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川辺の祭  作者: nats_show
憑霊
35/84

憑霊

「空が青いね」

「ちさりん、熱でもあるのか?」


 そうだよな。なんで青いんだろうな。

 そのうち突然泣きたくなったり、ゲラゲラ笑ったりするんだろうな。


「山際くん」

「お」


 このタイミングだよタイミング。

 思わず坂本九って、古すぎ。そりゃウチの親だろ。


「前、見てる?」

「質問」

「はい」

「見てると思いますか?」

「いいえ」


 どうも俺、小川が苦手なんじゃないかな。このやり取りを目にした傍観者に三択でアンケート取ったら、きっと九割方同意すると思うぞ。

 問題はまぁ、三択と言ってはみたが三つ目の選択肢が思いつかないことだな。ヤバいぜ、アンケートにならん。


「言ってるそばから」

「わーごめんなさい!」

「ハックンうるせーぞ」


 不機嫌そうな声も加わる夕暮れ。いいね、青春だね。

 あー…。この理不尽な時間はなんだ。

 きっかけはどっかのテレビではなく、当然のように我らが隊長、祐子さんのワガママだった。

 金曜の午後四時五十分。地獄のリサイタル開演の十分前に、殊勝にも我々は音楽室に到着していた。

 そう、音楽室へ。そこは他ならぬ祐子さんが、しかも単なる卒業生であるはずの祐子さんが、噂によれば校長を脅して無理矢理使用許可を取り付けた場所だ。我々……の一部にとっては、まさしくそこは監獄であり、頼まれても近付きたい場所ではなかったが、とにかく間違いなく指定された通りの会場に我々は到着し、出来れば始まらないことを祈っていたわけである。

 なのに…。


「暗いねー」

「んだのー」

「やっぱり外かなー」

「おー、野外だが」

「よし、じゃ移動するぞー!」


 こんな安直な理由があるだろうかいやない。

 だいたいアナタ、この音楽室は自分も三年間使ってた場所でしょうが。今さら何を…と呆れたけれど、相手は隊長である。その命令は絶対である。

 それはともかく、問題は移動するというその行き先が、近所の河原だったということだ。

 正確に言えば、他に適当な表現がないので一応河原と呼んではみたが原なんてものはなく、そこは単なる堤防に仕切られた水路に過ぎない。その堤防には草が生えていて、数人が座るぐらいのスペースはあるし、川幅はほどほどに広くて周囲は工場やグラウンドだから、騒音の問題はクリアされている。だがその代わり、学校に近いだけに人通りは少なくない。帰宅する同級生やら一般住民にばったり逢う危険性は大いにある。

 もちろん偉大なるスターことショー様は、既に学校内でもいろんな意味で存在感のある男だ。従って、普通に歌ってるだけなら「またあいつか」と冷たい視線を浴びるだけだろう。

 しかし実は何を隠そう我々も、どんなバカな真似をやらかしても不思議ではないという危険な連中らしい。はっはっは、世間の風は厳しい。


「何でもひとりで片付けたい?」

「え?」

「山際くん」

「………」


 無意識のうちにも彼女から離れようとして、それからようやく何を言われたかに気付く。

 そうですか。俺の妄想はそうだったんですか。

 出来るだけ無表情のまま、そして変えかけた歩幅も元に戻す。

 俺は動揺してないぞ。きっと動揺してないぞ。


「祐子さーん」

「なぁに?」

「学校にもその格好で?」


 幸いにも千聡がうまく話題をそらしてくれた。

 やれやれと肩をゴリっと鳴らした瞬間、ヤバイと思わず小川の方に振り返り、見事に視線を合わせてしまう。

 完敗、いまー君は人生の~、じゃねーよバカ。

 もう現実逃避は要らない。ぼくは、ぼくはここにいてもいいんだ!


「当然! 着替える間なんてあるわけないでしょ」

「そ、そうですよね…」


 ちなみに祐子さんの衣装というのは、まぁ和服ではなく洋服で、下はスカートで、白っぽい色である。

 ………。

 すまん。俺は服の呼び名も知らない男である。

 ただ、どことなく少女マンガな雰囲気がする。フリフリのスカート。うむ。要するに、教師の服装とは一見すると思えない。そういう衣装だ。千聡の質問の意味は判る。


「子供にも人気あるんでしょ?」

「子供じゃないでしょ」

「え?」

「ジジイが喜ぶのよ」


 絶句する千聡サン。

 …というか俺は俺で、どういう裏があるのかと必死に考えてみるわけだが、必死に考えても考えなくとも、ある一定のイメージしか湧いてこない。

 お、オヤジキラー!

 なんだかとっても嫌な言葉である。


「モガっぽいのー」

「ん?」


 そこに相変わらず意味不明なショーのひとこと…じゃないな。どっかで聞いたぞ。

 少しだけ悩んだけれど、すぐに思い出し、また例の方向を見る。やはり例の人と目が合った。以心伝心だね!


「そういえば、私も確か」

「モガっぽかったな」


 今度はおどおどしないで見つめ合う。うむ、少なくとも負けではない。

 もっとも、ここで見つめ合う必要は特になかったので、すぐに視線を戻すことになった。もったいない気がする俺は間違っているだろうか。


「なんだ、モガ2号か」

「2号!?」


 そして勝彦ならではの、誠に配慮のない発言が飛び出せば、すぐに祐子さんの不機嫌そうな声も響きわたる。ああ兄弟喧嘩の予感。

 とりあえず我々にとっては相変わらず意味不明なだけに、怒りの声を挙げられても反応しようがない。仕方なく、投げ掛けられた先のショーを眺めてみる。見るからに動揺しているが、遠目に見れば単にリサイタル会場を探しているようでもある。彼はなかなか難しい男である。


「なんで私が2号なのよ!」

「そ、そげだごどな」


 よく考えてみると――みなくても同じだ――、2号と呼んだのはショーではなく勝彦である。なんとなく理不尽な展開に思えてきたが、自分が巻き込まれない限りは訂正するほどのこともないだろう。

 そして今はまず巻き込まれる心配もない。優雅に見物といこうじゃないか。


「なんとか言いなさいよモボショー!」

「あぐ…」

「モボショー?」


 代表して驚いたのは千聡。しかし我々とてそれは同じであった。

 謎の「田舎の都会」語と思われたモガに、モボである。その衝撃は大きい。相撲の取組中にニュース速報のピロピロ音が鳴るぐらい。

 可能性は二つ。祐子さんが驚威のバイリンガルなのか、それともモガが全国共通の言葉だったのか。

 …まさか後者はないよな。うーむ。

 はっ。まさか古語ってことは?

 いつぞや良に聞かされた話によると、ヤナギタクニオとかいう人は、都会で絶滅した古い言葉が田舎に残ってるとか言ってたらしいぞ。


「姉貴!」

「何よ!」


 うぐ。またくだらないことを考えていた。反省反省。


「わけわからねー!」

「バカねー!」

「誰がバカだ!」


 それにしても判りやすい問答である。

 勝彦以外が尋ねても、やはりバカの一言で終わるのだろうか。勝彦ほどストレートに尋ねる奴はいないにしても、あえて挑戦する気は起きない。


「モボはモダンボーイ、モガがモダンガール」

「も、もだん?」

「最先端の若者を指す言葉なわけ」

「最先端??」

「ただし半世紀以上前のね」

「んー!」


 そこでショーが怒りの声だ。こういうのを俗に逆ギレと呼ぶらしい。わーこわい。


「今だって使てっぞ!」

「誰が?」

「今町さいだスミオ爺ちゃんだ!」

「あとは、ショー?」

「…………んだ」


 落ち込むショー。なんだか可哀想である。

 別に通じるならそれでいいじゃないか。俺たちは今覚えたから、これからも使ってやるよショー! …と口にしようかと思ったが、それはそれでモガ2号の問題が再燃しそうなのでやめておく。

 すっきりと解決するには、小川がモガ1号の座を譲渡するしかなかろう。

 まぁ小川にしても、譲渡自体を嫌がるとは思えない…というか、譲渡するという以前に多分呼ばれたくもないのではないかと思われる。

 しかしここで「私は要りませんから」とか口にした場合、ひょっとしたらモボショーが傷つくかも知れないし、隊長が隊員に哀れまれたという形になり、祐子さんの自尊心をもいたく傷つける結果となる危険性がある。アナウンサー風に言えば、難しい対応を迫られることになりそうです…と、また妄想だ。ごめんなさい。


「ところで祐子さん」

「なぁにー?」


 しかしこちらの心配をよそに、1号と2号は何事もなかったように会話を交わす。

 1号にとっては、実際何事もなかった可能性大だが。


「何か新しい資料を見つけたって聞きましたが」

「あー、まぁね」


 おーそういえばそうだった。必要なことを覚えてない俺と違って、小川は堅実である。

 しかし、祐子さんの反応が妙に鈍い。

 まさか忘れて来たのか?


「ヒロピーは私が忘れて来たと思ってるわけね。あー信用のない女は悲しいわ」

「いや、別に…」


 どう見ても芝居の祐子さんはともかく、なぜか弟に睨まれた。

 まったく、悲しいのはどっちだよ。


「ま、冗談はおいといて」

「おいてください」

「ちょっと気がついたというか、気になることがあってね」

「気になる?」

「手掛かりがあったんですか?」


 小川がぐっと身を乗り出す。

 その勢いには、さすがの祐子さんすらも気押され気味。ちょっと珍しい光景である。

 まぁ単に彼女が大柄だからというのもあるんだろうけど、かといって祐子さんが小柄なわけでもない。情報を求める気迫が違うのだ。

 …特に俺とはな。


「手掛かりかどうかは、調べてみなきゃ判んない」

「はぁ」

「ま、その辺はじきに判るから、焦らず待ちなさい」

「はい…」


 なだめるような口調に、ちょっと苦笑いの小川がうなづく。自分でも乗り出しすぎだと気付いたらしい。

 そんな様子を勝彦がぼけーっと眺めている。ちなみにぼけーっという部分は俺の主観である。


「鬼退治の昔話ならあったわよー」

「お、鬼ですか」

「そう、裏の山に人を食う鬼がいて、それを退治したとか」

「うーん」


 さすがに返答に困る。

 小川も引きつり気味の笑顔のまま、無言。なるほど、判っても役に立たない情報というのはあるものだ。


「ま、英雄らしいんじゃない?」

「なるほど」

「ねー、モボショー」

「んだ、ゴローは強エがっだなだ」

「んだがよ」


 なんて身も蓋もない反応なんだと呆れる。

 もっとも、こういう思考回路から鬼退治が生まれるのだと、納得する手もある。いろんな意味で貴重なサンプルである。


「んだば、始めっがー」

「ちょ、ちょっと待て!」

「なんだー?」

「あと20秒ぐらい」


 その瞬間、明らかに見知った顔が土手の上の道を歩いていた。

 うむ。せめて回避可能な危機ぐらいは回避しておきたいものだ。


「バッカじゃないの!」

「うっ」

「堂々と聴けばいいのよ。世界に羽ばたくショーなんだから!」

「せ、世界ですか」


 やはり姑息な営みだったか?

 まぁ実際、いったん始まってしまえば、あとは運を天に任すしかない。ついでに言えば、今更こんな姿を見られたところで、どうせ俺の評価が変わるわけでもない。

 そうだ。俺たちは体制に歯向かうアウトローなのだ。ふっ。

 ………。

 視線を感じた。もう空気で判る。十年の知己ってやつだよ。


「最初の曲はー?」

「まんず景気付けで」


 なんだろう。無理矢理、もしくは強制的にワクワクしてみる。

 …難しいな。


「よーいさのまかーしょー」

「おい!」

「冗談だ」

「本当か?」


 疑心暗鬼の視線にさらされ、ショーも多少は照れているように見える。

 日頃の行いがこういう時に出るわけだ。まぁ冷静に考えれば、フォーク一筋を貫いているらしいショーが、あえて民謡に手を出すとは思えないけれど、フォークの民謡の境目というのも実はよく判らないからな。


「んだば、長い夜!」

「おー」


 やけくその拍手でついに始まる、狂熱のライブ!!

 背後を歩く人から意識を遠ざけると、観客六名にはそれなりの一体感もあった。


「松山千春?」

「たぶん」


 小川の真剣な表情も、雰囲気を盛りあげてくれる。勝彦は目を輝かせ、祐子さんはほとほどの好奇心といった表情で、そして千聡はやや疲れた顔で。

 …なんて退屈な実況に精を出す俺が、一番この場を乱す元凶だ。現実逃避もいいかげんにして、今はただ聴くべし。


「こぉおいにぃーーゆーれぇるうーー」


 しかし、ショーの選曲基準というのはいまいち判らない。

 聴き取れる限り、けっこう恥ずかしい歌詞の歌が多いように思える。俺だったら歌いながらちょっと赤面しそうな内容だ。

 だいたい恋なんて言葉を、素のショーが口にしたら怖いぞ。相当に怖い。

 もっとも、ショーが素でそういう台詞を告げる相手は、絶対に俺ではない。ないはずだ。あったら困る。やめてくれ。ハァハァ。

 …阿呆か。


「なぁぐぁーーーいいよぉーるおぉおーー」


 そろそろ妄想にも飽きたので、黙って聴く。

 相変わらずよく通る声である。この曲はきっと歌ってて気持ちいいことだろう。

 それでも現実感のない内容だから、今一つ乗れないのは事実。いや、それを言い出したら、現実感のある曲なんて滅多にないわけだし、そもそも俺なんて人間にとって現実的な歌なんて、きっとクソつまらない。

 きっと俺は歌に向いてないのだ。うむ。ちょっとおかしな結論かも知れない。


「センギュー!」

「あんた、それだけはやめて」

「なしてだや」

「演歌でしょ、それ」

「…ん、んだがもしんねども」


 それにしても祐子さんは、至って真面目にアドバイスしている。それを聞くショーも、真剣そのものだ…と、口にしてみれば何もおかしくはないのだが、違和感を覚える自分がいる。

 もしかしたら遠目に見たら、スターとそのおっかけに見えるかも知れないほど、祐子さんの服装は浮いているせいだろうか。近付けば見るからに気の強そうな姉御が、まるで威嚇するかのように田舎のヒーローを眺めているというのに。

 …我ながらひどい言い草だなと思ったところで、ふと思い出し、隣の女子生徒の髪型を確認する。

 む。

 一瞬固まったのは、あまりの変化に驚いたとか、そういうことではない。それどころか、以前の髪型を覚えていなかったことに気付いたのだ。

 だいたい、朝から顔を合わせておきながら、今頃になって確認すること自体、失礼極まりない話である。そうはいっても、忘れてしまうものは忘れてしまう。

 見た目で人を判断しない男と、ものは言いようである。


「次はなにー?」

「んだのぉ、さだまさすぃだがの」

「またぁ?」

「そう言わないのちさりん、滅多に聴けないんだから」

「そりゃそうですけど…」


 しぶしぶうなずいた千聡を待つこともなく、ギターがジャラジャラ鳴る。

 ちなみに言いそびれたが、さっきの髪型の件――もちろん小川の話――は、記憶が曖昧なので変化が続いているのか判断出来ず。正直スマンカッタ。

 ………。

 なんだろうな、しかし。

 別に他人の容姿に興味がないとか、そういうわけではない。


「たう゛ぁこをくわえたらーあなたのこーとぉお」


 絶対に違う。

 テレビに出てくるアイドルを見れば、可愛いと思うし、学校でもそういう体験はあった。少なくともその瞬間、相手に対して無関心でなどなかった。

 そうだろう?

 そうだ。いくらでもあった。それ以上を求めたくなる瞬間すらも。


「にがおえかぁーきのっともーだちーぃいもぉー」


 なかったことにしたかった瞬間。可愛いと思ってしまったことを悔み、目を背け、忘れようと努力してきた過去。

 そうしていつの間にか、俺は意識しなくとも何も覚えない術を身につけた。

 きっと意味のない努力だろう。

 そんなことは知っているけれど、そうしなければ俺は世界の笑い者だ。

 …おかしな話だ。

 いや、おかしくはない。おかしいと考える気はない。ただ、最近思うことが一つ。


「くやんではぁいなあーいーさー」


 嘘…なんじゃないか?

 え?

 何が、だ。

 努力して身につけたことの、おかしいことの、笑える…。

 はは…。

 頭が回らないな。

 うん…。

 ………。

 だからだな、気付いてるんだろ。その、あー。

 …なんだっけな。

 えーと、その。

 ん?

 ………。

 へたくそ。

 違う。

 …………。

 あ。


「おわっ!!」

「な、何よヒロピー!?」


 違うだろ。

 ほらほら、気持ちのいいリズムだぜー。

 はっはっは。目を覚ませ?

 ………。

 指先がなくなっていくぞ。おー。


「小川!」


 ………。

 あれ?

 …まだあったなぁ。

 おーい。どっか行くなよ。

 あるんだろ?

 走るなよ。待ってくれー。


「小川!」

「ちょ、ちょっとヒロピ」

「こら!」

「や、やめなさいってちょっと!」


 ………。

 何をしている?


「こら止めろバカ!」

「がー…」


 苦しいぞ。何しやがる。

 ………。

 何しやがるって言ってんじゃねーかようおう。

 あーーーー。

 …………。

 まだ足りねーんだよー。

 五、六度じゃ足りねーだろ。なー。おらー。このー。


「離せ!」

「勝ピー、離すな!」

「や、やかましい!」

「ヒロピー!」


 ぐえ。

 ……………。

 足りない?

 何を言ってるんだ俺は。

 叩け!

 何のために?

 回数なんてどうでもいいのだ。

 また腕が消えたぞー。

 ひー。

 不快になれ。

 俺は不快になれ!


「小川!」

「な、なんなのよいったい!?」


 起こせ!

 薄笑いのお前を叩き起こせ!

 丸太みてーだなー。

 叩き起こせ!


「あ、あれ?」

「何!?」

「小川さん…」

「え?」


 一瞬のゆるみ。

 不快感に覆われた両腕を振りほどく。

 もうすぐ全身にまわるはずだ。


「小川!」

「え、な?」

「小川さん!」

「な、なによこれ」


 肩を揺らす。

 今度はそこから不快に変わる。

 俺だけではなく、彼女も。


「ショー!」

「えっ!?」

「スバル!」

「は?」

「スバルだスバル! 知らねーのかてめぇ!」

「す、すばる…、あ、あのス」

「歌え!」

「だか…」

「早く歌えバカ!」

「あ、ああ」


 高鳴る鼓動。ギターは響く。

 そして世界は動く。


「めーをーとじてぇ~」

「小川!」


 クソ!

 クソ!

 クソ!


「なぁにぃもぉみえぇーずぅ~」

「………」

「…小川さん?」


 死ね死ね死ね……。

 あー。

 …え?

 …………。

 バカな。


「え、えーこちゃ」

「ちさりん落ちつきなさい!」

「だって」

「いいから」


 ごめん。

 笑おう。ははは。はははは。ははははは。

 違う。笑うな。旋回だ。大車輪だ。だいしゃ…?


「祐子さん!」

「大丈夫、効いてるから」

「え?」

「黙って」

「…………」


 ぐるん、ぐるん。

 深呼吸。

 ぐるん。

 重くなって来たぞ。あー。

 …何やってんだ。バカが。バカが。


「待った!」

「あ?」


 待った。

 待った…?

 待ったぁ!

 ……………………………………………え。


「止めて」

「ゆ、祐子さん!」

「いーの、ちさりん」


 よ。

 …………良くない! 良くないぞ!

 クソ…。

 バカな。

 良くないって。良くないって言ってるぞ。

 なんで言えないんだ?

 なぁ。良くないって。良くないって。


「あなた、名前は?」

「…………」

「………」

「…………」

「もう一度。あなたの名前は?」

「あなたは…」

「祐子。清川祐子」

「清川?」

「そう、対岸の」

「そう…」

「そう」

「…………」

「あなたは?」

「ツル」

「え!?」

「し、ちさりん静かに」

「ご、ごめんなさい」

「フルネームは…って、横文字使っちゃダメか」

「オオトガワ、ツルコ」

「オオトガワ?」

「知らないの?」

「え、あ、あの、その、知ってる、知ってるよ」

「…………」

「…えーとね」

「…………」


 …………………。

 スバル。聞いているよ。

 ああ。ああ。

 …………。

 良くないだろ。なぁ。良くない。


「ねぇ」

「は、はい、わたし!?」

「…………」

「…な、何?」

「名前は?」

「お、奥村千聡、もうすぐ16です!」

「ちさとさん…」

「……あの?」

「私は?」

「え?」

「私の名前は?」

「……………」

「ねぇ、ちさりん」

「え、祐子さん?」

「…もしかしたら」

「…………」

「…あの」

「………」

「おがわ、えつこ」

「えつこ…」

「えーこちゃん」

「……そう」

「あの?」

「何か?」

「ど、どうしてそれを?」

「…さぁ」

「さぁ?」

「……………」

「ツルさん?」

「……………」

「そろそろかな」

「そろそろって?」

「戻らなきゃってこと。ショー、さっきの続き!」

「あ!?」

「サビからでも前奏からでもいいから、早く!」

「ん、んだが、んだば」


 スバル。わしー…。

 ………。

 …………。

 いい歌じゃないか。なぁ。俺は嫌いだけどな。

 きついなまりが頭を駆け巡る。そして掻き回されながら、いつの間にか霧は晴れていった。

 そしてうっすらと開いた視界の先には、こちらを睨む顔があった。

 …いや。

 彼女はきっと、睨んでいたのではない。

 掻き回される俺の頭の中で、目の前のその表情はどこかで見たものだったと、思い出し始めている。

 とても懐かしい気分だ。

 それどころか…。

 ………。

 どこで見たんだろう?

 青龍の滝か? 違う。

 どこだったろう。やがて肩を回し、ゴリゴリ音を立てた時、その記憶は消えてしまった。


「小川」

「あ、ヒロピーがしゃべった!」

「耳元でやかましいぞ」

「やかましいだって!?」

「うがっ!」


 すべてはもう元に戻っている。

 …でもないか。まだ感覚は鈍いな。

 いきなりの洗礼を避けることは出来ず、鋭い痛みが現実を通り越して再び非現実に揺り戻そうとする。

 …バカな。

 ここまでくだらない思考が出来ることに、それでもほっとする自分がいた。


「わぁあーれぇわぁゆくぅ~」


 ショーはまだ歌っていた。俺ではなく、小川の顔を見つめながら。

 小川の反応は俺よりも鈍かったけれど、それでもわずかな間に普段の表情を取り戻していく。

 そして彼女はぽかんとしたまま、その視線は俺やショーの間を揺れ動く。一言で表わせば、怪訝な表情というやつだ。


「…あの」

「小川さん?」

「これは、何?」

「何って…」


 風が冷たい。いつの間にか日も暮れようとしているから…ではないな。

 気がつけば、ショーは歌うのをやめている。もしかしたら谷村新司が好きではないのかも知れないな。これも違うか。

 彼女は無言のまま。

 とりあえず侮蔑とまではいかないにしても、どう見てもその表情は呆れているようだ。

 …さて。

 自分が言うのもどうかと思うが、今はきっと、正気に戻っておめでとうという場面であろう。もしくは俺も一緒におめでとう、とか。

 …別にめでたいって気分じゃないけどな。

 うむ。そうなんだよ。めでたいわけじゃない。せいぜい元に戻っただけだ。それでも、さっきより良い状況に変わったことは確かだが。

 まぁ正直、俺自身が活躍したわけでもないのだし、とやかく言うのはおかしいだろうとは思う。だがしかし、しかしだな、俺はともかくショーは善意で彼女を正気に戻そうとしたわけである。いくら記憶になかろうと、そんな顔で見つめられては悲しいだろう。

 歌をやめたショーとしばし見つめ合って、俺たち二人、生まれて初めて気があった瞬間だなぁと感慨に浸りそうになった。残念ながら、そんな感慨浸りたくもないが。


「姉貴」

「………」


 勝彦の声で、もう一つの異変に気付く。

 そこにはなぜか、目を背けたままの祐子さんがいた。

 …どうかしたんだろうか。

 虚ろな記憶では、この騒動を収めようとあれこれ指図していたはずだ。俺たちがとりあえず正気に還ったことを、本来なら真っ先に知らせねばならない相手である。それこそ、「隊長、只今帰還致しました!」などと口走っておけば、場の雰囲気も随分と和んだに違いなかった。

 けれど祐子さんは黙ったまま、土手を眺めている。

 それは別に、俺たちのような異変ではなかったけれど、勝彦の様子からしても普通の状況ではなさそうだった。


「正気に戻ったわけ?」

「おう」

「えーこちゃんは?」

「え……、はい」


 結局、千聡が場を仕切る。勝ピーは祐子さんに引きずられているし、良よりはちさりんの方が小川とのコミュニケーションも自然だ。妥当な線である。

 …というか、この場面で逃げない千聡には感謝しなければならない。

 もっとも、仕切ると表現してはみたが、今さら何かをする局面でもない……ことはないな。忘れてたぞ。


「えーと、その、ご迷惑をおかけした」

「何を今さら」


 謝辞を述べるのは人間関係の基本である。

 ちさりんに指摘されるまでもなく遅いけど。それはまだ正気に戻りきってないからである。決して俺が感謝の心もない男だからではない…………はず。


「記憶はあるのか?」


 それまで黙ってこちらを見ていた良が、のっそりと突っ込みを入れてくる。

 その質問はもっともだった。だからといって期待に沿えるわけでもないが。


「…多少」

「多少?」

「祐子さんとちさりんが何か話していたらしい、という程度は」

「…中身は知らないのか?」

「知らないような気がする」

「何それ」

「声は聞こえていたはずだが、考える余裕がなかった」

「ふーん」


 いかにも胡散臭いと言いたげな表情で、千聡は俺をじっと睨む。声にもどこか呆れたニュアンスが入り混じっている。ついでに良も、「疑ってはいないが本当か?」とか言い出しそうな顔だ。

 さすがに自分でも、おかしなことを言ってるという自覚はある。それだけに二人の目線には納得――というか、一瞬もう一人もそういう目をしていた。これは納得いかんぞ――するけれども、実際おかしなことが起きたのだから仕方がない。

 ここは迷惑をかけたお詫びも込めて、正直に思ったことを答えてみる。きっとなんの役にも立たないだろうけど、嘘が混じるよりはマシだろう。


「えーこちゃんは、もちろん憶えてない?」

「もちろん?」

「あ、いやその…」


 千聡の反応で、うろ覚えの記憶が少しだけ蘇る。

 小川の表情も変わっている。彼女の場合、経験的に判る部分もあるのだろう。


「で、ヒロピー」

「なんだよ」

「なんで谷村新司なわけ?」

「それは…」


 う。

 今さらのように思い出す。確かにあれは俺の言葉だった。シンジ―タニムラ。どっかの選手コールを真似たところで何も起こらない。

 ………。

 冷静になって考えてみる。ナムナム…と、今度は例の髪の薄い頭が浮かぶ。間違ってはいないが、やはりなんの意味もない。

 冷静かつ真面目に考えてみても、思いつかない理由。だいたいあの瞬間、すでに俺の思考は止まったようなものだった。理由なんてあったのだろうか。偶然頭に浮かんだ単語を口走っただけではなかったのか、とすら疑いたくなる。


「なぁヒロ」

「ん?」


 とはいえ理由がないとしたら、それで正気に還ったことも説明出来ないわけだ。


「この前もさだまさしだったんじゃないか?」

「…そうだ」

「そうなの!?」


 千聡の驚きようは大袈裟に過ぎるけども、事実である。

 まさか法則性があるのか?


「えっと…」


 そこで小川が口を開く。

 一斉に視線は彼女に集中する。


「どしたの?」

「あの、さだまさしと来たら谷村新司、だよね?」

「は?」

「おーよぐ知ってんでねーが」


 今度はショーが反応。話が見えないって。


「じゃあショー」

「あー?」

「説明して!」

「うむ、よっぐ聞げ」


 仰々しいそのフレーズに、不安を感じずにはいられない。

 というか、期待しなけりゃいいのだ。気を楽に楽に。


「さだまさしど谷村新司だばなー」

「………」

「友達だんぞー」

「それだけ!?」


 あまりに低レベルな説明に唖然とした千聡が、小川に目をやった。

 いや、それは千聡だけではない。俺も良も、「まさかそんな話じゃねーよな」と今にも口にしそうなぐらい、一斉に彼女を見つめた。

 しかし…。


「友達…らしいよ」

「………」


 へーそうなんだとでも相槌を打つべきなのか、一瞬悩む。

 しかしそこで悩んでいるうちに、「スバル」と叫んだ自分自身に行き当たり、急に羞恥心が湧きあがってきた。

 さて困った。

 誰も言葉を発しないと、自分の発言が期待されているような気がして、ますます焦る。


「とりあえず、えーこは昴を知ってたのね?」

「はい」


 その沈黙を破ったのは祐子さん。おお、頼りになる姐御が帰って来たって!

 さっきとは別人のように堂々とした姿。正確に言えば、さっきが別人だっただけなのだが、この際そんなことはがたがた言わない。


「ヒロピーは毎日歌ってる、と」

「歌ってません!」

「本当に? 徳●と一緒に泣いてたり…」

「●光なんて大嫌いです!」

「あっそ」


 つまらなそうな顔までいつも通り。さっそく被害にあった身としては、あのままの方が良かったような気もするわけだが、まぁそこはぐっとこらえる。

 実際、嫌いだが知っている谷村新司。小川はもしかしたら好きなのかも知れないな。さだまさしとの関係まで知ってるほどだ。

 …どっちにしろ、理由といえるものとは思えない。ああいう事象に理由を求めても無駄だという教訓としよう。


「どうする?」

「汽車さ乗んねまね」

「じゃ、今日はお開きにしましょ」


 ちょっと残念そうな祐子さんが怖い。ともあれ、ショーの突撃ライブショー――おっと、これはギャグだな――は二回連続で中断して終わった。

 …………。


「悪い」

「………」

「あの、ごめんなさい」

「気にさねだっでいさげのー」


 なんだよこの落差は…と思ったものの、元々態度の悪い俺と、目を輝かせていた小川なのだ。日頃の行いは大切である。

 反省しても次にああならないという保証はないけども、せめて表面的にはにこやかに拝聴致したいものだ、と目標は高く持とう。谷村新司が嫌いという共通点が見つかっただけでも、大きな進歩には違いない。

 …何を言ってるのか良く判らないので帰ろう。


「んだば、急ぐさげ」

「お、また明日な」


 会場から少し歩いた橋のたもとで、一行はバラバラに別れていく。

 ショーは会場隅に用意してあった自転車で駆け抜け、姉弟とちさりんは橋を渡り、良はまっすぐの道を進む。その後ろ姿をぼーっと見送っていると、急に疲れに襲われる。

 無茶苦茶な時間だった。それは考えてみるまでもない。が、考えたくなってしまう自分を抑える。

 出来れば考えずに、事象だけが無くなってほしい。五郎だとかツルだとか、いい加減理解を超えた話に突き合わされるのにも飽き飽きだ。


「山際くん」

「は、はいっ!」

「…えっと」


 完全に油断していた。

 慌てて振り返ると、自転車をひいた彼女の姿。早くも学校からここまでを往復したようだ。恐るべき小川悦子。

 …たぶん彼女が素早いのではなく、俺が時間を無駄にしていただけだろう。


「悪い。ちょっとぼーっとしてた」

「知ってる」

「………」

「車に轢かれるかも」

「反省します」

「よろしい」


 屈託のない笑顔を見る。

 それは新鮮な光景だった。いくら他人に興味がなくとも、今まで見たことのない表情だと、一瞬で気付くぐらいに。

 だから落ち着かなかったのか。違う。もっとそれは単純な話だ。


「あのー」

「はい」

「名字プラスくんというのは緊張するので…」

「緊張?」

「う、話せば長いことなんだが」

「はぁ」


 あれは心臓に悪い。誰だって慣れない呼び名を耳元で聞かされたら驚くだろう。

 もちろん、それは知らない同士が呼び合う最もありがちな方法なのは承知している。ついでに、小川が「ヤマギワクン」と声を発した回数はかなりになるから、慣れてもいいだろと反論されたらそれまでだ。

 しかし嫌なのだ…とまた妄想に入りそうになって、慌てて前を見る。

 小川はじっとこちらを見つめている。あえてその心理状況を推測すると、俺の長い話を待っているようである。

 ちなみに、説明するまでもなくあれは言葉のあやである。医者に止められてるとか祖父の遺言でとか、あるいは言語論とか認識がどうたらとか、深い理由は全くない。そこは自信をもって言える。


「えーと」

「はい」


 とはいえ、俺が言い出したわけだし、かなり理不尽だし、自分で解決するしかないのもまた間違いない。


「とりあえず」

「はい」

「ヤマヒロ」

「………」


 本気なのか、俺は?

 どっかの蒲鉾か醤油のメーカーみたいな名前。


「ダメか、ダメだな…」

「質問」


 小川は小さく手を挙げた。

 軽い脱力感に襲われながら、仕方なく指名する。


「どうぞ」

「変更の余地は?」

「お、大いにあり」

「そうなの…、じゃあ」

「呼ぶのか?」

「そちらの要望で」

「う」


 言葉に詰まる。

 なんとなく、遊ばれてる気もするけど。


「私は、オガエツ?」

「…同様に考えれば」

「………」

「おが…………えつ」

「変更の余地あり?」

「たぶん」


 それは頭の痛くなるやり取りだった。

 だけど、なんとなくその場で変更する雰囲気にはならず、そのまま別れる。

 彼女は良と同じ方向へ。川南まではどれくらいだろう。後ろ姿が曲りくねった道に消えるまで、結局俺は橋のたもとでただ彼女を見送った。

 川辺の風は、今度こそ本当に冷たい風だった。

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