大罪人
……………。
目が覚める。何かを見てた気がする。
違う。夢。夢の中で俺はじいさんと話していた。
他愛のない話。じいさんは体が不自由になっていて、俺は気遣うだけで、しかもどこか死の影を感じていて。
もちろん、夢の中の自分は、目の前にいるじいさんの死など知らない。知らなかったはずだ…けど、どこか夢の舞台そのものを覆う影みたいなものを感じている。じいさんがすでにこの世にいないことを知っていて、その上でじいさんの存在に驚いて、せめて今はそんな貴重な時間を大切にしなきゃ、と思うのだ。
おかしな話。結局は、目覚めてしまった自分が見ていたはずの夢を書き換えていったのだろう。いつからか、そんな結論に至った。起きている自分にとって都合の悪いこと、あってはならないことは、遡って注釈されていくのだ。
そういえば今朝の夢では、親父が雪の中からタケノコを掘り出してかじっていた。夢の中でも季節はどう考えても初夏だったが、別に不自然な感じはなく、ただかじられていくタケノコの質感だけが異常に気になった自分。だから自分も裏庭に回り込んでみる。するとそこには本当に雪が残っていたし、タケノコもあった。駆け寄った俺は確かにタケノコを手に掴み、バリッとかじった。感触がある。ましてその時の音は、今も耳の奥で鳴り響いている。
これは都合のいい夢なのだろうか。起きあがって窓を開けてみたが、その瞬間に熱風が吹き込んだ。まるでタケノコの冷たさを吹き飛ばすかのような衝撃。
雪は遠くの山にある。それだけだ。まぁ夢の景色が現実とシンクロする必然なんてどこにもないのだ。
「ハックン、朝早ぇなー」
「やかましい」
残念ながら本日は優雅にジョギングとなった。
空を見上げれば、どんよりと曇っているが雨は落ちてこない。昼過ぎから本降りになると、天気予報は告げていた。この町で本降りというのはかなり激しい雨になるから、大きめの傘が必要だが、これが実に邪魔で……、要するにあんまり優雅でもないってことだ。
とにかく、夢の景色まで覚えている朝というのは、しばらくぼーっとして、やがて時計があり得ない数字を示していることに気づくのだ。体調は別に悪くない。けれど早食いに自信のある自分が、朝飯を抜かねばならなかった。
ここで昔の少女マンガのそそっかしいヒロインなら、お魚くわえたドラ猫…ではなく、きっと食パンくわえて走り出したことだろう。俺は残念ながら少女と呼べない存在であるが、一度やってみたいと思っている。実は少々あこがれの登校風景なのだ。
…しかし実行するとなると、さまざまな問題に直面せざるを得ない。
第一に、うちは米の飯を主食とすること。「遅刻しそうだから食パンを用意してくれ」と頼む方法もあろうが、その発言には多くのツッコミが入るだろう。遅刻しなければ良いのだし、食パンとのつながりも謎である。
仮にご飯だったら、茶碗をくわえたまま走るのはみっともないし、だいいち学校に茶碗を持っていってもしょうがない、だから食パンだと主張することも考えた。しかし一般的な返答はきっと「食べながら走るな」であろうし、俺の茶碗は茶碗といってもプラスチックだから、まぁくわえられなくもない。
ただ、最大の難関はその先にある。食パン登校とは文字通り走りながらパンを食するものであろうが、仮にこれを実行した場合、気分がてきめんに悪くなってペースが落ちる。つまり食パンをくわえたがために、かえって遅刻する可能性がある。ヒロインへの道は険しかった。
「ハックン、朝からニヤニヤしてんなー」
「お、チャイムだ勝ピー、オルゴール音は風流だねぇ」
「ごまかしただろ。まさか今日のことを…」
「ストップ! 今日のことって…」
別に風流でもなんでもない勝彦の顔を、まじまじと見つめてしまった。
そうだった。今日はまた祐子さんに襲撃される日なのだ。俺の気分はまるで今の空模様だ…と、これはちょっと風流だな。
「なんだ、ハックンは言われるまで姉貴のことを忘れてたな」
「そ、そ、そんなことあろうかいやない」
「しかも思い出して嫌がってるな。姉貴に言ってやる」
「ま、待てこら勝ピー」
駄々っ子な勝彦を追いかけるうちに階段を駆け登り、いつもの教室についてしまった。
やれやれ。いつもの挨拶をしようにも、背後に教師が迫っている。仕方なく千聡には軽く片手で合図だけしておく。小川は遠すぎて無理だ。
………。
ふと覚える違和感。椅子に座ったとたんに授業が始まったから、いつもの七つ道具――教科書、ノートと数えても七つにはならないが――を慌てて並べるのが先で、周囲に気を配る余裕はない。ないが目に留まった瞬間から頭を離れないもの。
ようやく授業らしい机になったところで、ゆっくりと右隣に首を回す。
千聡がいる。当たり前である。
……ただし、リボンを装着しているが。
「なぁ、そのリボン…」
「え、気づいた!?」
「…気づくだろそりゃ」
授業が終わるとすぐに問いただす。
…はいいけど、なぜ驚くのだろうか。いつもの髪に無理矢理くくりつけたような、赤いリボン。それもこちら側に向いて装着されているのだから気がつかぬわけがない。
「ふーん。可哀相に」
「は?」
「ねぇ?」
「…うん」
いつの間にか隣にいたのは小川、小川悦子。
その瞬間、千聡の言いたいことも残念ながら判ってしまった。
「ま、まず挨拶だ。おはよう小川クン」
「おはようヤマギワクン」
「うむ…」
誰かこのまるで似てない物真似をやめさせてくれ…じゃない。問題はこの先だ。
「お、えーこちゃんおはよう」
「おはよう勝彦くん。今日は一緒だったね」
「む、別に待ち合わせしたんじゃねぇぞ。ハックンはだらしない奴だからああなっただけだ」
「おい」
華麗にごまかす予定だったが、乱入者の登場で計算が狂った。
…まぁいいか。おかげで無意味な緊張感が失せた気がする。ついでに言えば、きっと華麗にごまかせはしなかっただろう。
「えーこちゃん、放課後よろしくな」
「あ、うん。でも祐子さん忙しいのに悪いような…」
「姉貴の趣味だ。最近ここに来るの楽しみにしてるし」
「…それならいいんだけど」
そもそも今日の自分に、何か責められることがあるだろうか。少なくとも、失態を犯したわけではないぞ。
目の前にいる小川は、ありふれた夏服を着て、後ろ髪を目立たぬ色のリボンで括っている。地味といえば地味だが、まさか「今日の小川は地味だなベイベー」と叫んだところでどうなるものでもないし、地味をジミーと言い換えても、少なくとも小川悦子には無関係である。
「で、今日は何をやったんだ、ハックン」
「な…」
「違うのか?」
あっけに取られて、しばらく勝彦と見つめ合ってしまう。
………。
なんだオイ、意外と童顔だなテメェ。ちょっと可愛いじゃねーか…じゃない。アホか。
「今日も、何もしとらん」
「あれ、そうだっけ」
今度は実にわざとらしい千聡の声。
さすがに今度は見つめ合わない。ぼーっと視線を合わすのは何かと危険だし、それ以前に邪悪な少女の顔など見ないに限る。
「なんだまたちさりんを怒らせたのか。鼻毛か? フケか?」
「は、鼻毛ってあんたねーっ!!」
「ぐえっ!!」
まぁしかし、所詮は勝ピー様だった。狙わずにここまで話題をそらせるというのはたぐいまれな才能であろう。欲しいとは思わないが。
短い休み時間はすぐに終わる。結局小川とは、挨拶以外に話す機会がなかった。
あれで良かったんだろうか。授業が始まると、かえってうやむやになったことが気にかかって集中出来ない。
小川の髪飾りにいつも気づかない俺が、ちさりんなら一発で気づいてしまった。それを千聡が叫ぶという時点で、これまでの経緯を聞かされていると容易に推測出来る。
…というか、そもそもあのリボンは小川のものなんじゃないか? 同じようなものをどこかで見たような気がする。いや、小川と千聡は、俺にそれを当てさせようとしてるんじゃないかとすら思えてくる。
うーーーーむ。
しかしこれがまた、確証がもてない。赤いリボンを見た記憶はいくつかある。この前の日曜、美術館でしていたのも赤だった。あの時は確か、昼飯までに外していたと思うが。
……違うだろ。いくらなんでも、そんな直前のことなら記憶している。クイズの回答としても安易に過ぎよう。クイズだという保証はそもそもない。そもそも小川が経緯をしゃべる時点でおかしいのだ。彼女の意図するところはともかく、ちさりんに格好のネタを提供してしまっただけではないか、
ため息。
それからいつものように肩を回す。今日もゴリゴリいい音が鳴る。
どうも最近、俺は方々で悪人になっている気がする。日曜にせよ今日にせよ、自分の周囲で起きることは、すべて俺のせいにされているような…。
ただ、そうやって責められ続けても、不思議と居心地が悪くなることはない。なぜだろう。それは非難される事象が、いちいち取るに足らない些細なものでしかないからか?
そうでもないだろう。仲違いなんて些細なことから始まるものだ。だいいち、日曜のようなことは、少なくとも当事者にとって些細と呼べるはずがない。
うだうだと考え事が途切れぬまま、昼休みになってしまった。
今日の昼飯は? ドラ右衛門風に「ジャジャジャーン」とか効果音を付けても、ただのパン。それもまだ買ってないから、効果音だけでモノはない。ダメじゃん。
食欲はある。残念ながら朝食を抜いたという事実も厳然としてある。修行僧でもあるまいし、断食など以ての外である…が、取り立てて食べたいものもないから、ゆっくり階段を降りて、群衆を避けるようにパン屋をしばらく眺めておく。
やがて人の波がひいたところで、おもむろに近寄ってみる。
たいしたパンはない。指の形がついた揚げあんパンと、名前のわりに味気なくて不評のピザパンなど、定番がそろっている。
あまり悩む気のない俺は、ゆがんだあんパンを二個つかみ取り、じっとオヤジの顔を見る。そしてコインを一枚置いて、颯爽と階段を登ったわけである。
「山ちゃん」
「お。……なんだ?」
もちろんこのまま教室に戻るのがいつものパターン。本日はなぜか目の前で障害が発生したので、どうやら戻れないようだが。
いやまぁ、冗談である。今日も、だな。
「いい天気だね」
「そうは見えない。雨降ってるだろ」
「ここには降らないし」
鉄筋の校舎の中で、意味不明な言葉を口走る小川。なし崩し的に俺は、廊下で立ち食いという行儀の悪い行為を選択させられてしまう。
…まぁいいだろう。残念ながら手元には立ち食いに適した食物しかないし、誰かと食べる約束をしていたわけでもない。もしかしたら勝ピー様が、文句の一つや二つや三つ以上叫んできやがるかもしれないが、所詮ヤツは弁当の男だ。昼飯時に解り合える日など永遠に来ないのである。
しかしいざ窓辺に陣取っても、やはりしっくり来ない。グラウンドは無人、そして彼方の山は厚い雲に隠れたまま。見えない窓はただの窓。意味があるのでしょうか。
「隣で無視されると淋しいな」
「む、む、無視などしとらん。ただ食事に集中しているに過ぎぬ」
「まだ袋のままだけど…」
「ぐぁ」
我ながら判りやすいボケだった。これも会話を和やかにするための方便である…はずがない。
「要するにだな、妄想は急に止まらない」
「…そうなんでしょうね」
「どちらかというと、妄想があるから俺なのではなかろうか」
「そ、そう?」
「考えてみたまえ」
それっぽいポーズを取りながら、どこで引き返せるだろうかと不安になる自分がいる。
ならば最初からやるなと言いたい。
「山際博一から妄想を取り除いたら何が残る?」
「ゴロウちゃん」
「ぐぇ」
即答されてしまった。そうかそうですか、俺はゴロウの不純物ですか。
「あ、えーーーと、フォロー入れていい?」
「今さらだと思うが、好きにしてくれ」
「はは…」
笑顔の小川は、やっぱり朝と同じで地味だった。
今の自分にとって、そんな見た目なんて些細な差異に過ぎないけれど。
「半月くらい前は確信してたんだけど、最近自信がなくなってる」
「は?」
「もしかして、二人は分けられないんじゃないかって」
…………。
それのどこがフォローになってるのかと、まずは心の中でツッコむ。
けれど、彼女は真剣に悩んでいる。それも判る。
「なぁ小川、まさかとは思うが…」
「なんでしょう」
「こうやってしゃべってる俺の中に、いつかゴロウが混じるんじゃないかと思ってるのか? 小川がそうだったかも知れないように」
「…それはあんまり期待してないと思う」
苦笑しながら小川は俺の手元を指さした。
もちろんそこには指の形がついたパンがある。別にほしいわけではなかろう。さっさと食えという意味じゃなかろうか。
「山ちゃんは、山際博一って人には、きっとゴロウに意識を譲る気なんてないだろうし」
「………」
「ゴロウちゃんも、かなり気難しい人のような気がする」
「気難しい、なぁ…」
慌ててパンを食っているので、あまり相槌も打てないまま、とりあえず彼女の表情を窺っておく。何も絶望感に打ちひしがれてるわけではなさそうだ。まぁそんなものだろう、とは思う。
もちろん俺の立場からは、今すぐにでも絶望してもらいたいのだが。
ゴロウとツルを追い払うには、やはり二人に対するシンパシーなど邪魔でしかない。あきらめるでも、興味を失うでもいいから、まずは二人が俺たちにとって全くの他人であることを認識する努力をしたい。
……もちろん、そんな付け焼き刃の対策ではもうダメなのかも知れない。求められているのは、もっと根本的な策。祐子さんが口にしていた「祭」は、きっとそういうものなのだろう。俺にはまるで想像もつかない話だけど。
「ところで山ちゃん」
「ん?」
「私がハイヒールなんて履いたら、嫌?」
「え……」
いきなり話題が変わった。女子というのは不思議な生物である。
まぁそんな感慨はおいといて、ちょっと想像してみる。
…してみるまでもなかった。同じだった目線がその分上がって、普通に見下ろされるだけだ。
「その顔は嫌がってる」
「嫌…というか、必要あるのか」
「どうも勘違いしてるみたいだけど、ヒールというのは何も背を高くするために履くわけじゃないのです」
「う………、よく判らん」
いや、理屈は判る。いくらなんでもシークレットブーツや舞の海の頭シリコンと一緒にすべき問題ではないはずだ。
もっとも、はずだと言ってはみるが、具体的に女子の心の中を窺うのは難しい。少なくとも俺は履かない。きっと誰かに指摘される前に「キモッ」と身震いするはずである…って、まったくどうでもいい妄想だ。
「ということで山ちゃんに要望」
「…うむ、言ってくれたまえ」
それにしても、墓穴を掘らせた上で本題を切り出すとは策士である。困ったことだ。人の弱みを突いてくるからには、きっと良からぬ相談であろう。
どうやって逃れようか、緊張が走る一瞬だ。
「呼び名を変えましょう」
「呼び名?」
「山ちゃんはどこか変だし、小川と呼ばれるのは嫌だし…」
「はぁ」
いったいハイヒールと何の関係があるのだろう。女子…というよりは小川の思考回路が少し飛んでいるに違いない。
もっとも、提案自体はむげに拒絶することでもない。現状は以前よりマシというだけで、ほかに誰も呼ばない不自然な名を選んでいることに変わりはないのだ。
もっと理不尽な要求かと思っただけにほっとしたぜ。
「じゃあどうしろと?」
「えーと……」
当然の質問を返してみるが、小川は明らかに躊躇していた。
どうやら彼女の案は、万人が納得出来るものではなさそうだ。まぁ万人というか、二人が納得出来りゃそれでいいのだけど、その一名を納得させる自信がないのは確実である。
「………」
「では小川さん、どうぞ」
「ニ、ニックネームはカズ、山際カズ」
「…………………………」
しばらく凍りついた二人。やがて自分の口が半開きになったままだと気づき、溜め息をつく。
要するにその一発ギャグがしたかっただけなんちゃうかと。
「冷静な評価を下せば、やめた方が無難」
「そう…」
「なるほど俺の名前を分解すればヒロ+カズであったが、カズという部分は最早人類の記憶から忘れ去られてしまったものだ」
「はぁ」
「そんなものを今さらのように蒸し返すのは単なる懐古主義的な考え方であって、前向きな提案とは言い難いのではあるまいか」
「そ、そうですか」
我ながらよくもこれだけの出任せを言えるものだと感心する。
あえて言えば、おかしな呼び名はヤマヒロでこりごりだ、そういうことである。
「じゃあ残念ながら保留にします」
「…残念だ」
「あ…。押し通すべきだった?」
「今のは単なる合いの手というものであって、固有の意味をもたない。日本語のコミュニケーションは難しいなぁ」
「はぁ、そうですか」
気のせいか、肩を落として小川は去って行った。
まぁ気のせいではないな。それなりに事情は理解出来る――俺が引き起こしたのだし――とはいえ、しかしトータルで考えれば別に落ち込むようなことではないだろう。むしろ自業自得である。
………。
とにかく、俺も「小川」と呼ぶのはいい加減やめたいと思っている。これは憶測に過ぎないけど、彼女は意図的に名字で呼ばれることを忌避しているように思えてならないからだ。
あるいは父親の名字だから、かも知れない。だけどそれならば、離婚した時点で母方の姓を名乗ってもいいはずなのに、そうしなかったのが引っかかる。
もっとも、彼女はまだ幼かったのだ。名字の選択は母親がしたものであって彼女の意志は反映されていない、ということだろう。どっちにしろ、当人に聞かなきゃ本当のところは判らない。今の俺にとっては、呼び名が決まれば良いのであって、それ以上の詮索はやめておきたい。
しかし、いざ変えるとなると実に難しい。「えーこ」はネガティブで嫌だ。「えっちゃん」は既にサルトビのものだ。「悦子」と呼び捨てもどうかと思うし、やはり家政婦っぽいのが気になる。もしかしたら小さい頃、近所のガキに家政婦家政婦と呼ばれていじめられたかも知れない。まったく心ないガキどもだ、実に許し難い…と、勝手に過去を捏造するなよ俺。
しょうがねぇ。えっつー、えっちん、えつやん、えつぼー、えつべぇ、えつお。
こういうのを不毛と呼ぶのであろうハッハッハ。
「起きてるか、ヒロ」
「…いつも寝てるような言い方はよしてくれ」
結局、それ以上の何が起きるでもなく放課後になった。
そして残念ながら本日は地研デー。まぁ肝心の部員が一人しかいないのだから、決してふさわしい呼び名ではないし、行きたくもない。
地研デーには行けんでー。
寒っ。我ながら絶好調だ。声に出さずに済んでほっとした。ともかくロクでもない時間の始まりだ。地研デー、それは勝手に部室を占拠した魑魅魍魎の集会なのである…と言いきるのも後が怖いな。
ともかく、せっかく祐子さんが来るのだから、この際「祭」について説明を求めてみよう。俺に理解出来るかは疑問だけど。
「良くん、ノート」
「おう。役に立ったか?」
「うん。かなり役に立った」
そして当たり前のように良が千聡の頭をなで始めると、いっきに教室はほのぼのムードに包まれる。なんというか、以前にも増して場の空気を無視している。つき合ってる二人というのは、所詮そういうものなのかも知れないと、無理矢理でも納得しないとやってられない。
「おい、何しに来た、良!」
しかしどういうわけか、二人の世界を壊す者が現れる。いきなり立ち上がって叫び出したのは、勝彦だった。
耳元で突然叫ばれるのは心臓に悪いのでやめてほしいのだが、どうもそれを主張出来る雰囲気にない。うーむ…。
「これから祐子さんを迎えに行くんだが」
「なら勝手に行けばいいだろ」
両者は俺を挟んで対決している。まったく迷惑この上ない話である。二人ともまるで俺の存在を意識していないというのがさらに悲しい。人の尊厳というものを少し考えてもらえないだろうか…と言いたいところだが、巻き込まれるよりマシか。
勝彦は何かと良を目の敵にする。それは今日に始まったことじゃないし、勝手にライバル視すればいいと思うけど、どうも今日はいつもと違う。いつもより一段と理不尽な攻撃になっている。
どうしようか…、と思った視線の先に千聡がいた。それは判りやすく困っている表情だった。
………。
しょうがねーな。
ここは俺がどうにかするしかあるまい。一肌脱いでやるぜ!
「けんかをやめてぇ~~、ふたりをとめてぇ~~」
「………」
それは俺なりに考えた末の結論だったが、歌い終わる頃には違った意味の緊張感に包まれていた。
…というか、どう考えてもこの場にふさわしい歌ではなかった。まさか俺を巡って争ってるわけじゃあるまい。想像するだけで寒気がする。
「えーとね、勝彦くん」
しかしこの空気をさらに無視して割り込んで来た女子生徒が一人!
「良くんはこの前の日曜に心を入れ換えたのです」
「へ?」
「これからはちさりんの恋人として、影にも日なたにも邁進したい、だからわざわざ今も迎えに来たの」
「………」
男三人はそろって絶句。ついでに当事者らしい千聡もひきつった顔のまま凍り付いている。
………。
小川悦子クン。君はちょっと変わっているよ。
「………」
それからしばらく、勝彦は無言のまま良を見つめていた。
なんだかそれはそれで嫌な景色である。相変わらず俺は挟まれたままだし。どうにかならんものか。
「良!」
「おぅ」
「泣かすなよ」
「おぅ」
………。
勝ピーはすっかり浸っていたようだ。ついでに言うと、良も相当に酔っている。なんなんだこいつらは。今時砂浜を走りそうなクサイ青春ドラマなのか。
さっさとこの場を離れよう。カバンを手にした俺はこの空気を壊そうと、わざとガタガタ音を立てて席を立ったのだ。
「しかし良、まだ諸悪の根元が残ってるじゃねーか」
それでも勝彦はまだドラマを演じている。すでに俺は観客であることを放棄したから、ヤツが何を言ってるのか意味不明だが…。
「諸悪の…」
「…………おい」
しかしいつの間にか、教室の視線は俺に集中していた。
なんだよ、どうしてこんな所で全員一致してしまうのだ。
「まぁ大丈夫です」
「そ、そうか」
しかも意味不明な会話は続く。小川もどうやらドラマに加わったままのようだ。
しかし、小川と勝彦という組み合わせで、果たして会話が通じているのだろうか? むしろ通じているとしたら、その方が相当に深刻な事態ではなかろうか。
「諸悪の根元は私、小川悦子が退治するから」
「……ああ、そう」
けれど、彼女のあまりにも奇妙な台詞で、俺は瞬間にしてすべてを理解してしまった。
彼女が言いたかったこと。それがもしも勝彦の心配――この表現には抵抗がある――と等しいのだとしたら、自分はもはや逃れようのない大罪人だった。
そういえば、小川は俺とゴロウを分離したがっていたな。
彼女が考える解決は、結局この体がクツバミゴロウに変換すること? それが俺を退治するってことか? それなら、もしもそうだったら俺はどうすればいい? 言われるままに自分を追い出してしまうのか?
そんな末路を自ら選択する人間なんているわけがない。退治されてたまるか。俺だって改心するはずなのだ。恐らくは…というだけで、なんの確証もないけれど。




