常世
「山ちゃん、デートしよう」
「は?」
既に解散して一人歩く俺に追い付く、一台の自転車。
おかしな台詞に振り返っても、街灯は彼女の輪郭しか照らしてはくれない。
「どう?」
「ちゃーしばくというならつき合わなくもない」
「解釈はあなたに任せます」
自転車を降りた彼女の影が伸びる。二人の間に挟まる自転車は、暗黒の線を一度縮ませるけれど、また俺の足元から遠く伸びていく。病院の心電図は、こんな形をしていなかったか。そしてこれは不整脈にはならないのか。
形を崩さないように足元ばかりを見ている自分を、彼女は引きずるようにどこかへ連れて行く。その先が棺桶や火葬場だったら? だけど今の俺はきっと不死身だ。
「好きなのどうぞ」
「…店じゃないのか」
「手持ちが少ないから」
一斉に光るボタンにまた目を覚ました時には、いつか通った坂道の途中にいた。
迷わずコーヒーを買う。暗くなったこの時間は、冷えたジュースは選べない。それだけのこと。
「山ちゃんはコーヒー好きなのね」
「別に好きというわけじゃない」
「ふーん」
そう言いながら彼女は同じボタンを押して、再びゆっくりと自転車を押す。
相変らず行き交う車のライトが途切れ途切れに影を消すから、俺はあてもなくただ交互に脚を動かす。緩い登り坂。アスファルトの歪んだ大地が線路のように見えるけれど、誰もその轍を気に留めることはない。
…いや、留めないわけではない。それは忌むべきもの。ならされて、消去されて、だけどいつか復活する。まるで川の流れのように。
「中津国に到着したよ」
「落ち着かない場所だな」
「そう?」
欄干にもたれても、もちろん何もありはしない彼女の中津国。
少し離れた街灯は無力な姿をさらし、悪あがきするヘッドライトは、意味もなく背中のラインを出現させては消える。遠くの市街。もっと遠くで点滅する灯台。ここだけはどんな束縛からも自由? そんなバカな。
「山ちゃん」
「ん?」
「船を見た」
「………」
いつか聞いた台詞だと、彼女を見れば揺れる髪。
船。中津国に船が着く。
「子どものころ、ここで遊んでたら大きな船がうちあげられてたことがあった」
「ここに?」
「そう。中津国に」
それっきり開かない彼女の唇を、俺はもう読み取ることさえ出来る。
中津国に漂着した船には、きっと二人が乗っていた。二人の長く辛い旅の終着点なのか、それとも立ち寄るだけの場所なのか、そこまでは判らない。判るはずもない。ただ小川はそんな物語を作り出す。部室の話を無理矢理自分の記憶に結びつけただけの、でまかせの物語を。
「なぁ」
「なに?」
「大きいってのは、中津国にしては大きいってことか?」
「…かもね。よくわからない。ずっと忘れてたことだから」
風が吹く。海から山へ。そして上流から下流へ。
ここに船がいたなら、どこから来てどこへ行く? 側を通り過ぎる車なら不思議にも感じないことなのに、船というだけで不安になってしまう。
チカチカ点滅する灯台の彼方に広がる、何もない世界。船ならそこにだって行けるはず。ちっぽけな中津国がたとえ洪水で消えたとしても。
「山ちゃんの……」
「え?」
止めどなく続く妄想は、しかし突然に引き戻される。その先に見えたものは、いつか感じたような気がする不安だった。
「山ちゃんのバカ!」
「な……」
「あなたがいなければ、あなたさえいなければ…」
張り裂けそうな瞳の彼女。今日何度口にして、何度言われたか判らない「バカ」が響くけれど、その余韻を感じる余裕もなく、ふらふらとこちらへ向かってくる身体。
「危ない!」
車道側によろめく彼女に駆け寄り、慌ててその肩を受け止めると、さっきより強い風が彼女の髪を揺らし、そして俺の額をなでる。
軽いんだな。
目線の変わらぬ相手なのに、まるで別の生き物のようだ…と思った瞬間、耳元で叫び声。
「え!?」
「あ? ご、ごめん小川!」
彼女の腕は力を取り戻し、俺は夢中で飛び退く。そして硬直する彼女の気配に何も言葉を返せず、離れたまま怯えるだけの自分がいた。
ひどいことをした。自責の念で頭がいっぱいになる。俺は間違っていたんだ。
「山…ちゃん?」
「………」
けれど、かすかな声で呼びかけられ、ゆっくりと顔を上げた時、彼女の眉間の皺は消えかかっていた。
そして再び距離を取り直して、息をつく音が聞こえた。いや、それはただの車の排気音だったかも知れない。
「……ツル、だった?」
「判らない」
「そう…」
本当だ。…いや、どこかで逢ったことはある。きっとあるけれど、それはツルと名告ってきた存在ではなかった。
けれど問題は名前じゃない。どんな存在だろうと、それは小川の身体なのだから。
「なぁ」
「はい」
「…俺の名を呼んだところは覚えてるのか?」
首を振る彼女。
やはり、と思った。
「じゃああれも、小川じゃなかったんだな」
「…たぶん」
どこかで逢った存在?
冷静になれば思い出せることはいくつかある。船の話をしてくれた人、ショーの歌のことで問いかけた人……。
「ということは、だ」
「………」
「小川じゃない誰かに俺は恨まれているってことだよな」
「まさか、そんな…」
いつもこんな景色。中津国は暗闇の中に揺れる彼女の髪と、点滅する遠い光ばかりだ。生まれたばかりの世界はこんなにも暗く、そして希望のないものだったのだろうか。
「なぁ小川」
「なんで…しょうか」
彼女の瞳を見たら、ためらいだって生じる。
けれど意を決して口にする言葉。
「俺は近寄らない方がいいんじゃねーかな、やっぱり」
「嫌です」
少なくとも今日の自分にとって、それは自然な言葉だった。俺が近くにいなければ済むことは沢山あったはずだから。
だけど硬直したままの彼女は、これまで聞いたことのないほど強い口調で、はっきりと拒絶する。今日だって同じ場で同じ話を聞き、同じ出来事を生きているのに。
「私は、小川悦子は山ちゃんを恨んでなんかないから」
「………」
「…お願いします」
「いや、その……、お願いされるほど大げさなことでもないと思うけど」
恨んでない、か。そんな風に面と向かって言われると、改めて考えてしまう。
別に、ツルの恨みを俺自身が引き受ける必要はない。いや、引き受けようとしたところで出来るはずもない。俺はゴロウじゃないし、ツルに対して何か感情を抱くこともないのだ。
だけど小川には、きっと俺を恨む理由があると思っていた。
それとも、恨んで欲しかったのか。判らない。
「ねぇ山ちゃん」
「ん?」
穏やかな表情の小川は、俺の視線が動くのを確認して、遠く点滅する光を見つめる。
促された自分も仕方なく眺めるけれど、吹きつける風が辛かった。
「補陀落渡海の話って知ってる?」
「いや…」
「遠い昔、南の岬から船に乗って、補陀落浄土って理想郷を目指した人たちがいたって」
「船で?」
「そう。小舟にわずかな食べ物と水を積んで出発するの」
真っ暗な彼方を見つめる二人。
もちろん何も見えやしない。理想郷も地獄も。それどころか毎日船が出ている沖合の島だって見えない。
「死にに行くようにしか思えないな」
「私もそう思う」
彼女の息遣いと灯台の点滅が、いつか重なり合っていく時間。
「ここから出たら…、シベリアか」
「どうする?」
「そうだなぁ」
ふっと息をつく。
吹きつける風は暖かくはなかった。
「寒いから帰って来るんじゃないかな」
「なるほど」
止むことのない風を避けるように向かい合う。
俺たちにとって、ここは楽園への入口じゃない。そんなことを、判りきってることを頭の中では繰り返す。
楽園はじゃあ、どこにある?
考えたこともないな。俺にとって、いや俺たちにとっては意味のない疑問。
「ところで山ちゃん」
「ん?」
「ちさりんのこと、聞きたい?」
「…ああ」
不思議な感覚。
楽しそうに千聡の名をあげる彼女に、自分もなぜか浮き立つようだ。なぜなんだろう。今日は判らないことばかりだ。
「私が言ったってことは秘密にしてね」
「無理不可能」
「どうして?」
「ほかに誰が知ってるんだ」
「あ……」
大丈夫か?
時々途方もないことを言うよな、小川は。
「別に、無理にとは言わないぞ」
「覚悟は決めました」
「………」
一方的に覚悟を決められてもしょうがない。
………。
まぁいいか。よほどのことじゃない限り、俺から誰かに話しはしないだろうし、二人だけの秘密にしておけば済む。
「ちさりんはね」
「うむ」
……だがその内容はかなり衝撃的だった。
「告白されたんだって」
「だ、誰に!?」
「えーと、隣のクラスの子。名前は聞けなかった」
「そうなのか…」
昼休みの千聡が口にした言葉が頭をよぎる。
そして、そんな話をさらっと告げる小川にも一瞬の違和感。
「あとは…、私が知ってるのは、ちさりんはすぐに断ったってこと。それだけ」
「………」
「で、山ちゃん」
「…良に任せろって言いたいんだろ」
「正解」
当たり前だ。
いや、そもそも千聡が断ったなら、その時点で終わった話のはずだ。もちろん、誰だか知らない相手の男が、よほど人格的に問題があるという可能性はあるだろう。が、俺の知る範囲では、千聡が不審な男に絡まれたとか、そういう話はここしばらく聞いてないし、見た記憶もない。
だいたい教室にいる限り、千聡に一番絡む不審な男子生徒とは山際博一である。ダメじゃん。
「いつもの妄想」
「いつも………なんだよな」
「うん」
それなのに今の自分が千聡のことを心配してないかと言えば、残念ながらやはり心配している。いや、俺だけじゃない。判りきったことをわざわざ指摘する小川も、きっと同じなのだ。
それは単に友だちだから、ではないような気がしている。俺たちにとって、他人事ではないような何かがある。漠然とそんな妄想に囚われながら、なのにそれを理解することが出来ない自分。そんなもどかしさを彼女も共有しているのかは、俺には判らない。
「じゃ、そろそろ帰る。つき合ってくれて…」
「あ、ちょっと待った」
「え?」
彼女の気づいていることが自分とどれだけ違うのか。そんなことは悩んだところでどうしようもない。けれどこのまま帰すわけにはいかない。おかしな確信。まるで自分以外の生き物が今をうごめいているかのような。
「今度、中津国がきれいに見える時に来ないか。決して、デートの誘いじゃないけどな」
「……質問」
「何か?」
一瞬ライトに照らされた顔は、たぶんどこかで出逢った少女のものだったはずだけど、それを思い出すきっかけがない。
「私は私の解釈をしていいんでしょうか?」
「そりゃ…、まぁ」
「なら喜んで」
「………」
もっとも、目の前にあるものを思い出すなんておかしい。今の自分に必要なのは、遭遇する出来事をなるべく忘れないように、ただ気を配ること。
「山ちゃんのバカ」
「……また明日」
遠ざかる背中を見つめた後、もう一度中津国を見下ろした。
何も見えやしない。その距離も、深さも、何もかも判らない今に、不満があるとでもいうのか。自分のしたことが理解できないまま、冷たくなった風を避けるように動き出す他はなかった。
長い橋は中央に向けて緩い傾斜がついている。車道側に体を傾ける風さえなければ、何もしなくとも車は動いて行くだろう。
人間の足は、どこまでも自分の意志だ。自分。それが例えば幾通りあったとしても自分。歩いている記憶なんて、毎日のように失っているし、それどころかはじめからありもしないけれど、人の足は転がるわけじゃない。
………。
ふと視線を落とし、確認する。
当たり前の白いシャツもはためく夜なら、きっと忘れずに済みそうな気がする。何も覚えていなくとも自動的に漂白されて、明日の夢にでも現れるのだ。




