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川辺の祭  作者: nats_show
葦芽
37/84

歓喜

 土曜、日曜。落ち着かない二日間を経て、三日目の朝はそれでも学校に行かねばならない。さすがに三日目の夜ともなれば、それなりに寝たはずだ。夜中の記憶はまるでないし、じっとり寝汗もかいている。

 にも関わらず、全身を覆う倦怠感。

 ………。

 何度経験しようが、それは唐突である。

 ……いや。

 本音をいえば、あのヤバくなった瞬間の自分は過去の忌々しい経験を活かして、きっと無難に切りぬけることが出来るはずだと思っていた。これから起こる出来事がどのようなものであるかという予感だって、あの瞬間には、全くなかったわけではない。

 しかし、残念ながらそれはまったくの思い込みだった。

 急速に思考が停止する感覚。残ったのはそれだけで、あとは何も出来やしない。俺はただボロクズのように翻弄された人形だった。

 ………。

 もっとも、あのまま本当に思考が停止してしまったのなら、それはそれ以上の何かではなかった。問題は、意味不明な谷村新司――たった今、タニムラ効果と命名された――のために、宙ぶらりんの状態を余儀なくされたことだ。おかげで全体としては何も覚えていないにも関わらず、何かが起きていた感覚と、断片的な言葉だけが残ってしまった。

 なんとも厄介だ。

 少し無理をして、一気に起き上がる。瞬間の立ち眩み。そのまま忘れよう、と思ったけれどうまくはいかない。

 閉め切られた部屋に、薄明かりが射している。一気に窓を開け放つと、そこにはくっきりと聳える山があった。今日はいい天気なのだ。

 全部の窓を開け放ち、まるで殺菌されるように、目を閉じて日光を浴びる。暖かい光。次第に俺の体にしみ渡って、閉じた目の感覚も白んで行く。このまま光に包まれていたら……と良からぬ幻想に囚われた。

 朝のテレビは、上半身裸の人たちが奇声を挙げていた。バカバカしい風景なのに、何事もなく見逃して、そのくせ五分前の出来事すら忘れて家を出る。

 それが正常な一日というものだ。足元ばかりを見ていれば、途中なんてものはない。気がつけば靴を履き替えている。便利なものだ。


「ヘロー」

「…………」


 到着した先も、いつもと変わりのない教室。

 七分も前に教室についてしまったので、隣の婦女子への挨拶も至極フレンドリーだったはずだが、なぜか睨まれる。


「どうかしたか?」

「…別に」


 どう考えてもこちらに非があるわけはない。とはいえ千聡の言いかがりは、時として人間の想像を超える。ちょっと傷ついた心をなだめつつ、カバンを置いて腰掛けると、なぜか場違いな男が現れた。


「ヒ、ヒロ」

「あれ、なんだ朝から?」

「…………」


 動揺する良と、さっきよりも鋭く俺を睨む千聡。その瞬間、事情が判ってしまったが特に嬉しくもなかった。


「構うな、さっさとやれ」

「………」

「お、おはようちさりん」

「え、お、おはよう良くん」


 そうして寸劇を観戦する。ちなみに言えば、今日もつまらなかった。

 教室の三分の一程度にかすかに響いた「漫才」を済ますと、そそくさと良はこの空間から去っていった。そして何か悟りをひらいたかのような千聡の表情。いくらなんでも、人の少ない時間を狙ってやるなんて姑息じゃねーかと口にするつもりだったが、その顔で何も言えなくなった。


「おはようヒロピー」


 確かに目の前では戦いが繰り広げられていたのだ。もしかしたら滑稽な同士討なのかも知れないけれど。


「あえて点数は言わないぞ」

「あっそ」


 教室はざわめきを増していく。

 今さらのように朝の挨拶を口にした千聡は、次の瞬間には机の上を散らかし始める。亡くしたものを奪い返すかのように、急速にいつも通りに戻っていく世界で、まだ我らが勝彦様は御登校あらせられない。至極当然だ。

 あちらは…と確認しようとしたら、その当人が教室に入って来た。いいタイミングだ。

 ………。

 しかしその瞬間、猛烈に嫌なことを思い出した。


「お、おはよう」

「おはよう、ヤマヒロくん」

「…いやあの」


 挨拶である。

 先週末の取り決めによる、まったく正当な挨拶である。


「………」


 とりあえず一回咳払いをして、深呼吸。


「おはようオガエツさん」

「おはようございます」


 絶対に変だ。

 平然と立ち去って行く彼女の背中を眺めながら、これは互いのためにならない、早急に変更されるべきだ、と思った。


「ヒロピー」

「何かね」

「ヤマヒロ?」

「変更予定だ」


 当然ながら、さっそく千聡の耳にも入った。しかも目が輝いている。まぁなぜかふぇーばりっとあだ名らしい「ヒロピー」の座はそう揺るがないのかも知れないが、それなりにインパクトを与えてしまったようだ。

 まずい事態である。何がなんでも変更しなくては。…というか、なんであれを受け入れてしまったのか。我ながら理解に苦しむ。

 悩んでいるうちに勝彦が現れ、ついでに教師も現れる。勝彦の不機嫌そうな顔が気にかかる。最近ちょっと前より刺々しくなった気がしてならない。

 冷静に考えた場合、以前よりにこやかになったらそれはそれで怖いけども、とりたてて何かが変わったわけでもないはずだ。

 俺は…。

 俺はそりゃ、変わっただろう。少し太ったようだ…って、脳内でボケてどうする。

 まぁ実際、まだ成長は止まっていない。そんなことを日々感じるほど奇天烈な神経は持ち合わせていないと思うけども、しかしなんとなく「まだ止まってない」という感覚はある。

 もっとも、別に成長して欲しいわけでもない。死にたくないと思うことはあっても、もっと育ちたいなんて思わない。あえて言えば、通学路の野菜畑を見た時に、成長が止まれば死の影がちらつくような気がするだけだ。

 そうなのだ。

 いつか二度と目が覚めなくなって、生きていたということをすべて忘れて、それどころか忘れたことすら忘れて、そんな瞬間が嫌だから。

 …………。

 こんなこと考える自分はバカだ。

 考えたって考えなくたって、いつか俺は消えてしまうし、その瞬間にはこんなことを考えた過去なんてすべてが無駄になる。

 そうだ。

 ………。

 だけど、こんな風に割り切るには辛いこともある。いや、生きていることなんてすべて無駄だと、悟りをひらくつもりなんてない。馬鹿げている。


「へっへっへ」

「先生、ちさりんが気持ち悪いです」


 落ち込んだ気分をどうにかするには運動が一番だ…なんてのも単純に過ぎるけど、二時間目がちょうど体育だったので、いつもより少し張り切ってみた。

 柔道は、胴着の臭いさえ気にしなければ問題ない。いや、あの臭いだってよく嗅げばなかなか甘酸っぱい感じで、麻薬のように吸いたくてしょうがなくなる時だってある……わけねーだろ。ハァハァ。

 無駄に興奮してしまった。


「まぁ見てなさい」

「何をだ」


 それにしても、教室に戻るなりなんなのだろう。朝とは一転して機嫌の良さそうな千聡が不気味だ。まぁ不機嫌よりはマシだが。

 その千聡は、言うだけ言うと視界から消えた。どこかで準備をしなければならないほど大掛かりな話か…と思ったら、すぐ戻る。もう一人を連れて。


「…………」


 いつの間にか勝彦もじっと眺める、その先にいるのは、もはやすっかり見慣れた顔だった。

 千聡は相変わらずの表情だが、どうもそのもう一人も事情が飲み込めてないように思えてならない。


「ふっふっふ」

「今度はふなのか」

「ハックンは細かいな」

「やかましい! どうでもいいことツッコむな!!」


 そのどうでも良くないことが何か判らないから問題なのである。

 全く千聡は判ってないな。


「見なさい!」

「………」

「何を?」

「何をって………」


 勝彦の至極当然な質問にうろたえるちさりん大先生。なんか悪いものでも食ったんじゃないか?

 とりあえずもう一人に目を向ける。気のせいかこちらに助けを求めているようでもあるが、何をもって助けたことになるのだろう。難しい問題である。


「いい、えーこ!」

「え?」

「呼んで!」

「え、…………あ」


 呼ばれた小川が何か気付いたような素振りを見せた瞬間、正直俺はほっとした。と同時に、人様の肩に肘を掛けながらそちらに注目する野郎の重みが腹立たしくなった。


「ちさりん」

「どう!?」

「…………」

「…何が?」

「何がって………」


 これまた肘掛け野郎の至極当然なツッコミを聞きながら、彼女の表情を追う。

 そして残念ながら、千聡が何を言いたいのか気付いてしまった。

 ちなみに、気付いたからといってバカらしいことに変わりはない。むしろその思いは倍増したかも知れない。


「契約したわけか」

「そうよ、あんただけズルイでしょ!」

「そうかぁ?」


 呼び名というのは必要に応じて決めるものである。どう考えてもズルイなんて性格の話ではないと思うが、まぁ指摘するだけ無駄だろう。


「なんだなんだ、教えろハックン!」

「首絞めるなアホ!」


 子供のように騒ぐバカは、私の記憶が確かならば千聡と大差ない思考回路の持ち主である。とはいえ、ここで隠すほどの話術はないし、もっと言えば実害はないのだしどうでもいいか、ということで手短に話す。

 当然、バカも契約に及ぶことになった。


「えーこって呼んでいいか?」

「どうぞ、遠慮せず」

「じゃあ俺は今から…」

「かーくん!!」


 またもや千聡とハモってしまったぜ。

 清川かーくんの表情は曇っていたけども、かといって勝ピーとは呼ばれたくないようだ。どうやら我々の勝利である。


「よし、ハックンとも契約してやる」

「さよか」

「ハックンだ!」

「………」


 こんな発言を、照れ隠しでもなんでもなく出来てしまう勝ピーは素敵である…と、適当に済ませたい時に限って、好奇心にあふれた表情の小川…ではなくオガエツさん。

 いいかげん珍しくもないはずだがな。あえて褒めてみるなら感受性が強い人だろうか。

 …違うだろ。

 もっとも、感受性が強いって言葉はよく耳にするけど意味不明だから、こういうよく判らない場面に向いてるような気もする。

 それにしても、オガエツさんは謎が多い。巷に流れるごくわずかな噂――その大半は千聡の口を通していて、あと少々は同じ中学出身の男に聞いた――によれば、とにかく無口で、無造作な縛り髪。要するに、つい最近までの彼女そのものだったらしい。

 …この言い方には若干の嘘も混じっているが。つい最近まで、俺はそもそも彼女の顔と名前すら完全には一致しなかったのだ。いや、名前ぐらいはどうにかなったにしても、どんな人だと聞かれたら「さぁ」としか言えない状況だった。

 しかし、現在の彼女はどうだ。

 少なくとも無口ではない。いささか毒舌気味で、よくしゃべる。最初はツルの件が絡むから必死なのだと思っていたけど、別に関係ない時でもよくしゃべる。自分だってそうおしゃべりな人間ではないけれど、まさか彼女に対して聞き役にまわろうとは思いもしなかった。

 なぁ…。

 とはいえ、今はそんな感慨に浸る局面ではない。さし迫った危機を打開しなければならない。

 一連のさだ事件――この言い方はさすがに妙だ――について、まだ俺は詳細を聞けていない部分もある。ただどうやら、ツルがいたらしい。そして五郎らしき人物は出なかったらしい。

 その辺は、タニムラ効果――これまたヤバイ言い回し――のせいでもあるだろう。完全に意識を失っていたら、俺じゃない誰かが何かを口走ったかも知れない。どっちにしろ推論の域を出るものではないが。

 むう。もう昼休みになるというのに事実確認もやってないとは、大丈夫か俺は。


「オオトガワツルコだってさ」

「オオトガワ?」

「それ以上は何も。逆にこっちが名前とか質問されたし」


 弁当を食する貴重な時間を邪魔されたと不満顔のちさりん先生は、淡々と出来事を口にする。

 それにしても、名字を名乗っていたのか。大進歩のような気もするし、あんまり意味がないような気もする。少なくともツルと呼べば俺にとっては十分なのだし。


「あと、えーこの名前を聞かれた」

「ツルに?」

「たぶん。はっきりしないけどねー」


 いつもより素直な高校生の顔で、千聡がもらした重要情報。

 …重要なのかどうか判断する情報もないのだが、不思議な話ではある。


「ちさりんが答えたのか」

「だって私に聞いてきたし」

「ふーむ」

「あんた、何よその不満がありそうな目は!」

「気のせいだ」


 少女の瞳はいつもの邪悪さを取り戻しつつあったので、少し警戒モードに入りつつ、腕など組んで考えてみる。

 小川…ではなくオガエツさんの名を尋ねたということ。それはきっと、ツルは自分が誰かの体を借りて話していると判っているからだろう。まさにそれはイタコだ。

 ………。

 勝彦の顔が浮かんだ。鬱だ。

 しかしイタコの口を借りる死人は、やはり貸してくれたイタコへの感謝を口にするものなのだろうか。「クックック、そういえばこの体は現世の何者なんじゃろか」とか好奇心で尋ねたりするだろうか。

 そしてそれが恐山の老婆だと判ったら、どう思うのだろう。若くして死んだ女性だったらショックを受けるだろうか。男だったら、性別の違いに戸惑うだろうか。

 …バカな。

 とめどなく続く妄想に、いつもの自己嫌悪。


「ところでヒロピー」

「あ?」


 千聡は再び箸を止め、こちらを向いている。

 邪悪の程度はさっき程ではない…と、そんな説明してどうする。


「えーこに謝った?」

「…………なんで?」

「あっそう」


 呆れた顔の千聡を眺めながら、それでも何となく思い当たる節があることに気付く。

 ただし、実際に何が起こったのかは判らない。悪いことをしてしまった予感がするだけだ。都合の悪い予感である。


「ま、えーこちゃんも憶えてないか」

「とりあえず教えろ」

「態度が悪い!」

「教えていただけませんでしょうか」

「………」


 また呆れている。仕方ないじゃないか。どうせオシャレに頼んだって、あれこれ難癖付けるのが目に見えている。

 …オシャレってなんだ?


「えーこちゃんを平手打ち」

「…やっぱり」

「や、やっぱりって、知ってたわけ!?」

「ま、待て待て、話は最後まで聞け!」


 蹴るというより殴りかかりそうな千聡を必死になだめる。

 実際、想像しただけでもそれはヤバいシーンだ。もしも知っててやったなら犯罪モノだろう。


「小川…じゃない、オガエツさんの名を叫んだのは記憶にある」

「それで!?」

「あとは判らん」

「本当に!?」

「本当だって。ただ何となく、オ、オガエツさんにまずいことしたんじゃないかって予感はしたし、…前科があるからな」

「ふぅん」


 またまた呆れた顔で、千聡は握った拳をようやく開き、椅子に腰をおろす。

 正直、自分でしゃべりながらあまりに都合の良い話だと思ってしまったから、ほっとした。というか、意外に俺は千聡に信用されてるんだな、とちょっと嬉しかった。

 ついでに、千聡相手にオガエツは必要ないだろ、とも思った。

 …が。


「どっちにしろ、後は二人でどうぞ」

「は?」


 不敵な笑顔にはっとして、後ろを向けば当事者が立っていた。

 なんて絶妙のタイミングなんだ…と思ったが、よく考えてみればあれだけ大声出してりゃ気付くよな。あーあ。


「どうりでほっぺが痛いと思った」

「…すまん」


 千聡はさっさと弁当に向き直り、困った俺はとりあえずその場しのぎの苦笑いを浮かべて、机の上に散乱するビニール袋をくしゃくしゃと丸めた。

 ちなみにそのビニール袋は、例によって値引き済のパンが収納されていたもので、現在そのパンは我が胃袋に収納済であるが、そんなことは誰も興味のない話である。


「そういえばさぁ…」

「あ?」


 と、離脱したはずの千聡がまた話し掛ける。

 周囲を引きずり回す、この適当さ加減が欠点であろう…と、つくづく俺は意味のない分析が好きである。


「金曜のツルさん」

「ん?」

「あの時みたいな顔してたよ」


 しかしどうやら、千聡の相手は俺じゃないらしい。

 立ったままのオガエツ氏と腰掛けたちさりんはかなりの標高差があるので、ストレッチ運動のような格好だが、それでもおしゃべりに支障はなさそうだ。まぁこれぐらいで支障があるようでは歩く騒音公害の名が廃るというものである。

 うむ。無駄話はやめよう。はっはっは。


「あの時って?」

「ヒロピーがえーこを怒鳴りつけた時」

「え…」


 え?


「それってどういう…」

「さぁ…」


 思い出したくない瞬間の話題に、俺はかなり動揺していた。

 だいいち、その時の彼女の表情なんて完全に忘れている。とりあえず目を合わせるのが怖い。…………………違うだろ。そんな問題じゃない。

 俺が怒鳴りつけた相手――。

 あの時の違和感だけは、今も憶えている。千聡に指摘されてしばらくしてからの、後味の悪い感触。


「ヤマヒロくん、廊下出ましょうか」

「え、あ、…ああ」


 まだ千聡に聞きたいことがあると、俺は思っていた。だから彼女の醒めた声が少し腹立たしかった。

 そうだ。

 だけど何を聞いたらいいのか、本当は判らない。結局、彼女のほうが正しい。そうなのかも知れないと気付いていても、肯定は出来ない。

 ややこしいものだ。


「えーと、悪かった」


 いつもの山が見える場所で、とりあえず謝っておく。

 とりあえず…と言ってはみたが、罪の意識はある。連れ出された事実への割り切れない思いが、少し躊躇させているというだけだ。


「…正気に戻そうと思ったんでしょ」

「まぁ、たぶん…」


 あくまで穏やかな彼女の声に、俺は冷静さを取り戻していった。

 もちろん自覚がないのだから、彼女を助けようとしたとも断言は出来ない。あくまであやふやな記憶。

 とはいえ、彼女に恨みはない。きっとまわらない頭で、そう考えてはいたのだろう。まるで吹雪の中で、目を閉じそうになる仲間の頬を叩くように。

 …そんな仲間はテレビでしか知らないけど。


「でも、もう必要ないと思うよ」

「………」

「元に戻る方法は判ったわけだし」

「それは…」


 小川の笑顔に皮肉が混じっていることを俺は期待して、そして次の瞬間には少し落胆した。

 確かにそうだ。タニムラ現象という特効薬がある。俺たちは無敵だ。

 ………。

 空しい自信である。


「それに…」

「………」


 そして、なぜか彼女はここで皮肉な笑みを見せた。

 嫌な予感がした。いや、むしろ不安だったのかも知れない。


「そんなに悪い気分でもないから」

「バカな」


 そして、吐き捨てるように口にした言葉。

 あんなもの。

 あんなものを肯定したら、俺たちはそこで終わってしまう。自分の記憶を奪われ、自分の体を操られ、そんな体験を誰が肯定出来るものか。

 思わず顔を背けて、グラウンドを見下ろした。

 昼休みのグラウンドは、週末の雨で少し濃くなった褐色を、ただ無言で眼下にさらけだしている。人はいない。彼方の土手に聳える樹木たちが少し揺れて、薄く霞んだ背後の街並がわずかに揺らめいて、だけどそんな光景は今の自分に何も与えはしない。

 その代わり、何も奪いはしない。


「陽射しが強くなったよね」

「ああ…」


 彼女もじっと、そんな景色を眺めていた。

 降り注ぐ陽射し。今朝の寝起きを思い出す。また俺はここでも殺菌されるべきだろうか。


「ヤマヒロくん」

「…はい」

「古い神話に、日光で身ごもったって話があったよね」

「身ごもった?」

「そう、妊娠」


 彼女の口から漏れた単語に、通りかかった女子が一瞬疑惑のまなざしを向ける。

 慌てて俺は彼女の表情を窺ったけれど、もしもその様子を知らない人間に見られたなら、ますますヤバかったかも知れない。


「心配ないと思うけど」

「………」


 しかし当人は平然と笑っていた。


「別に困ることもないから」

「そうか?」

「実際、妊娠してないんだから」

「そりゃ…」

「嫌でも判るでしょ。お腹が大きくなるわけもないし」

「いや、…それはそうだが」


 からからと笑われてはそれ以上ツッコむ気にもなれない。

 とはいえ、それでは最悪の場合、数ヶ月は疑われ続けることになる。それどころか、たとえ見た目に何も変わらなかったとしても、中絶したからだとか、あらぬ疑いを重ねられるだけじゃないか。

 ………。

 それは悲観的過ぎるだろうか?

 だけど彼女の自信にしても、決してこの世界への信頼から生じているわけではないことぐらい、俺にだって判るから。だから。


「太陽といえば、アマテラスもそうだったよね」

「…え」

「知らなかった…わけないでしょ?」

「まぁ、それは」


 無理矢理話を戻されながら、さっきの話をもう一度反芻する。

 神話…か。

 こんな景色からでも神様の話に入っていけるわけか。


「小川…オガエツさんは神話とか伝説に興味があるのか」

「ある…といえばあるかも」

「………」

「ヤマヒロくんは?」


 少し考える。

 彼女のありきたりに思える質問が、何を聞きだそうとするものなのか、そこから俺はどんな像を描いていくのか。

 ………。

 しかし、何も思いつきはしない。


「少しは」

「そうなの」


 実際、何も知らないわけじゃないけど、とりたてて好きでもない。

 俺という人間はいつだって、それなりのところでしか生きていない。だからいくら悩んだとしても、他人と違う自分だけの理由なんて出て来ないのだ。

 ………。


「中学の頃に、好きな子がいて」

「…………」

「好きだと言おう言おうと思って、でも言えなくて」

「………」


 あれ?

 俺は何を話しているんだろう。ヤバいよな、これは?


「結局、言えないままで終わって」

「ふうん」

「で、しばらく経ってから、もし口にしていたら今の自分は違っていたんだな、と思った」

「…………」

「断わっておくが、相手にはもうつき合ってる奴がいたし、口にしたらうまくいったってことはない。絶対ない」

「そんな断言しなくても…」


 そうだ。なぜそこまで言い訳を重ねつつ、わざわざどうでもいい昔話をしなけりゃならないのだ。おかしい。

 第一、こんなもの彼女に聞かせるような内容でもない。


「ないけど、でも口にした自分はきっと別の自分だろうと思った」

「………」

「それがちょっとだけ良につき合って、神話伝説に詳しくなった起源だったとさ」

「ふぅん」


 冷や汗をかきながら窓を見る。

 もちろんそこに広がる景色はさっきと変わってはいないし、見慣れた山の形が突然なくなったりはしないだろう。

 時間が止まったように、すべてが同じに思える世界で、だけどすぐ近くに動いてる感覚があって、そこで途方に暮れる。

 そうだったろうか?

 俺はそんな理由を今まで知っていただろうか?


「ヒロ」

「わあ!」

「…どうした?」


 振り向けば、そこには呆れた顔の良がいた。

 その表情を数秒眺めて、やがて今しがた自分が出した声の大きさにまた冷や汗を流した。


「こんにちは良くん」

「こんにちは、…ちょうど良かった」

「私たちに?」


 二人の会話を聞き流しつつ、俺はただ呼吸を整える。

 …それにしても、俺と小川…じゃなくオガエツさんに用か。ということは。


「洪水を予言したそうだ」

「は?」


 首を傾げるオガエツさん。

 いきなり核心だけを話すのは良の癖だが、まだ彼女はそこまで慣れてはなかったようだ。よしよし、俺の出番だな。

 動揺しているうちに出番を奪われた感じがしていた俺は、得意げに口を開く。


「順番に話せ。五郎のことか?」

「ん、そうだ」

「はぁ」


 相槌を打ちながら、彼女が少し視線を泳がせる。

 見ると、いつの間にか付近の廊下は渋滞気味になっていた。廊下に三人も固まっていれば当然か。

 しょうがないので良を促して窓枠の特等席に移動させ、残り二人が両脇を固めた。一列になった分、彼女の声は聞きづらくなったが、今はあまり問題にはならないだろう。


「今度はネットで探した」

「文明の利器に頼るとは良らしくもない」

「それで?」


 まるで俺が会話の邪魔であるかのようなツッコミが悲しい。

 …邪魔だよな。すまん。


「沓喰の下流の村に、そんな予言をしたという伝承がある」

「下流…」

「青龍の滝よりもっと下流だった」

「へぇ、そんな下流か」


 まさか沓喰からまた移動したのか?

 そう口にしようとして、気がついた。そもそもショーが英雄だと言った時点で、五郎は沓喰だけのものではなかったのだ。

 ………。

 とはいえ、それはなぜだ? 沓喰という名は沓喰でしか意味がないはずなのに。


「五郎さんは、予言者?」

「沓喰五郎というか、沓喰の八坂明神が、という言い方のようだ」

「八坂…」

「清川にもあっただろ」

「あ、なるほど」


 良はいつの間にか、リアクションの良好な方を向いて話していた。見捨てられた気がして俺は淋しい。

 ………。

 それはともかく、つながったのか謎が深まったのか。どう理解していいやら難しい新情報だ。


「良くん」

「ん?」

「八坂神社って、五郎さんを祀ってるの?」

「…普通は違うはずだ」


 まぁそうだろう。俺のうろ覚えの知識でも、八坂神社なんて全国に星の数ほどあったはずだ。沓喰五郎が全国区の有名人でないことははっきりしているわけだし。


「でも、沓喰に来てからも英雄だったわけだよね」

「…そうかも知れない」

「…………」


 それでもあくまで前向きなオガエツさんの反応に、さすがの良もだんだんおされ始めている。

 おかしいだろ。

 洪水の予言なんて、ノアの箱舟じゃあるまいし、あまりにも胡散臭い話。俺にはかえって、沓喰五郎への疑惑が深まったような気さえする。

 そうだ。そもそもこれは…。


「良」

「なんだ」

「そのホームページ、どういう…」

「聞きたいか?」


 瞬間、良が動揺したのがはっきり判った。やはり。


「小学生の課外学習だ」

「うーむ」

「さすが地元」


 ………。

 そう来たか。オガエツさんの方が一枚上手だったな。


「まぁ、これだけ出てくるなら探せばもっと見つかる」

「そう…かもな」

「ヒロ」

「…来ると思ったぞ」


 さっそくデートのお誘いだ。

 せっかく地研に入っておきながら、俺に声を掛けなきゃならない良も不憫ではあるが。


「図書館?」

「あ、ああ」

「私も行きたい」

「あ、いや、…構わないが」


 うーむ。もはや驚きはしないけども。

 しかしこの場合、千聡を誘わないと後々禍根を残すだろうな。勝彦はさすがに来ないと思うからいいとしても、祐子さんはヤバいか?

 …と、俺が調停役してはいけないんだな。時間ぐらいにしとくか。


「じゃ、いつにする?」

「明日…」

「私は大丈夫。ヤマヒロくんは?」

「ぐ」

「ヤマヒロ…?」


 しっかり聞かれてしまった。あーあ。

 もっとも、ごまかしようがない。そもそもオガエツ氏に遠慮なんてものはみじんも感じられないし、かといって契約した以上、やめてくれとも言えない。

 結局のところ、こうやって話せば話すほど、俺は彼女のことが判らなくなっている。彼女にもきっと問題があるに違いない…と片付けられるなら話は簡単だけど。

 そのまま午後の授業になだれ込む。最近、落ちついて勉強をすることが少なくなった気がしてならない。落ちついたから成績が上がるとか、そんな判りやすい因果関係は存在しないけど、逆は大いにありそうだから困る。

 幸い今は、教科書さえ読んでいればそれなりに対応出来る世界史だ。これではますます瞑想にふけってしまう。

 ………。

 瞑想ってなんだろうな。

 小学校の頃、担任がなぜか授業の始めに「瞑想」とか言って、三十秒ぐらい目を閉じる儀式があった。あの頃は気分を落ちつかせるとか、集中するとか、適当に理由をつくってたけど、仏教の言葉だと聞いて困った。

 目を閉じて、まさかナンマイダともいくまい。…いや、いく人はいくだろうが、少なくとも今の俺がそんなもの唱えたってなんの意味もない。坊さんの真似をした、それだけのことだ。

 ………。

 こういうのは瞑想ではなく妄想である。うむ、よく出来ました。

 あーあ。

 だけど、いつの間に俺はこんな物知りになってしまったのだろう。瞑想が何かなんて、そもそも小学生の俺にとっては考える意味すらなかった。

 当たり前だ。目を閉じたって頭は良くならない。瞑想ではなく、迷信だ。

 迷信は、スティービー・ワンダー。歌詞知らないけど、妙なタイトルだと思ったから憶えて、だけどそんなことがきっかけになったわけじゃないだろう。

 …………。

 少しは役に立つことでも考えようぜ。さぁ、沓喰五郎だだっだー。

 ……………。

 すまん。ふざけたせいで頭が働かなくなってしまった。我ながらバカだ。

 頭が働かなくなったといえば、金曜だ。いささかこじつけがましいが、この際それは些細なことだ。

 起きたことはいろいろある。ツルの登場。俺の意識の混濁。しかしこれらは正直、考えたって何も出ない。理解を超えることがあった、それだけだ。

 問題はやはりさだとタニムラだ。アホらしくて悲しくなるが、二度ともさだソングであったことは動かない。正直、俺はどっちの曲もあの時点では知らなかったし、山際博一という存在にとっての必然性は全くないが、ゴロウとツルには意味があったのだろう。

 しかしだ。子どもでもおかしいと思うことがまず一つ。伝説によれば平安末の人物らしい二人が、なぜさだまさしなのだ。まさか平安時代に佐田判官とか佐田出羽守とか、「さだ」がいたとでもいうのか?

 いや、その上タニムラ現象だ。佐田出羽守の友人谷村少将なんて、あまりに妄想が過ぎる。これは平安の問題ではない。もしかしたら伝説の名と同じクツバミゴロウが、例えば俺たちの親ぐらいの世代にいたのではないか。

 ………………。

 やはり鍵はツルだ。このまま資料に名前がないのなら、伝説とは無関係と言えそうな気がする。もちろん、書かないことが「ない」ことではないと、承知の上だが。


「ちさりん、待ちたまへ」

「何よ、あんたさっき答え教えてくれなかったでしょバカ!」


 放課後。帰宅しようとする千聡を呼び止める。言うまでもなく明日の件を話すためだが、さっそくいわれのない非難を浴びる。

 まぁいい。そんなことでめげていては今頃俺の胃はなくなっている。

 ほどなくもう一人もやって来る。誘うだけなら誰でも出来るとはいえ、やはりオガエツ氏同席のほうが、穏やかに話が出来るというものである…ということで、手短かに明日の予定を話す。話すといっても、放課後に市立図書館に行く、それだけのことだ。

 千聡は一瞬複雑な表情を見せつつも、うなづいた。その顔が意味することはもちろん判ったけど、あえて見なかったことにする。

 …と、肩に重み。霊が乗ってきたわけではない。


「なぁ、えーこちゃん、とハックン」

「俺はオマケか」

「お前のことなんざ心配しとらん」

「あ、それ同感」

「おい」


 爽やかな笑顔で頷き合う二人が恐ろしいが、とにかく、まだ帰ってなかったバカが加わって来る。


「でなぁ、えーこちゃん、とハックン」

「しつこいな」

「ま、冗談はともかく」

「………」


 急に真顔になった勝ピー。

 ついでに、さっきよりもさらに重くなった俺の右肩。


「お祓いしてみたらどうだ?」

「お祓い?」

「そうだ、要するに」

「止めろ!」


 叫ぶより早く、俺はヤツの口を押さえ込む。


「ぐがが」

「どうしたの?」

「どうしたもこうしたも」


 しばらく頑張ったが、身をよじってバカが逃げた。


「な、何しやがる!」

「お祓いを止めさせた」

「………」

「…………」


 思わず意味もなく立ち上がった俺と、後ずさりした勝彦はしばらく無言で見つめ合った。

 なんとなく、これは負けられないと思った。


「よく判ったな」

「判らいでか、ボケ!」


 顔色一つ変えずにほざくバカを見て、千聡の代わりに蹴ってやろうかと思ったが、やはり千聡の真似は良くないと思い直し、席に座る。

 それはともかく、お祓いか。出来れば避けて通りたい世界だ。そこまでオカルトに行ってしまうのは、やはり耐えられない。


「とにかく、貴様は参加しないな」

「図書館だけは嫌だ。ばーちゃんも行くなと言ってた」

「へぇ」

「…………」


 勝彦の顔が引きつった。珍しいものを見た。

 …いや、やっぱり貴女は少し変わってるよ、オガエツさん。


「帰ろう」


 きりがないので立ち上がる。

 別にこんなダラダラした時間だって悪くはないと思っているのに、場を白けさせるのはいつも俺だ。


「まぁいい。今日は姉貴に頼まれた用がある」

「何を偉そうに」

「渋いって言え」


 相変らずなやり取りで、教室を出ると勝彦はさっさと走り出す。どうやら本当に時間がないらしい。


「じゃな」

「さよなら、か、かーくん」

「あ、えーこがどもった」


 確かに彼女は一瞬言葉に詰まっていた。

 少なくとも、俺には「かーくん」なんて呼び名は無理だ。目の前の野郎とあまりにギャップが有りすぎる。彼女も普通の人間だったと安心した。

 …とはいえ、あえて声を挙げて指摘する方も指摘する方だ。もちろんそれはどうでもいい指摘には違いないが、とにかく指摘されてしまったオガエツ氏は困惑の表情。そして遠ざかるバカも一瞬こちらを振り向く。

 もっとも、次の一言に比べればたいした問題ではなかったのもまた事実だ。


「ごめん、あの、みんなと違う呼び名だと慣れなくて」


 ちょーっと待ったあ!

 思わず手を挙げそうになって、しかしアホらしいので必死に我慢しておく。我慢はするが、しかしそうはいっても「みんなと違う呼び名」! 何か忘れてないかオガエツさん。

 そもそも忘れてはいけないことがある。「かーくん」とは、我々が適当に付けた名前ではない。ヤツのばーちゃんが、あるいは他の家族――祐子さんはともかく――も呼んでいるだろう、極めて伝統的かつ正当な呼び名である。

 しかしヤマヒロは、ヤマヒロこそは絶対誰一人呼ばない。それもただ呼ばれないだけではない。おそらく俺の長いか短いか判らない一生の中で、二度と耳にすることもないだろう、それぐらいあり得ないぞ!


「何してんの?」

「………」


 心の中で熱弁をふるううちに、二人はさっさと先を歩いていた。しかも、当事者でない方の女子生徒には、半ば呆れられている。

 しかし。おかしいと思わないのだろうか、千聡は。朝はあれだけ反応したくせに。

 ………。

 深呼吸。声は出さないでおく。

 …………。

 まぁ冷静に考えてみれば、他人の呼び名なんて興味ないか。

 熱くなった自分がバカらしくなって、とぼとぼと歩き出すと、すぐに千聡が前を遮った…ではなく、立ち止まっていた。

 なんだろう。やけに親切じゃないか。


「じゃね」

「…あれ?」


 旧校舎への曲り角で、短い一言を残して千聡は消えた…ではなく、走って行った。

 そういえば今日は地研の活動日だったはずだ。

 もっとも、活動…といってもほんの一時間ほどで終わるようだから、別に参加しなくとも時間ぐらいつぶせるだろう。他の文化部にも友だちはいくらでもいるのだ。

 ………。

 思ってもしょうがないけれど、やはり思う。どうせなら入部すりゃいいのに、と。


「帰る?」

「え? ああ、そりゃ…」


 気がつけば二人になったわけだ。

 昇降口は目の前にあるし、じきに一人と一人になるだろうが。


「ヤマヒロくんは優しいね」

「………」


 彼女はおかしな言葉を口にしながら、千聡の背中を見送った。

 いったい何を言いたいのだろう。俺は困惑するというより、苛立っていた。馬鹿にされた気がしたのだ。


「オ…」


 しかし彼女は俺の反応など気にすることもなく、さっさと歩き出す。

 …………。

 俺だって何を言っていいのかは判らない。それどころか、苛立っていること自体本当なのか、何も判らなくなっている。

 何か話したい。そのうち何か思い出すかも知れない。我ながら勝手な論理だ。


「オ、オ」


 しかし彼女は遠ざかる…ではない。こんな呼びにくい名前が悪いのだ。

 アホか。このままでは呼び終わる前に彼女がいなくなってしまうぞ。


「オガエツさん」

「はい」


 近くにいた女子まで振り向くほど恥ずかしい音に、何事もなかったように返事する彼女がこれまた腹立たしい。俺の体にカルシウムが足りないのか?

 とにかく慌てて走り寄って、なんとなく姿勢を正す。こんな状況ではまともに会話も出来ない。


「や、やめようこの呼び名」

「はい」


 彼女はそれでも、悪戯っぽく笑う。

 俺はその意味が判らず、しばらく立ち尽くす。


「どうする?」

「ど、どうするって…」


 相変わらず呑気な声で問いかける彼女。…というか、そもそもキミは間違いなく当事者ではないか。普通に考えて、ヤマヒロなんて口にするだけでも赤面モノだぞ。

 …………。

 違うか、もしかして。

 自分の呼び名だから恥ずかしいと思うだけで、本当は誰も気にしていない、ということかも知れない。彼女にとっても。

 …けれど、俺は気にする。オガエツはきっと彼女を傷つけると思うから。


「オ、オガちゃん」

「はい」

「ま、待て! 今のは冗談!」

「…そう、なの」


 うかつに口にした自分がバカだった。これではオガエツの二の舞だ。

 それにしても、完全に遊ばれてるな。ますます腹が立ってきたぞ。うむ。こうなったら、どうにかして彼女が赤面する呼び名を考えてやろう。ファイト一発。

 …………。

 もっとも、彼女が嫌がる呼び名なら最初から判っているわけだ。


「えっちゃん」

「サルトビ?」

「わーもう忘れてくれ」


 こういうのを墓穴を掘るって言うんだな。ことわざの勉強になった。

 あー、お茶がうまい…わけがない。飲んでない。困った。

 うー。

 父親的ギャグなら大平総理完成。うわぁ面白い…と言いたいがそんな昔の人は知らん。


「妄想くん」

「きゃ、却下だ!」


 い、いきなり何を言うのかね全く。


「合ってるのに」

「人権問題だ」

「そうかなぁ、可愛いのに」

「可愛くない!」


 はぁ…。

 ダメだな。こんな手強い相手に勝負を挑むのが間違っていた。反省せねば。

 素直にいこうぜ素直に。


「小川」

「それって、…山際?」

「………」


 さすがに素直過ぎた。いくらなんでも呼び捨てにしただけでは、名字で呼ばれたくないという欲求に、まるで応えていないではないか。

 しかし、意図的ではないにせよ、彼女が困った表情を見せたのは嬉しい…って、目的が違うだろ。


「提案していい?」

「おう」

「小川と山ちゃん」


 不意を衝かれた折衷案。一瞬、思考が止まった。


「しかし不平等じゃ?」

「別に平等である必要はないでしょ」

「そうか…?」

「大切なのは心なんですよ」


 そう言って胸を張る小川。どうも誰かのマネに思えてならないが、思い出せないからまぁ良しとしよう。

 うーむ。


「じゃ、変更の余地ありってことで」

「もちろん」


 ならいいか。

 というよりも、笑顔の彼女を見ていたら、正直呼び名なんてどうでもよくなっていた。

 実際、とりあえずはオガエツより呼びやすけりゃいいのだ。真剣に悩むことでもない。


「それでは山ちゃん、また明日」

「バイバイ」

「…………………」

「バイナラ、小川」


 奇妙な会話を交わし、左右に別れていく。

 きっとこれからも二人の呼び名は、何度となく変わっていくだろう。そんな予感は、二人をつなぐわずかな糸のようでもあって、だけど本当の糸は五郎とツルの間に絡まってるに違いない、と思い直す。

 俺たちの名なんて、きっと表面的なことだ。

 そうは言っても、イライラすることになんの変わりもないけれど。

 ………。


「小川」

「何?」


 それはそれで違和感の残るなか、しかし急にどうでもいいことを確認したくなった。

 いや、突然でもなければどうでもいいわけでもないと、根拠もなく確信しているけども。


「まだツルに逢いたいか?」

「はい」

「実在していたと思うか?」

「はい」


 毎日でも俺は聞き続ける必要がある。そんな気がする。


「なぜ…」

「サルトビの説明してくれたら教えます」

「………」

「じゃ、また明日」


 夕暮れの校門前。

 この光は俺たちを殺菌してはくれない。まさか彼女はそんなことを言いたかったのだろうか。

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