川辺の祭
六月ともなれば北の町といえどもそろそろ暖かくなって、晴れた日中なら汗をかくほどの陽気である。うとうととまどろむ朝、窓の外からは賑やかな小鳥の声が聞こえる。さぁ夏服に着替えたら、爽やかな通学路をのんびり歩いていこう……………などと文学的な世界というものは、今の自分にとってなかなか叶えられない理想である。
母親に叩き起こされた朝。眼も開かぬ前から耳元でギャーギャー騒ぎ立てられる光景は、せいぜいつまらぬギャグマンガといったところだ。
女の子から電話だと、母親は興奮しながら布団を剥いだ。いくら暖かくなったとはいえ、目覚めたばかりでこれをやられては寒くてやってられなかったが、そんなことにはおかまいなしで、今度は腕を引っ張られ、無理矢理引き起こされる。
足を踏み外さないようによろよろと階段を降りると、電話のそばにはラジカセではない父親の本体がいた。あえて光景を説明する必要はない。空中に揺らめくホコリの如く、どうでもいいものである………が、異様な興奮が伝わって来る。さすがに鬱陶しいので眠気の残る腕を振い、まるで蠅のように追い払う。
………。
まったく、バカな両親だ。たかが女子からの電話だろう?
呆れながらそれでも覚め始めた意識は、電話の相手がいったい誰なのか考えようとしている。
普通に連想出来る相手は二人いる。もっとも、単にクラスの連絡表で、俺の前が女子だったというだけの可能性もある。よくよく考えてみるまでもなく、思いつく二人とはこれから嫌でも学校で顔を合わせるのだ。それともまさか、俺に「学校を休む」なんて連絡は頼まないよな。そういうのは学校に直接すりゃいいのだ。
…まぁいい。受話器を取った。
「はい、博一で…」
「起きてる?、さっさと出なさいバカ!」
キ、キヨカワさんっすか!?
これがマンガなら派手な効果音がついたに違いない。
「……いったいどういう」
「忙しいからねー、さっさと話すわよ!」
無視かよ。
まぁ親にどんな真似をしたか想像ついてしまった。あーあ。
「今日の放課後五時、部室に集合!」
「は?」
「いろいろ伝えなきゃなんないから、遅刻しないでよ!」
その瞬間に切れる。切断音の余韻が寝起きの頭に響いた。
はぁ……。
相変わらず一方的な人だと息をつく。まぁしかし、相手が祐子さんなのだからしょうがない。しょうがないけれど……と、こちらを窺う二人の視線を思い出す。
まったく…。
「ヒロクンのクラスメイトのユーコですぅ、キャハッ」とか、祐子さんならきっと当人的には高校生になったつもりの声で平然と嘘をつくだろう。向こうにしてみれば、その程度のことはありふれた一種のジョークに違いないし、どだい祐子さんに高校生の真似など無理不可能。にもかかわらず、世の中にはそんな冗談にころっと騙される相手もいるわけだ。やれやれ。
五秒ほど悩んで、ため息一つついてから、視線の側へ立ち向かうことに決めた。祐子さんがいかに危険な人物であるか、この際だからきっちり話してやろうじゃないか。だんだん盛り上がって、そのうち入場テーマが流れそうな雰囲気だった。
「セビヤーン?」
「ウィボークー」
「あんたら、朝からわけ判んない会話しないでよ!」
教室につけば、女の子の怒鳴り声に迎えられる。
勝ピーと二人、朝のレパートリーを増やそうとわざわざ考えたフランス式の挨拶を、わけの判らないという一言で斬ってのける千聡だったとしても、うちの親なら喜んで俺を叩き起こすだろう。
これも一種のジェネレーションギャップってやつだ。
「おはよう山ちゃん」
さらっと嘘を言った気がするが、まぁ忘れてくれ。
とりあえずもう一人の女子生徒にも、新型挨拶を敢行する。
「メルシーボークー」
「サバビヤン?」
「………それ、台本にないぞ」
「あ、そうなの」
ぐ。負けた。
そもそも彼女の言葉は本当に挨拶なのだろうか。未だに俺の頭の中をサバ缶がぐるぐる回ってるし、ついでに言うと昔うちの父親がサバを見るたびに「サバチーニ」とか意味不明な言葉を口にしていたことすら思い出していた。
…今さらだが嫌な親である。
「えーこまで毒されないでよー」
「え? でも訳せば普通の挨拶だよ。ね、山ちゃん」
「……恐らくは。なぁ、勝ピー」
「そ、そうだよなぁ、えーこちゃん」
「一周してるじゃん」
要するに、俺たちは詰めが甘いということだ。
次はもうちょっと丁寧に調べて新作に加えねば、としきりに反省の朝であった…って、これで終わりなのかよ。
「ところで、今日の五時…」
「小川も聞いたのか」
「俺も聞いてるぞ!」
「勝ピーが聞いてなかったらヤバいだろ」
どうやらいつものメンバーには全員召集がかかっているようだ。ということは、伝えたいことがゴロウとツルの話であることは動くまい…と、あくまで推量なのは誰一人具体的な話を聞いていないから。
平均一五秒。まるでテレビCMのように規則正しく一方的な電話をかけられるのも、ある意味才能には違いない。もしかしたら人徳かも知れない。誰もその点を非難しないのがその証拠だ。
………。
いつもの「妄想中」視線を感じて、肩を回す。ちなみにこれは「参りました」のサインである。満足してくれましたか…と表情を窺うと、千聡と何か話し込んでいた。俺は孤独を愛する少年なのだ。
それにしても、白っぽい服を着た小川は新鮮に見えた。正確に言えば、初めてなのだから当たり前だし、それ以前に白っぽいじゃなくて白い。まるで洗濯してないシャツを着てるかのような発言は、たいへん相手に失礼である。
うむ。当人に向かってしゃべるより前に気づいただけ上出来だ。
しかし結局、すぐに教師が入って来たから、十分に練り上げた文面を披露出来ずに終わる。これで昼休みまで待ったら、今の反省なんてきれいに忘れていそうな気がする。
もっとも、六月になれば夏服。これはごく当たり前の年中行事である。「お、あなた今日は着てる服が違うじゃないですか」なんて指摘したら、今さら何を言ってるんだとバカにされるのがオチではなかろうか。
うーむ。女子と会話するのは難しい。
そういえば去年、俺は千聡に何か言っただろうか。言ってないよな。だいいち中学の夏服がどんなものだったかすら、すっかり忘れている。これはきっと誉められるべき状況ではなかろう。
まぁいいや。俺は過去を振り返らない。ダダッダー。
「ヒロピー」
しかし昼休みになって、そんな朝の妄想を思い出させるように、千聡が話しかけてくる。
「なにかな、ノートならないぞ」
「あんたに好きだなんて言われたら泣くよ」
「は???」
吹いた。わざわざ奮発して買ったカレーパンに、白い飛沫が降り注ぐ。
慌てて右隣を見た………が、そこに見えたのは焦点の合わない目でだらんと両手を下げた女子生徒だ。
「ち、ちさりん?」
「………」
呼びかけたが応答がない。
「おーい」
二度目。今度は振り返った。が。
「……なに?」
「なにって、あのな…」
いかんな。まるで話が噛み合わない。
それにしても、いきなり何なんだ。訳が判らない。
「…冗談」
「は?」
「ヒロピーとつき合うなんて考えただけでもゾッとする」
「その言葉そっくり返してやる」
そのまま途切れる会話。まぁそれは俺自身が一刻も早く終わらせたいと思ったからでもある。
誰が考えたって、続ける価値などない。時間が経つにつれ、動揺は激しくなる一方だ。いったい何を言いたいんだ、千聡は。俺が過去に一度たりともそんな素振りを見せたことがあったか?
………。
視線を落とすと、飛び散った牛乳はカレーパンに吸収され、あちこちにしみとなっている。なんだか腹が立って一気に食らいついたが、別に牛乳の味はしなかった。
…まさか。良と何かよからぬことでもあったのか?
油にまみれた袋をクシャクシャ丸めるまで、その可能性に気づかなかった自分が情けないと思いつつ、ちらっと隣を窺うと、千聡はまだ両手をだらんとさせたままだった。
これは口にすべきなのだろうか、と悩んでいるうちに、頭の中では良原因説が既成事実と化してしまい、それに対して励ましの言葉が必要なのか、それとも……と諸説乱れ飛ぶ。
「ところでヒロピー」
「な、なんだよ今度は」
しかし悩んでいるうちに向こうが先手を打ってきた。
相変わらず両手はだらんとしているが、頭だけこっちを向いて、しかもいつの間にかニヤニヤ笑っている。たいへん嫌な予感がする。
「えーことは…」
「ちさりん、数学の宿題は終わったかね」
「それで、えーことは」
「早くやっとかないと六時間目に間に合わないぞ」
「判ったから、えーことはどんな感じ?」
くっ。気合い入れて妨害したつもりだが、まったく役に立ってない。
というか、そこまで執念深く聞くような話なのか、これが。
「私も大変なのよー。二人はそういう関係なのかって問い合わせも多いし」
「そんな問い合わせするヤツがキミ以外にいるのかね」
「あんた、判ってないわねー」
起きあがった千聡が、両手を広げていかにもなポーズ。こんなくだらないことで元気になるようなヤツに、いちいち励ましの言葉を考えていた俺がバカだった。
「えーこは人気急上昇中なのよー。最近のリニューアルが成功して」
「………」
その「リニューアル」って、俺が話したことじゃねぇのか?、と思ったけれど指摘すればかえって話がはずみそうなので黙っておく。
「あんたがいつも側にいるから、気が気じゃない男子も多いってことよ」
「別に俺なんか構う必要ないだろ」
ちょっと俺はカチンときていた。
「そう?」
「どうしろってんだよ、相談されたって困るぞ。だいたい、どっかのやかましい有名人だって、ライバルに相談して突撃したわけじゃねーだろーが」
「あ、あんたね!」
「…いや、悪かった」
思わず口を滑らせた自分。真顔になって怒る姿を見たら、さすがに失言だったと反省せざるを得ない。
しかし反省の言葉とは裏腹に、自分の頭は勝手に一年前のことを思い出している。
そうだ。あれは今から一年ほど前、千聡は良に攻め込むために呆れるほど大量の情報を集めまくっていた。その上で、確かにライバルとの相談はなかったものの、良の友人――断るまでもないが、俺だ――に渡りを付けて、慎重の上にも慎重を期して動いたのだ。それをもちろん、良の友人――しつこいな――が知らないわけはない。むしろ経緯については、良よりも遙かに詳しいぐらいである。
だけどそうして慎重に進めたという事実は事実としても、二人がつき合うために何か役に立った、とも思えない。まして、俺が良につき合うよう勧めたこともないし、だいたい勧めたところで良が従うわけがない。それまでに何があろうと、千聡が良に告白したのは千聡が告白したかったからでしかないし、二人がつき合うようになったのは、良もそれを望んだからに過ぎない。それだけのこと。
「ま、今のところ特別な関係じゃないみたいって答えてるけどねー」
「引っかかりのある言い方だな」
千聡だって、まさか俺のおかげでつき合えたなんて思っちゃいないだろう。
実際、俺がやったことなんて、偶然二人きりになる機会をセッティングした程度だった。疑り深い奴を騙すには、それなりの苦労もあったわけだが。
「一寸先は闇って言うでしょ」
「まぁ捨身のアタックを成功させた者の意見として、有り難く聞いておこう」
「あんた、ちょっとしつこい!」
また怒る。しかし今度は自業自得ってやつだ。
「いいじゃねーか、もう公然の事実なんだからな」
「公然って」
「良はああやってちさりんに逢いに来るし、それ以前につき合ってるって自分でしゃべってんだろ、方々で」
「ま、まぁそれは…」
だいたい、体いっぱいにその話題は嫌だと表現しているにも関わらず、いっこうにやめようとしなかったのは誰だと言いたい。
ここは迷わず攻めるべきではなかろうか。うむ。
「ちさりんが自信をもつのは嬉しいぞ」
「よ、余計なお世話よ」
「早く尻に敷いてくれ」
「誰がっ!」
「男子生徒の約95%が期待しているものと思われる」
「勝手に統計出すな!」
真っ赤になって叫ぶ千聡に、周囲が注目し始めた。そろそろ引き揚げ時だな。
だいたい俺も、こんな心にもないことばかりしゃべるのは飽きた。いやまぁ、本当に心にないかは神のみぞ知るわけだがハッハッハ。
「…つき合ってるように見える?」
「は?」
「えーこにも負けてんだよね。良くんのこと私より知ってるから」
………。
それにしても起伏の激しい日だな、今日は。
とりあえず、にやけた顔を修正する。肩をゴリっと回して、周囲を確認した。勝彦はまた廊下側でプロレスごっこをしている。最新流行らしい。
当事者は……、予習してるようだな。
「俺はまじめに返答するぞ」
「………」
「まず、俺に比べりゃちさりんだって遙かに人のことをよく観察してると思う」
「うん」
少しだけ悲しくなったが、この際そんな感情は無視。
「けど小川はたぶん同じぐらい注意深くて、その上少なからず神話や伝説の知識を持ってる。ある程度は負けてもしょうがない」
「…それは知ってる。えーこは鋭いから」
「だがな、この際だからはっきり言っておくぞ。心して聞きやがれ!」
意味もなく胸を張る。
というか、これぐらい大袈裟にしないと恥ずかしくて話せないのだ。
「良はそんな完璧な奴じゃねーぞ。思いこみは激しいし、理路整然と考えておきながらその場の感情で動く。それを小川は知ってるだけの話だろ」
「………」
「だいたいちさりんだって、良が思ってたような優等生じゃないってことに気づいてなきゃおかしい。つき合う前に集めた情報よりも、自分が直接見たものを信用すればいいだけだ」
「…………」
「寒いダジャレはデータになかっただろ? 図書館のウンコ座りも、数学の点数がたまにちさりん以下なのも知らなかっただろ?」
千聡は一言もしゃべらず、じっとこちらを見ていた。肯定も否定もせず。その無反応に少し苛立ちながらも俺は一方で、自分が口にした二人の評が当たっているのか、自問自答を繰り返している。
自分のすべてに自信がもてない。それはきっと俺だって千聡とそう変わりがない。だから良や小川に対する感情も、もしかしたらどこかで通じているのかも知れない、と思う。
違う。俺はそんな思いは無意味だと言い聞かせて来たはずだ。
「ヒロピー」
「ん?」
振り向くと、千聡はすでに数学の宿題を広げていた。
「ありがと、ちさりんには優しい山ちゃん」
「ぐ、そう来たか」
いつもながら、ただでは起きない女だ。
けれど……、そういうことなのかなと気づくこともある。小川のイヤミを、だからといって受け入れるつもりもないけどな。
六時間目。それなりに予習もしたらしい千聡にも、これまた似たようなレベルの俺にも順番は回ってこない。小テストがあって、後は廊下側の列だからもう大丈夫…と思うと眠気が襲ってくる。
む……。
あれ?
ここ最近千聡の様子が妙だったのは小川問題で悩んでいたからだと、さっきの俺はあっさり結論づけたわけだが、よく考えるとおかしい。何しろ千聡はその小川に事情を話したのだから。
小川の性格を考えれば、多少表現がぼかされていても、自分のことならすぐ気づくだろう。そして気づいたなら、黙って終わらせることもないはずだ。彼女は彼女で世話焼きのキライがある。俺よりも遙かにふさわしい言い方で、千聡の悩みを解決していたに違いない。
要するに、ほかに理由がある、と。うーむ。振り出しに戻ったな。
…しかし、なんで俺はこんなに熱心なんだろう。いや、それを自覚すらしてなかったのはなぜだったのか。やはり似た者同士だから? まさかな。
やめよう。どうせなら夕方のことでも考えたほうがマシだ。よーし、みんなで考えよう!
………俺って本当に高校一年なのか?
「ハックン、プロレスだ!」
「一人で頭突きの練習でもしてろ!」
「ま、まさか俺は破壊してしまうのかっ!?」
結局は何も考えずに放課後になった。祐子さんの話だからきっと新資料でも持って来るだろう。だとすれば考えたって無意味だ。とりあえずワクワクドキドキでもしておけばいい。
うーん、ワクワクドキドキ。バカだ。
もっとも、ちょっと気にかかることはある。あの嫌らしい祐子さんなら、ネタを小出しにして俺たちをじらすぐらいのことはやりそうなのに、きっぱり一言も漏らさないというのは妙だ。考えすぎか? それとも悪意を込めすぎか?
「よし! 勝彦様は今から宿題やるぞ!」
「叫ばなくていいからさっさとやれ」
「うるせぇな、気合いなんだよ気合い!」
あーしかし勝ピーだけは相変わらずだな。それはそれで貴重な存在だと褒めてやりたいところだが、どちらかといえば変わってもらった方がありがたい。
教室を見回すと、すでに残っているのはいつもの四人だけ。ただし、なぜか千聡は小川の隣に座っている。
もっとも、なぜかと一応言ってはみたが、勝ピーの被害を避けるとともに、一緒に宿題をやるふりをして小川の回答を覗く企てに違いない。まったく油断も隙もない。
………。
俺もあっち行こうかな。
しかし俺が向こうに移った場合、千聡にまた格好の口実を与えることになりそうな気がする。しかも残った勝彦が拗ねてうるさそうだし、下手をすればヤツも一緒について来るかも知れない。まるでバカの民族大移動だ。
でも勝ピーと仲良く宿題なんて時間の無駄だからな…。
数学のノートを開く。ぱらぱらとめくりながら、その汚い文字に気分は滅入っていくが、これはほんの入り口にすぎない。次に教科書を開けば、意味不明な羅列が頭痛を引き起こす。我ながら律儀だ。まるで、まるで………。
嫌なことを思い出す。やめようかな。
「ハックンは全然進んでねー」
「何しに来た」
「まぁそう言うな友よ」
結局勝ピーは俺の前の席を勝手にくっつけて、対面にどっかと腰を下ろした。
やたらニコニコしている。天使の笑顔、なんてキャッチフレーズすら浮かんでくる。が、もちろん宿題は一問もやった気配がないし、一人でやろうという気もまるでなさそうだ。
いいだろう。やってやろうじゃねーか。
スポ根もののドラマのように臭くて嘘っぽい台詞を心の中で叫んだ俺は、ぐっと教科書に向き直り、目の前のバカのことは忘れて宿題に打ち込んだ。人間、こういう逆境がないと成長しないものなのだ。
「そこの二人、宿題は終わったかねー」
「………」
いったいどれぐらい時が流れただろう。見るからに自慢げな顔と声の女子生徒がやって来た時、俺たちは無言でノートを突き出した。それはまさしく勝利宣言だった。
「え!? 終わってる?」
「見たか! これが俺様……、とハックンの底力だ!」
「…二人でやったなんて誰が信じると思う?」
「ぐっ、俺は悲しいぜっ!」
嘘を指摘されただけなんだから、悲しむ理由などどこにもないような気がする。まぁとりあえずそこは無視して、ちょっと見下した目で千聡に視線を向けた。ちなみにそれは、「チミのノートに書かれた宿題の、いったいどれだけが自分で解いたものなんだい?」という、実にクールな質問を意味している。
しかし千聡の方が一枚上だった。
「じゃあまず答え合わせから」
「ま、待て!」
さっさと俺のノートを取りあげて、しかめっ面で照合を始める千聡は、こういう時だけ妙に真剣だ。どう考えても、もっと力を入れるべきポイントがありそうな気がするけどな。
白っぽいシャツのその姿を見つめていると、また見とれてしまう自分がいる。おかしい。いや、おかしいのは判ってる。問題はそれが、白いシャツを白っぽいと言い続ける俺の頭なのか、それともそうじゃないのか、だ。
やがて千聡が顔をあげると、そんな妄想も止まる。こちらを向いた顔は笑っているけれど、別にドキドキワクワクはしない。再逆転の勝利宣言だと、瞬間に俺は気づいていたから。
「三ヶ所答えが違う」
「どっちが正解か判らんだろ」
「ふっふっふ、ちさりん様をなめるんじゃないよ」
まぁいい。人間誰だって間違いはあるさ。
「あ、何すんのバカ!」
「わざわざ回答例を見せてやったんだから、俺たちにも回答を見る権利がある」
「写してるじゃ…」
「では千聡さん、あなたはこのうちの…」
「わーっ、さっさと済ませろバカピー!」
ということで逆転につぐ逆転で、我々は勝利をもぎ取ったのであった……と、ともかくバカなやり取りの内に時間になった。まるでいつもと同じ展開だ。
教室を出ると、自然に小川と千聡が並び、残り二人が後に続く。別に不満があるわけじゃない。二人の凸凹ぶりを眺めるのも慣れたし、ついでに今日は白っぽい…ではなく白いシャツもある。
??? シャツは何の関係もねーじゃん。
要するに、勝彦とあえて一緒に歩く必然性は感じない、という崇高かつ厳粛な結論が出たわけである。うむ。ただそれが言いたかった、それだけが言いたかったんだー!
「後ろ、何してんの!?」
「ハックンがさ…」
「また妄想くん?」
夢のように盛り上がった後は、悲しく虚しい現実が待っているものだと、どこかの大文学者みたいな口調で嘯く。そのうち三人に非難の声をハモられそうな気がするけどな。
部室への道のりはいつも憂鬱だ。暗く埃っぽくカビくさい廊下のせい? そうじゃない。すれ違う女子生徒も、それどころか男子生徒もみんな白いシャツで、まるで学校中を白いシャツが移動しているみたいな感覚。けれどそれは、いつも、じゃない。
何よりも、向かう先は自分にとっての「部室」じゃないから。汚い旧校舎の、どこの教室とも変わりのない場所。せいぜい良にとっては自分の場所で、千聡にとっては時々寒い寸劇を披露出来る、そんな場所に向かう自分は根本的に孤独だ。かっこよく言えば、根無し草だ。
「グァッ!」
「起きた?」
「えーこ、ちょっとぐらい手加減したら?」
不意を衝かれた俺の体はみっともなく崩れかけ、危ういところで右腕が窓枠を捉えて生き延びる。小川は怒っていたのだろう。最早千聡に伝授されたとはとても言い難い威力の蹴りで、俺のすねはじんじんしたままだ。
小川は怒っていたのだろう。そんな脈絡のない一文を、俺は繰り返し、そこから自らの怒りを呼び覚ます。今の自分に必要なものは、それ以外の何かじゃない。だけどそこまで小川が意図していたなら、俺はもう逃れようがない。
………。
それにしても、祐子さんは何を見つけたのだろう。やっぱりなんだか嫌な予感がするぞ。
あの人が隠すのは、俺たちにとってすごく良いことか、その反対だからだと思うのだが、そう考えた時にすごく良いことっていったいなんだろう、と悩む。
ゴロウとツルを抹殺する方法を見つけた。ならば、確かにすごく良いことだ。しかし、そんな方法がどこかの本に書かれてあるとはとても思えない。イタコみたいな人は今もいるのだし、呼び寄せる方法があるなら追い返す方法もあるはずだが。けどまぁ、悪いことも想像つかないから同じか。明確にゴロウとツルが危険な奴だと判るなら、それは悪くもない気がする。少なくとも小川を説き伏せる材料にはなる。
そうだ。問題はツルを排除すること。どうせ暴力的で何もしゃべらないゴロウなんて、ツルの深刻さに比べればどうでもいい問題だ……と結論付けるのはさすがにダメだろうな。暴力的な部分は、俺以外にとって深刻なわけだし。
部室に到着すると、当たり前のように祐子さんが座っていて、まるで横綱土俵入りのように、両脇に良とショーが立つ。おぞましい光景だが、そんな素振りを見せると後が怖い。
「よく来たわねー」
「そりゃ、呼ばれましたから」
「ヒロピー、文句があるなら言っていいわよ」
「な、何もないですって」
なんだろう。妙に刺々しい感じがする。
考えてみれば、ショーが立ってる時点でおかしい。良はともかく、フォーク少年にそんな繊細な感情などあるはずがないのだ。
…ひどいこと言ってるな。
「早く座って」
「はいっ!」
千聡もびくびくしている。それもいつものこと…と言いたいけど、やはり何かおかしい。嫌な予感では済まなさそうな。
「じゃ、まずこれ」
「………」
立ち上がった祐子さんは、カバンから何やらプリントを取り出して、いつもの配置の六人に配り始める。俺はまず、そのカバンの不思議な質感に目を奪われ、それから祐子さんの手際の良さに見とれる。
どうも今日の自分は、見とれる日らしい…と、少し冷静になると今度は祐子さんの服装が目に止まる。やっぱり上は白いシャツ。そしてタイトなミニスカートから、太ももがのぞく。これは目立ったに違いない。また中学校の年寄り連中に見せびらかしたのか? 間違ってるぞ。うむ。
………。だんだん俺はスケベになっていくな。そんな理由で見とれてどうする。言葉を交わせば恐ろしい祐子さん。恐ろしい恐ろしい、それを忘れるな。
「三枚あると思うけど」
「え? あ、あります!」
「ヒロピーも教頭と似たようなもんねー」
「ば……」
これまたあっさりと見抜かれている。やっぱり祐子さんは怖い。恐ろしい。ハァハァハァ。
うむ。もう大丈夫。
「まぁスケベなヒロピーはほっといて」
「いや、だから…」
言い訳するほどに深みにはまっていくだけだ。ついでに言うと――本当はこっちのほうが気になる――、周囲の視線も怖い。下を向いたまま、慌ててもらったプリントの枚数を確認し、適当な一枚に意識を集中させる。雑音を断ち切るのだ。色即是空空即是色。
「え?」
しかし集中させた先に見えた文字は、あまりにも意外なものだった。
「見たなー」
「………」
「ま、いいか。じゃ、さっさと説明しちゃいましょ」
そこに書いてある文字。
意外?
いや、俺はとっくに予期していたはずだ。俺だけじゃない。
「…………」
真顔の彼女は、俺が振り向く遙か前からこちらを見ていたようだった。その、いつもにも増して無表情な目元が今度は俺を吸い寄せる。
「まず結論から言うと、クツバミゴロウは祟り神だったと、そこに書いてある。で、村人の手で殺されて、川に流されたと」
「え………」
千聡の小さな声だけが、何か場違いな響きで俺の鼓膜を揺らす。
そうだ。これは驚くようなことだ。
羽州に残る沓喰五郎伝説に就て
羽前国最上地方及び庄内地方の一部地域には、沓喰五郎なる人物に就ての伝説が遺されて居る。即ち彼の五郎、奥州平泉に於て源九郎判官義経の一党を討ちしも、却って鎌倉殿の為に悉く滅ぼされし藤原氏の一族にして、唯一人、難を逃れて羽州沓喰村に身を潜めしと、当地の古老の申し伝える事なり。但し沓喰五郎なる者の諸史書に見えぬ事、以前より不審なりき。
今筆者の鑑みるに、沓喰五郎なる者の果して実在したか否かは、此は問う価値無き事なり。各地に残る伝説の荒唐無稽なる事が多く知らるるが、此は至って庶民信仰の純粋さを示すものであり、其を誤りなりと非難するには当らず。
尤も此伝説には、それでは済まされぬ不審なる事が有る。何より五郎の沓喰に入りし後の消息におかしな点が見える。筆者かつて沓喰を訪れし時古老の語るには、沓喰五郎殿、鎌倉殿の捜索を逃れし後はこの地を治め、名君として讃えられしと申されき。なれど或る者は斯様の事実無しと申す。五郎殿の墓所も又不審なり。或る者は沓喰の八坂神社裏に在りしと申すが、或る者は川下の社に在りと申し、また或る者は五郎の後に此地を離れしと申す。実に奇怪なる事なり。
次に沓喰五郎を知る者、沓喰の外には幾つかの村落に伝え有るを知るも、甚だ其範囲狭く、隣村大外川を除きて稀なり。但し大外川に於ては、五郎の妻となりし鶴子が生まれしとの伝え在り。即ち鶴子は肝煎の娘にして、隣村の長者たる五郎に嫁ぎしとぞ。鶴子の名は沓喰にても聞きしが、その仔細は知れず。古口、柏沢、草薙、清川等に於ては、五郎の名を聞しも鶴子の名を聞かず。草薙に住せし某古老の申すには、沓喰五郎とは恐ろしき名なりて、幼少の折子供の若し泣き止まぬには「沓喰五郎が来るぞー」と申せば忽ち泣き止みしとぞ。同様の伝え多く有りき。
筆者のこれらを鑑みしに、まづ沓喰五郎を伝えし地域は一つの川の流域に限ること、また多くの村で同じく八坂の神を祀りしことに気付く。そこで各地の八坂神社を訪ねて其の祭神等を調査せし所、多くが沓喰五郎と鶴子の両名を祀りしと申されき。しかし清川の神主は、仔細は知らず、只其のように伝えられしのみと申し、柏沢は神主不在につき判ぜず。古口草薙では、昔は其のように申されしが今は知らずとし、現在では両人の祭祀を行なわぬとぞ。
八坂神社は沓喰と大外川にも在りき。とりわけ沓喰の祇園さんは古くより周辺町村にも知られ、近在の八坂社には彼の神主が参りしと伝えられき。蓋し沓喰五郎の名が広まりし所以は茲にあろうかと思わるる。
「一枚目は、この辺りではわりと有名な民俗学者が書いたもの。調査したってあるけど、実際にやったのは今から五十年ぐらい前みたいね。沓喰で直接話が聞けたぐらいだから」
「なるほど」
「古口と清川以外は川の右岸だからね。貴重な報告なのは確か」
「そ、そうですね」
返答役は良に任せておく。俺はただ、ここから何を得られるかを考えるだけだ。
「これがまぁ、最初の報告で、この後数回雑誌に書いてるみたいだけど、手に入るのが少ないのよ。それでも幾つかは見つけたし、だいたいのことは判ると思う」
「すごい…」
「こういう場でお世辞は要らないの、判った?」
「は、はい。済みません」
「よろしい。で、みんなに質問。八坂神社って、本家はどこにある?」
「本家?」
みんなに、というところは声の調子が違う。祐子さんのしゃべりのうまさには今さらながら感心するけれど、とりあえず質問に答えられるかどうかが今は問題だろう。
で、俺は正直答える気がなかった。ここはやはり良が答えるべきだと思ったのだ。
しかし返答の主は違っていた。
「京都ですか?」
「そう、よく知ってるわね」
「一度行ってみたい所ですから」
小川だった。もっとも、俺だって京都じゃないかとは思っていたのだ。それでも自信が持てないのと、さっき言った理由から黙っていただけである。
…別に、良に任せる必要なんて元々なかったような気もし始めているのだが。
「昔の呼び名は祇園さん」
「祇園祭の祇園ですよね」
「そう。そして遡ればそれは都に祟った怨霊を鎮める社」
「怨霊?」
今度は勝彦が叫ぶ。それはあまりに意外で、全員が一斉に振り返った。
「あ、いや、気にするな」
「気にするなって…」
小川の追及に目をそらす勝彦。彼女はその事情に気づいてないようだ――まぁ当然だな――が、俺にはもう判ってしまった。要するに、ここで取り上げるに値しないことだ。
「要するにこの筆者が言ってるのは、なんでそんな物騒な神社が方々にあって、しかもゴロウとツルを祀ってるのかが問題だってこと」
「なるほど」
「………」
普通に相槌を打つ良はともかく、小川はしきりにこちらを見るそぶりをしていた。実際、俺たちのようなものの話なのだから、こちらにしても彼女の反応は気になったけれど、あえて振り向くのはやめておく。
今だって、良くないことが起こらないとも限らない。彼女に対して何かと苛立つ自分を抑えるには、なるべく関わらない方がいいのだ。
「で、そう思ったこの人が次に書いたのが二枚目」
「はぁ」
「これがまぁ、核心ってことになるわね」
羽前国沓喰五郎伝説再考
羽州沓喰村に伝わりし沓喰五郎に就て、筆者は先年本誌にて其の詳細を検討せしが、入稿の後再度当地に入りて調査を行なった結果、更に幾つかの新事実を得るに至った。以下に詳細を記し留めおく。
先年は留守につき調査の叶わざりし柏沢村八坂神社神主某は、若き頃は沓喰の八坂社に務めしが、此地の神主の亡なりしを聞き、自ら望みて遷りしと云う。齢七十を越えしも、矍鑠たる男性にして、筆者の訪問にもアラアラ珍シキ客人モアルコトカナーと様々に語られき。
彼の云く、沓喰五郎と鶴子を八坂神社の祭神とせしこと、其の始めの何時なるかを知らず、只当時沓喰八坂神社の神主なりし老翁の申すには、鎌倉の昔より在りきと。老翁其の祭祀の次第に廃れしことを常に嘆ききと云う。
そこで筆者の、両人を祀りしは沓喰五郎の遺徳を頌えしものかと問えば、彼の神主の申すよう、沓喰五郎とは祟り神也、彼の怒りを鎮めし故に祀るもの也、と申す。即ち沓喰五郎は彼の地に遷りし後、隣村大外川の娘鶴子を娶りて住せしが、鎌倉殿の目を懼れし肝煎等ようよう五郎を疎んずることとなり、やがて村人は五郎を騙し捕えて、下流の仮屋に幽閉せしとぞ。肝煎の申すよう、五郎を地頭に差し出さば却って彼を匿いしとて罪を負うこと必定也、我らが手で殺害するべしとて、仮屋より沓喰に戻しし後、村人彼を殺し遺骸は川に流されしとなん語りき。五郎と共に仮屋に在りし鶴子は此れを聞き、五郎の後を追いて川に身を投げしとぞ。
其の後、肝煎の俄に病となりて一年の内に亡くなり、又沓喰村及び周辺の、度々出水に襲われしに及びて、此れ即ち沓喰五郎の祟り也とて、祇園社を勧請し五郎と鶴子を祀りき。周囲の村も又彼の祟りを懼れしが故に各地に沓喰より祇園社を分祀し、柏沢の八坂神社も其の一つ也と伝えり。
筆者は更に、五郎と鶴子を祀る神事の在りやと訊ねしも、神主の申すよう、今は知らず、大正の頃までは在りしと申されき。往時は柏沢、草薙の老翁も沓喰に呼ばれしと聞くが故に、相当なる御神事の在りしと思われるが、仔細は知れず。更なる調査を行うべきかと思わるる。
「………」
「ま、こんな感じ。まとめた方がいい?」
「…お願いします」
ゴロウは殺された。ゴロウは祟り神……。
思い当たることがないなら、それでも鼻で笑い飛ばせたかも知れない。
「えーと、とにかく沓喰五郎という人は、今は村の英雄だったと伝えられていて、たぶんそれはここに書かれてる頃でも同じだった」
「え、同じですか?」
「同じ。良くんはまだ資料の読みが甘い」
「す、すみません」
「五郎の名が伝えられた本当の事情を知ってたのは、恐らく神主ぐらいだったんでしょ。そうでなきゃ、沓喰から移住した人たちが語っただろうし、ショーにとっても「おらほの英雄」じゃなかったはず。ね?」
「ん、んだがもしんね」
「なるほど…」
思い当たることがないなら。
いつも暴力的で、何も語らないゴロウに。
「じゃ、洪水を予言したっていう話は」
「ものは言いようってこと」
「ゴロウってそんな恐ろしい……」
そうだ、彼女は…。
振り向こうとして、また思い直す。きっと見ない方がいい。それは何も彼女のためというわけではなく、自分の頭を落ち着けるために。
恐ろしいゴロウ。恐ろしい……。
「一応言っとくけど、五郎が鎌倉の頃に実在して、村人に殺されたって話が「正しい」かどうかなんて、この際問題じゃないからね」
「そ、そうですよね」
「ちさりんもそう思ったの?」
「え、あ、あの、…別れさせられたって言ってたから」
「……なるほどね。ツルは、でもそれ以上は話したくなかったんでしょ」
「はい」
「祐姉!」
千聡の声がやたら高くて、耳の奥に響く。
だけど、もっとバカでかい勝彦はそうでもない。
「祟り神ってなんだ?」
「あんた、相変らずバカねー!」
「バカバカ言うな!」
「バカなんだからしょうがないでしょ!」
小川の声はない。やっぱり……。
あ。おかしい。いや、間違っているのか俺は。
「ここで言ってんのは、恨みを残して死んだ人が神になって、病気や災害を招いたって話。有名な所じゃ菅原道真みたいなもん。聞いてる?」
「聞いてる! 俺だって道真ぐらい知ってるぞ」
「へぇ。バカにしては上出来ねぇ。ま、平安の頃は政争が絶えなかったし、とにかく恨みをもって死んだ人は沢山いたわけ。で、道真みたいな大物は専用の神社に祀られて、あとはまぁ、疫神ってことにして一緒に祀ったと。乱暴に言えばだけどね」
「…判んねーぞ姉貴」
「一度で理解出来るわけないでしょ、あんたに」
「ぐ…」
意を決して彼女を見た。
そして、黙ってこちらを見つめている彼女と目を合わせた。
「災難が続いた理由を五郎の祟りだと思った村人が、祇園の神を勧請する。祇園祭は疫神をなだめるわけだし、一番ふさわしい神社を作ったのは確か」
「はぁ」
「ただ問題は、どうやってゴロウとツルを鎮めたのか、でしょうね。この筆者も結局そこは判らなかったみたいだし」
「これから探して見つかるもんでしょうか?」
「良くんは悲観論者ねぇ。見つからないと思ったら見つからないもんよ」
「す、すみません」
「まぁことがことだから、この筆者が見つけられないまま亡くなってたとしたら厳しいでしょうね。今は神主なんてどこにもいないから」
「清川もですか?」
「清川はダメ。今のは大学出のバカだから」
「バカって…」
「バカよバカ。神職養成大学ではね、日本国中おんなじ神様しかいないって教えるから、ああいうのが来るともう終わり。だいたい田舎を見下してるから、学校で習った作法とか押しつけるし、ほんとバカ、救いようのないバカ」
「はぁ…」
心配されていたのは、俺だったんだな。
彼女に何も与えられない自分。それどころかいつも、俺は彼女を苦しめるばかりだ。
「五郎の祭がなくなったのも、まぁそういうことでしょ。明治になって祇園が八坂神社になって、神社本庁の息がかかった奴が来たら、沓喰五郎なんてとんでもないって話になる」
「…その神社本庁の人は、五郎が怖くないんですか?」
「怖くないの。神様はみんないい神様だから」
「そう…なんですか」
「そうじゃない。本当はそんなもんじゃないけど、彼らは神様なんてどうでも良かったわけ。ただ外国と違って日本にはこんな素晴らしい神様がいますって言えばいいから、都合の悪い疫神なんて、居なかったことにする。そのうち近代の科学で説明出来るようになったし」
「でもそれって…」
「神社としては死亡宣告に等しい。神様なんてただの迷信だって神社が認めたようなもんだからね」
「はぁ」
「今の神社はどこもそんなバカな神主ばかり。お祓いごっこして金儲けするコスプレショーだけは上手な、救いようのないバカ」
こちらを向いた彼女は、笑う。
俺は、俺はどうしよう。慌てて何かを考えようとするけれど、頭の中はスローモーションのまま。笑うのか? 笑わないのか?
「とにかく、ゴロウとツルはこの世に未練があったということは判った。あーんまりいい未練じゃないけどね」
「………」
「ね、ヒロピー」
「え?」
突然呼ばれて振り返る瞬間に見えた顔は、またどこかで逢った姿だったような気がして、俺の心は揺れる。
「ゴロウとツルのためには、きっと祭が必要なのよ」
「…まつり?」
「そう。ヒロピーとえーこ、二人の祭」
「………」
俺と小川…と、そんなところを強調する祐子さんが判らない。ゴロウに必要なら勝手にやればいい。俺の問題じゃない。勝手に体に居座った他人じゃねーか。
まだ動揺の収まらない頭。だけどそんな自分の、焦点の定まらない瞳ですらも気づいたことがあった。
斜めを向いた祐子さんの視線の先。見つめ合う……ではない、にらみ合う二人がいる。
「まぁ、結論は急がないこと。まだどんなことしてたのか判んないからね」
「急ぐも何も…」
「えーこもいい?」
「………」
答えない彼女。
彼女だけではない。千聡も何かを悟ったかのような顔で祐子さんをただ見つめ、それを受け止める祐子さんもまた、いつもの祐子さんではなかったような気がする。
そんな光景を見る自分は、どんどん世界を取り戻して行く。
「祐子さん」
「なぁに?」
振り返ったその顔が少しゆがんだように見えたのは、ただの錯覚だったろうか。
「隠してますよね、自分のこと」
「………」
自分?
いったい何を言ってるんだ?、小川は。おかしな言葉だ…と感じた、その感覚もまた俺を夢から覚ましていく。そして呆れる。
俺は呆れているんだな。ふっと息をつく。しかし、少し気が楽になった自分は、改めて目の前の光景が理解出来ないことに行き当たる。
窓枠を背負う祐子さんは、消えそうなほど暗い部室の蛍光灯に照らされる。窓枠の彼方は既に漆黒に覆われようとしているが、まだどこか中途半端な時間。随分日が長くなった。そんなことぐらいなら、今だって考えられる。
祐子さんは無言のまま彼女の顔をぐっと睨みつけて、それからふと笑顔を漏らす。屈託のない笑顔に見えた。まるで小川の同級生であるかのように。
「えーこが期待するような出来事があったかと聞かれたら、ないと答えるわよ」
「…………」
「ま、そんな簡単な話じゃなさそうってこと。結論は急がない」
「はい…」
期待するようなこと。まるで会話についていけないまま、祐子さんの指先に視線は移っていく。
薄暗い蛍光灯を反射する爪の軌跡にすら、何か意味を見出そうとする。軌跡が例えばリボンに変わって行ったとしたら?
そうだった。今日の小川はリボンを付けていなかった。なぜ? いや、なぜ…と俺は今なぜ悩む。
「他に質問は?」
「姉貴」
「何よバカ」
「祟り神なら、なんでショーが歌うと出て来るんだ?」
「それはまずショーに聞くべきでしょ」
「ぬー」
元に戻りそうで戻らない、もどかしい時間は続く。
けれどそんな感覚なんて、日々経験してるような気もする。授業中の居眠り。起きよう起きようともがいても無力な自分が、なぜかチャイムと同時に目覚めてしまう。あらかじめプログラムされていたかのように。
「ツルは好ぎだんねがの」
「ショーのことが!?」
「ショーの歌がでしょ。ちさりんもちょっと落ちつきなさい」
「あぅ、す、すみません」
それにしても、千聡が動揺するのはなぜだ。ここまで深入りしている以上無関係とは言えないけれど、かといってあくまで第三者のはずだ。
………。
復活出来そうだな。頭がまわってるぞ。
当事者、か。どこまでをそう呼べばいいんだろうな。俺と小川だけじゃツルを呼ぶことも出来ないんだから、何も二人だけの問題じゃないのは確かなのだろうが。
「もしかしたら」
「へ?」
突然、目の前から伸びる細い腕。
見ると、小川が少し無理な姿勢で、千聡の額に手をあてている。俺が邪魔をしてるようなポーズ。いや、確かに俺は邪魔だ。
「ちさりんの中にも、ツルがいるかも知れない」
「…何言ってるかわかんないって」
呆れた表情でその手を払う千聡が、いつもより少し子供に見えたのは、二人の体の対比ゆえだったろうか。
小川のおかしな言葉。さっきといい、俺には何一つ理解出来ない。
もちろん、だからといって小川が夢でも見ていた、とは思わない。いや、少なくともまともな頭じゃなかった俺にそれを判断する資格はないだろう。ただ、良やショー、そして勝彦までが真面目な顔で小川の言葉を聞いている。それは奴らにとって何か納得出来る所があったからに違いない。
それが何か。いずれ問い詰めなきゃいけない…けど、今は無理だ。俺にはそれ以前にやるべきことがある。落ちついて、今日のことを振り返る余裕が欲しい。
「ま、今日はこれでお開き」
「ありがとうございました」
「良くん」
「は?」
祐子さんはさっさとプリントを片づけて立ち上がる。俺は再び黒光りするカバンに目を取られそうになって、そしてここでも少しだけ記憶を取り戻す。
「自分は関係ないと思ってる?」
「………」
「ちさりんと別れたい? 眠れない夜がお望みなのかな、ねぇショー?」
「お、オフコースだが」
「…………」
「ゆ、祐子さん!」
どうしても波風を立てずには終わらない人だ。けれどそんな祐子さんに呆れようにも、やはり何を言ってるのか俺にはさっぱり判らなかった。
険しい表情のまま無言の良にも、いつものようにさっさと返答しろとは言えない。というか、平然と答えるショーが判らない。今日はヤツも少しいつもと違う。
「歌って」
「ぬ」
「………」
「ぅあいのないまいにぃーちはぁ~じゆーうーなまいにぃ~ちぃ~」
「……えーと」
でもやっぱりいつもと同じなんじゃないか。とりあえず悩んでも徒労に終わりそうだ。
千聡の困惑した顔を見ていると、目の前をまた遮る手。振り返ると小川が、今度は何も口にしないままこちらを見つめていた。まるで二人きりの合図でもするように。おかしい。俺だってそんな秘密のサインを勝手に見破れるほど、今日は冴えていたのか。
昇降口を抜けて、頭上の圧迫から解放された気がする。部室の狭さが良くない。あんな不健康な場所では、いつか俺たちは窒息しそうだ。




