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川辺の祭  作者: nats_show
寄来
48/84

夏の娘

 その日の俺は、朝日を浴びて立ち尽くしていた―――。





「無理に聞かなくてもいいんだけどさぁ、ヒロピー」

「じゃあ聞かん」

「……………」


 優雅に揚げあんパンを食し、満ち足りた気分でまどろむ…。いささか真実と異なる表現が混じった気がするが、食べたものの値段によって満腹状態に変化が生じるわけではない。なんであろうが食べてしまえば同じ、オールオアナッシングである。

 どうでもいい話はさておき、金曜の昼休みはだれた雰囲気。千聡のありがちな誘いもまた、無駄に眠気を増幅させるものでしかなかった。


「日曜はきっと予定が詰まってるだろうから、聞いても無駄だと思うけど」

「うむ、忙しい」

「…………」


 互いに顔も見ずに繰り広げられる、なあなあのやり取り。正直言って、そろそろこういう馬鹿げた会話はやめるべきじゃないかと思っていた。

 変わっていかなきゃ…。しかしその思いは予想外の妨害で打ち砕かれる。


「どこか行くの?」

「ゲッ」

「え、えーこ?」


 振り向くと、実に屈託無く彼女は笑っていた。

 なぜそこにいるのだ。ただひたすらに俺はそのタイミングを呪ったのだっ!





「そろそろ現実に戻ろうとは思わない?」

「………うむ」


 目の前に広がる河川敷には、ランニングにいそしむ老人が数名。はっきりしたことは言えないが、時間の厳しい登校時の自分と同じ程度のスピードではないかと思われる。自分だったら間違いなく必死に走っているのに、老人は実に優雅だ。今一つ納得がいかない。

 左手のサッカーグラウンドにも人影が見える。かなり小さいから、きっと少年団の練習だろう。みんな朝から御苦労なことだ。

 俺は……、別に苦労はしていない。だいいち、朝は朝でも午前九時、早起きしたとすら言えまい。


「爽やかな朝だね」

「そうでもないぞ、虫だらけだ」


 ふっと風が吹く。視界の端に侵入するまっすぐな髪は、確かにいつもの学校とは違っていたようだ。





「あそこなら、もちろん家からすぐだけど…」

「そりゃそうだ」

「でもどうせなら旅行気分で行きたいから、上流の橋まで行って待ってもいい?」

「ただの遠回りでしょー」


 いつものやり取りで決まるはずのいつもの予定は、結局いつもと違う一名を加えることになった。何となく調子が狂った隙をついた…かどうかは知らないが、小川はただ加わるだけではなく、自らさっさと予定を決めてしまう。

 まぁ小川という女が仕切り屋であることは、さすがにもう周知の事実だ。その程度で驚くには当たらない…とはいえ、彼女が指定した集合場所は、無駄に遠回りなだけでなんの必然性もない。そもそも全員が行き先を知っている上に、その行き先が特に広いわけでも人が多いわけでもないから、現地集合が妥当であろう。かえって奇をてらったせいで迷う可能性だって、ないとは言えないのだ。

 いずれにせよおかしな予定だ。呆れる千聡。いや、俺もその瞬間呆れかけたのは間違いない。


「まぁ、小川が面倒なだけだな」

「そう」

「そりゃそうだけど…」


 だが半ば無意識に、俺は妙なフォローを入れていた。自称彼女の専門家――今初めて名告った気がする――が、ただ呆れるわけにはいかないのだ。いわゆる一つのプライドが許さないってやつだ。


「ちさりんと違って寝起きがいいことを自慢したいんだろう」

「し、し、しっ…」

「おばあちゃんみたいに言わないで」

「………」


 そうして小川の微妙な発言から、うやむやになって終わる。いったいどちらにとって失礼なのかと、考えてもすっきりしないけれど、これが小川ならではのフォローらしい。

 とにかく予定は決まった。午前十時に、上流の橋を渡った所――小川自身は渡らないが――に四人が集合し、そのまま自転車で美術館へ行く。良が本来なら千聡と二人で行くはずの日程が、跡形もなく変わってしまった。

 そう。集合予定は午前十時だった。

 なのになぜか俺は、一時間も前に橋を渡ろうとしていた。もちろん早起きを自慢する気はない。というか、誰もいない時間にやって来たところで、自慢のしようもないのだ。

 そうして、橋の手前に立つ見慣れた人影を発見した自分は、恐る恐る近づいて自転車を止めたのだった。





「山ちゃん」

「な、なんだね」

「今、私はどんな格好をしていますか?」

「え?」


 振り返る。その瞬間、しまったと思う。

 謀られた。ここで慌てて振り返るということは、見てなかったという事実を雄弁に語るものであろう。


「……スカートだ」

「はぁ」


 もっとも、今さら謀るも何もなかった。何しろ、見てもこれしか言えないのだ。放っておけば確実に何も見てなくて、わざわざ注意を喚起するとカスみたいな言葉を吐く人間。まったく、これほど世の役に立たない男がいるだろうか。

 …………。


「…いや、すまん」

「そうですか」

「うむ、きっと似合ってる」

「へぇ…」


 ああ、今日も川辺の風は冷たいな、と。何となく――ではないが――気まずくなって、視線を彼方に向ける。

 手前に見える長い橋は古びたコンクリートが連なり、中央部には武骨な鉄柱が見える。リベット止めの鉄柱はもうくたびれて、俺たちが渡ることは出来ないけれど、眺めるだけでも飽きない姿。

 現在の橋は奥に隠れて見えない。もっとも、見たところでどこにでもある退屈な橋だ。それを言ったら、中津国の上を横切る橋だって似たようなものだがな。

 目に見えるものは、日々変わっている。じいさんが渡った木造の橋なんて、今なら怖くて誰も渡りはしない。


「山ちゃんは不思議な人だね」

「どこが」

「さぁ」


 横切る影。

 一面に土手を覆う草は、既に春の柔らかさを失っている。駆け下りる彼女の足元に当たり、また突き刺す葉。だけどそれは彼女が草の領域に攻め込んだから。

 揺れる後ろ髪。たぶんベージュの――自信がないから口にするのはやめておく――ブラウスに、黒のロングスカート。似合ってないはずがない。自分にとって、もう彼女は当たり前の存在だ。そう言ったなら、記憶しない理由になるだろうか。

 …そんなことはない。当たり前であってたまるか。決して納得するな! 以前の自分なら叫んだかも知れない。

 後を追って坂を降りると、こちらを振り返る小川は笑顔で俺の足元を見ていた。正直、それは俺を緊張させるものだ。汚い格好の自分を品定めされるような気分。いつもなら逃げることも出来る。自分になんて誰も興味ないはずだ、と思えば無視出来るけれど、今はそんな姑息な手段も通用しない。


「私が行きたいって言ったから、怒ったでしょ」

「別に」

「今さら嘘つかないの」

「……嘘でもない」


 グラウンドの近くにあったベンチに腰を下ろす。

 ゆっくりと動く雲。まだこんなに晴れているけれど、今日の天気は下り坂だとテレビは語っていた。じきに梅雨になる。そうしたら、川辺で時間を過ごすなんてあり得なくなってしまう。


「その一瞬はもちろん腹が立った」

「うん」

「でもなぁ、……小川がいた方がまだマシだと思い直した。それだけ」

「………」


 横を向いて、そのまま見つめ合う。

 深い意味はなかった。小川が加われば、少なくとも去年から続いていた「三人」を逃れることが出来る。もちろんそれは「三人」ではないというだけであって、何ら本質的解決にはならないのだが。

 黙ったままの小川こそ、怒っていないのだろうか。俺がその場しのぎの理由で彼女の参加に賛成したことを、あの瞬間にだって感じてなかったとは思えない。


「今思ってること聞きたい?」

「優しい山ちゃん、じゃねーのか?」

「……山ちゃんはいつも意地悪」

「それも知ってる」


 揺れる前髪につられて、俺の視線も泳ぐ。

 少なくとも俺と同じ程度には優しいらしい小川だから、自己犠牲の精神でやって来た?

 …さすがにそこまで言い切れば嘘だろう。彼女はしたたかだ。何しろ一時間も前にここにいたのだから。

 今日のこれからはきっと、あの二人の日だ。そうしなきゃいけないのだ。


「そのうち梅雨になるよね」

「そうだな」


 まるで年寄りのような会話で、二人前方を見つめる。だだっ広い河川敷。グラウンドの向こうには葦原も見えるけど、川面はどこか判らない。

 彼女は俺に催促しているのだろう。こんな穏やかな時間を、ここではない場所で過ごす――それは間違いなく二人が交わした約束だった。

 本当は、今日の朝も迷っていた。二人にとって特別な場所だから、彼女はそこにいるかも知れない、と思ったのだ。


「美術館にはよく行くのか?」

「近いからね。山ちゃんは?」

「自分の意志で行くことはなかったな」


 それは実におかしな話だ。けれど彼女が時間前に来て待っていると、その点は疑っていなかった。

 最終的に、こちらへ向かう選択をした理由は、ごく単純なもの。あの約束は俺が持ちかけたものだ。だから、そうでない今回はむしろ近付かない方がいい。

 ………。

 神経質過ぎるかな、さすがに。

 だけど彼女と俺は、いつだって戦っている。そんな気がする。


「それで…」

「ん?」

「あそこは登るの?」


 彼女がふと指差した先。平野の中にちょこんと突き出た、山のようなものがある。

 よく冗談では、この町で一番高い山だというけれど、地図で見たら標高五十メートルしかない。


「少なくともちさりんは嫌がるだろう」

「それぐらい運動しなきゃ」

「なーるほど。じゃ、そうやって脅してみるか。山ちゃんの意地悪」

「………」


 かなりきつく睨まれた気がするが、まぁ気にしない。ワンパターンの会話には、時々アクセントが必要なのである。おそらく。

 視線を避けるように、川向こうの山に目を凝らす。断っておくがあんな山、せいぜい五分もあれば頂上に着くだろう。はっきり言ってそれは登山と呼ぶにも値しないし、運動にもならない。たとえ千聡が腹に付いた脂肪を燃焼させようとしても、きっと失敗に終わるのである。

 ………いやまぁ、別にちさりんは太ってないけどな。あくまでテレビショッピング的一般論である。うむ。

 当人は気にしてるようだったが、あれ以上痩せたらガリガリだ。ガリガリ君。ん? なんか違うか。


「この天気なら、きっといい景色」

「まぁ…、そうだろうな」


 そういえば昼飯はどうしよう…などと、会話とはまるで関係なさそうなことを心配してしまう自分。

 関係ないわけではない。何せあの山の名は飯盛山だから。

 ………無理か?

 ともあれ、あの辺はあまり店がない。三人で郊外に行った場合、たいがい市内に戻るという選択肢を取るわけで、今回も良はそのつもりかも知れない。けれど今は地元人がいる――俺だって準地元人だが――から、彼女にすべて任せてしまうのが吉かな。

 小川は何が好みなんだろう。そういえば知らないことが多い。千聡の嫌いなものなら、指折り数えて両手で足りないというのに。

 …………。

 ふっと息を吐く。

 隣にいる女子生徒。いや、今は生徒じゃない、同い年の女の子は、黙って川面の方角を眺めている。

 同い年…という部分は、こうして考えてみると疑問もある。いや、学校にいる限り疑問の余地はないけれど、彼女は自分より間違いなく大人びている。祐子さんと話していても、俺や千聡や、それどころか良だって先生と生徒の関係なのに、小川はまるで姉と会話するようにみえる。

 不思議だ。

 こうやって座っていれば、やっぱり俺のほうが年下で、もしかして姉と弟みたいに映るんだろうか。姉と弟……。


「そろそろかな」

「えっ?」

「妄想はほどほどに」

「残念だ」


 勝ピーみたいに見えるのは絶対に嫌だな。いくらなんでもそれはないと思いたい。うむ。


「時計持ってるか?」

「山ちゃんが持たないのはこだわり?」

「いや、面倒だから」

「…そう」


 細かいところで毎日俺は呆れられているような気がする。そうやって世界から切られてしまう。ダメな奴だから。


「あと十五分」

「ふむ、時間の経つのは早いのぉ」

「時計がないのに気になる?」

「ないから気になるものなのだよ」

「そ、そうなの」


 何を言ってるか自分でも理解できないが、ひるんだ隙に攻める。


「爽やかな陽気の下で、手際よく質問するぞ」

「まぁ、どうぞ」

「ゴロウが祟り神と知った感想は?」

「………」

「てきぱき答えよ」

「可哀相だと思った」

「ほぉ」


 びっくりした、という声だけ出してみる。もちろん織り込み済みの返答に、今さら驚くはずもないのだが。

 ついでに、それで返答が終わるとも思ってはいない。きっと彼女は言葉を濁すに違いない。だからこそ、微妙な駆け引きが必要とされるわけである。


「でも……」

「でも?」

「うん。可哀相でいいのかな、とすぐに思い直して、そのまま。結論はまだ出てません」

「思い直す?」


 それでも最終的に驚かされたのは自分。駆け引きじゃなくてただ翻弄されている。


「………」

「…いや」


 何も考えずに彼女の表情を追っていたことに気づき、肩をごりっと回す。

 不用意な自分。出来れば誰にも見せたくないと思っていたはずなのに、どんどん警戒心を失っていく。まるで吸い込まれていくような感覚だ。

 決してそれは別に不快なものではない。ないから余計、逃げなくてはならない、と思う。

 彼女の表情は、少しの不安を宿しているように見える。ほんのわずかの不安。それはきっと、発言に関して自信がないことを意味するわけではあるまい。彼女は強い。自分のことよりも相手を心配してしまうほどに。


「山ちゃんはどう思った?」

「それを聞くのはずるいだろ」

「一方的に質問するほうがずるいと思うけど」

「早い者勝ちだ」

「ぶー」


 早い者勝ち。というか、俺には彼女のような自信がないから。


「…私なんて、ゴロウちゃんのことを可哀相って思う資格がないと思う」

「資格?」

「うん」


 ゆっくりと首を傾げた小川。それはこちらのポーズを真似しただけであって、彼女の言葉とは何の関係もないだろう。

 だけど自分の言葉に自信がもてない、それは本当のこと。たとえ俺に出来るのがただ聞くだけだったとしても?

 違うな。


「なぁ」

「はい」

「小川は被害者だ」

「そう?」

「そうだ。というか、そこで一致しなければ話が進まない」

「…逆はないの?」

「ない」

「ない?」

「ない。絶対ない」

「ないの…」


 勢いに任せて圧倒しようとするが、やはりうまくはいかない。もちろん、うまくいくだろうなんて甘い見通しで、今さら戦うほどバカじゃないつもりだが。

 それよりも、彼女のこの強い意志。一番おかしいのは、これだ。


「意見が合わないよね。ちっとも」

「うむ。まるで噛み合わない」

「困りますねー」

「困ってるようには見えない。ちっとも」

「あ、そう」


 肩を怒らせて戦おう。そういう意志を持ち続けなければならないと、何度も自分に言い聞かせるけれど、どうにも流されてしまう。

 不思議な関係だ。今ごろになって気づくことではないのかも知れない。だけどこんな状況を想像するなんて、今までの自分には出来るはずもないし、今だって不思議という以上の説明なんて無理だから。


「ラジオ体操でもする?」


 ふっと、彼女が立ち上がる。

 その表情を隠すように射す光がまぶしくて、二三度まばたきをする。


「きれいだ」

「どうせ見てないんでしょ」


 立ち上がるその一瞬、視界が動いていく感覚。それはこのまま空をも飛びそうなくらいに脳を揺らす。

 晴れた空だ。騒ぐ風も凪いだ川面も、行く手を遮る虫の大群も、まるであてにならないカレンダーの季節そのままに巡る中心に空があって、その空は彼女を照らしている。

 夏の娘は、きっと学校にはやって来ない。


「よし、では出掛けようか小川クン」

「…どこへ?」

「橋の向こうへだよ」

「別にここでいいんじゃ…」


 反論は認めない。強い意志をもって、俺は行動する。

 坂を駆け上がると、俺の自転車は風で倒れていたが、彼女のはちゃんと立っていた。二人の性格がよく表れていると、テレビのコメンテーターなら懇切丁寧に解説してくれるだろうが、そんな不愉快なコメントは聞きたくない。彼女が気づくより先にさっと戻して、振り返らず橋へと急ぐ。

 歩道は橋の両側にある。そんな言い訳を用意しながら、ペダルに力を込める。堤防は相変わらず日射しが強くて、どこか草のにおいがする。振り返ったらもう、そこにはクラスメイトの顔が見えるだろう。北の町には、未だ春が居座っているから。


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