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カレンダーを破ると、そこには四月がやって来ていた。
春。それは楽しくない季節だ。
冬なら雪が降る。そして雪さえ降っていれば、ボクはすべてを忘れて、なんとなく時を過ごすことだって出来るというのに、春というものはそんな雪を溶かしてしまう。
だからせめて、川の上流にボクは住みたいと思った。一日でも長く春が来ないように、ボクは引き籠る。それがたとえキミには理解出来ないとしてもね。
残り少なくなった休日を、ただテレビを見て過ごした。
その画面がキミのいる場所に近いスタジオからやってくるから……なんて、適当な理屈を考えてみたこともあった。今に思えば滑稽な思い出だよね。
キミが一番近くにいそうな気がする番組は、テレビショッピング。そこでは別に必要のない商品が、たくさんの嘘とともに売り出されている。
はじめは、嘘だと思いながら見る。
そのうち、本当でも嘘でもいいと思って、見る。
実際、今のボクにとって本当か嘘かなんてどうでもいい話だ。きっと買うことなんてないし、だいいちテレビでニコニコしゃべってる人たちだって、買ってなんかいないから。
皮肉な言い回し。これがキミに教わったすべてと言ったら、やっぱり失礼かな。
むかしむかしの話なんて、おばぁちゃんから聞くものさ。
キミはボクにとって、手の届くはずのない存在だったんだ。だからあの時ボクは喜ぶよりも驚いたし、しばらく悩んだ。困っちゃいけないと思いながらも、やっぱり予想外のことだったから。絶対キミがうなづくはずがないと思ってたから。
そしてそれは、すぐに解決出来たわけじゃない。ずっと困っていた。ずっと悩み続けていた。
もっとも、そんな風に思いこんでいた自分がどこから来たのかと、疑問を抱く機会なんてそうそうあるもんじゃない。むしろ、抱かずに一生を終えるのが普通なんじゃないかとすら思う。
だから、キミが悪いなんて言うつもりはもちろんないんだ。だいだい、疑問を抱くのは悪いことじゃない。おかげでテレビが大好きになったとしてもね。
夕方には会合がある。それまであと二時間ほどを、テレビで過ごす。
どうせ出たって出なくったって同じ会合だけど、あの場ではとりあえず歓迎されている。歓迎といっても、所詮は近所の人たちばかり。みんな子供の頃から知ってるから、今更歓迎も何もない。来て当たり前。そして、そこにいて当たり前。
だけど、当たり前じゃないこともある。しゃべってはいけない。それはおかしい。おかしいと、一応ボクは思う。思うことに意味なんてないけどね。
ボクが高校生だった頃から、何も変わってない会合。だからあの頃の予感はすべて、今は現実の出来事だ。ボクは予言者? 違うさ。誰だってここでは自分の未来を知っているし、誰だって描いた通りに生きるしかない。
そうだろう?
テレビでは今、ゴムのついたサッカーボールを宣伝してる。好きなだけ蹴っても、すぐに戻ってくるから便利で、ひとりでにサッカーがうまくなるそうだ。
昔――違うかな、最近かな――、テレビで見たこのボールのことを、キミに話したことがあったね。そしたらキミは大笑い。「あんなおかしな、いびつな動きしかしないボールで、サッカーの練習になんかなるものか」って、ボクを馬鹿にしたように教えてくれた。
ボクは悔しいわけじゃなかったけど、ちょっと腹が立った。うまくならないと断言されたことに。それとも、それを断言出来るキミに?
県庁所在地に下宿することになった四年前。両親はしきりにボクを心配してくれた。
生まれた町を遠く離れ、一人暮しの日々。そう言ってしまえばそうかも知れないけど、下宿はいつだって生まれた町とつながっていた。
かつての同級生たちと、毎日のように顔をあわせて、生まれた町とはちょっと違う言葉を話していた。それを刺激というならば、キミが出会っていたのはなんなのだろう。
ボクはちょっとだけ変人だと言われてた。それは自分の誇りだったんだ。変人になればそれだけ、ボクはキミに近づいた気がしたから。
そうさ。
ボクは一日だってキミのことを忘れてはいなかった。キミだってそうだろうから、これは自慢にもなりゃしないけど。
周りもみんな、キミのことを誉めていたよ。キミの写真を見せながら、性格はちょっとキツイけどって言うんだ。そうすると周りはみんな、一言付け足してくれる。「性格はちょっとキツイけど、すごい美人だ」って。
ボクは絶対、自分からは美人って言わないで、周りに言わせるんだ。それが一番愉快だったし、キミのことを自慢出来たから。
一度だけ、キミはボクの下宿に来てくれた。
いつも写真ばかり見てた周りの何人かにボクが自慢したことは、キミもきっとよく覚えているだろう。あれは本当に自慢になったんだ。「お前にはもったいない」なんて言う奴もいたけど、写真で見るよりもっと美人だと、みんな誉めてくれた。
ボクもそうだった。
長い間写真でしか見てなかったキミは、ボクが記憶していた何時かのキミよりも奇麗で、だからボクはずっと浮かれっぱなしだった。
そんなキミがボクの下宿の汚れた布団にもぐった時、ボクは悪いことをしたような気がして、そうして眠れないでいるうちに、キミはずっと不機嫌だったことに気が付いた。
朝になって謝ってみたけど、キミは別にボクを責めはしなかった。布団は寝ごこちが良かったと言ってくれたし、安下宿の雰囲気も好きだと言った。
そうしてほっとして、ボクはキミを駅のホームで見送った。一時間おきに来る電車すら、今のキミにはみすぼらしいと思ったのに、キミはただ珍しそうに周りを見渡して、そして笑ってくれた。ボクはただ夢見心地で、よろよろと下宿に戻ったんだ。
その頃はまだ、ボクは弱い生き物だった。
卒論を書き終えたボクが、下宿の荷物を片付けていたらキミの写真が出て来た。
その時、不思議なことにボクはそれをゴミと一緒に捨ててしまったんだ。下宿にやって来た連中が「俺にくれ」と争ったぐらい大切な写真だったのに、もう色あせていたから。
古くなったから。
新しい写真が、欲しければいつでも手に入るだろう。ボクはそう思ったんだ。それはトイレの芳香剤が古くなったから、替えを買って来て、取り変えるようなものだ。ボクもキミも、何も変わりはしない。卒論書いて、ちょっとだけ知恵がついた気がするだけで、だけどそんなものは最初からキミの方がずっと上だったから、キミに馬鹿にされたり、だらだらテレビを見たり。
その時はおかしいとは思わなかったよ。キミと一緒にいるのにテレビが必要だってことを。
テレビに目をやると、何かの番組が終わって、また合間にゴムのついたボールを宣伝している。
荷物を送り返して、一時間に一本の電車をホームで待っている時に、ボクは気付いたんだ。キミがあの時、不機嫌だったのは下宿の布団にもぐった時なんかじゃないってことに。
慌ててホームを走り、これから乗る列車とは逆の、キミがここまで乗って来た電車が停まっている場所に辿りついた。銀色の電車はちょうど到着したばかりで、スーツを着込んだ人たちがぞろぞろと降り立った。それは特別の景色ではなかった。
苛立ったボクは、だからといってほかに出来ることもないから、しばらくそのホームに立っていた。やがて今度は乗客が現れて、大きな荷物を持って車内に消えていく。まるでボクと変わらない人たち。その姿をしばらく見て、ボクはなんとなくここに来た目的を忘れていたし、逆に判った気もした。ここが出発点なのか、それともゴールなのか。ボクにとってそれはどちらでも同じだったけれど、そうではないのだ。ボクにとってここはゴールであったかのように思えたのに、決してそうはならないんだ。それは悲しむことではないかも知れないけれど、喜べることじゃないんだ。
でもね。
ボクはキミに仇討ちする気分で、このテレビを見るんだ。
ゆがんだ軌道を描いて、離れては戻るボール。それはバカバカしい商品だ。
バカバカしい。それはキミだって同じさ。
キミだってこのゆがんだボールのように、戻らなきゃいけないんだ。いや、戻るしかないのさ。誰かがゴムを切らなきゃね。
もう会合の時間だ。
これは春なんて季節とは関係なく、ボクの生活を縛り続け、きっとそのうち縛られてることすら判らなくなるようなもの。いや、もう本当は判らないのに、キミのせいにしながら思い出してる。それだけさ。
春なんて、きっと来年からはどうでもいいんだ。雪なんて解けたければ解けりゃいいんだ。
キミの運命はボクが握っている。
だからキミが望むなら。
だからキミが望むというなら。




