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薄汚れた天井に、蜘蛛の巣が見える。
もう何年も見続ける光景。近づいて見れば、ただの綿ぼこりに過ぎないような気もするけど、確かめたことはない。確かめなくとも、すべて知っている。僕はこの家で生まれて、今もこの部屋に住んでいるから。
両親は古い映画が好きだった。別に僕は見たくなかったけれど、晩御飯を食べながらテレビをつけられたら逃げようもない。
画面の中はどこかの海辺で、ギターを持った男が歌っている。親にとっては、古いというほどでもなかったんだろうけど、僕の目にはとてつもない昔。
だいたい海が違う。僕の家は山奥にあるから、そんなに海を見たことはない。それでも夏休みに海水浴に出かける海は、あんな景色じゃない。サーファーなんて人間も見たことがない。覚えているのはテトラポッドが転がる姿ばかり。
そうしないと砂が流されてしまうのだと、学校で習った。学校の知識と自分が見たものが、いつの間にかごっちゃになっている。おかしな自分だ。
おかしな自分。
中学校は全校生徒二百五十人。親は多いと言うけど、それが町のすべてだと気づいたら、なんだか寂しかった。高校に入ってから聞いた話じゃ、友達の学校には千人もいたらしい。そんなに多いのでは、六年間一度も話す機会のない相手が沢山いるだろう。信じられない。小学校の時なんか、クラスの全員がどこに住んでいるかだって知っていた。それが当たり前だった。
女子と話したことがないという奴にも驚いた。僕にとって、同級生の女子は別に話したい相手でもなかったけれど、話さないわけにはいかなかった。そんなことが特別だなんて不思議だ。とても理解出来ない。女子なんて、着替える場所が違うだけだ。みんな似たような言葉で、似たような話をしている。親の顔を知っている奴もいっぱいいる。
まぁでも、見てるテレビは違ってたかな、僕とは。……だけど、ほかの男子とも見るものが違っていたから、やっぱりどうでも良かった。
テレビのチャンネルは沢山あった。
田舎だから村のケーブルに入っていて、街の子どもより多くのテレビが見れるのだ。これは高校に入って、自慢出来たこと。
自慢出来たのはそれだけだ。どっかから村にやって来た先生は、ここは自然が豊かだとか褒めてたけど、そんなものがあっても嬉しくもない。だいたい自然なんてものをどうやって数えるのだ。嘘くさい褒め言葉はテレビだけで十分だ。
自然というのは金にならない。昔から村では方々で聞かされた言葉だ。
長町の茶屋爺は、僕が小学校に入った頃まで村会議員だった。その爺は、山を見てはどうにかして潰してしまおう、何か金になるものを植えようと、同じことばかり話していた。
僕は爺が嫌いだった。自慢話を始めれば、どこかの代議士のこと。「あいつは俺が育てた」なんて、誰が信じるんだと馬鹿にしていたけど、僕の両親は信じていたようだ。
ケーブルテレビがあって、人口十万の町よりいろいろなチャンネルが見れるのに、何も変わりはしない。自民党の代議士の写真を拝みながら、モダンボーイは草を引き抜くだけだ。
町の中でも、もう一つの都会に一番近い集落には、おかしな人が住んでいると爺に教えられたことがある。僕は爺の言うことなんて何も信じられなかったから、逆に興味をもった。そしてある日、自転車を走らせておかしな人の家を見に行ったのだ。
真っ直ぐに延びたスーパー農道は、集落に入ると急に細くなっている。その小さな集落の薄暗い道沿いに、おかしな人の家が建っていた。
僕はがっかりした。
そこはおかしな家でも何でもなく、ただ爺の嫌いな政党の事務所に過ぎなかった。
僕は政党の違いなんてよく知らない。…けれど、たまに投げ込まれる宣伝ビラを、両親が捨てる前に読むと、爺の支持する党よりも、他の党の方がいいことを書いてるように思えた。
だいたい爺の言う「政策」なんて、僕でも考えつくようなことだ。山を崩して、コンクリートの建物を造れば観光客がやって来る。単純な理屈だ。そしてそんなものは子供でも判る嘘だ。
国道沿いに出来た観光施設に、やって来るのは近所の人ばかり。そこで野菜を安売りすれば、町の店が代わりに潰れる。その上、すぐに隣の町も同じような建物を造ったから、今では近所の客も減ってしまった。そっちの方が新しいから。
馬鹿馬鹿しい。まるで子供がだだをこねるように、新しい建物が出来ては捨てられていくばかり。だけどそれをおかしいと言えば、おかしな人になる。爺だけじゃなく、僕の両親にすらも。
一度だけ、爺と喧嘩した。保守とか革新とか、よく判らない言葉もとりあえず使ってみたら、爺はそこで怒った。まるで他の言葉は何も聞いてなかったみたいだった。
爺は怒鳴った。「正しいものは何があっても守っていく、それが本当の改革ってもんだ」
僕はショックを受けて、黙りこくった。それはありていに言えば、電流に打たれたような衝撃だった。
もちろん、爺の叫んだことに納得したわけじゃない。納得など出来るわけがない。爺の言葉なんてその場しのぎの言い訳に過ぎないことを、もう僕は知っていたから。
爺なんて、ただ町を破壊しているだけだ。そんな人間の口から、村を守ると聞かされたことが理解出来なかった。僕の知ってるこの田舎の町は、ただコンクリートの建物が増えて、その代わり人が減っている。変わり続ける町の、何を守るのだろう。
ケーブルテレビのチャンネルを順番に見る。沢山ある中で、ニュースのチャンネルは最初に見るのをやめた。いくら見たって虚しいだけだから。
村のチャンネルなんて元々見ていない。爺の同類がくだらないことばかりしゃべってると思ったらイライラする。旅行番組も嫌いだ。ドラマも映画も嫌いだ。もう見るチャンネルがない。
…………。
一つだけある。音楽だ。これなら我慢出来る。どうでもいい内容ばかりだし、爺の顔を思い出す心配もない。特に洋楽が一番だ。
毎日聴いているうちに、ギターが欲しくなった。本当はエレキが欲しかったけど、両親に反対されてフォークギターにした。親の金だからしょうがなかった。
それからはひたすらギターを練習した。僕はU2なんかの曲を弾きたかった……のに、フォークギターではいまいち盛り上がれない。なんだか安物になったみたいで弾いても楽しくないのだ。
だけどそのうち、フォークの音色が気に入ってしまった。そして聴く音楽も、フォークギターに合わせたものに変わってしまう。いつの間にか洋楽から邦楽になっていったのは意外だった。
日本語の歌なら歌うことも出来る。ギターを弾いていれば自然に口も動くから、必然的に日本の歌が多くなったのかも知れない。
だけど日本の歌は難しい。
爺が聴くような演歌は間違っても歌うものか。…それは自信があったつもりだけど、本当のところは、どれが演歌でどれが違うのか判らなくなってしまった。
いつの間にか僕は、この町の普通になってしまうのではないか。不安がよぎる。
それでもまだ、高校に通っていれば逃れられるだろう。高校は町の外にある。それはそれだけで価値があるから。
ギターを持った渡り鳥。僕の将来がもしもそうだとしたら、きっとそれは最初から羽根のない鳥の姿だろう。
両親は今日も古い映画を見ている。酒の飲めない僕には、なんの魅力も感じられない場所で、男は楽しそうにギターを弾き、歌を口ずさむ。暗い、カビが生えていそうな場末で。
もしかして、フォークギターは僕を狂わせているのだろうか。一番嫌でたまらない世界に引きずり込まれそうな気がして、天井を仰ぐ。
蜘蛛の巣はすっかり立派になっていた。
つい最近、駅からの帰り道で中学の同級生に出会った。
別の町の別の高校に通ってるその同級生は、僕の顔を見て懐かしい、元気かと笑った。
僕もとりあえず、その場では懐かしいとか会いたかったとか適当に口にしたけど、本音をいえばその空間はあまりに居心地が悪すぎた。
彼は彼で、町と村を往復する。それは僕と何も変わらないのに、出会った瞬間に僕の両足は鎖で縛られてしまう。
……それに、僕はフォークギターを背負っていた。その姿も見られたくなかった。きっと笑われると思ったから。
最近、僕は自分が何をしたいのかちっとも判らなくなった。ギターを弾きたい。そんな単純なことすらも、本当じゃないような気がし始めている。
嫌いな歌が増えた。きっかけは沢山あるし、自分でもよく説明出来ないけど、ある日突然歌うのが嫌になる。自分で自分の首を絞めるようだ、と思う。
爺は近頃めっきり老けたみたいだ。どうやら自分の育てた代議士が引退するという話を聞いて、落ち込んだらしい。僕にとってはもちろんどうでもいい話……だけど、なぜか爺の屋敷でギターを鳴らしていた。
演歌じゃない曲。
爺はただ黙って、僕の演奏を聴いていた。そして一言、「満州を想い出す」が感想だった。歌は長崎のものだったはずなのに。理解出来ずに僕は、ただ頷いていた。
僕にはまだ時間がある。とりあえず今はそれだけ信じていたい。
だけど、その時間をどう使ったらいい?
自問自答して、それから僕は満州の風景を想像していた。何一つ具体的なイメージのない、村でも町でもないどこかを。




