水の衢
「ヒロピーよぉ」
「………」
「ヒーロピッ」
「…なぐるぞ」
昼休み。勝彦は早速呼び名を頂戴したようだ。最悪だ。
「弁当タイムだぜ、ヒロピー」
「しつこい」
「ハックンのほうが良かったか?」
「なぜ二者択一なんだ」
「ふふふ」
なぜ、俺の後ろにクラス一やかましい男がいるければならないのだ。
だいたい、息苦しい午前の授業が終わり、今は一日で唯一の憩いの時間なのだ。ゆったり落ちついた気分で、優雅に昼飯ぐらい食したいと思うのが人情ではないか。
それがどうだ。毎日のように方々から妨害を受けている。こんな不幸なことが世の中にあるだろうか。
「で」
「は?」
と、不意をついて隣の机がくっついた。見れば――見たくもないが、千聡である。
そうだ。方々というのはそういう意味だ。
「飯食うか、ヒロピー」
「嫌だ」
条件反射の返答。
勝彦がクラスで一番なら、こいつは学校で一番騒々しい女なのだ。なぜ俺の周りにはこうも厄介な連中ばかり集まるのだろう。
「遠慮するな」
「そうだそうだ、掃き溜めにもドクダミの花ってやつだ」
「勝ピーっ!」
千聡の得意技、必殺のローキックが炸裂する。幸い被害者は勝彦だからどうでもいいが。
ま、他人事である限りそれなりに面白いといえなくもない…が、出来れば永遠に他人事であってほしいものだ。
…?
おかしい。今勝彦は歓迎してたような気がするぞ。
「どっこいしょ」
「ババァめ」
無駄口の勝彦にさらに一発かます、余裕の千聡。
…って、解説してどうする。
「やっぱりお昼は楽しく和気あいあいと過さないと」
「あーそうか」
「ヒロピーと勝ピー、我ながら」
「ワンパターン」
勝彦はまた蹴られている。どつき漫才だってもう少し手加減すると思うが、ここは漫才の文化圏ではないから仕方ない。いや、仕方ないのか?
う。どうでもいいことで悩むのはやめよう。
とりあえず、どうせ抗っても勝てそうにないだろう…ということで、さっさと飯を食う戦術をとることにする。食べ終わったら合法的にバイバイすればいいのだ。
「で、ピロピロ」
「………」
しかし、そうは問屋がおろさなかったようだ。
「返事は!?」
「誰に言ってんだ」
たとえ判りきっていても、承服しがたい呼び名には断固たる態度をとらねばなるまい。
「…じゃあツル男」
「う…」
「ツルヲツルヲ」
調子にのってはやす馬鹿を見ていると、本当にこいつは高校生なのか不安になる。
仕方ないな。とりあえず千聡の例にならって、控えめに蹴っておく。頼むから立派な大人に成長してくれ。
…別に立派な大人はいらないか。人並みで結構だ。
「俺は不幸だ…」
「あーそうか」
「で、ツル男」
千聡がぐっと身を乗り出して来る。どうやら話題をそらそうという、俺の高等な戦略に気付いたようだ。
まぁ気付くだろうな。高等でもなんでもないし。
「…何かね」
「ツルって誰?」
なんて単刀直入な質問なんだ!
思わず感動した。ドラえもんなら「ジーン」って感じに。
もちろん、俺は当たり前のように返答に困る。しかし千聡も勝彦も、ただじっとこちらを見つめているだけだ。
お前らも感動しろ、といいたいところだが、どうやら気が乗らないらしい。というか、最初からそういうつもりで俺を囲んでいたわけだ。
さぁて。
「…昔おじいさんとおばあさんが」
「へぇ」
「山で傷ついた鶴を見つけてだな」
「ふーん」
「かわいそうだと思った二人は」
「うんうん」
かわいそうなのは俺だ。
どうもこの二人が相手では分が悪い。かといって、本当のことをしゃべってもどうなるわけでもなかろう。
…だいたい俺は、本当のことを知らない。
「…そんなに聞きたいか?」
「おう!」
勢いよく返事した勝彦を、千聡がまたもや蹴り上げる。
「何か悪いことしたか~?」
「この馬鹿ピー」
そして彼女は急に俺を睨みつける。ちょっとだけ怖い。
「こちとら遊んでる暇はねーんだ」
「さ、左様か…」
なんで江戸っ子言葉なのか理解に苦しむところだが、千聡の目線はやっぱり怖い。
「ごまかしてどうにかなる?」
「…いや」
「あんた、笑い話で済むと思ってんの? この暴言男!」
「………すまん」
「…………」
まぁそうだ。
小川悦子の身になってみれば、別人の名で呼ばれたうえにいわれなき罵倒だ。そしてその光景は、ほぼクラスの全員に見られてしまっている。
笑って済ませられる話ではない。彼女だけではなく、恐らくクラス中の女子を敵にまわしてしまっただろう。
はぁ…。
正直、自分のことで頭がいっぱいだったから、そこまで考えが及ばなかったのだ。
ピンチだ…。
「…ふぅ」
とりあえず、彼女には謝るしかない。が、今朝の仕打ちを考えれば、直接謝るのはハードルが高そうだ。
少なくとも、俺が逆の立場なら、謝罪を受け付ける気にもなるまい。
………。
千聡が間に立ってくれるなら、実際助かるのも確かだ。
「笑うなよ」
「笑わせられるもんなら笑わせてみなって」
自信たっぷりに言いやがる。しかもまだ江戸っ子だ。
まあいい。やっぱり気乗りはしなかったが、今さら隠しても、事態が好転することはない。とりあえず知ってるだけのことは話してみよう。
「…で?」
「終わり」
「何それ」
「俺に聞くな」
そして、予想通りの反応。当たり前のように、困ったという表情。
まぁそれでも、笑われるよりマシか。
「ツルさんか…」
「恩返しって話じゃねーな」
そう言って思いっきり椅子を傾けた勝彦。
早くも思考を放棄したようだ。まぁ最初からこいつには期待していない。
「クツバミゴロウに憶えは?」
「ない。全くない」
千聡は腕組みして、いかにも考えているポーズ。きっと、ポーズだけだと思うけど。
「…ヒロカズだもんね~」
「ヒロピーじゃねぇな」
「なんか言った?」
「いんや」
とりあえず今は牽制している場合じゃなかろう。かといって問題そのものは、千聡にどうにかなるものでもないし、悩まれたところで互いに時間を無駄にするだけのような気がする。
しかし、五郎。古くさい名前だ。口にしながら、気恥ずかしい。今時そうそうあるもんじゃない。
ましてクツバミなんて名字は聞いたこともない。俺にはいくら考えてもお手上げだ。
「あ」
妙なリアクションの千聡。どうも何か思いついたようだ。
少々嫌な予感もするが、おそるおそる聞いてみるか。
「どうした?」
「…小さい頃、御三家とか呼ばれてた?」
「なんだそりゃ」
「お、知ってるぞそれ」
寝ていたはずの勝彦が身を乗り出す。密かに聞き耳を立てていたらしいが、ヤツが知ってるというのは危険だ。
「いいか、舟木一夫…、いてっ!」
すかさず激しいツッコミ。格闘技風にいえば、目にも見えないほどの早さでローキックが飛ぶ。
嘘だ。見える程度だが、誰も見てなかっただけだ…じゃない。そんなことはどうでもいい。
だいいち、勝彦はきっと飛んでくると判っている。判っちゃいるけどやめられない。バカだ…って、また戻ってるぞ。
「あんたは寝てろ!」
「間違ってねーだろー」
うーむ。
真面目な反応ばかりというのも怖いが、ここまでいつも通りのノリが続くと、それはそれで腹が立って来た。嗚呼俺は、こんなにもがき苦しんでいるのに。
いかんいかん。こいつらにどんどん巻き込まれているぞ。出来れば俺は、クラスの騒音発信源における、残されたただ一つの良心でありたいのだ。
はぁ。
しかし、蹴ったら眠気が醒めるよな。
代わりに気を失うかも知れないけどな。
「…で」
「ちさりんの言わんとするところはよく判った」
またもや突然真顔になる千聡に、俺も普通に返す。勝彦を一人取り残して。
「ボケなくていいからね」
「勝ピーとはキャラが違う」
「そぉお?」
「…自信はないが、たぶん」
「へぇ」
とにかく。
早い話が野口五郎だろう。
まぁ無理に幼少の記憶をひもといてみれば、「私鉄沿線」が得意だったとか、怪しい経験の一つや二つはあったかも知れない。
そんな忘れ去られた過去が、不意に思い出された…なんてことは、正直言って万に一つもないような気がするが、これまでが何一つとっかかりなしという状況だから、前進と言えなくもない。
相当に苦しい説明だな。まぁしかし、今はポジティブにいきたい。
「渋いな、ヒロピーのくせに」
「そういう問題か」
もちろん名字の謎はまるで解けないし、それ以前に実は野口五郎の真似なんてしたことがないという、致命的欠陥もある。あんなオッサンの真似、するわけあるかって。
「要するに、おツルさんに聞かないと判らない、と」
「そういうことだ」
千聡の結論が、俺と同じところに落ち着いたのには、正直ほっとした。
俺もまだ、人並みの思考が出来るようだ。
………。
なら、そのツルが小川悦子であると信じていることも人並みか?
……………。
わりと勘がいい千聡でも、まさかそこまでは判るまい。まして、出来ればさりげなく、小川悦子に探りを入れてほしいという俺の希望など。
もちろんそれは、自分から頼めばいいことだ。しかしまだ、それを口にするのは気が引ける。
俺は自分を信じ切れていないから。
「しかしなぁ」
「ん?」
「なんで青龍の滝なんだ?」
「あ?」
勝彦の質問は唐突だった。
一瞬、その意味が判らずに生返事。
「車で通りかかった…って答えは聞いてねぇな」
「そんなことどうでもいいだろ」
「バカ」
勝彦に馬鹿にされ、千聡にはズバリ。無性に腹が立つ瞬間だ…が、今は我慢だ。
「今時青龍の滝なんて流行らねーだろ」
「修学旅行で寄るぐらいだよねー」
何か生産的な話でもしてくれるかと思ったが、結局は聞こえよがしなイヤミに耐える。渡る世間の嫁の気分はきっとこんなものに違いない。
「…俺だって見たかったわけじゃない」
「ほんとかなー」
「他に寄るとこあるだろ」
クソ、なんで今だけ二人の意見が一致するのだ。理不尽だ。
しかし…、言われてみたらそうかも知れない。そんな気がして来た。ヤバいな。折れてしまいそうだ。ああ、敗北の甘美な世界。
いや。まだだ。
「…あそこ通ったら青龍の滝って相場が決まってんだよ」
「へー」
やけくそな主張。自分で口にしながらも、さすがに無茶だと思うし、俺はやっぱり敗北者になった気がする。
もっとも、青龍の滝という場所は、千聡が言うように、修学旅行でどこかに出掛ける時には必ず休憩するから、誰でも知っている。何も考えていなければ余計、とりあえず休憩してしまうのだ。実際、こいつらだっていざとなれば、きっと同じ行動を取るに違いないのだ。
そうだ。そうして知らず知らずのうちに、俺たちはあそこの経営を助けている。恐ろしい陰謀だ。
…と偉そうに言ってはみたものの、ふと気付く。俺はあそこで一銭たりとも使った憶えがない。トイレ借りたぐらいだ。要するに、助けてない。
「まぁヒロピーの主張はさておいて」
「おくな」
いや、おいてもらった方がいいか。苦しいから別の話題にしてほしいぞ。
「あの場所に何かあるんだろ?」
「そうか?」
「おツルさんと出会う必然はあるよね」
「あ」
まぁ、そうかも知れない。あそこが俺にとって初めて訪れた場所だったら、真っ先に考えただろう。両手で余るくらい行ったことがなければ。ふぅ…。
それでも検討する余地はあるか。野口さんよりはよっぽど核心を突いているような気がする。
…うむ、青龍の滝のおツルさん。いかん、うつった。時代劇じゃあるまいし。
時代劇…。
まぁ確かに、クツバミゴロウとツルなら、そんなイメージがお似合いか。話だけ聞いてりゃなおさらだ。
俺にはそうは思えないが。
あの場にいた俺――ゴロウ――はチョンマゲなんて結っていないし、「ムラ」が見えると口にしたツルも、普通の女の子だったはずだ。
ん?
「あ」
「何?」
「ムラ」だ。
「うーむ」
「何よ?」
こんな簡単な、しかもこの上なく重要な手掛かりを俺は見落としていたのか。
「ムラ」だ。あの場所から見えるもの。青龍の滝でなければならなかったもの。
正直これはダメージが大きい。やはり俺には人並みの思考が出来ないのかも知れない。
はぁ………。
「さっさとしゃべれバカ」
「う」
…しかし、だ。
「なぁ」
「何よ?」
「あの対岸にムラなんてあったか?」
「ムラ?」
答えを待つまでもない。滝があるくらいだから、対岸は切り立った崖ばかり。上流か下流か、どっちかに移動すれば何かあるかも知れないが、少なくともあの場所から見えるものは、滝と、滝を祀った祠ぐらいだ。
「聞き間違えたんじゃない?」
「う………」
じっとりと視線がまとわりつく。二人ともまるで俺を信用していない。
もっとも、俺だってそうだ。仕方ないだろう。
「ほんとはタクィとか言ってたんじゃ」
「まさか…」
「フォコラ」
「んー」
「ズンザ」
「お前らどこの人間だ」
他人事だと思って好き放題言いやがって。
少なくとも「タキ」ではない。
当時の俺は少なくとも車酔いだったが、そんなバカな聞き間違いが出来るほどなら、そもそもその時点で記憶などなくなっている。
しかし、だから逆に不安になる。
本当にあの場所でなければならなかったのか。
「そういや、青龍ってなんだ?」
「青い龍」
「アホか…って、いてーな」
先手を打って蹴っておいた。なんの合理性もないような気もするが、まぁ俺は痛くないからいいだろう。
「で、真面目に」
「知らん」
「うー」
実際、あるのは滝だけなんだから、滝の由来は知って損はないな。
というか、それしか手掛かりがない。あそこに「ムラ」があるのなら。
「良に聞いたら判らねーかな」
「え?」
「なぁ、ちさりん」
「は、はぁ」
良、という名前が出た途端に豹変する千聡。判りやすいヤツだな、しかし。
「…き、聞いてみる」
「聞いてみろ」
良は一応、千聡の彼氏ということになっている男だ。
俺は中学時代からヤツとは仲が良かったから、どうやって千聡が良に絡んだかも知っている。ふっふっふ。
「どれ、雪隠でも行くか」
「せっ………」
何となく一区切りついたので、席を立つ。千聡は動揺しているし、その意味でもちょうどいい。
とはいえ、今さら千聡が動揺する理由があるとは思えないが。
いまいちそこら辺がつかめないところだ。とりあえず恋人同士なんだから、二人のプライベートにまで立ち入るつもりもないけど。
「ともかく、良によろしゅう」
「うん」
「それと…」
小川悦子のことも頼もうとしたが、千聡は軽く右手でそれを遮った。というか、それは任せとけと言いたげな表情。
お見通しだったか。
…というより、最初から謝らせるのが目的だったのだ。今さらそんなことに気付く俺が情けない。さっさとトイレ行くか。
気がつけば勝彦は居眠りの体勢。急速に周囲はのんびりした空気に包まれはじめている。
「ヒロピーさぁ」
「ん?」
「女の髪は長いほうがいいの?」
「なんだそりゃ」
呆気にとられて振り向くと、千聡も机を戻して、うつぶしていた。
良の名前を出したのはまずかっただろうか。俺の一件なんてどうでもよくなっているような雰囲気を感じて、急に不安になる。
千聡にしてみれば、自分の問題のほうが重要に決まっている。
………。
しかしいずれにせよ、今は千聡に頼るしかないのだ。祈るように教室を出る。
俺はまず、この不安定な精神状態をどうにかしよう。お膳立てが出来ても、このままではぶち壊してしまうかも知れない。それだけは避けたい。
…しかし、どうしたらいいのだ。経験のない事態、しかも俺自身が頼りにならないのだから、何も策など立てようがない。
とりあえず…。
寝よう。
そうだ。俺は眠くてしょうがないのだ。




