群生
金曜の朝。なんと七時に目覚めた。ファンタスティック! 逆立ちしても大丈夫!
…嘘だろ。
ともかく久々にのんびりと登校する。昇降口のまばらな人影に、もしかして遅刻だろうかと一瞬焦ってしまうのは悲しい性というやつだが、当然何事も起きない。
どうだ、薄汚れた教室の扉が俺を呼んでるぜ。ハッハー。
………。
開けた瞬間にテンションが下がる。いやまぁ、上がる必要はないけどな。
見慣れた窓際に広がる奇妙な光景。千聡と勝彦がなぜか揃ってこちらを見つめている。それどころか、側には小川と良までも一緒にいるように見える。気のせい…ではなさそうだ。
なんだろう?
冷静に考え直してみれば、おかしいのは勝彦が俺より早く登校している、という一点だけである。良はちさりんと寸劇だろうし、小川がクラスの友人の席に足を運ぶのも何ら不思議ではない。
とはいえ、いざ揃っているのを目撃すると、まるで何か予定があったみたいだ。とりあえず、普通に挨拶してみようではないか。普通の朝なのだから。
「皆の衆おはよう」
「ヒロピー遅いっ!」
「なにぃ?」
なぜ非難されるのだっ。
まだチャイムには五分以上ある。しつこいが、こんな時間に揃ってるほうが異常なのだ。
「とりあえず座って山ちゃん」
「うむ……、何かあったのか?」
「期末テストの相談です」
「えっ!」
目の前が真っ暗になった…というのは誇張しすぎだが、朝から嫌なことを思い出させられて、一気に憂鬱になる。確かに来週後半はテストなのだ。
「あの、…山ちゃん?」
「……あ?」
「冗談なんだけど」
「なにぃ!?」
「姉貴の伝言だ、馬鹿野郎」
その瞬間、視界に入った勝彦の表情がすべてを物語っていた。ああそうか。
「例の祭の役割分担だって。山ちゃんも一応見て」
「そうだ一応だぞ、ハックンは何も出来ねーんだからな」
「………」
なぜここで勝彦に敵意を示されるのか理解出来ないのだが、とにかく目の前に示された紙を取り上げる。
伝言といっても、祐子さんは紙の隅々までびっしりと何かを書き込んでいる。この分量では勝彦の口を通すわけにはいくまい。最初の二行ぐらいで挫折するに決まっている。
…まぁでも、それは俺だって同じだがな。
最初に祭の具体的な日程が書かれてないか探したが、残念ながらどこにも見えない。次の日曜、どうやら夕方らしいとは聞いているけれど、もう少し細かい予定を知りたいというのが人情であろう。
気を取り直して紙を見る。七人の名前が項目となっていたので、まずは自分の名を…。
ヒロピー ゴロー
…せめて名前ぐらいちゃんと書いてくれよ祐子さん。
かなり脱力したが、しかしこの仕打ちは当然他にも当てはまるだろう。どれどれ。
小川悦子 大外川鶴子
モボショー ギターのショー
なんなんだこの差別は。絶対遊んでるだろ、これ。
呆れて放り投げようとしたら、また勝彦と目があった。相変らず不機嫌そうな顔。
なんだ? 勝ピーは何かおかしな仕事でもやらされるのか?
勝彦 暴れたヒロピー用
「むぅ…」
思わず見つめ合ってしまった。不憫だ。
「こんなのやってられっかって!」
「……気持ちは判るが」
判るのだが、では勝彦に何が出来るだろうと考えてみると、何も浮かばない。過去の「実験」での仕事は、まさに俺の体を押さえつけただけである。何ら主体的に関わった形跡がないのだ。
……うーむ。
「そろそろチャイムが鳴るから、じゃ」
「また後でな、ちさりん」
さっと消える遠めの二人。千聡も宿題に取り掛かったフリだ。きっとこの件で荒れていたに違いない。さーて困った。
「どれ、宿題やるか」
「ヒロピー、貴様」
「どうせ終わってねぇんだろ?」
「……ま、そ、そりゃそうだが」
勝ピー退治は宿題に限る。ふっふっふ。
ふぅ………。後ろが静かになった頃合にチャイムが鳴った。そのどさくさに紛れて、もう一度メモ書きを取り出してみる。千聡は………。
ちさりん 船製作、漫才
良 同上
謎の男 雑用
ま、漫才? いったいどんな祭なんだ。元からそうだと言ってしまえばそうだけど、こちらの想像をどんどん離れていく。
神主みたいな本職が参加しないのは、それでもまだ理解出来るようになってきた。祐子さんはそういう人たちをまるで信用していない。素人に可能かどうかはともかく、神主の知ってる形に歪められる方がまずい、ということだろう。
しかしちさりんが造った船に、ゴロウは乗ってくれるのか? 果てしなく不安になる。この短期間だから、きっと設計図みたいなものはないはずだし。
……それでも、この際まだ勝ピーに比べりゃマシだな。ちゃんとした仕事がある。
祐子さんは、七人いることに意味があると言った。それは俺も同感だった。なのに、いざ勝彦に役割分担してみたら、こんなどうでもいいことしかないわけだ。
押さえ役ぐらい、漫才担当でも足りる。だいたい、この「謎の男」の雑用ってのがそうじゃないのか? まるでいなくてもいいかのような配役だ。
もしも清川家で、それ以上のポジティブな説明を祐子さんがしていたのなら、後ろのヤツだってもっと大人しかったに違いない。
「…ハックン」
「なんだ、レスラーならネガティブな感情をエネルギーに変えて闘うものだぞ」
「意味判んねぇ」
一時間目の授業が終わった途端に、ノートをひったくられる。
勝彦の声は、朝よりは多少穏やかだった。
「姉貴はな、俺の仕事はただ最後まで見ていることだ、と言ったんだ」
「見ている?」
「それって仕事なのか?」
「う……、まぁ俺には出来ない仕事なのは間違いない」
そりゃあ、何もしないなら黙って眺めていられるだろう。それに意味があるなら、だが。
「それでさー、雑用と何が違うわけ?」
「なんだ、答えろハックン!」
前触れもなく千聡が加わってくる。まぁこの場合前触れが必要だとは思わないけれど、俺に聞くことでもないと思うぞ。うーむ…。
「勝ピーは見ていて、謎の男は見ない。完璧だ」
「ヒロピー、頭大丈夫?」
「じゃあちさりん大先生のご高説を賜わってやる」
「俺も聞きてぇぞ、どう思ってんだちさりんは」
「うっ…、急に宿題が痛く」
「なるわけあるか!」
さっさと逃げて行く女生徒。あまりに画期的な台詞に話題も止まってしまった。
「とにかく貴様のために働いてやるんだからノート貸せ」
「もう借りてるじゃねーか」
勝彦は勝彦で、普段と変わらぬペースでノートを写している。
どうも判らん。謎の男の正体すら知らない以上、勝彦とは比べようがない。これまでのいきさつを知らない人よりは、勝彦のほうがよく判るということだろうか。それだったらつくづく頼りない話だな。
結局この祭の参加者で、個々の役割の意味を把握しているのは祐子さんしかいない。
比較的知識がありそうな良や小川でも、ギター少年がいて漫才する祭を理解出来るとは思えない。あまりに荒唐無稽。まるで祭のイメージとは違う。
……………。
一番問題なのは、俺と小川がどうなるのか判らないことなんだがな。彼女に不安がないはずがない。それに――――。
「チャイムだ、返せバカ」
「まだ終わってねー」
「優しいお姉さまに教えてもらえ弟よ」
「あのなー、姉貴は「教師が教えるのは反則だ」って言うんだぞ。おかしいだろ? だいたい弟が困っているってのに…」
「あー判った判った、お前の姉は薄情だ」
「そう言われると腹立つぞ貴様」
埒があかない会話は、教師の登場まで続く。
なんだかんだ言っても、勝彦は姉上が大好きでたまらないわけだ。それは俺たちにとって、最早誰も知らない者はいない常識なのに、当人は相変らず下手にごまかそうとする。実に困った弟だと言いたいが、姉は姉でああいう人だからなぁ。
一人っ子の俺には、正直うらやましい。その姉が、何をやってもかなわないのでは、時々息が詰まることもありそうだけど、会話の絶えない家庭は楽しそうだ。
……こんな時に思い出すことではないが、ウチも小さい頃は飯時の会話が絶えない家庭だった。それが年と共に次第に減っていく。それは何も、両親が嫌いだからじゃない。学校で話すことを家に持ち帰っても、そのまま親に披露出来ないことに、いつか気づいてしまったというだけだ。
勝ピーと祐子さんだって七歳違うけど、共通の話題はいくらでもあるだろう。年齢よりも、祐子さんの頭が良すぎて話が合わない可能性はあるが、そこは祐子さんならどうにでも出来そうな気がする。
結局俺は両親に、ツルとゴロウのことも話していない。それでいいのだろうか、とは思う。口にするとバカバカしいが、もしかしたら俺とゴロウをつなぐ出生の秘密を両親が語り出すなんて可能性もないわけではない。
…あるかバカ。我ながらくだらなすぎて涙が出る。
問題はそんなところじゃない。自分の身体に異変が起きている。それは病気といえば病気なのだ。親に隠してはいけないことなのではないか。
……小川は、どうなんだろうな。
結局俺は、当事者としての判断は何もかも小川に委ねてしまっている。彼女はその道の先輩だからと言い訳を重ねながら。どうしようもなくダメな奴だ…と、毎度のように落ち込んでいるうちに、いつの間にか授業が終わっていた。非生産的な一日だ。こんな状況で期末テストはどうなるのだろう…。
しかし嘆いているだけでも腹は減る。授業が終わったということは、昼飯の時間。せっかくだから元気を出そう。
本日はなんとビックリ!、パンでございます。
……いつもと同じである。ガックリ。
「ハックン飯食おうぜ」
「それをくれ。希望は全部、事情によっては三分の二」
「出て行け! 貴様など出て行け!」
言われるまでもなく出て行かないと飯は食えないのである。ガックリ。
やれやれ…と廊下に出たら、そこにひょろ長い奴がいた。
「なんだ良。連れションか?」
「ちょっと話がある」
冴えない表情のまま、目くばせされる。とりあえず場所を変えるしかあるまいと思うのだが、いまいち行き先が見つからない。
「つき合え。パン買うから」
「おぅ」
まぁこれだって移動には違いないし、買ってるうちにどこか思いつくかも知れない。安易な結論に至り、階段を下りた。
が、結局たいした案は浮かばず。パンを買う瞬間は邪念を捨てねばならないから、その間は思考が止まってしまう。そもそもここに来た時点で間違っていたのだ。
パン売り場は昇降口前。しょうがないので、そのまま外に出てテニスコートそばで腰を下ろす。ここはここであまり良い思い出がないのが気がかりであるが、校内に良い思い出のある場所など滅多にないという事実もある。それに、落ち着かない良をこれ以上連れ回すわけにもいかないだろう。
しかし暑い。半袖のシャツから覗く両腕を、容赦なく陽射しが襲って来た。
「で、なんだ?、良」
「うむ。ショーが断りの電話を入れた」
「え?」
早くもあんパンを口に運びかけていたのだが、思わず手が止まった。
俺の頭から、そもそもショーのことがぽっかり抜け落ちていたことに気づく。
「ヒロにもすぐ伝えようと思ったんだが、どうも自分がその話を聞いた時にはもう祐子さんに電話かけた後だったらしい」
「で、どうなった?」
「やはり演奏することになったようだ」
「そうか」
………。
自分のあずかり知らぬところで一騒動あって、知らぬ間に解決していたわけか。
そうだよな。ショーなんてまさに巻き込まれた存在なのだ。俺や小川以上に不満があっておかしくない。まして、好きでもない曲を歌わされるのだから、な。
「しかしだ、良」
「…なんだ」
「祐子さんはどうやって説得したんだ?」
「ん…」
当然の疑問だった。
少なくとも俺なら、積極的に奴に言えることなどない。せいぜい「申し訳ないが助けてくれ」、とでも頭を下げるぐらいだ。
「…ショーは迷っていたらしい」
「迷う?」
「自分が参加する意味が判らないと言っていた。祐子さんには、他にも何か言ったかも知れないが…」
「なるほど」
その迷いはしかし、少し驚きだった。なぜならそれは、ショーが祭の当事者でありたいという意志だから。
奴にとっても、祭はそれだけの大行事だったわけだ。
「祐子さんに何を言われたのかは判らない。さっきもショーに聞いてみたが教えてくれなかった」
「………」
「ただ、奴にとっての意味を告げられたんじゃないかとは思う」
「…そうかも知れんな」
ショーにとっての意味がどんなものなのか、まるで想像がつかないけれど。
良を通して知っているショーの過去は、高校に入る前からフォーク少年だったことぐらい。なぜフォークなのかはさっぱり判らない。ましてフォークの中でも好き嫌いが激しい理由は、いつぞや訊ねて断念した通りである。我々の想像を超える何かがあるのだ、としか言えない。おかしな奴なのだ。
しかし奴が、冗談でフォーク少年を気取ってるわけじゃないことは知っている。
…そういや、奴は祐子さんに言われてあっさり演歌を歌ってたな。祐子さんはもしかして、ショーの隠れた面を知ってたりするのだろうか。祐子さん自体が得体の知れない人――ではなく、人智を超えた――でもなく、俺たちにははかり知れない人だから、二人だけにわかりあえる何かがあるのではなかろうか。きっとそうだ。そうじゃないかという気がする。
もっとも、だったら一生俺たちには謎が解けそうにない。
良はどうなんだろう。やはり気乗りはしないだろ…って聞こうと思ったところで思い直す。浅はかだった。良は地研期待の星なのだ。祐子さんが計画する祭に参加することは、きっと地研本来の課外活動に他ならないのだ。
「それで、良」
「おう」
…まぁもちろん、それだけってわけでもないだろうけど。たぶん俺と小川に対するお礼の意味も、良と千聡の参加には含まれているだろう。
もちろん、そこで恩義を感じてほしいとは、少なくとも自分は全く思わない。良と千聡の関係がどう変わろうと、それは当人たちが解決したことでしかない。
「川原で夫婦漫才だそうだな」
「……おぅ」
それは半分以上茶化したつもりだったけれど、良は真剣な表情で返す。
ちょっと困って視線をそらすと、前方のテニスコートが照り返しで歪んで見えた。文句なしに暑いのだ。心頭滅却して焼き殺される気分だ。
「祐子さんには、楽しそうにやれと言われている。そうすれば二人も出てきやすいだろうと」
「ふぅむ…」
楽しそうになぁ。
あの寸劇では、かえって逃げてしまいそうだが…。
「ヒロが疑うのはもっともだと思う」
「…というか、漫才ってああいうものなのか?」
「む…」
こいつはそもそも漫才を知らないんじゃないか、と思うのだ。
元々大阪の笑いになじめないのは、俺たちにしてもさして変わりがない。テレビでたまに映る漫才は、どこか別世界の人たちがせわしなくしゃべっては勝手に笑って盛り上がっているように思える…けれど、奴はそのテレビすらロクに見ない。今どんな芸人がいるかなんて全く判らないはずだ。
「少しは努力してんのかよ」
「…うむ。ちさりんとビデオ借りて見ている」
「へぇ…………って、おい!」
思わず立ち上がって、しかし人目が気になってすぐに腰を下ろす。
こんな炎天下で、人目の心配は正直なさそうだったが。
「すまん、興奮した」
「お、おぅ」
「で。どこで見たんだ?」
「………自分の家だ」
「このスケベ野郎め」
「な、な、…何もしていない。ただ二人で見ただけだ」
あからさまに慌てる良を見るのは面白い。まぁちさりん相手にどれほどのことが出来るものか。きっと腕がしびれるほど頭を撫でたには違いないが、それがせいぜいってとこだろう。
しかし、良の家に千聡か…。
「見つかったのか?」
「おぅ」
「怒られただろ」
「喧嘩になった」
「勝ったのか?」
「…引き分けだ」
良が笑う。
若いおなごを連れ込んだという事実以上に、こいつが親に逆らうという時点でそれは驚くべきことだ。奴は父親に絶対服従と教えられて、それを実践し続けてきた。そして服従すべき奴の父親はこの町に引っ越してから、友だちを家に入れることをかたくなに拒否しているのだ。
実際、俺だって奴の家には二度しか行ったことがない。それも両親がいない時を見計らって、こっそり忍び込んだだけだ。他にそこまでのリスクを犯してまで奴の家に行く男はいないから、親にばれたのは初の快挙とみて間違いない。
しかもおなごを巡って親と口論だ。すごいじゃないか。まるで青春ドラマじゃないか。相手がたとえちさりん大先生だとしても。
…最後の一言は余計だな。だいいち俺にそんな台詞を言う資格はないのだ。
「お前はどうなんだ、ヒロ」
「あ?」
「…えーこちゃんとは」
妄想にふけりつつあった時に喰らう不意打ちはきついものである。
しかもその内容が………とあっては。
「お前にまでツッコまれるとは思わんかったぞ」
「会うたびにその話題だ」
「ちさりん様か、やれやれ」
あのゴシップ女め、まったく。
「でもな、ヒロとえーこちゃんがうまく行ってくれたら自分も嬉しい」
「………。祭の前に二人で会う約束がある」
「…そうか」
まぁこちらも根掘り葉掘り聞き出したのだ。これぐらいは伝えておいても怒られることはなかろう。
というか、彼女も今ごろしゃべっている可能性がある。教室に戻った時にちさりんの様子が変わっていればビンゴだ。
「ちさりん向けに補足しておくが、あくまで日曜のための話し合いだぞ。当事者同士で心の準備でもしておこうって意味の…」
「判ってる」
「う、うむ……」
それでも、また意味もなく興奮してしまった。
やっぱりなぁ。良と女子の話題をするなんてあり得ないのだ。そしてそれ以上に、俺自身が当事者というのがおかしい。間違っている。毅然として否定すべきである……とは言えない辺りが辛いが。
………。
今さら否定してられないだろ。
「小川はまだ、ツルを流すことに抵抗がある」
「お前はないのか?」
「………判らん」
程なくパンが消えたので、さっさと教室に戻った。何せ暑いのだ。
ちさりん様は特に変わった様子もなかった。いや、良が一緒に顔を出したから、その意味で変わった様子と言えばいえなくもないけれど、それは千聡的な正常だからどうでもいい。今さらいちゃつく二人など実況する価値はない。あってたまるか。
だけど、彼女がしゃべってなかったという事実に、少し気がとがめた。それは悶々とする…ほど大袈裟ではないにせよ、落ち着かないまま午後の授業を迎えてしまう。テスト前なのに困ったことだ。
「ヒ、ロ、ピー」
「宿題なら間に合ってる」
「それで、えーことは?」
「一日一度は聞かないと気が済まないのか!?」
しかし、しかしだ。
こんな歩くゴシップ誌と良を同列に扱っていいものか。やはり伝えてはならない相手というものは間違いなく存在するのではなかろうか。
「バカねぇ、あんたたちがうまくいかないとこっちも落ち着かないじゃない。それに周りに説明するのも面倒くさくて困るでしょー」
「まだつき合ってない、でいいだろ」
「じゃあいつつき合うのよ!」
「そんなこと聞かれて判るかバカ!」
「だから早くしなさいって。そういうことになったら、あんたの口の悪さも指導出来るってもんよ」
「謹んで遠慮申し上げ候」
なんだかねぇ。どうやら今日は話題がループする日のようだ。さっさと帰るが吉だな。どうせ俺には割り当てられた仕事もないわけだし。
放課後。教師が廊下に出た瞬間に、さっとカバンを手にした。隣はまだ机の上に教科書が散乱したままである。後ろは見るまでもないだろう。勝ったぜ。
「あ、待てヒロピー!」
「では千聡クン、船の準備を頼むぜ。さらばっ」
爽やかに手を挙げて逃げようとした瞬間、視界の端に入った姿。
………。
すいません。今日は帰れないのでした。
「山ちゃん、忙しいの?」
「ま、まぁそうだ、忙しいと言えば言えなくもない」
「ふぅん」
いきなり生ぬるい視線で見つめられる。
うむ。今ははりきってごまかすぞ。
「で、中津国なんだが…」
「明日の午前十時でいい?」
「え、明日?」
あっけにとられて彼女の顔を見つめてしまう。
間違いなくこの文脈は「今から行こう」というものだったはずだが…。
「何か忘れてない?」
「忘れた?」
彼女はちょっと怒った顔で、なぜか床を指差していた。なんだっけ、別に掃除当番じゃないだろ…………っと、ああそういうことですか。あれは冗談じゃなかったわけですか。
しかし、そこまでかかとの高い靴にこだわって、何か意味があるのだろうか。少なくとも、俺に見せたいのなら無意味だ。自慢じゃないが、気がつかない可能性を考えねばならん男だからな。
「自転車に乗りにくいだろ」
「練習してるから」
「はぁ……」
それ以上のコメントは思い浮かばず、ただ苦笑いで返す。
どうも、こちらの想像を超える事態のような気がし始めた。考えるのはよそう。どうせ俺が履くわけじゃないから、困ることは何もないはずだ。
「じゃあしょうがない。俺の格好にリクエストは?」
「えーと、じゃあこれを」
「リボンなら断るぞ」
「ぶー」
律儀にカバンを開けようとする彼女に少し呆れる。
けれど、そうしていつの間にか彼女のペースになじんでいる自分に気づいて、なんとなくまた笑ってしまう。
今、ちさりんはきっと俺たちを遠巻きに観察しているだろう。勝ピーももしかしたらそうかも知れない。良が千聡を迎えに来て、そばにいるかも知れない。だいたいまだほとんどの人間は残っているのだから、クラス中の注目を集めていそうだ。ひそひそ噂話が始まりそうだ。
そんな周囲でさえ、十秒もあれば忘れてしまう。彼女はそれほどに特別だ。もうそれは隠しようのない事実だった。
「ところで、親には説明…」
「清川先生にいろいろ教わることになってます」
「……うまいごまかし方もあるもんだ」
「ごまかしてなんかないでしょ。事実その通りだから」
先達はあらまほしきものかな。これなら俺でも言えるだろう。本当に難しいのは、むしろ明日だ。正直に言おうにも、自分にはどう説明していいか判らない。にこにこ笑う彼女を前に、どうしようもないことで悩む自分がいた。
「暑いだろうな」
「それはもう間違いなく」
「…お互い、物好きなもんだ」
葦原の中津国。それは降り立てるわけでもない、近くて遠い土地。橋の上から見下ろせば、まるで二人は天上の神のようだけど、それ以上はどうしようもない、ただの傍観者。
「明日も、頼むから笑ってくれよな」
「え? ………うん」
そんな国を見つけた彼女は何者だろう。黄泉の国へ去ったイザナミ? そんなはずはない。何しろ今や、不思議な不思議なサルトビさんなのだから。




