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川辺の祭  作者: nats_show
葦芽
40/84

二つの河口

 放課後、独りいつもの通学路を走る。朝の自分なら11分のところ、今日は特別大サービスで8分程度に短縮だ。さすがにしんどいぜ。言うまでもなく、自転車を取りに戻っているわけである。

 言うまでもない…とはいえ、正直申し上げればそれは予想外の展開だった。急いで荷物を片づけ、なんとなくふてくされた様子の勝彦を仕方なくからかって、そして三人で教室を出たところでばったり良に出くわした。そして良が何かを口にするよりも早く、小川がこのことを提案してくれた。事前に相談があったわけではない。朝の様子からみても心配性の彼女だから、初めての遠出をあれこれシミュレーションしていたのだろう。

 まぁそれでも良は渋ったのだ。時間があったらその無意味さを説いてやるところだが、そんな暇があるはずもないので、俺は一方的にルートを指定して、有無を言わさず教室を飛び出した。

 彼女の好意を無には出来ない。だいいち、千聡の家まではどうせ徒歩なのだし、そこまでの経路に多数の選択肢があるわけでもない。何ら問題なく追いつけるはずだ。

 …………いや。

 本当は、図書館で待ち合わせすればそれでいいのだ。その辺の良のこだわりは、どうにも理解し辛い。目的地には一緒に向かおうとしつこく主張するわりには、出掛けてみればその経路で何か会話があるわけでもない。こちらが話し掛けない限り、良は無言を決めこんでいる。

 まぁ無口なのはいつものことだ。他人に要求だけはしておきながら、自分は何も変わろうとしない。

 あえて奴の弁護をすれば、たぶん一緒でなければ俺たちが事故でも起こすとでも思っているのだろう。弁護というか、大きなお世話だが。


「間に合ったぞ良」

「うむ」

「お疲れさま」

「疲れてないでしょ~、それぐらいで」


 結局、商店街に入って50mほどのアーケード街で追い付いた。反応も予想通り……とはいえ、社交辞令でもねぎらいの言葉が増えたのは嬉しい。逆に言えば、今まではそれ「だけ」がなかったわけだ。まぁ慣れてるから別にどうでもいいけどな。

 自転車を降りる。ここは市役所も近いし、確かに中心街ではあるけども、人通りはほとんどない。たまに同じ高校の制服が側を通るのはもちろん学校帰りというだけで、みんな何もせずに通り過ぎていくだけだ。

 ここは長いこと、自動車の入れない道だった。最近になって一方通行ながら通れるようになったけど、昼でもシャッターが下りたままの通りに、今さら用などあるはずもない。俺自身にとっても、ここは図書館へ行く時に車がいないから安全だ、という程度の場所だ。

 風の強いこの町では、少し昔に大火事があった。俺たちが生まれる前のことだが、映画館から燃え広がった炎が商店街やデパートを包み大きな焼け跡だけが残って、消防士一人が亡くなった。その話は小学校で何度も聞かされたし、実際に家が燃えたという同級生もいた。

 その跡地に整備された斬新なアーケード街は、なるほど古い市街地なのに郊外のように新しく、だけど人の気配が乏しい。残ったのはそれだけだ。四人と三台の自転車にとって、昔話なんてなんの価値もない。

 直線のアーケードを抜け、寺が並ぶ一角に出る。千聡の家は、燃え残ったそんな街並の中に、黒く塗られた板壁を巡らしている。

 断わっておくが、寺に囲まれているだけであって、奥村家は寺ではない。まぁもしもお寺の娘として生まれたならば、今とは違った性格の高校生になっていたかも知れないが、実現しなかった夢を追うのは酷というものである。


「すぐ戻るから」

「遅いぞ」

「まだこれからでしょ!」


 肩を怒らせ、黒い板塀の向こうに消えて行く姿を三人で見送った。俺と良にとっては何度も見た光景だったが、残る一名はかなりもの珍しそうだ。


「ずいぶん立派な家なのね」

「古いとも言うがな」

「古いからいいじゃない、ね」

「うむ」


 さりげなく仲間はずれにされた感覚。とはいっても、同意しようにも抽象的過ぎる。

 しょうがないから板塀の向こうに見える大きな木を見上げたら、他の二人もつられるように上を向いた。引っ込みがつかなくなったその時に、自転車をひいて千聡が戻って来る。なかなか早かった。わざわざイヤミを言った甲斐もあるというものだ。

 千聡の自転車は、他の三台とはちょっと雰囲気が違う。どこにでもありそうな俺たちのものに比べて、千聡のそれはゴツゴツとした感じで、やたら古めかしい。じいさんのお古だという。一年前の今頃、聞かれもしないのにしつこく説明していたから、かえって印象に残っている。

 見られたくない、という意識は未だにあるようだ。ここに顔を出す瞬間も、足が止まったような気がしたのは、何も目の錯覚ではない。


「すごい自転車」

「えーと…」

「かっこいいね」

「そ、そう…かな、古いけど、は、はは」


 もっとも、奥村家をあんな風に褒めた小川なのである。重厚な造りの自転車だって、それだけで十分価値があるだろう。いや、俺や良だって、黒光りする鋼の車体はなかなか格好いいと思っているのだ。

 ただし、千聡が乗るにふさわしいかどうかはどちらとも言い難いが。蹴りが得意のちさりん大先生とはいえ、武骨なイメージと言いきるのもさすがにかわいそうである。

 とにかく四台揃ったところで、自転車に乗って市立図書館を目指す。まぁ角を右に折れて、あとはまっすぐ進むだけだから、ここまで来たら歩いても似たようなものだが。

 目指す図書館の敷地は、北側が大きな道に接している。だけど俺たちは反対側の裏さびれた入口から、潜り込むように入っていく。泥棒でもするように侵入して、それでも結局は自転車置場は北側にあるから、ほどなく発見されてしまう。


「そういやちさりん」

「なによ!?」


 自転車置場はそれなりに混んでいるから、四台並べるというわけにはいかない。女性陣に近い場所を譲って――と言っても数歩の差しかないが――、チェーンロックをかける。


「そんな戦闘モードにならんでもいいだろ。あそこ行かんで…」

「いい!」


 それはいつものやり取りだったはずだが、せっかく親身になって心配してやったというのに、困ったものである。まったく。

 小川一人に対して、そこまで格好つけなきゃいけないのか?


「あそこって…?」

「あれ」


 遠慮がちに訊ねる小川に、仕方なくこちらも声を出さずに指差すだけ指差しておく。彼女の視線も向かう、右手の先にあるのはダンゴ屋である。ありがちな女子のイメージそのままに、千聡は甘い物に目がない。

 ちなみに、小川も随分熱心に見つめていたような気がしないでもない。どうやら閉店までには調査を終える必要がありそうな雰囲気である。

 図書館はどこにでもある普通の白っぽい鉄筋コンクリート二階建。二階は多目的ホールを兼ねている…らしい。多目的と言ってはみたが、俺は使ったことがないし、無目的というか、ただの空き部屋なんじゃないかと思うこともある。

 汚れたガラスの扉を押して中に入ると、すぐ右が図書館の入口。奥はホールになってるけど、これまた使う機会はないから、何があるのかよく知らない。そういえばこの場所は昔の小学校跡地らしい…と思い出してみたが、それはこの場合知っていても役に立たないな。

 ともあれ四人はカウンターの横を抜けて、雑誌棚に囲まれた前方の自習コーナーを眺めると、ちょうどいい具合に一角が空いていた。俺と千聡はほとんど手ぶらに近かったから、他二人の荷物――カバンは盗まれるから置いてはいけないらしいぜ。教科書盗むバカもいない気がするけどな――を置いて、しかし座らずそのまま奥の書棚に突き進んだ。


「ざっと説明せよ」

「お、おう」


 ぎこちない感じで良が説明する。と言っても、どの辺に可能性のある本があるかというだけの話だから、一言で済んでしまった。

 モノがモノだけに郷土史のコーナーが中心で、しかし民俗なんかの棚も気になるし、市町村の報告書に紛れてるかも知れない。たいした図書館ではないけれど、徒労を厭わなければ、見るべき書物はそれなりにある。


「それじゃ二手に分かれましょうか。良くんとちさりんは郷土史の棚をよろしく」

「あ……」

「うむ」

「私たちはあっち。よろしく山ちゃん」

「え? …あぁ、はい」


 ここで小川が仕切るとは思わなかったが、あえて否定する謂われもないので、そのまま四人は分かれて作業開始となった。

 とりあえず俺たちは、民俗関係の本が固まった一角へ移動する。そこはいつも良と探す場所なので土地勘があった。たかが図書館で土地勘も何もないけど。


「まずはここだな」

「うん」


 民俗学者の本なんて、田舎の図書館にはそんなに数があるわけでもない。いつも最初に確認することになっている、とある全集の索引を小川に渡して、まずは雰囲気から慣れてもらうことにする。

 数秒黙って表紙を見つめた小川は、やがてゆっくりとページをめくった。わりと緊張しているようだ。ついさっきの手際の良い彼女とは別人みたいに見える。


「山ちゃんは?」

「…恥ずかしいか?」

「ちょっとね」


 仕方ないので近くにあった別の本を取り上げた。昔の雑誌をまとめたものだ。

 白い壁に蛍光灯が並ぶ無機質な光景。なのに臭いだけが古くさい場所で、小川は立ったまま文字を追っていた。長くなりそうなら、さっきの席で座って読んだほうがいいのだが、それを口にするのも邪魔をしてるみたいだから、とりあえず自分も黙って目次を眺めることにする。

 …というか、本音を言えば雑誌の目次は読み辛いし、一年分まとめてあるから十二箇所は見なきゃいけない。要するに俺が座って読みたいわけである。

 ………。

 まぁ、小川が一冊確認し終えたところでどうにかしよう。向こうのほうが短いはずだと気を取り直して、雑誌の目次に目を移す。

 手書きの古くさい装丁。ただし復刻ものだから、紙だけは新しい。それを奇妙に思うことも、さすがにもうなくなった気がする。

 目次には、全国各地の伝説やら行事の報告やらが並んでいる。見ているだけで楽しい。これは日本史の教科書とは違うのだ。沓喰五郎が顔を出しても、きっと誰も笑わない世界なのだ。

 そんな世界はだけど、遠い昔のことだと思っていた。ここに書かれていることは、じいちゃんが子供だったころの昔話。そしてそれは、自分にとって何一つ現実感のない物語だったはずだ。

 ふと、四郎三郎を思い出す。

 中学二年の時、なんとなく気になって良と一緒に四郎三郎の話を探したことがあった。探した…と言っても、小学校でもらった本にはもちろん載っている。そうじゃなくて、全国の伝説を集めたこういう雑誌にも載ってる話なのか、確かめたかったのだ。

 結局それは見つからず、かといってそもそも四郎三郎は系図もあって子孫もいるのだから、疑う余地もない。最後は探す理由がよく判らなくなって、仕方ないから彼が建てたという寺の唐門を見に行ってごまかした。

 …………。

 別に今思い出すようなことじゃないな、と思って顔を上げたら小川がじっとこちらを見ていた。


「あ、終わった?」

「はい」

「じゃあこの雑誌見てくれ。一月から順に探して目次で大雑把に確認する、と」


 なんとなく急いでる感じだったので、自分が見ている雑誌の一つを渡したが、彼女は受け取ったまま動きを止めていた。


「難しそう」

「そんなことはない。俺でも出来る」

「………」

「…………」


 見つめ合う二人。

 別にそうしたいわけでもないのだが。どうも小川との会話には変な間が入る。


「困った時はよろしく」

「まぁ出来る範囲で…………っと」


 そのまま作業に入ろうとする小川を見て、思い出した俺は慌てて制止する。


「座って読もう」

「あ、……うん」


 一年分で一冊だから、かなり重いのだ。別に限界とかそういうわけではないにしろ、のんびりリラックス出来る方が良いに決まっている。

 自習スペースに戻って椅子に座ると、ほっとして思わずゴリっと肩を回してしまう。当然のように小川はそれを見て、笑っていた。

 山際博一という人物の中でここが一番正直だということを、嫌でも気付かずにはいられないが、かといって意識的にやめるのも難しい。実際、肩は凝るのだから。


「良くんとちさりんは、立ったままなの?」

「いや、向こうは座る場所がある」

「…そうなの」


 座る場所というか、正確にはただの踏み台なわけだが、ともかくきっと良は千聡をそこに座らせて、自分は立ったりしゃがんだりしているに違いない。普段は格好つけてるくせに、図書館では平気でウンコ座りするからな。学校で同じことをやれば、確実に女性人気は落ちるはずである。

 ……………と、婦女子を前にウンコ座りはねぇだろ。ついでに、良が女性人気を欲しているのかも疑問はある。小川の前でもウンコなら……って、だからウンコじゃなくてだな。


「優しいのね、山ちゃんは」

「…そりゃお互い様だろ」


 優しい?

 その言葉がなぜか俺の頭に不愉快なフレーズとして響く。そうだ。だいたい小川こそ、手際よく良と千聡をくっつけた張本人ではないか。

 ……いや。

 気付かれないように彼女の横顔を窺って、その視線が雑誌に集中していることを確認した俺は、小さく溜め息をつく。

 どうせほっといても、この組み合わせになったのだ。だからこれが小川のせいじゃないことは理解しているつもりだけれど、それでも彼女の手際が良かったことに変わりはないし、俺は正直あの時驚いていた。もっと正確に言えば、彼女の手際が良すぎて少し動揺させられていた。


「まずいこと言った?」

「え? い、いや別に」


 しかしそんな表情すらもしっかり見られていたわけだ。所詮相手の髪型すら覚えてない男が対抗するなんて愚かな話でしかないということか。


「結局は自分のエゴかも知れないけどね」


 それでも小川は語り続ける。


「エゴ?」

「…食べ物じゃないよ」

「それは苦しい」

「ごめん」


 ちょっと照れ笑いの小川。ちなみに念のため説明すると、エゴというのは海藻を固めた黄緑色のトコロテンみたいな食べ物の名前である。

 エゴねぇ。

 そりゃ確かに、二人のぎくしゃくした関係につきあわされるのはたまったものではない。俺たちがそれを避けたんだと言われればそうかも知れないけど、なんとなく釈然としない。


「気にせず調べよう、山ちゃん」

「…了解だ」


 了解はしたけれど、その瞬間一つ思い出した言葉があった。

 共犯者。意味は判らない。思い出しただけだ。

 それからしばらく、俺たちは書棚と机を往復した。二人のペースはほとんど変わらず、黙々と作業をこなしていく。旧字体だらけの雑誌なんて、初めて見た人なら相当に苦労するはずだ。小川はやはり優秀な新戦力だった。絵本だけの知識じゃこうはいくまい。

 十冊ほどあった雑誌もやがてチェック終了。続いて、数冊あった昔話の本も一応確認して、得られた結論はもちろん「何も載ってない」の一言。

 まさにそれは徒労。だけど自分にとっては苦でもないし、それ以上に小川が楽しそうだったから、別に構わないような気がした。


「諸君、何か見つかったかね」

「お、ちさりん」


 そこにやって来たのはイカレタ女子生徒。図書館なので小声ながらも、怪しい雰囲気を全身に漂わせている…というのは若干の誇張が含まれている。

 どっちにしろ、真面目くさったこの空間の中で浮いてることには違いないし、俺たちもそちら側に分類されようなこともまた事実。亡きじいさんの愛する言葉で表現すれば、チンドン屋であるハッハッハ。


「一人?」

「ちょっと来て」

「え、ああ」


 わざわざ呼びに来た、ということは何かあったのか?

 思わず小川と顔を見合わせ、首を傾げながら千聡の後を追う。といっても、本棚の裏というだけで、距離にすればほんの数メートルに過ぎないが。


「何か見つかったの?」

「うむ」


 例によってウンコ座りしていた良は、先に声を掛けた小川に向かって開いたままの本を手渡した。

 俺も気になるから、立ったままの彼女の側に寄って、覗き込む。その瞬間、カビくさい臭いの中にちょっとだけ女の子の香りがした。


「左のページだ」

「左………」


 良に言われるままに視線を動かした小川は、そのままじっとある一点を見つめていた。

 いや、それは自分も同じだ。

 まさかの、というよりもあってほしくなかった、「鶴子」という文字。さらに辿れば、「大外川」という文字列も見える。


「なぁ良」

「ん?」

「これ、オオトガワって読めるか?」

「…たぶん」


 なぜか冷静に問いかけながらも、一方で混乱する俺の思考。

 ツルの確かな存在。それも、小川の口を借りて自ら名告ったというオオトガワツルコが、そのままここに記されている。

 …………。

 溜め息をついても、何も変わりはしない。これだけの偶然はないだろう。つまり、沓喰五郎と大外川鶴子は、俺たちの意識を蝕む存在は、間違いなく伝説の男女だということだ。


「ツルさんは、五郎が好きだった?」

「……たぶんな」


 行数にしてほんの数行だが、必要な内容なら尽くされている。断言してもいい。けれどそんなことは俺には言えないし、そんな質問してほしくない。


◎沓喰 社有 此地は往昔沓喰五郎匡任の住せし地也。天慶の争ひを逃れし五郎殿は、此地に辿り着きて沓を脱ぎしに由て以後沓喰氏を名告し也。五郎殿此地を望見して曰く、狭小にして四神相応の地には有ねど、舟運の便有りて以後必ず栄ふべきもの也と云り。五郎殿此地にて鶴子姫を迎へ長者と成て、薨ぜし後は村民こぞつてこれを祀りしとぞ。

◎鶴子姫は羽州大外川の生れにして、容貌殊に勝れ琵琶を能くせしとぞ。五郎殿薨ぜし後は落飾し菩提を弔ひ歩けりとも、又共に祀られしとも云ふ。


 黙って同じ箇所を見つめ続ける小川。そして自分は……。

 世界が停止する。その時間は、たぶん計ればほんの一、二分に過ぎなかっただろうが、俺にはとてつもなく長く思えて、耐えられなくなって本を彼女の手から奪い取った。

 閉じれば、かすれかかった金色の文字。「村史」と書かれたその文字を確認して、ふっと溜め息をついた時、かすかな後悔の念も湧きあがるけれど、だからって自分に何が出来るというのだ。


「良くん、この辺の地図は…」

「ああ、その本にあったから」

「………」

「渡しなさいよヒロピー」


 奪い返された本の巻末にあった地図を、三人は眺めていた。

 俺はその輪に加わらないことの不自然さにいたたまれず、とりあえず体だけはそういう姿勢にしたけれど、見たくはなかった。

 巻き込まれる。そして深みにはまっていく。何もかも自分の思いと裏腹だ。


「もう五時半か」

「ダンゴ屋は?」

「とっくに閉まってる!」


 必要箇所のコピーを取って、四人は図書館を出た。自分にはそれが必要なのか判断出来ないまま、だけどコピーを渡されついでに二十円を請求される。

 不機嫌な千聡の声に小川がたじろぐ背後には、既に明かりの消えたダンゴ屋が見える。あの店は婆さん一人だから、いつも店じまいは早かった。

 自転車置場に着いてから、慌てて鍵を探す。外はかなり暗くなって、カラフルな塗装の自転車たちも少しずつ色を失っている。そんな景色の中で、図書館の蛍光灯だけが何も変わらず、だけどその光はここにはもう届かない。


「山ちゃん、送って」

「え?」


 また動揺する自分。小川の家なんて知らないとか、どうでもいい言い訳が頭の中を巡る。


「川南でしょ、橋まで送ればいいじゃん」

「うむ」

「……まぁいいけど」


 実際、彼女が一番遠いのだし、比較の問題に過ぎないとはいえ俺が一番彼女の帰路に重なっていることも確かだった。ついでに言えば、良は千聡を送って帰るだろうから、どうせ残るのはこの組み合わせだ。さっきと同じことだ。

 そう、さっきと同じだから納得出来ない。そういうことだ。


「バイバイえーこ」

「またね~」


 しかし逡巡する俺とは無関係にさっさと二人は別れ、二台の自転車が視界から離れて行く。テレビを見るような感覚で俺はその後ろ姿を眺めていた。

 要するにそれは、もはや悩んでも意味がないということだ。確かにそれは逡巡するようなことではない。俺たちは家に帰らなきゃいけないのだから。そんな当たり前のことなら俺だって知っている。


「じゃ、よろしく」

「…別に俺がいたっていなくたって同じことだろ」


 ペダルを漕ぎ、夕暮れのアーケード街を二人は走る。

 川南に向かうには、ほぼ中心街を突っ切って大河を渡らねばならない。やや下り坂の、相変らず人通りの少ない道を抜け、橋に通じる道を折れた。

 小川は黙って後をついている。風が強くなって来たから、朝に見たリボンも今は小刻みに揺れる。この調子ならまだ真っ暗になる前に、彼女も家に着けるかも知れない。

 学校近くの川を一つ下流の橋で渡り、旧国道との交差を過ぎると、橋に向かう登り坂になる。風は強くなり、ペダルを漕ぐ脚も重くなる。後ろの彼女との距離を気にするけれど、さして離れることもない。この坂も強い風も、彼女にとっては毎日経験する当たり前のことだ。なんとなく恥ずかしくなって、俺は後ろを振り返るのをやめて両脚に力を込めた。

 ゆるい坂を登り終えたところで、信号の先に橋が続く。見渡す限り周囲は薄暗い景色に覆われ、その中に飛び出そうとする自分たちは何か愚かな存在に思えてくる。


「ありがとう山ちゃん」

「俺は何もしてないぞ」


 小川は初めて俺の前に出て、そしてもう少しだけ一緒に来てほしいと言った。よく判らないままに、だけど漆黒に消えようとする彼女がどこか怖くて後を追う。

 百メートルはある橋の中央まで来ると、消えかかった夕陽がまだ川面を照らしている。川なのか海なのか、もう判らないほどに広く、そしてゆったりとした平面。見上げればうっすらと雲の影が見えるけど、それはあまりにかすかでよく判らない。

 強い風が吹きつけるそんな橋の歩道上で、彼女は自転車を止めて欄干に手を掛ける。

 それは身投げの雰囲気ではないけれど、俺はまた少しそんな彼女が怖くなって、だけど何も出来ることなんてないから、ただ隣で川面を覗いた。


「葦原の中津国」

「…………」

「知ってる?」


 唐突な台詞。

 だけどそんなシチュエーションを待っていたかのような自分がいる。


「…聞いたことはある」

「さすが」

「褒めても何も出ない」

「ちぇ」


 微笑む彼女は、そのままの姿勢で橋の下を指差した。

 河口に近い大きな流れはいくつもの中洲を作り出し、暗くてよくは見えないけれど一面に草が生い茂っている。


「子供の頃絵本で読んだ時、あんな感じだった」

「どれ?」

「ほら。葦が生えてる」

「…ま、まぁな」


 この橋は川面からはかなり高い位置にあるから、生い茂る草が葦だと断定は出来ないけれど、別にそんなことはどうでもいいことだった。

 俺は彼女の揺れるリボンに気を取られて、そのリボンがいつか強風で飛ばされるんじゃないかと心配していた。


「こーろこーろって感じでしょ」

「………」

「見えない?」

「いや、小さいな、と」


 慌ててリボンを離れ、もう一度覗き込んだ中洲は少し前よりも暗さを増している。

 あいにく俺には、絵本を読んだ記憶なんてない。

 知ってるといっても、これもお決まりの、良を通した知識。だから想像力を働かせる前に、日本列島には程遠いその小ささが気になった。

 彼女はしばらくそんな俺の顔を見て、もう一度中津国へ向き直る。


「小さい、か」

「…………」

「山ちゃんがイメージした中津国は、もっと大きかった?」

「………いや」

「だよね」

「ああ」


 暗がりの向こうに、点滅する光が見える。燈台の明かりはここからはまだ遠い。

 もちろんこの川には、船なんてやって来ない。港は堤防の向こうだから、ここにはせいぜい漁師の小舟がやって来るぐらいだ。

 小さな世界。こんなところに住める存在などあるだろうか。それとも、ここから世界は広がっていくとでも…。


「不思議だよね」

「………」

「確か、あの辺にあったのが豊秋津島。今なら十歩ぐらいかな」

「ん……」


 今度は秋津島。随分いろんな言葉を知ってるんだな、小川は。


「不思議でもないだろう」

「そう?」

「自分が大きくなったってことだ」

「…………」

「…いや、すまん」


 微妙な空気が流れた。

 我ながら失言だった。恐る恐る小川の表情を窺うと、ちょっとだけ首を傾げながら、いつもより大きく目を開いている。俺の言葉の真意を確かめるように。

 あくまで一般論として、昔より大きくなったと言っただけなのに、わざわざ自分で墓穴を掘ってしまう。


「やっぱり意識するの?」


 けれど、彼女ともう一度目を合わせた時には、なぜか俺は立ち直っていた。我ながらよく判らない性格だと思う。


「………正直に言っていいか?」

「どうぞ」

「見た目よりも口の悪さが気になる」

「………」

「これホント」

「…………」


 その瞬間、左脚に鋭い痛みが走る。

 きっと俺は情けない表情で彼女を見ただろう。


「それだけは真似してほしくなかった…」

「そう? ちさりん直伝なのに」

「…直伝?」

「はい」


 こんな時に満面の笑みというのはどうかと思うぞ小川クン。

 というか、なぜそんなものを直伝されねばならんのだ。ツッコミ所がありすぎて泣けて来る。


「ちさりんなら許せるのに私はダメ?」

「いつもよけてるだろ」

「じゃあよけたらいいじゃない」

「そんな緊張感のある会話は嫌だ」

「そう…」


 なんだか素晴らしく話が脱線しているような気がする。

 まぁ元々、この話をしようとやって来たわけでもないのだが。少なくとも自分にとってはな。

 小川は……。よく判らない。いや、そんなことはどうでもいいんだ。


「それにしても」

「え?」

「よく憶えてるもんだな、そんな昔のこと」

「まぁね」


 うつむく小川に、どうしたらいいのか悩む。

 どうでもいいと言ってはみたけれど、本当はここに呼ばれた意味があってほしいと思う自分がいる。もちろん一方には、それはそれで、別に意味なんてあってもなくてもたいした問題じゃないだろうと考える自分もいるけど。

 昔の記憶。

 そういえば親に絵本を買ってもらったことはあったな。読んで何かを得たのかと言われても困るけど。そんな難しいこと考えながら読む奴はそもそもいないか。


「私は…」


 強い風が、小川の髪をさらに乱していく。

 そんな光景をどこかで見たような気がする。


「秋津島って響きが好きだから」

「どうして…って質問してもいいか?」

「どうぞ」

「…………」

「…しないの?」

「あの、だから、どうして?」

「秋に生まれたから」

「………」


 だけど、彼女は小川悦子。ツルでも鶴子姫でもない、ただのクラスメイト。そうだろ?


「お気に召しませんか?」

「それなりに納得はした」


 すっかり日も暮れて、吹きつける風は二人の体温を奪い始める。

 下を見ても、もはや中津国も秋津島もありはしない。


「帰ろう」

「はい」


 互いに短く言葉を交わし、俺は自転車を反転させる。

 そうして一歩を踏み出そうとした時、彼女はまたこちらを向いた。


「あ、ところで山ちゃん」

「ん?」


 激しく揺れるリボンが目に留まる。

 いくら俺でも、きっとこの日の髪型は忘れないだろう、なんてどうでもいいことばかり頭に浮かんだ。


「送ってくれてありがとう」

「いや、別に…」


 その言葉をむきになって否定する気分ではなかったけれど、そんなことよりも早く家に帰ってほしいと、俺は思っていた。


「それと」

「………」

「あなたがいないと困るって時は多々あると思うよ」

「え?」


 そのまま彼女は去っていく。

 理解出来ない俺はしばらくそのフレーズを繰り返したが何も思い浮かばず、その内に体が冷えたことに気付き、慌てて自転車に乗った。

 橋は怖い場所だ。

 暗がりの中、行き交う車のライトはすぐ側にあるというのに、歩道には届かない。そして眼下には漆黒の闇。

 こおろこおろと沼矛を回せば、そこには何が生まれて来るか。彼女の夢見る国なんてあるはずもない。それどころか、雨が降ればすべては元の混沌に戻るだろう。

 ようやくのことで橋を越え、下り坂を駆け下りる加速度がさらに体から熱を奪う。

 だけど別に、そんなことで死にはしない。

 偽りのユートピアは排除されねばならない。そうだ。俺はその時、祐子さんに相談しなければならないと、同じことばかり反復していたのだ。

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