが俳句なのよバカ!」
「山頭火も真っ青だろ」
時計を見たら、午後四時を過ぎたあたり。なんだか知らないが、姉貴が「時間は夕方がいい」とか言うもんだから、仕方なくテレビも見ずに日曜を潰しているのだ。
「じゃあ準備しましょうか。まずえーこ、あんたたちが座るのはあそこね」
「…あの石がある所ですか?」
「そう、そこにシート敷いて、後は黙って座る」
「はい」
「ヒロピーも!」
「判ってますって」
「ん…」
姉貴が指さしたのは、濁流にほど近い川辺の、ちょっと大きな岩が転がってる場所だ。別に深い意味なんてないだろう。どうせどこだって河原だ。
ここはたぶん、俺と姉貴ぐらいしか――瀬場とかいう物体は知らん――来たことがないはず。このあたりは川が狭いから、岸に降りることが出来る箇所はほとんどなかった。だから川遊びする時は、わざわざ実家から歩いたもんだ。幼稚園に入った頃、姉貴に引っ張られて来た記憶は、今でも思い出せる。
別に楽しい思い出なんてない。
走り出して転んだのと、姉貴がばーちゃんに怒鳴られたこと。早く自分の家に帰りたかった。
「それで、良!」
「はいっ!」
「それ持って移動」
「はいっ!」
良のバカは直立不動で返事してやがる。みっともねぇ奴だ。ちさりんも呆れてるぜ。
………。
なんで笑ってんだよ。
「祐子さーん、行き先は?」
「うーん、ちょっと一緒に歩いて」
「はーい」
白い怪しげな物体を担ぐ良の両脇を、ちさりんと姉貴が歩いて行く。
怪しげな物体というか、いちおう船らしいが、ちさりんとバカ良が二人で作ったのにあんなざまだ。色も塗ってない発泡スチロールのかたまりに、人の形に切り抜いた紙が刺さっている。それも、かなり太い枝を、適当に皮を剥いて紙を貼りつけている。実に不格好だ。すりこぎみたいだ。もっと細い枝にするだろ普通は。
とにかくひどい。あのセンスのなさはきっと良のせいだ。まったく、俺様ならもっと格好いい船を作ったと、自信を持って言える。
だいたい、主砲のない船があるか!
良は非常識なヤツだから、ヤマトも知らないに違いない。ちゃんと俺に頭を下げて助言を求めれば、こんな不細工な物体にはならなかったはずだ。
この白さも気に食わない。そもそもが、発泡スチロールなんて使ったら、火を付けた途端に燃えてしまうし、主砲を作っても目立たない。波動砲もどこから発射されるか見えない。許し難い。まったく許し難いっ!
………。
「この辺かなー」
「はーい」
「紐押さえといてね、飛ばされるから」
「はーい」
なんで俺は見ているだけなんだ。
姉貴は列車の席で一言「何も手伝うな」とだけ言った。しかし目の前で行われていることの、何が俺に出来ないというのだ。
「じゃ、最後にこれ刺して」
「花?」
「ま、百円ショップのヤツだけどねー」
おかしな船に、ちさりんがブスブスと造花を突き刺していく。まるで仏檀かなんかのようで、嫌な気分になる。
葬式みたいだ。姉貴のセンスは狂ってる。
「クックック、今日の祐子は刺激的じゃのぅ。梅雨あがり 祐子の尻に…」
そこに場違いな男の声が響いた。
ぶらぶらしてるだけで、俺以上になんの役にも立ってない野郎が、姉貴にとんでもないことを言いやがったのだ。
「あんたどうせ役に立たないんだから、向こうでバカの相手でもしてなさい!」
「へぇへぇ、そのきつい調子は変わってねーな」
怒鳴られてもニヤニヤしたままの髭面は、なぜかこちらへ寄って来る。ちょっと待てよ、まさか「バカ」って俺のことか? さっきは貴様だったじゃねーか。
「おう弟よ、ちょいと遊ぼうか」
「あんたの弟になった覚えはないっ!」
「まぁそう言うな。いずれ兄になってやる予定だからな」
髭面でニヤリと笑う、瀬場とかいう野郎。本当にこいつが姉貴の同級生で、例の「助っ人」なのか? 近くで見れば見るほど、信用出来なくなっていく。
とりあえず首が太い。背は俺より低いが肩幅は広くてがっしりしている。色も黒い。俺たちとは別の人種に違いない。
「祐子のジーンズ姿なんて滅多に拝めねぇんだぞ。なぁ」
「うるせーなー、姉貴のことそういう目で見るな!」
「なんだ、お前姉貴が好きなのか」
「いや……」
「違うだろ違う。なんたって今日はお前の好きな女の子がふた…」
「ばっ!!」
あわてて口をふさぐ。俺は息切れしそうなほど動揺して、体中から脂汗が吹き出した。
なんでこの男が…としばらく頭が真っ白の状態になった。
「まぁ来い弟よ」
そんな俺を瀬場は無理矢理引っ張って、停めてあったワゴンの扉を開けた。
ちなみにこのワゴンは瀬場のものだ。清川の駅で七人を拾ってこの場に届けてくれたというのが、奴の唯一の仕事だった。
「二人のことは祐子から聞いておる」
「あ、姉貴から?」
「そーだ。祐子はな、貴様がどっちかでいいからうまくいけばと願っていたんだぞ。残念ながら無理だと言ってたがな」
「………」
言葉もなかった。
確かにちさりんの件では相談したことがある。…いや、それだって俺がしたかったわけじゃなく、姉貴にばれてしまったから仕方なく話しただけだ。
だいたい、話したって無駄だ。俺様のような男の中の男――大矢みてぇだぜ――が、他人の女を奪うわけがないのだっ!
「二人を拝むのは今日が初めてだが、祐子が言ってた通りのべっぴんさんだな」
しかしなぜだ。なぜえーこちゃんのことまで。
これだけは姉貴に相談出来ない、そう思っていた。だから全部嘘だと叫んでしまいたい…けれど、残念ながら嘘ではなかった。敗北だ。うなだれるしかなかった。
「しかも性格も明るくて頭もいいときやがる。言うことなしだ」
「………」
「まぁ俺が手ぇ出すにはちと若い気がするがな」
「出すなよ」
「お、まだそんな口をきく元気があったか弟よ」
「弟じゃねぇ、勝彦と呼べ!」
「気難しいガキだな。そういう所は姉譲りか」
姉譲り?
冗談じゃねぇ。俺は姉と似てないことで有名なんだぜ。
頭は似てたほうが良かったが…。
「ま、ともかくあの二人はあきらめねぇとなぁ、勝彦よ」
「よ、余計なお世話だ」
「いいか、祐子はわざわざ貴様を心配してやってんだぞ。…ついでだから俺も、小指の先ぐれぇは心配してやる。次の女を捜せ!」
「だから余計なお世話だって言ってんだろ!」
本気で腹が立って車を降りようとする…が、瀬場にがっちり腕を捕まれていた。
引き抜こうとするがまったく動かない。まさに別世界の住人だ。まるでプロレスラーだ。耳がカリフラワーだったら当たり……じゃねぇな。
「まぁカリカリするな弟…じゃねぇ勝彦よ」
「あんたがカリカリさせてんだろ!」
「女は他にもいるぞ。自分で探せ。お前はそれが出来てねぇ……んだろ? よくは知らんがな」
「………」
姉貴にすべてばれていた。その事実だけで俺は死にたくなった。
とにかく俺は、姉貴の前で女子の話題だけ出すまいと心に誓っていた。実際、ちさりんの件でつっこまれた時も適当にごまかしたし、姉貴が学校に来る時は、ちゃんと知らんぷりをしていた。なるべくハックンを見るように心がけていた。
いた、つもりだった。
「とにかく、横着はいかん。手前で見つけろ。世の中には祐子みてぇな女だっているんだからな」
「なんでいちいち姉貴なんだ」
「惚れてるからに決まってんだろう」
「嫌われてんのにか?」
「お、貴様生意気にも断言しやがったな」
「おう、何度でも言ってやる!」
ムキになる自分はなんなんだろう。
別に姉貴が誰を好きになって誰を嫌おうがどうでもいい。俺はいつもそう思っていたはずだ。だから前の男の時も、俺は写真を見ただけで生理的に受け付けないほど嫌だったが、反対はしなかった。
もちろん瀬場だとしても同じぐらい反対だが、…だけど俺が反対したって、どうせ姉貴が聞くわけがないから。
「勝彦よ、お前は祐子が姉でなかったら間違いなく惚れてたな」
「…断言するなよ」
「断言するぞ。お前にとっては姉が理想の女だ。それが不幸の始まりだったってわけだ」
「勝手に不幸にすんな!」
おもむろにクーラーボックスを開けて、コーヒーの缶を二本取り出した瀬場は、俺の声なんぞ聞いてる様子もなかった。
「まぁ飲め」
「………」
「お前がそうなるのも無理はねぇ。なにせ祐子は胸がでけぇし、性格のきつい所もいい。俺はあいつに朝晩ごしゃがれながら暮らすのが夢なんだよ」
「マゾかよ」
「悪いか」
「悪い。近寄るな」
姉貴は確かに美人なんだ。それは俺だってそう思っている。
けどな…。
「言っとくがな勝彦、祐子にはもう二度ふられてんだ」
「二度?」
「それどころかあいつはな、俺たちとの縁を切ったんだ。高三の秋にだ」
突然瀬場はまじめな顔でこっちを睨み付ける。
「それがどういうことか判るか? 俺は判らなかった。ずっと嫌われた、邪魔だから排除されたと思い込んでた」
「…………」
どうしろって言うんだ。何度ふられようが知るかそんなもん。
「祐子の事情が理解できたのは最近だ。俺はそれほどまでに役立たずなんだと落ち込んだんだ」
「あんたでも落ち込むのか」
「当たり前だ。いいか、俺のこの温和な表情の陰にはだな、まるで水面下で必死に足を動かす水鳥のように…」
せっかく同情しかけたのに、これじゃあな。
もっとも、同情といっても訳が判らない。深刻な話だという想像はつくが、いったい何があってどうなったのか、まるで見当がつかなかった。
……それはとても情けないことだった。まさしく、手も足も出ない敗北。
「まぁともかく、それで先週だ、突然祐子から電話があった」
「それまで連絡取ってなかったのか」
「そうだ。四年半音信不通だった。だから声掛けられた時は嬉しかったぞ。あいつに許してもらえたって思ったからな」
「ふぅん」
だからここに来る理由があった、ということか。
それならやっぱり、俺一人がどうでもいい扱いなんだな。
「まぁ本当に許してもらえるかは今日次第だろうがな」
「怒鳴られてばっかりじゃねーか」
「うらやましいか?」
「…俺だって毎日怒鳴られてる」
「うらやましいな」
「あほか」
コーヒーを一気に飲む。
……無糖だった。俺は砂糖がないとダメなのだ。
「いいか弟よ」
「弟じゃねぇ」
「まぁいい勝彦、もしも祐子に許してもらえたら、三度目の告白してやるぞ、俺は」
「またふられるんじゃねーか?」
「ふられるだろ。そりゃ仕方がねぇが、やらんと俺の気持ちが収まらねぇんだ」
「好きにしてくれ」
「クックック、本当に兄になっていいんだな」
「それは嫌だ」
その瞬間、窓をたたく音。
振り向いたら、ふくれた頬のちさりんがいた。
「もう始まるのに何してんのよ!」
「げ、やべ!」
「また怒鳴られるじゃねーか!」
慌てて車を降りて走る。
川辺の砂利は、走るほどに足がもつれた。これも俺が嫌いなもの。なんで俺は、ばあちゃんにも会わずにこんな所にいるのだろう。だんだん判らなくなって来る。
「遅い!」
「む、すまん祐子」
「馴れ馴れしく呼ぶな! 真似するでしょ」
「そんなこと誰も出来ないと思いますけど…」
えーこちゃんは否定するが、ほかの視線は一斉にとある男を向いていた。
そうだ、こいつはきっと真似するぞ…と睨み付けてやったが反応がない。なんだ、寝てんのか?
「……ゴロウに集中したいそうです」
「なんでえーこに判るの?」
「なんとなく…」
隣でヤツは密かに頷いていた。頷いてるようでは集中とは言えねーぜ。
「でも聞いてるみたいだから、真似するでしょ?」
「…たぶん、するんじゃないかと」
「えーこは何でも判るのねー」
「ちさりんだって判るでしょ、ヒロくんのやることぐらい」
えーこちゃんが苦笑いしてる。みんなの視線が集中するのだから当然だ…けど、なんか釈然としない。ハックンはなんで自分でしゃべらねーんだ。だんだん腹が立ってきた。
「それじゃ、始めましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
えーこちゃんが一人で頭を下げる。ハックンはどうした!
「何かあった?」
「………たぶん」
「確信はないってこと?」
「今日のところはまだ」
「ふーん」
それにしても、姉貴の言葉は相変わらず判らない。えーこちゃんも何を答えているんだ。
「えーと、まず紐」
「はーい」
ちさりんが返事をして、手に持っていた紐を一本、えーこちゃんの指先に結ぶ。それからもう一本をハックンに。で、反対側を…、は?
「なんでそこなんだ?」
「何年経ってもバカねー、あんた」
代わりに瀬場が口にしたから助かったぜ。ふぅ。
しかし訳判んねぇ。ちさりんは二本ともショーのギターに結びつけて、今度はギターから一本の紐を船に結んだ。ややこしい。
「準備オッケー?」
「はーい」
「よし。じゃあ始めて大丈夫?」
「え、ちょ、ちょっと待ってください」
ちさりんが急にそわそわし始めた。なんでだ……って、あー、漫才だった。
うーむ。良がバカだからいつもクソつまらねーんだよな。
「ちさりんも良くんもがんばって。いつも面白いから」
「こんな時に慰めないでよ、えーこ」
「別に慰めてるわけじゃ…」
何度か深呼吸するちさりん。隣のオマケ野郎も同じことをしているが、それは見なかった。どうでもいい。知るかクソ。
「ちさりん」
「うん」
二人が立ち上がって、シートに座る二人の前に並ぶ。
始まるのか?
…………。
…十秒ぐらい経って、いきなり二人はしゃがみ込む。
「ま、聞かす相手の目線じゃないとね」
「おー、そういうことか。頭いいな」
「あんたはもう声出すな。勝彦以下だわ」
「…それはショックだ」
「ショックなのは俺だクソ」
目の前に姉貴の腕。しゃべるな、という意味だった。
なんか俺たち、さっきから邪魔しかしてねぇな…って、何が俺たちだ。瀬場なんてバカと一緒にするな。
「どうもー、良でーす」
「ちさりんでーす」
「なんでちさりんやねん」
…………………………………。
「今日もえー天気でんなー」
「曇ってるやん」
「しっつれーしましたー」
「終わりかよ!」
ハックンがツッコんでいた。集中してたんじゃねーのか。
「あんたらさー」
「いえ」
姉貴が呆れた声で近寄ろうとしたが、さっと良のバカが手を挙げて制した。
こんな時に格好つけんな。
「今のは余興です」
「へぇ」
「まぁ見ててください」
二人とも妙に自信満々だ。謎だ。少なくともさっきのは全く笑えなかったぞ。
「ねぇねぇ良くん」
「ん、なんだ?」
「良くんってどこの生まれだっけ」
「俺か? 俺は遠い北の国から」
「ルールー」
「それ違うだろ、ちさりん」
「違う?」
「だいぶ違う。全然違う。まるっきり違う」
「良くん、いじめてる?」
「いじめてない。ちさりん今日も可愛いぞ」
「うー」
撫でるなよこんな所で。
いちゃいちゃするなクソ! これが漫才なのか!?
「それでね、良くん」
「ん、なんだ?」
「良くんとこに英雄っていた?」
「さぁ、偉い人の話はなんか聞いた気もするけど、英雄なのか」
「そう。四郎三郎みたいな英雄」
「四郎三郎って英雄なのか?」
「英雄だよー。だって町を守ったんだもん」
「どうやって」
「えーとね、木を植えた」
「どっかのCMみたいだな」
「あれとは違うけどー」
「いつの話だ?」
「江戸時代」
「江戸時代って長いだろ、ほら、えーと、芭蕉が来るより前か」
「芭蕉より後だと思う。十九世紀に入ってからじゃなかったかなー」
「へー」
「芭蕉が来たの知ってるなんて、さすが良くん」
「褒めても何も出ないぞ」
「じゃあ撫でて」
「ん、それなら…」
また撫でるのかよ! しつこいな。
これ漫才じゃねーだろクソ!
「あの町は風が強いでしょー」
「おう」
「だから砂が飛んで大変だったって」
「あーなるほどな」
「芭蕉が来た時も砂嵐に遭ったらしいよ」
「象潟行く時か」
「そうそう。小学校の時に習った」
「で、四郎三郎なのか」
「うん。町を囲むように木をいっぱい植えたんだって」
「へー」
「偉いでしょー」
「ん、偉いかも知れないが」
「良くん、納得してないの?」
「その四郎三郎って金持ちだったんだろ?」
「え、そうだけど」
「どれぐらいだ?」
「えーと、子孫の代だったら「せめてなりたや殿様に」って言われるほどだって」
「すごい金持ちなんだな」
「小学校の時習った話だと、明治になってからどんどん大きくなって、農地解放直前が一番金持ちだったらしいよ」
「へぇ、じゃ四郎三郎の頃はどれぐらいだろうな」
「さぁ、神社とか寺の門幾つか建ててるけど」
「なら金持ちだ」
「うー、良くん、だからダメなの?」
どっかの子供向け歴史番組みたいだぞ。全然面白くねぇ。
だいたい四郎三郎は俺もどっかいけ好かねーんだ。小学校の時に、奴が建てたっていう門を見に行ったけど、ちっとも格好良くなかったし。
「ヒロん家に行く時に松並木があるよな」
「学校の近くまで続いてるやつ?」
「あれも四郎三郎なんだろ?」
「そうそう」
「そこまでして町を守りたかったのは、なんのためだ?」
「え?」
「商人で大地主なんだろ」
「うん」
「ということは、自分の商売に必要だから金出したってことにもなるよな」
「え、……まぁそうかも知れないけど」
「しかもその金は元を辿れば四郎三郎の金じゃないんじゃないか?」
「そ、それもそうかなぁ」
「なのに英雄なのか?」
「うー」
「農民から巻き上げた金で自分のためにやったことを、必要以上に褒めてるってことじゃないか」
「確かに自分のためなんだとは思うけど……」
むむむむむ。なんかちさりんがいじめられると腹が立つし、話の中味はバカ良の方が正しい気がするし…。
「けど町のためになったんだから、ダメってことはないと思う」
「ダメだなんて言ってないって」
「じゃあ英雄」
「それは飛躍してるだろ」
「飛躍してる?」
「そりゃあ…」
「でも英雄は必要なの、それがないと町が一つになれないから」
「そうなんだろうか」
「トーキョーヘハッ、モーナンドモ」
「うっ…」
「そういうことなんじゃないかな、良くん」
「むむ、しかしマイペースは勘弁してくれ」
「じゃあどうするの?」
「…もしかして代わりが必要だと言いたいのか?」
「うん」
「そうだなぁ…」
「いるじゃない、もう逢ってる英雄が」
「逢ってる英雄?」
あくびが出た。
隣の瀬場は目を閉じたまま。決して「漫才」に集中しているわけではないと断言出来る。出来るがついでに試してみよう。
肩をぐっと押す。
ジャリジャリ音を立てて、バカがよろけた。ふっ、俺の勝ちだな。
「ゴロウちゃん」
「ゴロウちゃん…」
「この辺の英雄なんだって」
「…何をした英雄なんだ?」
「さぁ」
「ちさりんも知らないのか」
「だって教えてくれないから」
「誰が?」
「良くん」
「俺が教えるのか」
「まさか」
「あのなー」
「ゴロウちゃんか、ツルさん」
「要するに本人か」
「一番確実だと思わない?」
「そうかも知れないが…」
「もしかして当人だと信じてない?」
「そ、それはないが、当人は英雄だと思ってないかも知れないぞ」
「まぁそれはそうかもねー」
「じゃあどうする?」
「良くんが教えてあげたらいいんじゃない?」
「何を」
「あなたは良くんの英雄だよーって」
「俺の英雄なのか?」
「じゃ、リョーエーンチサリンの英雄」
「うーむ」
「まだダメ?」
「ヒロエーンドエーコも入れとこう」
「ヒロピーエーンドエーコもかぁ」
「なんか今違ってなかったか?」
「気のせい気のせい」
あー眠い。俺の名前なんていくら待っても出てきそうにないから、何をがんばって聞いたらいいのか判らない。
結局、何を言いたいんだ? これも覚えておかなきゃならないのか?
「さぁみんなで呼んでみましょう、ゴロウくーん!」
「それじゃ幼稚園だぞ、ちさりん」
「男はいつになっても子供なのよ」
「誰の台詞だ」
「オリジナル」
「嘘つけ、ちさりんにどうやって男が語れるんだ」
「えーとねー、お父さんでしょー、良くんでしょー」
「あーもういい。ちさりんに聞いた俺がバカだった」
「良くんは女を語れるの?」
「語れないし語る気もない」
「私は?」
「ちさりんは女じゃないぞ、女の子だぞ」
「ひどいわ、私の体をもてあそんでおきながらあなたって人は」
「いつそんなことした!」
「ついさっきも頭なでた」
「それは互いの了解があったからだろ!」
「それはそうかも知れないけど、ゴロウは?」
「いきなり話戻すな」
「だーって、良くん話長いんだもん」
「人のせいにするな人のせいに」
「それで、どうするの?」
「決まってるだろ」
「盆踊り?」
「ジョニーで踊るのか?」
「無理」
「なら言うな」
「普通はもっと他に思い浮かぶ歌手がいると思う」
「誰だ?、まさかマイ・ペースって言うなよ」
「残念」
「そっちの方がよっぽどおかしいぞ」
「まぁどっちもどっちということで」
「では冗談はこのぐらいにして、行ってみようかショー!」
「お?」
「お、じゃないでしょアンタ、さすらいのフォークシンガーはノリが悪かったらおしまいだって」
「それじゃもうおしまいじゃないか」
「おめがだまんずおいどごなめっだんねがー」
「どうすんだちさりん、ショーが怒ったぞ」
「ファイヤー!」
「今時大仁田なのか」
「ではご近所でも評判のモボ、鮭川ショーが心を込めて歌います、曲はショーローナグワシ!」
「思いっきり演歌のような気がするぞ」
「んだばいぐぞー!」
「いいのか、それで」
川辺にギターの音が鳴る。学校の土手でやった時と何が違うのか判らない。強いて言えばバカ良が気持ち悪いぐらいよくしゃべって、ちさりんが笑ってる…。
俺はこんなものを見るためにここに来たのか。
俺にとっては何一つ望んでいないことを、眺めるだけなのか。
ハックンは寝てるのか? 邪魔してくれないのか?
「ちゃーらーぁちゃららららららぁーらぁ」
「バイオリン付きか」
「今日のショーはひと味違うでしょ、良くん」
「ちさりんが自慢することじゃないぞ」
「ちゃらーりーらーりーぃらぁぁぁーー」
「こん平みたいだ」
「それだけは言っちゃダメ」
ずっとショーは味方だと思っていた。それなのに目の前でおかしな声を張り上げる。
ファイヤーッ!
………。
そんな古くさい決めゼリフをちさりんに教えたのは俺なのだ。確かまだ四月、ハックンとプロレスの話して盛り上がってたらちさりんに話しかけられた。俺はサービス精神にあふれた男だから、思わず「破壊なくして創造なし!」とやってしまった。そしたら、やたらと受けが良かった。
一週間、毎日ネタを披露した。「サササ、サイコー!」「いっちゃうぞバカヤロー!」「これが宇宙のパワーだ!」に始まって、果ては女子プロのマイナーネタまでやったが、どうしても抵抗のあるネタがあった。例の「元気ですかーーー!」「ダー!」と「ファイヤー」だった。
俺に言わせれば、どっちもテレビに出過ぎている。それも真剣勝負じゃねぇところでのこのこ現れて、ヘラヘラ笑って「ダー」なんて許せない。「ハッスルハッスル」とか「3、2、1、ゼロワン」にすらもとる。
「ファイヤー」はハングリー精神を忘れている。暴露本野郎を秘書にして飯食わせてるのも腹立たしい。俺はあんな奴をレスラーとは認めない。
………。
それなのにちさりんは…。
「ぅああーなたのきょーねんのぉおーもいでがぁー」
だいたい、この歌手はハゲだ。ハゲ。どうしようもないハゲ。テレビに映るたびに、姉貴は髪の毛が減った増えたとチェックしていた。
一時は大きく広がった額が、最近は年々狭まっている。それはかつらに手を出したからだと、帰省した姉貴が誇らしげに指さしたことがある。俺がみっともねーと叫ぶと、姉貴は喜んで頷いた。それは今でもいい思い出だ。
姉貴はやっぱり嫌いだったんだろう。俺も嫌いだ。ハックンも嫌いみたいだ。もっといい曲があるはずだ。青コーナー…はやめとくか。あれも姉貴にバカにされた。姉貴はなんでもバカにするから困る。
「すえーーんこうふあぁーーなびぐぁみぃーえますくぁー」
みんな黙っていた。
ちさりんとバカ良はじっとギターを見つめて、姉貴は目を閉じて、そしてえーこちゃんとハックンも眠ったように静かだ。歌を聴くときは、無理にでもノリノリであるべきだ。そんな俺の哲学に反している。
けれどいつものように体がうずうずしたりはしない。なぜだろう。緊張している? それは確かだな。
やり場のない視線を、瀬場に向ける。
瀬場は見事に寝ていた。そのだらしない表情に一瞬ほっとするけれど、次の瞬間には自分を奮い立たせる。こいつと一緒だけは嫌だ。
「そーしーてーあーぬぁーたぁーのぉー、ふーねーのーあーとおぉーーーー」
あっ!
船じゃねーか、これ。
そうか、それでこの歌なのか。なんだ、今まで気づかなかったのはなぜだろう、こんな簡単なことだったのになぁ。
急に気分が晴れやかになった。ショーが歌い終わったらみんなに披露してやろう。きっと俺様の鋭い推理にみんな恐れ入るに違いない。アッハッハ。イッヒッヒ、ウッフッフ。
…ん?
待てよ、確か最初の時はさだはさだでもこの曲じゃなかった気がするぞ。おかしい。まだ俺を騙そうとしているな。
「ちゃーらぁーちゃらららら」
結局、ショーは最後まで歌いきった。初の快挙だ。別に聴きたいわけじゃないからどうでもいいが。
みんな黙って聴いていた。何も起こらなかった。なんか損をした気がする。
「はいっ、すばらしいですねー、感動しましたねー」
「それ映画だろ、ちさりん」
「そんなことないよ、ねー?」
「………」
一瞬、ちさりんの顔がひきつったのが見えた。
それどころか、俺自身も確実にひきつっていた。それは冷静に眺められる光景ではなかった。
「お二人さんも喜んでくれたかなー?」
「今度は歌のお姉さん?」
「歯ー磨いたかー?」
「そんなことより元気ですかー、だろ」
「良くん冴えてるねー」
「あほか」
相変わらずのつまらないやりとりだけど、ハックンとえーこちゃんが泣いている、それしか目に入らない。
そうだ。泣いてるのが本当にハックンたちなのか判らないけど。ハックンが泣くなんて考えられない。えーこちゃんなら、……どうなんだ?
あーもういいや。早くどうにかしてくれよ。
「ア…ア……」
その時、うめき声がした。
ハックンだった。ハックンの口が開いていた。
「あら、お目覚めですかー」
「こんな時間に起きるなんて寝ぼすけさんだな」
「良くんは意地悪さんですねー」
「俺まで子供扱いなのか」
「アー、アア…」
声を出すのはハックンだけ。
いや、こんな声はハックンじゃねぇ。ハックンだったら明日学校で会うのが怖いぞ。
「アアア…」
「今日はずいぶん元気ですねー」
「ターザンみたいだな」
「良くん、喩えが古いと思いまーす」
「小学校の頃、夕方のテレビでやってたんだよ」
「アー、アーー…」
「じゃあ良くんはターザンごっこで遊んでた?」
「鉄棒ぶら下がってやってた」
「すごいねー、やっぱり都会は違いますねー」
「バカにしたな、ちさりん」
しかし、いつまで続ける気なんだ? もうとっくにおかしくなってるのに、これ以上無駄話聞かせたってしょうがないだろう。
最初から役に立ってるのか判らないが。退屈だ、ハックンはアーアーばかりだし。
……あれ?
ハックンがおとなしくなったぞ。
「それではいよいよ、本日のメインイベント、時間無制限一本勝負を行います!」
ちさりんのコールは思いっきり、俺が教えたケロの真似だった。
「赤コーナーから、クツバミゴロウ選手の入場です!」
「もう入ってるって」
「あ、そうか」
「ちさりんは相変わらず困った子だな」
「じゃあ撫でてー」
「それは後で」
「ちぇ」
オラオラ、ここまで盛り上げて茶番は許さねぇぞ!
蔵前の暴動が待ってるぞケロめ。
「またぐなよっ!」
「良くん、それ違う」
「あ、そうか、よし」
「ァ………」
「おい、お前平田…」
「良くんしつこい!」
「おう、正直スマンカッタ」
「ァ…ァ……」
つまんねーぞ良。
所詮貴様は本当のプロレス者じゃねーんだ、引っ込んでろ!
「おい、お前は誰なんだ!?」
その瞬間、突然バカ良の声が響く。こいつがこんな大声でわめくのは初めて聞いた。
もちろん相手は、ハックンだ。
「誰だ!、お前は誰なんだ!?」
「我は…」
そしてその絶叫に反応するように、聞いたことのないドスの利いた声。
目を閉じたままのハックンが、バカ良の方に体を向ける。もうこれはハックンじゃない。間違いなくハックンじゃない。
「我が名は…、沓喰五郎なり」




