同じ空の下
時刻は午後六時半。二人は意外な場所にいた。
…嘘だ。思いつく限られた選択肢の、上から二番目ぐらいではあったはずだ。
「今日はそれぞれが買うってことで」
「無論だ」
良が言うところの「誰もが潰れるだろうと予測したが案に相違して未だに閉店しない上にそこそこ客も入っている」店は、いつものようにざわめきに支配されている。
小川の自転車が校門を出て三十秒後には気づいた行き先に、しかし何か感慨があるというわけでもない。空虚なファーストフードには、空虚な自分が足を踏み入れるのだ。
「またホットなの?」
「自分のオーダーを棚に上げるのはやめてくれ」
変わり映えのない光景だ。
まだ二度目に過ぎないけれど、まるで長年の風習であるかのような感覚。
小川は受け取った紙コップをまずテーブルの中心近くに置いて、それから自分のカバンを長椅子の奥にそっと下ろす。最後に自身が、テーブルの端に手をやりながらゆっくりと座る――。その気になればそっくり真似出来るほどに、すべてを俺は覚えている。
「…そんなに見つめて面白い?」
「え、いや、面白くない」
「そう……」
「あ、その…」
冗談だと判っていても、落ち込まれると焦る。これだっていつも通りなんだろうけど。
まぁともかく、座ったらまず一口飲む。
別に味わうほどのものではない。それでも俺は元々黙って食事する男だし、小川は小川で、食べ物に対する礼儀みたいなものをもってるような気がする。だいたいがガンコな女だからな、うむ。
「ところで山ちゃん。…出来れば他の名がいいけど」
「出来れば以下は心の中でつぶやいてくれ」
「あ、ごめん。で、山ちゃん。……………」
「心の中でつぶやかなくていいから本題は!?」
こうまであからさまなイヤミが必要なのだろうか?
そんなはずはない。だいたい、ふさわしい名を提示出来なかったのは小川自身ではないか。それとも、本気でカズなのか? フランスには行けないのか?
………。
くだらんことで興奮してしまった、反省。
まぁ二人の問題には違いないのだ。すべての責任を彼女に負わせるわけにもいくまい。新しい呼び名が必要なことに変わりはないから、いつかどうにかなるだろう…って、我ながら適当だな。
「ではありがちに質問」
「うむ、とありがちに返事」
「良くんに、「オ、オクムラチサトとはまだ知り合ったばかりなんだからつき合うんじゃねぇ」って言ったそうですが」
「ちょ、ちょっと待った!」
狭い店内に響きそうな声で、慌てて小川の言葉を遮ってしまった。
正直言って、俺の口真似の出来が散々で聞くに耐えないとか、いろいろ言いたいことはあるが、この際それらは些細な問題だ。
「違った?」
「いや、その、しばし待たれよ」
「承知」
とりあえず深呼吸。続いて肩を回す。相変わらずゴリっといい音だ…と、聞き惚れる場合ではない。
どうして小川の口からそんな話題が…。
「まずは事実を確認しようじゃないか」
「まぁ、どうぞご自由に」
考えてみれば、一瞬で経路は判った。元々が俺と良の会話なのだ。床下や天井に忍者でもいない限り、漏らすのは良しかいない。となれば相手は千聡で、千聡から彼女に伝わるという、見え見えの伝言ゲームが待っているわけだ。
………。
せめてどこかで口止め出来ないものだろうか。
「俺は断れと言ったわけじゃない。ただ…、知り合って間もないんだから、やっぱりつき合うかどうかは迷うだろ、普通」
「………」
「それでだな、良は何かと気をつかう奴だから、「断わったら千聡に悪い」とか余計なこと考えるなって言ったんだよ。つき合いたいと思わないならやめとけと…」
「じゃあ山ちゃん」
小川の声にはなんとなく不満がにじんでいる。俺としては、出来る限り当たり障りのない説明をしたつもりだったが、…困った。
だいたいあの時だって、俺自身はむしろつき合うことに賛成だったのだ。
千聡は第一印象から確かにやかましい女だった。それどころか、声を掛けられた翌日には回し蹴りを披露されていた……から、その気になれば暴力女だとかあれこれ吹き込めたけれど、俺はあえて何も言わなかった。やかましいが世話焼きで、ツッコミが激しいがわりと素直、そう言い換えれば悪くない。良みたいな格好つけ野郎には、大人しいよりよほど似合っていると思う。
「知り合ったばかりじゃ判らないって、今も言える?」
「え…」
そのままじっと見つめられる。今もとわざわざ断る以上、彼女はきっと俺たち自身のことを聞いているのだろう。
…だけど、俺たちは普通に出逢ったわけじゃない。最初はツルとゴロウ。その次は教室での怒鳴り合い。こんな無茶な始まりはなかった。
「答えて」
「……なぁ小川」
「はい」
「それはきっと特殊な事例なんだと思うが…」
気がつくと、コーヒーを口に運んでいる自分。
きっと、のどは渇いていた。
「女子が苦手で、ちさりん以外に話しかけることもなかった自分が、出逢った最初から意識せずに話せる相手がいた」
「………」
「そういう相性ってのは、きっとあるんだろうな」
「うん」
それは率直な思い。
説明しようにも出来ない、不思議な出来事だったのだ。
「私も男子は苦手だったから」
「うむ、俺は男ではなかった。衝撃の事実だ」
「なら衝撃の事実その二は、私が女じゃないってこと?」
「いや、……それは衝撃だがやめてほしい」
軽く笑って、またコーヒーを飲む。味は判らない。
とりあえず、小川が男子を苦手としていたのは、何となく判る。確かに俺たちは似ていた。少なくとも互いにとって、どこにでもいる相手ではなかった。
「で、………や、山ちゃん」
「どもるな。好きに呼べばいいだろ」
「………」
実にしつこい女子生徒である。早々に代案を考えねばなるまい。小川が嫌がりそうな名前を探してやるぞコンチクショー。
「……か、か」
「却下!」
「うぅ…」
一発ギャグはしつこく繰り返すものではない、と教えられて来なかったのだろうか。
これも父親がいない弊害…なわけあるか。軽く自己嫌悪。
「ま、それは冗談ですが」
「………」
「呆れてる?」
「若干」
「その程度なら…」
果てしなく脱線していく。
そもそも元に戻す気があるのか疑問である。
「隠し事のない関係っていいと思わない?」
「……それは良とちさりんのことか?」
「文脈上はそうでしょう」
「文脈上…」
そろそろなくなりそうだと思ってカップを覗くと、底にわずかに残っている。
一度に飲むわけにもいくまい。
「要するに小川悦子クンは、山際博一は隠し事だらけで信用出来ないと言いたいわけである」
「…あ、そうだったの」
「いや違う」
自分で訂正させられるというのはこの上ない屈辱である。
何度考えても、これほどの話術をもちながら無口で知られていたというのが信じがたい。どれだけの無理を重ねて来たのだろう。息苦しくて、夜中に蒲団の中で一人ボケツッコミを繰り返していたのではなかろうか。
…怖いな。
「また隠し事」
「隠し事ではない、妄想だ」
「どんな妄想してたの?」
「それは秘密だ」
「隠し事してる」
「…………」
もしかして俺はわざと墓穴を掘ってるんじゃないか?
………。
せめてそう思わせてくれ。
「けどなぁ、本気で妄想の中味なんて聞きたいか?」
「うん」
「それがたとえば、「小川の胸でけーなー以下省略」みたいな内容でもか?」
「……あの」
さっと小川の表情が曇った。
いや、間違っても俺はそんな妄想はしてないぞ。
「今のたとえは、本当は私の胸が小さいという意味でしょうか」
「ぐぁ」
慌てて両手を左右に振った。
しかし次の瞬間には、それもまずかった気がした。否定しただけでは胸の話題が続いてしまうではないか。
「やっぱり祐子さんみたいに大きいのが好み?」
「む、胸の話はやめよう。ごめん。すまん。申し訳ない。俺は胸と会話するわけじゃないから」
「はぁ…」
そうして何とか押しとどめることに成功する。きっと情けない俺の表情に負けたのだろう。あまり望ましい解決法ではないが、小川を相手に今さら小細工してもしょうがない。
胸か…。
中年オヤジ風にセクハラ発言してみたわけだが、考えてみればいつでも自身に返って来る話だ。迂闊にもほどがあった。
しかし困った。
急に目の前の女子生徒を正視しづらくなった。
「ごめん。ちょっとからかい過ぎた?」
「いや。…俺のせいだし」
「じゃあ角度を変えて、…山ちゃんはいつもどこを見て話してるの?」
「え…」
慌てて小川の表情を見る。
そういえば、慌てるまではどこを見てたっけ?
「たとえば私と話してる時、こちらを向くとたいてい驚いてる」
「う、まぁそうだな」
「そのほかの時間は、私の胸を見てるかというと、そうでもないらしい」
「…貴殿の観察眼には恐れ入るばかりでござる」
所詮、他人の服装も覚えてない男に勝ち目はない。
もっとも、彼女が言いたいのは単なる事実の確認ではないはずだ。そういう態度をとってしまう俺には、何か深い理由があるということじゃないだろうか。
…………あ。
「なぁ、もしかして朝のリボン…」
「どこまで気づいたの?」
ぐ。やはりあそこから始まっていたのか。
「正直に言うが怒るなよ。ちさりんがリボンをつけてたことと、もしかして小川のものじゃないかということ」
「あ、私のだって判ったの? すごい」
「…無理に褒めなくて結構だ」
そうなると判っていても、バカにされるのは悲しいものである。
…けれど。
「種明かしですが」
「うむ、存分にやってくれ」
「あのリボンは確かに私のものだけど、山ちゃんに見せたことはありません」
「え?」
硬直する。
これまた墓穴か? 今日は何人分掘ったんだ?
「悪く言えば見てない証拠なんだろうけど」
「うむ、…悪い」
「けどそれは、山ちゃんの妄想に私が登場してるってこと?」
「………」
ぎこちなく俺はうなづいて、それから思いついたように彼女の顔を見つめた。
妄想の中の彼女と、目の前にある姿のどこが同じでどこが違っているのか。目が二つ、鼻は一つで口も一つ………、いくら見たって判りそうにはない。
あるいは―――、違ってなどいないのかも知れない。おかしなことが頭に浮かんだ。
「では一度」
「…………」
目の前でカバンから取り出したリボンを、さっと結んだ小川。その手つきは手慣れたものだった。
朝の千聡がしていたものと同じものが、千聡と同じ位置に結ばれる。もちろん二人は髪の長さが違うから、全く同じというわけにはいかないが。
「似合う?」
「もちろんだ」
「…本当に見てる?」
目があったままそういうことを言われると悲しくなるぜ。
もっとも、似合うかどうかなんて答えるまでもない。つまり、見なくとも言える……んだよな。うーむ。
「淡く血の色にも似た赤が、長く艶やかな黒髪には…」
「もういいです」
「……すまん。いや、でも間違いなく似合ってる。人様に見せても恥ずかしくないすが…」
「馬子にも衣装ってことですね、よーっくわかりました」
「あぐ…」
今日はダメだな。穴埋めどころか掘り返すばかりだ。
小川は少し拗ねた表情で、さっさとリボンを外してしまった。なんだかリボンに申し訳ない気がして、カバンに収まるまでじっと目で追う。
「それとも、付けてみる?」
「……似合うとでも?」
「さぁ」
彼女の笑顔。
ああそうだ。
不思議なものだ。
見ようと思っても見れないのに、わけの判らないタイミングで目の前に現われる。それが怖かった。だから目をそらすのだ。
「…なぁ、確か二人で話し合うんじゃなかったか?」
「あ、そうだったかも」
ただ、もう今の自分には目をそらす理由なんてなくなってる、そんな気がする。
問題はその、理由がないってどういうことなのか判らないところだ。
「では最後の質問。これ答えてくれたら帰っていいです」
「…う、うむ」
まだあるのか。これだけ質問好きでは先が思いやられるな。
先? 先ってなんだ?
「なぁ」
「え?」
「そんなに俺のことを知ろうとするのはどうしてだ。俺を警戒してるからか?」
「え、……その」
なぜか口にした台詞に、違和感を覚える自分。
「違うと思うよ、たぶん」
「………」
そして、彼女は明らかに困っていた。
さすがにそれ以上追求するわけにもいかず、ただもやもやが残る。
「悪い。最後の質問を頼む」
「あ、………うん」
彼女のペースはまだ戻っていないようだ。
もっとも、それぐらいの方が助かる。翻弄されるばかりの時間はやはり疲れるから。
「じゃあ質問。私たちが最初から普通に話せたのは、ゴロウとツルのおかげ?」
「違う!」
即答した。それだけは絶対に承服出来なかった。
「……違うの?」
「絶対に違う」
「山ちゃんは冷たいと思う」
「………」
「私は…、嬉しかった。記憶が飛ぶようになってから、ずっと不安だったから」
「それは…」
………。
その話題を出されると困る。最初からクツバミゴロウを知っていた俺には、何も言い返せない。
「私の体に住みついた人がツルって名前で、ゴロウって恋人がいて、その人と今出逢っているって、幸せなことだと思う」
「幸せ?」
「だって私が誰かのために役立ってる」
それはそうかも知れない…と一瞬思って、やはりためらう。
彼女の言葉ならなんでも肯定出来る自分もここにいる。それは危険だ。疑い、怯える自分と、どちらが今ふさわしい存在なのだろう。
「だから山ちゃんは冷たい」
「…それは違う」
「どうして」
「冷たいのはどっちだ。小川悦子を追い出すのが幸せなのかよ」
「………」
まくし立てる自分は、ふさわしいのか?
そんなこと、しゃべり出したら判るわけがない。
「はっきり言うぞ。ツルは小川悦子の名を訊ねた。えーこって名前を聞きたかった。それは何故だ?」
「………」
「それはツルにとって、小川悦子だから居着く理由があったってことだと思う」
「…………」
結局、感覚だけで叫んでいた。
「それなのに小川悦子が消えていいのか? それはツルを追い出すのと同じことじゃねぇのか?」
「……………」
言いたいことを吐き出すと、妙にすっきりした。けどそれが言いたいことだったのか、考えたら終わりだ。
彼女は黙って聞いていた。
叫んでいる自分は、このまま圧倒することを夢見ていただろうが、一息つけば反論を待つ身。
「それは山ちゃんにゴロウが居着くことの理由にもなるよね」
「え? ………ま、まぁそうなるか」
「もう一つ。……小川悦子と山際博一が高校の同級生になったことも」
「ま、待った!」
「え?」
焦っていた。
いや、それこそが大いなる勘違いだったのかも知れない。
「提案がある」
「はい」
「……週末にでも、中津国に行こう」
「………」
けれど、言ってしまった。
もう引き返せる状況にはなかった。
「そこで話の続きが出来たら、と思うんだが」
「…うん」
とりあえず、こう考えよう。
二人で話し合うべき場所はここじゃない。なかった。そうだ。それはまるで関係のない出来事だったようで、つながっていたのだ、と。
「かかとの高い靴でも構わない?」
「…構うと言った記憶はない」
予期した通りに笑顔を引き出す自分は、忍者の里からやって来るサルトビの人だ。もうすぐ、教えてやる必要だってなくなる。
それは、ありていに言えば勇気。そんな言葉、俺は嫌いだから使わないけれど。




