斯界転生譚
七月になろうとする土曜日は、俗に言う梅雨の季節。なんといっても中津国は雨に弱いことで天上界的に有名だから、天気予報だけはマメにチェックしていた。
午前七時。起きなくてもいい時間に目覚めて、慌てて窓を開ける。雲は若干あるが、おおむね青い空が広がっている。実に爽やかな朝…ではないな。
まだ朝なのに暑い。洒落にならない。これから外出かと思うと気が重くなる。
…それでもまぁ、橋の上は風が強いから、多少はマシだろう。思い直してさっさと準備を済ませると――何もすることはないけど――、一時間前には家を出た。友だちとテスト勉強をすると、実に罪深い嘘をついて。
そういえば今日は両親の機嫌が良かった。我が親ではあるが、その思考回路は謎である。親に内緒でゴロウやってる自分の方がよっぽど謎だろうけど、ゴロウとは出来れば祭をもってきれいに別れたいと考えている。従って、近々隠し事のない息子が誕生するはずだ。
………。
違うか。隠してることは沢山あるよな。
「よ、おはよう」
「おはよう。早いね」
「お互いな」
「…そのようですね」
今日の彼女は夏だから、真っ白なシャツにジーンズ姿。教科書が入りそうなカバンを手にしていて、頭にはリボンが…ない。うむ。
時刻はまだ九時半。橋のこちら側、いつかジュースを買った自販機の前に立っていた彼女を、まずはじっくり観察しておく。ちなみに、ここは俺が指定した場所である。判りやすいし、どうせ何か買うだろうから一石二鳥というものだ。
「どう?」
「どうって、何が…」
しかし安心した次の瞬間には冷や汗をかいていた。いやー俺はすごい、素晴らしい、アンビリーバボー!
「ちさりんなら気づくのに…」
「ま、待て! それは誤解だ」
「どこが?」
「気づくかどうかは相手によるのではない、偶然だ!」
「………………」
ちっとも納得していないようだった。
しょうがない――というか手詰りになって、肩を回す。ゴリっと音が鳴った途端に、一休さんみたいにひらめけば良いのだが、残念ながら少しだけ気持ちよいだけである。
「これ、何センチ違うんだ?」
「5センチぐらい」
「へぇ、そんなに高くないんだな」
「ごまかしてる?」
「疑問を抱いたのは事実だ。俺は履かないからな」
「ふーん」
気まずい空気が流れるけれど、この際ごまかすには正攻法しかない。さっと彼女の隣に立ってみる。
彼女はいつもより足が長かった。元々長いと思うが、それは確認出来た。
…けど、実は隣に立つと当然ながら彼女の靴が見えない。それに、ここで背比べをして何か意味があるのだろうか。自販機に傷でも付けるのか?
「気が済んだ?」
「済んだ。どうでも良かった」
「バカ」
それでもなんとなく機嫌が直ったようだから、自販機に向かう。
一瞬躊躇したが、日本茶のペットボトルを二本選択していた。
「つまらぬものだが献上するぞ」
「あ、…ありがとう」
「買収ではないと思うが良い」
「そう言われると思ってしまうものです」
もう彼女は笑顔だ。
それは見れば見るほどに不思議でしょうがないもの。なぜ俺なんかを相手にして笑えるのか。もしかして後ろに誰かがいて、彼女はそいつに笑顔を向けてるだけなんじゃないか、そう思いたいほどに。
…その俺じゃない誰かの名は、ある時クツバミゴロウと名告っていたかも知れない。
「すぐ行くか、橋に?」
「たまに下から見るのも…」
遠慮がちになされた彼女の提案は、俺には意外だった。
もちろん橋の上から中津国は遠いし、それ以上近寄るのは投身自殺するしかない。けれど、河原に下りたらほとんど何も見えないはずだ。
「まぁキミに任せるよ」
「適当な人だ」
「適当ってのはちょうど良いってことだ」
「ぶー」
ちょっと唇を尖らせて、彼女が自転車に乗る。
それにしても、身近にブーイングなんてする人間はいなかったから、まだ少し新鮮だ。それが自分に対するものだったとしても、だ。
「あれ、結局橋なのか?」
「黙ってついてきなさい」
「ぶー」
「真似しないで」
「いいだろ、減るもんじゃなし」
とにかく、堤防から当然河原に下りるものと思ったが、彼女はそのまま進んでしまった。任せると言った以上仕方がないので、後を追う。
揺れる髪とリボン。ぼーっと見とれていたら、車道に落ちそうになった。これは危険だ…と、視線を橋の下に移すと、河原にぽつぽつと人の影が見える。またジョギングの老人だろうか。
すぐに一面の藪となった眼下は、やがて冷たく光る水となる。そして中津国の登場だ。
……が、彼女の自転車はいつものポジションを過ぎ、そのまま先に進んでしまう。なんだか釈然としないまま後を追った。
結局自転車は橋を渡りきって、そこから堤防を下りた。要するに、川の対岸から見るという話だったわけだ。
「ここで自転車停めて」
「…そりゃそうだ」
河原の砂利道は程なく途切れた。まさか葦原を突っ切るわけにもいくまい。
川の左岸――自分のイメージではむしろこっちが右だが、川は上流側から左右を決めるらしい――は、右岸に比べると人の手が入っていない。河原にありがちな公園やグラウンドや畑はどこにもない。辛うじて砂利道はあるけど、他に人の作ったものの姿はなく、もちろん人間もいない。一人では危険な場所だ。
彼女はゆっくり歩き出す。が、すぐによろけた。
「危ない!」
「だ、大丈夫」
幸い転ぶまではいかなかったが、はずみで靴が脱げた。
「………」
「なぁ、その…」
「あなたの言いたいことは判っています」
「なら…」
「今日は許してください、…お願い」
悲しそうな顔。そんな表情で許せと言われたらどうしようもない。
でもなぁ。こういう場所に向いてないのは明らかなのだ。履きたいなら他の行き先だってあるだろうし、無理にこだわる理由がまるで判らない。
「カバンは俺が持つから」
「…うん」
彼女は相変らず、ふらふらと前に進んでいる。俺はとりあえず、彼女の前方を注視しながら後を追った。川に落ちたら困る。それは非常に困る。
「はぁ……、着いた」
「そ、そうか」
正直、もう場所がどこかなんてどうでも良かった。これ以上彼女が先に進まないならそれで十分なのだ。
彼女は足元を確かめると、ゆっくりとしゃがみこむ。5センチ高い靴の前方30センチほどを、水が流れている。もちろんそれは濁った、汚らしくさえ見えるもの。彼女の右隣にしゃがみながら、まだどこか俺は不安を感じていた。
「…まぁ確かに見えるか」
「見えるでしょ」
濁った流れの向こうに中津国が見える。
まるで高さのない国は、そのまま流れに消えそうな危うさだ。
「今はすっかり緑の国」
「きっと蚊が山のようにいるぞ」
「それならここだっているでしょ!」
「…ま、まぁな」
どうも中津国に冗談は禁物らしい。
とは言っても、やはり俺には彼女が見るような形では見えないのだ。
「…昔話をしてもいい?」
「大いにやってくれ」
「お昼は食べなくていいの?」
「だから言葉のアヤって奴だろ」
しゃがみ込んだまま、彼女は少し靴を動かす。ほんの数センチすらぎこちないのは、ただ履き慣れないからだろうか。合ってないんじゃないか、もしかして。
数回砂利の音が鳴った。相変らず疲れそうなポーズ。それでもさっきより多少はマシになったような気もするが…。
「シートでも持って来るんだったな」
「あ」
何気ない俺の言葉にさっと反応した彼女がカバンを開けると、そこからまさしくレジャーシートが現れた。まるで四次元ポケットのように神秘的でもあった…けど、照れ笑いの彼女にやっぱり呆れる自分がいる。
「ごめん。うっかりしてた」
「…いや、実害はなかったからよしとしよう」
「うん」
彼女の足元に気をつけながら、シートを広げる。特に珍しいものでもない。とりあえず広げた範囲で、座って痛そうな場所がないことを確認してから、彼女を促した。
それほど大きくない面積の左側を選んで、彼女はよろよろと腰を下ろす。とにかく危なっかしい。
「…それは脱ぐだろ、普通」
「うん…」
数秒悩んで、やっと靴を脱ぐ彼女。端から見ただけでも、履いたまま座るなんて無理がありすぎる。ここまでこだわるのか…。
「ではどうぞ。狭いところですが」
「お邪魔致す」
注意深く、右半分に腰を下ろす。
彼女との距離が妙に近くて、緊張してしまう。なんだろう、どちらかと言えばそういう意識なしに話が出来たはずなのに。
葦原は絶え間なくざわめいている。流れてくる草の匂いで、なんとかごまかそう。
「小さい頃、よくここに来たの」
「こんなところにか?」
「うん。…ここなら誰も追って来ないから。追って来るって言っても、誰もそんなことしないけどね」
「………」
生暖かい風が吹く。
今年の梅雨はさして降らないまま明けそうだって話だ。いつまでもここには居られないだろう。
「お父さんはね、酔っぱらうと私の悪口言って回るの。ご近所でも有名でした」
「はぁ…」
「まぁそれはみんな判ってたから、慰められることも多かったけど」
「でも当の娘はそれが嫌だったわけだ」
「…よく判りましたね」
「そりゃあな」
彼女がどういう性格なのか、今さら判らないはずもなかった。
もっとも、無意識のうちに俺は自分を近所の人たちと対抗させていたのかも知れない。
「なぐさめられて、あんたの親はおかしいって言われても、家に帰れば責められるのは同じ。そんなお父さんをもちろん理解出来なかったけど」
「…ふうん」
言葉を探す自分。下手な相槌をすれば、俺も近所の人たちになってしまう。
彼女は自分を責めたかったのだろう。それはなんとなく判る。今目の前にいる彼女は、やはり意味もなく自分を責めて、自分を捨てたいと口走る。それが正しいといわんばかりに。
「学校では、ここは危険だから行かないように言われてた」
「そりゃそうだろう」
「うん。だから不良だな、と思った。ここに来るたびに、見つかったら怒られるとびくびくするのが、でも好きだった」
「そうか、悪い奴だったのか」
「うん。良い子は来ないの」
それじゃあここにいる俺たちは悪い子だったんだな、と彼女の表情を窺って、すぐに視線をそらした。
彼女は当たり前の笑顔でこちらを見つける。その笑顔は、だけどいつもより少しだけ近くにあったから、どうしようと困ってしまったのだ。
それはまるで悪い子のようだ。緑の国を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「とにかく父親が好きだったわけだ、キミは」
「…うん」
それは自分なら…という想像ではない。俺がもしもそんな親をもったなら、きっと同情をかいながら親を責めていただろう。俺は臆病者だ。自分を正当化出来るチャンスを逃すはずがない。
「離婚が決まった時も、別にそのことはわりとどうでも良くて」
「……どうでもいいのか」
「もうダメだってのは判ってたから。親戚が別れさせようとして、おかげでお父さんも毎日荒れ放題で」
「………」
「お母さんに暴力をふるうなんてことはなかったけどね」
「娘には…」
「それもまぁ、あなたが想像するようなものではないです」
返答に困る。想像するといっても、せいぜいテレビドラマみたいなものでしかないから、それなら自分でも嘘のような気がする。
だいたい、今の彼女が語る過去は、きっとその時のものではない。高校生になったから理解出来るようになったことを、俺も高校生だから聞くだけだ。
「チビとかガキとか呼ばれても、別に悲しいって感じはないでしょ? 言葉だけ聞けばね」
「そりゃ、それぐらいならな」
「たとえそれが、汚いものみたいに扱われても、親だから」
改めて彼女の姿を見る。背景の灰色と緑と青に溶け込む白いシャツ。何も特別な服装ではない。…というか、こんな場所だから汚れるのも覚悟していたんだろう。靴を除いては。
「お父さんはきっと、お母さんが歳をとるのが怖かったんだと思う」
「…それは娘を酷く扱う理由になるのか?」
「………私に聞かれても困るけど」
苦笑いの彼女は、脱ぎ捨てた靴を置き直す。
もっとも、別に乱雑に脱いだわけではないから、傍目には何も変わらない。もしかしてこの靴が何か関係あるという意味だろうかと思った…けれど、そこをつなぐ思考は働かなかった。
「離婚が決まってから、お母さんの実家に移るまでは地獄のようでした」
「もう別居してた…わけじゃないのか」
「きっちり一緒に住んでました。お父さんは夜遅くに酔っぱらって帰るから、一緒に御飯は食べなかったけどね」
「ふぅむ」
まるで理解出来ない…と言ってしまえば楽なのだが、そうもいかないのはやはり対抗心なのだろう。必死になってその時の状況を思い描いてみる。
…でも、無茶だ。彼女の推測を含めれば、最後まで一緒に住み続けたことはまだ理解出来なくもないけれど。
「それで、お父さんが何度も口にしたのが…」
「お前のせいで離婚させられた、か」
「うん」
思わずため息をつく。
もしかして、俺は怒るべきなのだろうか、とも思う。いや、普通は怒る場面だ。
だけどそれは出来ない。彼女が好きな親の言葉を、どうやって非難したらいいというのだ。
「結局、実家に行く前日になって、お父さんは追い出されました」
「……母親はそれで良かったのか?」
「もうお母さんの意志でどうにかなる状況じゃなかったと思う。親戚から借金してたし、他に女の人もいたし…」
「はぁ…………」
やることもなくなって、肩を鳴らす。隣で苦笑する彼女の髪には、相変らずリボンが揺れていた。
「やっぱりどうしようもない親にしか聞こえないでしょ。これでもがんばってみたんだけど…」
「努力してることは十分伝わった」
「…ありがとう」
虚しい努力にしか思えない…けれど、少なくとも俺は父親を非難出来なくなっているのだからそれなりに意味はあるのだろう。
「それで、お父さんがいなくなった最後の日に、やっぱりここに来たの。親戚と一緒にいると落ち込むだけだったし」
「………」
「そうしたら、船があった」
「…そこで船だったのか」
「そう、小さな船。すごく派手な飾り付けがいっぱいあって、きれいだった」
ざわざわと揺れる葦原に囲まれながら、じっと中津国を見つめる彼女。
そこは眺めるだけの場所ではなく、辿り着く術があった。今さらのように、この国が彼女の過去とつながっていることを感じる。
「思わず駆け寄って、私はそのまま乗ってしまいたい、と思った。夕陽がきれいで、船も赤く染まって、これに乗ったら逃げ出せると思って…」
「………」
「でもやめました。お母さんと離れるのが嫌だったから」
「賢明だな」
おどけた調子の彼女に、つられて笑う。だけど一方では、さっきここに到着した時の不安定な彼女をも思い出した。
あのまま一人だったら、どんなことになっただろう。決して子供の頃と同じではないけれど、もしかしたらあそこに行きたいと思うかも知れない。突然、彼女ではない誰かが意識を奪うことだってあり得るのだ。
…行かせてたまるものか。
「で、実家で数年を過ごしたキミだったが、居心地は悪かった、と」
「別に悪いってことはなかったけど…。山の方だったから、空気はいいし水はおいしいし」
そう言って、彼女はうつむく。
空虚な褒め言葉は、却って対象を貶めるものだ。
「やっぱり生まれた町に住みたいもんでしょ?」
「え、…まぁそうかな」
「だから戻りたかった。お母さんは再婚話ばかりで嫌になったって笑ってたけどね」
それは去年の春だという。離婚の日付がよく判らないが、五年ぐらいは実家に住んでいたのだろう。決して、すべての景色が変わってしまうほど長い月日ではない。しかし小中学生にとっては十分長すぎる。
「そうして今度は楽しく暮らせればいいなって思ったら、記憶が飛ぶようになったわけです」
「…こんな言い方はダメなんだろうが、踏んだり蹴ったりだな」
「別にダメじゃない。好きに思って、好きに言ってくれればいいから」
「そうは言ってもなぁ」
また肩が凝ったが、何度も同じことはしたくないのでぐっと両手を伸ばす。
伸ばした腕の先にある国は、静寂を保っている。何千年の昔から変わらぬかのように。
「いいの。それがツルさんだと判った時から、楽しい記憶に変わったから」
「…楽しい記憶、か」
「たとえばここも」
「え?」
まるで俺の真似のように、彼女の細い両腕が前に伸びる。
「高校生になって、毎日橋を渡るようになっても、川辺なんて見たくなかった。それに船なんて忘れてた。だけどみんな思い出して、それどころか自分の意志でこうやって来てる」
「………」
「こんな寂しい場所で楽しい時間を過ごせるなんて思いもしなかった。ね?」
「ああ、…そうだな」
なんとなく気づいたこと。きっとこの靴は母親のものなのだ。
だが、それを自分の意志で今日履いている理由は、もしかしたら俺が解かなきゃならない期末試験なのかも知れない。
「これで昔話は終わり」
「人に歴史ありって感じだな」
「そう?」
ちょっと仰々しいけれど、思ったままのことを口にしたのだが、彼女の反応はやや意外だった。
「もしかして、自分にはないとでも?」
「あると思うのか」
「探してるけど」
「探すのか」
すっかりツッコミ魔になっていた。
彼女に対抗出来るような歴史なんて、俺にはありはしない。どうしようもなく平凡に育ち、どうしようもなく平凡な高校生になった。それだけだ。
「ヒントはもう出てると思う」
「ヒント??」
「たとえば、…ラーメンとか」
……………。
そういえば、もうばれてたんだな。
「なぁ、食べ物の名が出たところでどこか行こう。この国は暑すぎる」
「…うん」
いずれ語らねばならない。それはもちろん判っている。
…いや、そもそも勿体ぶるほどの話ですらないのだ。単に自分自身が理解しきれてないから、説明する言葉が見いだせない。
「出戻りとはいえ一応地元民なわけだし、いい行き先をどこか知らないかね?」
「えっと、確かに一応地元民ですが」
なぜかそこで彼女は数秒黙り込んだ。
「案内はあなたの仕事です」
「………」
断言されてしまう。なんとなくそれは、疑問を差し挟む余地がなさそうだった。
そうは言っても、近場でこういう場面にふさわしい店なんて俺は知らない。
だいたい、こういう場面ってどういう場面だ?
「えーーーとだな、俺の案内といっても、ちさりんに教えてもらった例の店か、もしくは良と行く普通のファミレスか、そんなものしかないけど…」
「別に構わない。鰻専門店みたいなものは最初から期待してません」
「…そ、そうか」
いまいち微妙な喩えにどう反応していいのか困ったが、少し悩んだ末に、良と行く店を選択した。
たいした理由ではない。一度行った店よりも新鮮に感じるだろうというだけだ。もちろん、彼女に対して隠し事はなるべくしたくない、ということもある。正直、ファミレスに隠すようなものなど何もないけれど、気持ちの問題というやつだ。
行き先が決まったので、早々にシートを畳んで自転車に戻り、もう一度橋を渡り直す。すっかり日が高くなって、風に吹かれる俺たちはまるで乾燥機にかけられているようだ。
「渡り終えたら休憩するか?」
「…水分補給ぐらいは」
朝の集合場所までやっとのことでたどり着き、ぬるくなったお茶を飲む。わざわざ自販機の前で飲むのは馬鹿らしい気もするが、この際余計なことは考えずにおこう。
それから用水路沿いの道を進み、さらに右折左折を繰り返した末にようやく例の店に着く。結構な距離だ。上流の橋からだったら少しは近いが、いずれにしても川南から食べに行くには遠すぎる。
「あ、ここなの?」
「そうだ。驚いたか」
「………」
反応は特になし。わりと交通量の多い道沿いだから、この町に住んでいれば前を通ったことはあるはずだ。きっと彼女も外観は知っていたのだろう。
元々ここは、こだわりがあって選んだ店ではない。単に長居が出来そうな場所というだけで、わざわざ遠くから訪ねる価値があるとも思えない。
「良くんが一人でいたりする?」
「それはない。ちさりんと二人ならあり得るが…」
店の階段を登る彼女は、わりと機嫌が良かった。
「デートなら店変えるんじゃない?」
「鰻専門店ならちさりん家の近所にあるが」
「…そうなの」
間違ってもあの二人が鰻はないと思うがな。
ケチな良にとって、こんなありがちなファミレスだって浪費である。千聡が今後ダダをこね続けたら、苦節十年の末に鰻なんて未来があるかも知れない。それほどに鰻は遠くにありて思うものだ。
…馬鹿馬鹿しい。さっさと入ろう。
冷房の効いた店内はたいした広さでもないが、一応喫煙と禁煙に分かれている。高校生は当然禁煙だ。それ以前に俺は煙が嫌いで、まさしく健全な若者なのだ。
「いい景色…ってわけでもないのね」
「自慢するようなものは何もない。あえて言えば客が少ないことだ」
「あまり大きな声で言わない方がいいと思うけど…」
不穏な会話をしていたら、店員がメニューを持って来た。ちょっとだけ緊張する。どうも彼女と一緒だと余計なことまで口にしてしまう。
嘘だろ。元々が余計なことばかり考えているのだ。
「じゃ、キミはハンバーグステーキセット、ライス大盛りで食後にアイスコーヒーだな」
「…なんでライス大盛りが入ってるの?」
「己の欲望に忠実であれ」
「…なら、あなたの分は私が頼んであげます。フルーツパフェと焼き餃子」
「私が悪うございました」
結局、自分がライス大盛りの食後コーヒーを頼んでしまった。それに対して、彼女の選択は坦々麺。限定メニューらしいが、こういう店で冒険するのは危険だ。ますます印象を悪くするだけのような気がする。
…もしかしたら彼女は、なんとなくさっきの続きで、俺に無言のプレッシャーをかけるつもりなのではないだろうか。それぐらいの策略は思いつく女だ。策略のために食べたくもないものを頼むかは微妙だが。
目の前に運ばれた水を一口飲んで、しばらく黙って向き合う。薄暗いライトに照らされた彼女のリボンは黒っぽくて、シャツはどこか青が混じる。気にしなければ忘れているだろう。それどころか、いつもの自分ならきっと最初から見てもいないはず。
そうだ。こうやって見ないことだって俺の歴史に由来するのだ。…などといきり立って言うことでもないし、だいたい声にしなきゃ無意味だ。
「ところで一応訊ねておきたいが、その靴は明日も…」
「どうしたらいいと思う?」
「へ?」
………。
それを俺が答えられるはずがない。どういうつもりなんだ、と彼女の顔を覗き込む。
「…私の顔にヒントがあるの?」
「ある…かもしれない」
「まさか」
「その顔は母親似?」
「……そう言われるけど」
彼女は困惑している。いや、それだけなら当たり前だ。わざと脈絡のない質問をしたのだから。
「明日は普通の小川悦子でいいと俺は思う」
「了解しました」
「…本当にそれでいいのかよ」
「指図した本人が疑問を挟むのはおかしいでしょ」
…思わず顔を伏せてしまう。気分は母親に叱られるガキだった。
だけど、やはり疑問は疑問のままだ。俺は思いつきを口にしただけで、指図ではない。彼女が了解するいわれもないのだ。
「この靴は黙って履いて来たの。きっと怒られると思う」
「よく洗って返さないとな」
「うん」
「父親の前で履いてたって推測したが」
「お母さんが履くんだから当然そういうことです」
確かにそれはいわずもがな。だけどかすかな緊張感は続く。
汗をかき始めたコップを、そっと右手で撫でる。一本の線を描いて落ちていく水の流れは、一瞬だけ俺の視線を釘付けにした。
「今はともかく、昔の私は大きくなりたかった。小さいからガキって呼ばれ続けると思ったから、早く抜け出したかった」
「…具体的に何かしたのか? 毎日鉄棒にぶら下がったとか、米を縦に食ったとか」
「それって効果あるの?」
「いや、俺に訊ねられても…」
別に茶化したかったわけではないのだが、結局そういうことになってしまった。反省。
「実は四月の測定で追いついてしまいました」
「…父親に?」
「はい。これはかなりショックで…」
「うーむ」
身長なんて、伸ばしたいと思えば都合良く伸びるというものではない。だから大きくなりたくて本当に大きくなった彼女には、何か特別な方法でもあったのかと勘ぐってしまう。
もっとも、幼い彼女が願ったのは何も身長ではないだろう。
――大人になること。
少なくとも、俺よりは遙かに大人だと思うけど、彼女のイメージがどうかは判らない。かかとの高い靴はたぶん大人。だけど、リボンつけるのは大人なのか?
「でも落ち込むのはやめることにしました」
「それは良かった……けど、どうして?」
「目の前の誰かさんと一緒だから」
「………」
そうか。俺は彼女の父親とも同じなんだな。
無論、そう言われても見たことのない相手だけにピンとこない。それに…。
「ちなみに、俺はまだ伸びる予定だぞ。たぶん。出来ればなるべく」
「どうぞ、好きなだけ伸びてください」
「そちらは?」
「女の子はもう伸びない予定です」
思わず「女の子なのか!」とツッコミを入れそうになった。が、考えてみればそこでつっこむ方がどうかしている。失礼千万である。
「靴履くと伸びる件については?」
「仕方ないでしょ。……機会がなかったんだから」
「え?、………まぁ、そうか」
どうも今日は微妙な会話が多い。今は神経質にならざるを得ない状況と判っていても、どこかで暴走してしまう。普段なら簡単におさえられるはずなのだが、やはり自分はいつもの自分じゃないのだ。
少し気分を落ち着けよう。大きく息を吸って、コップの滴に向かってゆっくりと吐いた。けどそれはそれで、イタズラする子供みたいで自己嫌悪に陥ってしまった。
やがて運ばれて来たのは坦々麺のほうだった。まぁテレビで見るような姿だが、そんなことは別にどうでもいい話。
とりあえず、麺はのびるものである。だから先に食べてくれ、と言いかけたところでこちらのセットもやって来る。タイミングは上々だった。
「ではいただきます」
「礼儀正しいんだな」
「都会的な親だったから」
都会的という表現がいまいち理解出来ないが、あまり深くは問わないことにする。
「一口食べる?」
「いや、結構だ」
彼女は数秒の間こちらを見つめて、それから笑った。どうやらギャグのつもりらしいが、別に面白くはないので黙ってハンバーグを口に運ぶ。
うまい…とは思わない。それは何も、家に転がっているマンガでオールバックのオヤジが「ジャンクフードが日本人の味覚を破壊しているっ!!」とか叫んでいることとは関係なく、実感としてある。
もっとも、マンガのオヤジはともかく、最初に良を連れて来た時に「味では勝負してないな」と余計な分析を聞かされた記憶は影響しているかも知れない。というか、いきなりあんな発言で、よく俺は腹を立てなかったものだ。確かにうまくないけどな。
「まぁ次はもっとマシな店にしよう」
「鰻と大きな卵焼きなら喜んで」
「ちょっと待て。なぜ卵焼きがあると」
「あ……」
慌てて口を覆う彼女だった。もう遅いがな。要するに、ちさりん家の近所にある鰻専門店なんて、とっくに知ってたわけだ。
…だからって、あそこは高いからなぁ。それに、高校生がちょっと昼食に鰻というのもどうかと思うよな。もっとそれらしいリーズナブルな……などと、果てしなく言い訳を重ねているようでは良と一緒である。うむ。
そんな考え事の中でも、目の前のハンバーグ定食――なんか名前が違った気がする――は着実に消化されていく。やがて空になった皿を見て一息つくと、見計らったかのように彼女も同じく一息ついていた。うーむ、大食いの上に早い。同じ小学校にいたら宿命のライバルだったかも知れない。
冗談だからな。
「それで、本題ですが…」
「………」
コーヒーのカップに軽く口を付けて、彼女が切り出す。
俺は少しテーブルから体を離して、一度肩を回した。まるで儀式の始まりのように仰々しく。
「ストレートに言うと、ゴロウさんとツルさんを流すことにはまだ納得してません」
「…………」
「祐子さんが言う通り、周りに迷惑をかけているのは確かだし、どうにかすべきだとは判るんだけど…」
とりあえずカップに口を付ける。
冷たい感触の向こうに見える彼女は、何かを思い出させた。
「躊躇する気持ちは判るつもりだ」
「うん」
「でもやっぱり、祐子さんの言った通りだ、としか言えないな。それ以上付け加えようとしても、卑怯な言葉しか浮かばない」
「うん…」
俺たちに、ツルたちの将来を見守る義務なんてもちろん存在しない。あくまで勝手に取り憑かれた被害者なのだ――けれど、もはやそんな結論で簡単に済ませられる状況にはない。
ありていに言えば、同情。伝説の二人が辿った悲劇を、漠然とはいえ共有してしまった上に、恐るべきことにツルと直接会話すらしてしまったのだ。
しかし、だ。
「それよりも、聞きたいことがある」
「…なんでしょうか」
「今日の小川悦子は、まだ自分を消し去りたいと思ってるのか?」
「………はい」
逡巡したように見えた彼女が、それでもはっきり答えたから、俺はまた苛立ってしまう。
だが今は苛立ってはいけない時間だ。あくまでも冷静に、俺は言い負かさなければならない。
「嘘だ」
「…嘘じゃない」
「だいたい都合良すぎるだろ、それじゃ。ちょうどいい具合にツルがいるから消えようなんて、おかしいだろ」
「そんなつもりじゃない!」
大声を出して、はっとして周囲を見回す彼女。
ただし幸か不幸か、安っぽい音楽が流れる店内はガラガラで、そんな心配はしなくて良さそうだった。気兼ねなく戦える、ということだ。
「好きだった父親に憎まれれば、俺だって自分が悪いからだと考えるかも知れない」
「……そうでしょうね」
「しかも理由が判らないから解決出来ないわけだ」
「はい」
目の前の彼女はぐっと固まって、こちらを睨む。
それはきっと、今の俺と変わりはしないだろう。
「じゃあ解決出来ないから自分が消えればいい。そう考えた」
「はい」
「だけどそれはうまくいかなかった」
「…どうして」
「簡単だ。俺の知る限りの言動を並べただけでも十分だ」
これが最後の機会なのだ。
明日が無事に終わるよう、ここで戦わなくてはならない。何度も自分を励ましては彼女に向き直る。
「父親に嫌われてから、記憶が飛び始めてしばらくの間までは、無口で暗くてクラスになじめなかった、と聞いた」
「…その通りです」
「確かにそうやってうまく演じてた。けど今はどうだ。無口なんてとんでもない、あっと言う間にクラスの連中と仲良くなって、いつも誰かとおしゃべりしたくてしょうがないじゃないか」
「それは……」
「結局、やろうと思えば出来たことを我慢してたから…」
「そ、それは違う。みんなに話しかけるのはすごく怖かった」
「仲良くなるために努力したことは判ってる。けど努力だけで急に変われるもんじゃない。無口が二ヶ月で会話上手になるってことはないだろ」
自分は彼女の過去を知ってたわけじゃないから、今に至る変化を素直に受け取れる。けれど中学時代を知る連中にとって、別人のように明るくなった彼女の姿はにわかに信じがたいほどらしい。
そんな急激な変化がいかにも無理をしてなされたものならば、また話は違って来るけれど、俺が知る限り、ごく自然に誰とでも打ち解ける今の彼女に、無理なんて感じられない。元々、こういう性格だったとしか言いようがない。
「見た目もなるべく悪い方がいい。だから自分が嫌な髪型を続けてごまかしてきたけれど、自分の好きな髪にして飾りはじめたら途端に人気者になっただろ」
「人気なんて知りません!」
だんだん微妙な話になって、正直口にし辛い。しかし今は多少の無理を押しても言ってしまうべきだ。
よし、言うぞ。
「だいたい、スタイルはいいしクラスでも普通に目立つ。埋もれている方が不自然だ」
「………」
言いながら空虚な気分になる。けれど今は無理をしても一般を語らねばならない。
「無意味なネガティブ思考さえしなければ、手に入れたいものはきっとなんだって手に入る。だから「えーこ」だ。それはエキストラじゃなくて人より優れてるAランクだって、本当は判ってるくせに嘘をばら撒いてる」
「…………」
「それに、ばら撒くだけじゃない。勝手に周囲の声を作り上げて、自分の願望を他人の評価にすり替えている。そうして幸せなはずの人間がわざわざ不幸になって、……だけど今はもう一度幸せになろうと思ってるんじゃないのか」
ひどいことを口にしていると思う。
けれど、たとえ今後がどうなろうとも、明日のためには言ってしまうべきだ。
「嘘をつき通すならツルになるしかない。無理矢理にでも小川悦子を消せるなら、自分が願った通りの結末になれるだろう」
「………」
「でもそれならここ二ヶ月の変化は必要ないだろ。自分が好きだからリボン付けるんだろ? それでも消えたいのか? それで小川悦子なんていらないと言えるのか?」
言い切った。
それは俺が導き出した彼女の物語。きっと予断と偏見に満ちているはずだが、吐き出して否定されるならそれでいい。…彼女を傷つけるにせよ。
彼女はしばらく黙っていた。せわしなく視線を揺らしながら、それでも怒りの表情というわけではなかったから、自分もだんだん興奮が収まっていく。完全に収まってしまったら、もう逃げるしかない。
「…何も言い返せません。その通りです」
「それも嘘だ」
「え?」
「名推理だとでも言いたいんなら、嘘だと言った」
「…………」
俺だって最初からすべてに気づいてたわけじゃない。
今、こうやってまくし立てている中でつながったことも沢山ある。これもそうだ。
「自分からヒントを与えておきながら、それで推理も何もないだろう。俺みたいに人の服装すら覚えない奴でも判ったんだ」
「………」
「はじめから、誰かに気付いてほしかったんだ。本当の小川悦子は不幸になりたくないし、消えたくもないんだ、と」
そろそろ息が切れ始めていた。
頭の中が真っ白になりかかっている。自分にとって、これだけの台詞をまくしたてるなんて二度と出来ないかも知れない。
「だから明日、申し訳ないとは思うけれどツルを流さなきゃいけないというのが俺の結論だ。ついでにネガティブな思考も捨てたらいい」
「そう…」
もう限界だった。
椅子にもたれかかってため息をつく。渦巻く自己嫌悪。
「…今の私に判断する力はないと思ってる」
ようやく口を開いた彼女の声は、気の抜けた店内の音楽にかき消されそうなほどか細かった…けれど、はっきりと聞き取れてしまう。
消耗しきっているはずなのに、まだ聞き逃すまいとがんばっている自分が不思議だ。
「だけど一つだけお返ししていいかな?」
「…ああ」
「なぜヒントをあげた相手があなただったと思う?」
そしてはね起きる。
……もしかしたら、いや間違いなくそれは一番突かれたくない部分だったから。
「そ、それは…」
何か言い返そうとしても、もうでまかせすら浮かんでこない。完全に答えに詰まってしまっていた。
…もちろん、詰まるのはおかしいのだ。きっと違うと考え続けても、自分に都合のいい解釈なんていつでも出来たはずだし、今も頭の中をぐるぐる回っている。
「それが、あなたがついた嘘です」
「………」
「教室で怒鳴られて、それから最初に土手であなたが謝った時から、私には判ってた。……判ってたんだと思う」
「あの土手…」
彼女が口にする単語が、もう遠い昔の光景を思い出させる。
あの時の自分。不思議に緊張しなかったことだけは覚えている。でも、それ以上の何かがあっただろうか?
…いざ考え始めると、なかったとは言えない気がする。そういえば、ショーのコンサート会場に土手を選んだのは彼女だった…。
「あなただって同じ。自分なんて誰も相手にしないとか、クラスにいてもいなくても同じだとか、いつもネガティブなことばかり考えてるでしょ」
「……それは認める」
「同類相憐れむ…から、私の嘘も判る。でもそれも嘘」
「嘘?」
「相手にしてないって言ってるくせに、とってもおせっかいな人。…それは私も同じなんだろうけど」
「…まったくその通りだ」
次々と彼女に言い当てられながら、なぜか動揺はおさまっていく。それはたぶん、彼女があくまで穏やかにこちらを見つめているから。
自分が隠し通そうとすることをすべて口にされたとしても、今なら構わない気がした。
それは何も自暴自棄ではない。膿を出すような気分。
「はっきり言います」
「…ああ」
「あなたは特別な人です」
「…………」
「この世界の全員にとってどうかは知らない。けれど、ちさりんや勝彦くんや良くんにとっては替わりのいない大切な友だちでしょ?」
「それは…そうなんだろうか」
そこまで言われると疑ってしまう。これが俺のネガティブ思考なんだよな。
ただ、疑うのはあくまで自身を守りたいから。ゴロウになりたかったわけじゃない…はず。
「そして…、私にはもっと特別な、もっと大切なヒロくん」
「え?」
彼女の口から初めて聞かされる呼び名。文字にすればありふれたものでしかないけれど、その響きに俺は正直、息を呑んでしまった。圧倒されてしまった。
「ダメ?」
「…いや、そりゃ、あの……、ダメ、ということはないけど」
しどろもどろな回答。
……いくらバカな俺だって、この呼び名が決定的な意味をもつことぐらい判っている。判っているけど何も出来ず、ただ意味もなく頭をかいて肩を回してしまう。
「じゃあヒロくん」
「……あ、ああ」
「私は?」
「えーと…」
正直、もっと俺は口にすべき言葉があるのではないか、と思う。
けれど今はどこまでも彼女のペースで、そして間違いなく彼女の呼び名は必要だ。それは大切なことだ。
…………。
とはいえ困った。まさかヒロに合わせてエツくんともいくまいし…。
「うーむ…」
「えーこでいいよ」
「……それは」
「えーこがおるでー」
「…………」
「………」
「……………」
「………」
「了解」
解釈なんて幾通りでもある。それぞれが、それぞれの想いを込めて呼ぶだけだ。
この際俺は、彼女の新説に乗ろう。まるで呼び名一つに命を賭けるかのように、一人納得していた。
…いや。違う。たぶん、命を賭けていたのは俺だけではない。彼女にとって、えーこと呼ぶ存在はヒロだった。ヒロでなければいけなかった。
そしてそれは事実、この世界を変えようとする響き。
俺たちは今、この世界に生まれてしまった。つまり、そういうことだったのだ。
「それで、ヒロくん」
「…ん」
「…………」
「あ、悪い。……えーこ」
「うん」
初めて呼んだ彼女の名。まだどことなく恥ずかしい。本当に俺なんかが呼んでいいのだろうかと思う。
目の前の笑顔を見たら、少なくとも疑問を挟む余地はなさそうだけど。
「今もゴロウとツルが嫌い?」
「………、正直に言えば判らない」
悔恨の念もある。
結局は彼女に近づくために、俺はゴロウを利用して、用済みになったから川に流すのだ。すべてなかったことにして。そして彼女との日々も、すべて自分の手柄として。二人を利用して自分を消そうとした彼女が卑怯なら、同じぐらい卑怯な話だ。
…だけど、そんな筋書き通りに俺たちは出逢っていただろうか。
「私はツルさんが好きです。だからたぶんゴロウも好きになってる」
「…たぶん、か」
「でもヒロくんの言う通り、自分もやっぱり好き。消えてしまったら困る。ツルさんのことを知れば知るほど、そんな感情を否定出来なくなったから…」
「リボンが好きなんだよな、えーこは」
「うん。カチューシャよりリボンが好き」
「俺もリボンが似合ってると思う。…いや、本気で。じっくり見た上で、だ」
彼女は笑っていた。
いつも彼女を覚えていない俺だから、それはどこまでも嘘のような言葉。だけど今は確信している。俺は彼女を見ていた。
それとも、見ていたのはゴロウ? まさかな。ゴロウはそれでも、きっとツルに見とれていたんだろうな。きっと俺みたいにしょーもない男だったんだろうな。
「なぁえーこ」
「なんでしょうかヒロくん」
「日曜は怖いか?」
「少しだけ」
「俺がついている、と言えないところが辛い」
「それなら、ゴロウがついてる」
「…なるほど」
ゴロウはツルを不幸にするはずがない。
二人は何を間違ったのか、この世界に舞い降りた。それは事故だ。どうしようもなく馬鹿馬鹿しい偶然だ。
けれど今なら、たとえばこんな昔話を信じることだって出来る。
昔、仲睦まじい男女が、無理矢理引き裂かれた。満たされないままの二人は、互いに自分たちと似た存在を探し続けて、ようやく出逢うことが出来たのだ。
それは引き裂いた者への復讐のためではなく、ただ二人の世界を取り戻したいから、二人のこれからがほしいから。
「ヒロくん」
「え?」
「私は、月曜が心配」
「…それなら問題ない。期待しとけ」
「期待…するの?」
ツルやゴロウがどうなってしまうのか、今の自分には想像も出来ない。間違ってえーことヒロが流されてしまわないように気をつけたいけれど、きっと俺たち自身の意志を反映させる機会はないだろう。
なら、何が出来る? 月曜だ。祭が終わって月曜の教室でもう一度出逢えたなら、そこで最後の言葉を口にしよう。
違う。
その言葉すら言えないなら、祭は終わっていないのだ。二人が生まれ変わるためには、きっと流すだけでは足りないのだ。
店を出た瞬間、軽い眩暈。無駄に効いた冷房ですっかり冷え切った体が、急速に温められていく。自転車に乗って、彼女を送った先には三度目の中津国…だけど、今度はわざと橋の上流側から見下ろした。
わずかに覗く緑の国の先端。そこから濁った水を辿って視線を前方に動かす。
だけど見えるものは上流の橋まで。その先の大河は、想像の彼方に遡っていくしかない。
「ゴロウとツルはここに来るんだよね」
「まぁ、うまく行けば…」
千聡と良お手製の船に行儀良く二人が乗っていたなら、それはそれで微笑ましい光景に思える。
もちろん微笑ましく見えるというだけで、実際はあてのない旅。その終着点がここだとしても、あるいは海の彼方だとしても、過酷な未来が待っている。
「ヒロくん」
「ん?」
「二人が幸せになってほしい…と言うのは偽善ですか?」
「偽善にはしたくないもんだな」
「…うん」
何を悩んでも明日の役にはたたない。それに、今さら謝ったところで彼らにとっては言い訳にもなりゃしないのだ。
だけど、ここまでの二ヶ月、起きたのは予想外のことばかりだ。明日だって祐子さんの描いた通りになるとは限らない。もしかして、想像を超える形で幸せな結末が用意されてはいないだろうか。せめてそんな妄想ぐらい、今は許してほしいと思う。




