いつかの未来
夢を見ている。
知らない人がそこにいる。
そして俺は、きっと泣きたい気分だった。
「ヒロピー!」
「うがっ!」
痛みも走る。完璧だ…ではない。そんなことあってたまるかクソったれ。
「いきなり蹴るなバカ!」
「あんたうるさいのよ!」
「何もしゃべってねーだろ!」
「イビキ!!」
「………」
負けた。完敗だ。
がっくりと肩を落として、視線を落とす。
机にはべったりと汗がにじんでいる。「きっと悪い夢でも見てたのね」と、占いのオバサンが側にいたなら、気だるそうな雰囲気を漂わせつつ適切に解説してくれそうな雰囲気である。
悪い夢。
だけど、悲しかったけれどそれは嫌な夢だったとも思えないのが不思議だ。
残念ながら、何が起こっていたのか、まるで憶えてはいない。そりゃまぁ、憶えてるほうが珍しいのだ、しょうがない。あきらめるしかなかろう。
とにかく、起きてしまった。
昼休みはもうどれぐらいだろう。イビキをかくのは眠りが浅いらしいから、それほど時間は経ってないかも知れない。
あーあ。
ぐっと両手を伸ばす。気分すっきり、あとはトイレぐらいだな。
「………」
「…………」
「いつから?」
「今来たとこ」
斜めに体を捻ったところで、じっとこちらを見下ろす予想外の訪問者に驚く。
もっとも、予想外という割には冷静に対処している自分がいるのだが、それは何も驚いていないというわけではなく、相手がそういう相手だから、自然と穏やかな対応になっているだけだ…などと説明したところで意味はない。
視界の端には、やれやれといった顔の千聡が映っている。きっとこのために蹴りを入れたに違いなかった。
まったく。気配を悟られずに近付くとはあなどれない女である。
……………。
ごめんなさい。私が悪うございました。へこへこ。
「さて」
ゆっくり立ち上がる。
その一瞬、何となく自分の体がしわだらけになって折りたたまれていた感覚。すぐに気を取り直して、目線の変わらない彼女に向き直った。
それはそれで、なかなか窮屈な感じがした。
「…場所を変えよう」
「はい」
「なになに、二人で密談?」
「うむ。子供には判らぬ話だ」
「誰が子供よ!」
今度はしっかりと蹴りをかわし、足早に教室を出る。
そして廊下に出た瞬間、急に明るくなった世界に一瞬たじろぐ。いつか心臓麻痺で死んでしまいそうな気がした。
…まぁ冗談だ。
「密談なの?」
「どうだろうな」
わずかに遅れて来た彼女と合流する場所は、教室前の廊下。
ガラス窓の向こうには茶色のグラウンドが見えて、その彼方には山。景色は抜群だが、絶え間なく人が通る場所でもある。どう考えても密談には向いてない。
もちろん、特に密談したいわけでもない。
「さて…」
「いい天気ね」
「そうですな」
「よく眠れた?」
「まぁ、残念ながら」
彼女の皮肉に、思い出したようにゴリゴリ肩を回す。
骨の鳴る音が彼女に届くかは定かでない。
「…今朝はちょっと疲れてた」
そう言うと彼女は、窓ガラスを指でなぞりながらうつむき加減。
「夢は?」
「憶えてない」
「そうか…」
あれから二週間。最近は二人で情報交換することも多くなった。
何気なく、あくまで自然に交わされる会話。しかし正直、「あのこと」を口にするまでは勇気が必要だった。当然だ。彼女のプライベートに深く立ち入らざるを得ない上に、自分自身にとっても忘れていたい出来事だったのだから。
とはいえ、好きと嫌いに関わらず、忘れているわけにはいかない。
あの日の夕方、まるであの場を見ていたかのように、祐子さんは彼女の役割をはっきり口にした。それは出来事の瞬間からもやもやと浮かんでいた不安を、一時的には吹き飛ばしてくれた。
「疲れてるんなら寝なくていいのか?、小川さんは」
「…寝顔見られるから」
とはいえ、それは一時的には確かに救いであっただろうが、同時に終わりのない苦痛の始まりを予言されたに等しかった。
そしてそれが二人に平等に現われるならともかく、彼女に負担が偏るのだとしたら…。
「俺なんかしょっちゅう見られてる」
「そういう問題じゃないと思う」
彼女が最初に記憶の脱落を経験した――というよりも記憶していた――のは半年前。いつとはっきりは特定出来ないらしいが、いずれにせよ当時はお互い別の中学にいたわけだから、それは俺という存在と無関係に起きている。
ただし回数が増えたのはここ二ヶ月だという。そちらの因果関係については謎が残る。
「どういう…」
「見られたくない」
「………」
ちなみに、出来れば訊ねたくもなかったが、例の月曜以前に俺のことを意識したことがあったかどうか訪ねてみた。返答は言うまでもなく、「ない」だったけどな。
それでも俺の名前は知っていたらしい。
当たり前か。俺だって「知ってはいた」。それを彼女に言っても、果たして信じてもらえるか自信はないけど。
「特に、知らない人には」
「知らない?」
彼女は相変わらずそっぽを向いたまま、俺をなじる。
そうか。
どんな話題も結局ここに行き着くんだな。
「あくまで小川…と呼ぶのね」
「敬称は付けてる」
彼女の言いたいことはもちろん判っている。
もはやクラスの一般認識として、「千聡グループ」の住人である小川悦子。今や勝彦ですらちゃんと親しげにあだ名で呼ぶというのに、グループ若頭という噂の俺ひとりが、かたくなに拒絶しているのだ。
しかし、これだけは譲れない。
「じゃあ、山際くん」
「やむを得ない」
だいたい、そうさせたのは小川悦子自身なのだ。
千聡をはじめ、多少なりとも小川と親しい人間は、ほぼ間違いなく小川悦子をあの名で呼んでいる。そのくせ誰ひとりとして、あの名がどういう意味をもつのかは知らないらしい。
…いや、きっと小川は「えっちゃんは古臭い」だとか、サルトビよりは遙かにもっともらしい理由を付けているに違いない。
とにかく、あの名の隠された意味を知る者は、小川悦子と俺だけなのだ。いったいなんの気まぐれだったのか、もとより知る由もないけれど。
「その山際くんは、昼寝はしても記憶はある、と」
「寝てる時間はないぞ」
「………」
「言いたいことは判るがな」
一つ言えること。
小川はあの呼び名を広めることで、人知れず自分を否定しようとしている。
何も知らない沢山の共犯者を生み出しながら。
「また先に、私がツルになってしまうと思う?」
「そうかも知れないが、そうだと言いきるだけの自信もない」
「五郎に一度逢ってみたいけど…」
「逢ってどうすんだよ」
「さぁ」
とにかく、情報交換と称して廊下で対峙する昼休みが続く。何も俺たちは、ただ和やかに語り合っているわけでもない。
小川はそれでも、不思議なほどによく笑った。
「逢ってから考える…ということで、どう?」
「そりゃあいかんな」
「どうして?」
「先方が困るからだ」
「確かに」
もしかして、小川はツルに何か同情というか、共感というか、そんな感情を抱いているのかも知れない。たぶん気のせいだと思うが。
ツルの出現は、小川自身の記憶を犠牲にする。だからわざわざ望んでいるわけはない…けれど、それでも俺の五郎に対する拒否反応に比べれば、どこかおとなしいように思える。そこに疑念も湧いてくる。
まぁ、おとなしいのは単に、年季の差なのかも知れないけどな。既に半年も経験しているのだ、今さらいちいち慌てろというのも無茶な要求というものだ。
「次は起こしてな」
「ちゃんと声はかけたんだけど」
「無理。起きない」
チャイムの気配を感じる。
嘘だ。周囲がバタバタしているから、感じるも何もない。
「蹴ってよし」
「はぁ」
「千聡みたいになりたくないか?」
軽い冗談に、小川は笑いもせず、目をそらす。
「暴力反対じゃなかった?」
「…そんな昔もあったねと」
「いつか笑える日が来たんですか」
ここで笑顔。
俺はただその様子を実況する、どこかのアナウンサー。つまりは傍観者。
…それにしても、村の都会のスーパースターことショーのおかげで、奇妙な共通言語が作られつつある。
どうも小川は、元々こういう言葉遊びが好きらしい。おかげでいちいち気が抜けない…が、幸い同じ曲を聴かされているだけに、今のところは無事に対応出来ている。
これがショーの教えに従ってエアチェックまで始められた暁には、もうお手上げだ。いや、お手上げで済めばそれでいいのだが、何となく小川に付き合わされて自分も聴かされそうな予感がしてならない。
あーおそろしや、くわばらくわばら。もちろん近所の桑原さんのことではない。だいいち呼び捨てるほど親しくもない…って、いつも通りの脱線。
「戻るか」
「山際くんはトイレ?」
「そんなこと指摘せずともよろしい」
「あら失礼」
そういえば、ショー様の空地リサイタル…ではなく次回教室ライブは、今週の金曜日に決まったという。
是非祐子さんにも聴いてほしい、というか、祐子さんの参加を条件に先延ばしにしてきたわけだが、予想通り長くは保たなかった。
だいたい先週も祐子さんはやって来たのだ。毎週のように、さして近所でもない高校に顔を出すなんて、本当に仕事をしてるのか疑いたくもなるのだが、とりあえず幸いなことに、その時はショーの都合が悪かった。
もう一度そんな偶然が起こらないか、期待するのも虚しい。
「あ、忘れてた」
「何か?」
教室に入りかけようとする小川を呼び止める。
廊下と教室の境界線に立つ小川の表情は、今し方より少し暗い。どうも教室より廊下、廊下より校庭がいいらしい…と、まとめてしまえば珍しくもない心理だな。
たとえ教室にいる顔ぶれが嫌いじゃなかろうと、教室で逢いたいとは思わない。
「放課後、良から何か発表があるらしい」
「発表?」
「だから部室に来いと」
「部室に…」
小川の表情がいちだんと曇る。やはりあの部室の印象は悪いようだ。もしかしたら教室以下か?
その理由がどの辺にあるかは諸説ありそうだ。深く問うのはやめておくが、一応伝えておくと良さそうな事柄もある。
「大丈夫」
「え?」
「たぶん今日は活動日じゃない」
「…寂しい会話だね」
またちょっとだけ笑顔を見せて、小川は教室に戻っていく。
その瞬間、チャイムが鳴った。
逡巡した俺は、それでも意を決してトイレに走る。その結果はあえて語るまい。ふっ。
常にギリギリの世界で生きる。これぞ男のロマンというヤツである。
午後の授業は物理。文句なしの苦手科目だ。
どうせなら、こういう時こそ眠くなってほしいものだが、あいにく昼休みのおかげで、ばっちり目は開いている。困ったものである。
…困らなくてもいいんだがな。寝てたら確実に判らなくなってしまう。あーあ。
………。
そういえば、最近勝ピーが静かだな。
授業中に静かなのは全く不思議ではないが、最近ヤツは時々、遠くを見るような表情を見せることがある。正直言って、得体の知れない恐怖を感じる。
「彼は今、悩んでいる」。勝彦という物体に、これほど似合わないフレーズはない。
うむ…。
まぁしかし、考えてみたら俺自身にしても、どちらかといえば類似の生物だったような気がする。別に何かに熱中するわけでもなく、落ち込むこともなく。
良がいなければ、地研まがいの活動などすることもなかっただろう。奴に流されて、けれどだからといって自主的に動くわけでも部員になるわけでもなく、誰かのオマケだった毎日。
高校に入って、この教室に出入りする今の自分だって、きっと周囲からは、勝彦や千聡の附属物ぐらいの存在でしかなかっただろう。指摘されて初めて、「ああそんな男もいたな」という程度…だけど、そのことに気付いていても、悩んだ記憶はない。いてもいなくても同じだから、日々何事もなく生きて行けるのだ。
そうだ。
俺はそういう人間だった。
しかし、いつの間にか――いつがきっかけなのかは明白だが――変わってしまった。いや、まだ変わりつつある現在。沓喰五郎とツルの登場で、俺は突然主役の座を射止めてしまった上に、今もその役を演じ続けている。
それは何も、こちら側の意志からではないし、正確には主役が俺なのか、それとも沓喰五郎なのかも定かではない。少なくともツルは、そして小川悦子も、逢いたいのは俺の身体を介した五郎でしかなかろう。
それでも、小川が現実に対峙する相手は間違いなくこの山際博一だ。
………。
勝ピーの豹変は、まさか俺に主役を奪われたからではなかろう。一瞬浮かんだ妄想は、たやすくかき消すことが出来た。
ついでに、すっかり肩が凝っていた。
しきりと眠そうな言語を口にする教師に見つからないように、そっと左肩を回すと、無駄に大きく骨が鳴る。軋む身体。まるで年寄りのようだな、と思った。
「俺様も行くぞ」
「誰だ俺様とかいう奴は」
放課後。
結局はその悩める勝ピーも、当然のように部室へ向かう。千聡も含めて四名。そんな大袈裟な行事があるわけでもないが、おかしなモノでも見るような視線を教室中から感じつつ、一行は廊下に出た。
「………」
「ちさりん元気ないな」
ちなみに千聡の場合、一応は行かなければならない理由がある。いろんな意味で。
「そ、そんなことないって!」
「じゃあラジオ体操」
「するかっ!」
「元気ないね」
「えーこちゃーん」
しっかり小川もからかっている。要するにそういうことだ。
「迷わず行けよ、行けば判るさ」
「…その人嫌いだし」
勝ピー様の謎の励ましに冷たい一言を浴びせ、千聡は溜め息をつく。
………。
二人で考えたい、と宣言したことを、はっきり言って俺は信用していなかった。これまでのことを考えたなら、突然何かを期待する方が無茶というものだから。
しかし、二人にとってあの日は意外にも転機になったようだ。どんな形にせよ、二人で考えようとしている。結果としてどこへどう迷走するかはともかく、祐子さんの叱咤激励をきっかけに、変わろうと思い始めたらしいのは間違いない。
だから、たとえその試みが滑稽に過ぎたとしても、あまりいじめるのもどうかとは思う。
…けれど、真顔で送り出すと逆にプレッシャーがかかるだろう。なかなかその辺の加減が難しい。ちさりんふぁいとー。
違うか?
ふぉるつぁ、でぃおら。…本人に通じないだろう。ガンバ、口にするこちらが恥ずかしい。ここは手堅く、勝利を目指せ!
…何に勝つんだよ。いつの間にか取り残されつつあることに気付き、歩幅を広げた。
やがて四人は階段の登りにかかる。
小川は今日も先頭を歩く。もう部室の位置も確認済みだから、なんの迷いもなく歩く。
彼女にとって躊躇する唯一の要因――地研部員に会うこと――は存在しない。良を無駄に待たせる必要もないのだし、当たり前のことなのかもしれない。背筋を伸ばした後ろ姿を確認しながら、それでもどこか釈然としないものはある。
この先に待っているだろう出来事は、あくまで彼女を浸食するツルに関わっている。もちろんその浸食を食い止めるには、ツルに関わる事実を知る必要があるだろう。そしてそこから、ツルを抑える方法に至る可能性もなくはない。
それは俺だって同じことだ。沓喰五郎なんて知ったことではない。早々に消え去ってもらわなくては困る。困るから聞きに行く。
そうなのだ。
これは必要なことなのだ。
………。
しかし、「知る」ことの意味とはなんなのだろう。五郎とツルに詳しくなったとしても、それが解決へと向かう確信がない。
いや、そもそも可能性とは言っても、方法を見出す手掛かりなど何かあるだろうか?
むしろ、小川の中のツルと対話出来るなら、あるいは何らかの役に立つかも知れない。けれど、たとえそれが可能な局面が来ても、ツルと対話する存在は小川悦子ではないだろうし、俺に出来ることがどれほどあるか判らない。ツルは俺と対話することなんて望んでいないのだから。
もちろん、俺の代わりに沓喰五郎が親切にも尋ねてくれる…なんて展開は考えがたい。もし俺が五郎だったら――考えてみればおかしな言い方だ――、わざわざ自分の消滅法を問いただすわけがない。
結局ツルや五郎は、俺と小川に混乱をもたらすだけなんじゃなかろうか。
そうだ、不安とはそれだ。
………。
だけど、今さら小川が何かを知らされたところで、彼女自身にとってそれほど大きな出来事ではないのかも知れない。既に半年の間体験したことに比べたならば。
俺にはよく判らない。
釈然としない自分のほうがおかしいのだろうか。
いい加減割り切って行動できるはずだ、とでも小川は言いたいのだろうか。
「さーいよいよ各馬、部室の前に到着。奥村千聡、ゆっくり扉に手をかけた」
「………」
「実況は勘弁してやれよ勝ピー」
ぐっとこちらを睨みつけても、中に聞こえる状況ではいつもの怒鳴り声は出ない。さすがにかわいそうな気がしたけれど、これもおせっかいか。
むしろ聞こえようが怒鳴り散らすのが千聡であるべきなのだ。うむ。
「りょ、良くん」
「ち、ちさりんか」
中からは、とても唐川良とは思えない奇妙な声が聞こえる。
とりあえず傍観者の自分は、これから起こる事態に備えて脇腹に力を入れた。
「どうしたの?」
「きょ、今日は部長になぁ、部室にいるクモを退治しろと言われた」
「そ、それで?」
「見つからない、まるで雲を掴む話だ」
「ば、ば、ばっかじゃないの!」
……………。
最後の絞り出すような大声を聞き終えると、俺たち三人はしばし無言のまま千聡の後ろ姿を見守る。
饐えた部室の空気が外にあふれ出す。
もう四度目だろうか。この、あまりに寒い茶番劇を観賞するのは。
がに股になって両手をぐっと握りしめたままの千聡を見ると、何も口には出来ないけれど、疑問を感ぜずに済む人間もなかなかいないだろう。いないだろうが、あえてコメントしたい人間もまたいないはずだ。
とにかく、数十秒の沈黙の後、よろよろと動き始めた千聡の後をついて、部室に入った。
「よお」
心なしか頬の赤い良は、机の片隅に座ったまま俺たちを出迎える。
「今日は50点」
「厳しい、60点」
「どっちもどっちじゃねーのか?」
友を思いやる我々は、ちゃんと彼らの「漫才」に評価を下す。
ちなみに、心の中で思っている点数よりは、多少甘めである。もしかしたら大いに甘いかも知れない。あんな氷点下の寸劇に、なぜ赤点が付かないのかと視聴者からお叱りの電話があるかも知れない。それどころか、「皆さんのファックスを募集しま~す」とか思わず口走ってしまった暁には、「0点」だの「採点不能」と大書された紙が殺到するかも知れない。
「ひょ、評価はいいから早く話を進めて!」
「俺に怒るなよ」
「…次はきっとうまく行くよ、千聡ちゃん」
「今日はダメだってことね…」
小川がトドメを刺したので、さすがに本題に入らねばと、良の正面に腰掛ける。
それはいいが…。
「キミは誰だ」
「誰だってなんだや、まんず失礼でねが」
「いや、そういう意味じゃなくてだな」
無視しようにも、良の隣で目を見開かれては逃げようがない。
そいつの名は、ギターを持った風来坊、ショー。そういえば良とは同じクラスだったな。まったく危険な男だ。
防衛本能が働いた俺――他一名――はきょろきょろ辺りを見渡したが、例の危険な物体を見つけることは出来なかった。どこかに隠してるのか?
「ヒロ」
「お、おう」
「これだ」
思わず注意力散漫になったところで、良に呼び戻される。
そうなのだ。今は目の前の資料に意識を集中させればいいのだよ。
「これか」
「汚いね~」
千聡は一言口にしたきり、近寄りもしない。
確かにホコリを被っていたけれど、むしろその方が発掘資料って感じがして良いと俺は思うのだがな。
「沓喰村の伝説…」
「ひねりがねーなー」
勝彦もそれっきり。というか、ヤツの場合、最初から興味なさそうだ。何しに来たんだと、ツッコミは入れるだけ無駄というものだが。
良はそんな反応などどこ吹く風で、本を取りあげるとぱらぱらめくり始めた。
薄っぺらい本。めくられた中身を覗く限り、紙はそんなに黄ばんでもいないし、さして古いものでもなさそうだ。せいぜい三十年か四十年ほど前だろう。文字も旧字体じゃないし、間違いない。
「読んでくれ」
「お願いします」
俺はともかくとして、小川に真顔でお願いされてしまった良は、ちょっと困った顔で、しかしゆっくりとその箇所を指でなぞり始めた。
「我が羽州沓喰村は舟運交通の要所として、日本武尊の御東征あらせられし悠久のいにしえより大いに栄え、弘法大師、源九郎判官義経、武蔵坊弁慶、松尾芭蕉など、風光明媚なこの地を度々訪れしと伝えられて居ります。」
「嘘つぐな」
間髪入れずにショーがつぶやく。
良は――奴だけではないが――なんとも言い難い表情で、その田舎男をちらっと見た。
「気持ちは判るが…」
「そこでツッコむと続かねーだろ」
「むむ…」
とりあえずなだめておく。
それはヤツなりに正常な反応には違いないが、今はそのように「正常な」感覚など捨てねばならない。自分の中にふつふつと沸き起こっていた猜疑心も、ついでになだめる。
「再開する」
「おう」
良は咳払いを一つ。
別に部室が埃っぽいからというわけではないだろう。
「…中でも、四海にその英名を謳われるところの沓喰五郎宗衡公の物語は、その第一と称せらるるところであります。すなわち今を去ること九百年の昔、源平相戦いて世麻の如く乱れし折、奥州国衙として温徳をもちて善政を布き人民を撫育せられし藤原家に御誕生あらせられし五郎様は、幼年より聡明にして、また武勇の誉れ高く、義を重んじ民に慕われること誠に深く、蓋し当世の英雄と称せられしと伝えられております。時に鎌倉殿の平家の乱を治められし後、弟君九郎判官義経様を疎んぜられ、藤原家のもとに身を寄せられしが、九郎様を攻めよと鎌倉殿より御指図がございました折、諸人皆鎌倉殿の勢いを恐れ、今は是非もなし、その命に従うべしと申さるる中、五郎様は一人これに異を唱えられ、裏切りをもちて九郎様を攻めらるるは誠に義を欠く恥ずべきものなり、まして鎌倉殿と九郎様は真の御兄弟にあらせらるる、兄弟の争う、世にこれほど情けなきことのあらんやと、果ては御父上の袖にすがり、涙を流し諌言させ給われましたが、かえって疎んぜられ、ええい鎌倉殿こそ天下の武士の棟梁たるぞ、以後無用の口を開くなと固く謹慎申しつけられ候わば、衣川の地にて九郎様御無念のうちに自刃を遂げられたと伝え聞き、ひとり袖をしぼられました。」
ここで良は一度ため息をつく。
長い。しかも古臭くて堅苦しい上に、なんか文法的におかしい気がする。とにかく、聞いてるだけで疲れるぞ。
しかし、読む人間が一番疲れているだろうと思いきや、そうでもなさそうだったりする。なるほど奴は向いているらしい。
「うー」
「判んねーぞ良!」
「良に言ってどうする」
案の定、千聡と勝彦はリタイア。
というか、勝彦の叫びに「貴様聞いてたのか」と逆に驚いたのは俺一人ではないだろう。
「続き、読んでいいか?」
「いいか?、ちさりん」
「い、いい?、えーこちゃん」
「お願いします」
質問をそのまま小川に預ける千聡。自分の意志ははっきり示すものだと、ここは苦言を呈したい場面であるが、最早意思表示するつもりもないというのがちさりんの意思というわけか。
それにしても、小川は小川でやたら落ち着いている。しかも心なしか、目が輝いているように見える。
ちさりんや勝ピーが離脱しても不思議ではないぐらいには難しいのは間違いない。もしかして彼女には何か素養でもあるんだろうか。
…って、俺ですらどうにかなる程度じゃねーか。
「やがて五郎様の危ぶまれました如く、義を欠き兄弟の情も無き鎌倉殿は平泉の館を攻めさせられ、御父上は館に火を放ち御自害なされ、一族郎党ことごとく鎌倉殿の軍勢に討たれ、これを奥州の三大悲劇と申し伝えられております。五郎様も、もはやこれまでと覚悟を決めさせられ、いざ一刀なりとも不義の鎌倉軍を誅さんと身をかためられましたところに、九郎様にお仕えの者二人、亡き主君と五郎様の義によって参上致す、五郎様にあっては今は暫くこの地を逃れられ、必ず御家再興を図られ給うべしと、一人の者は五郎様の馬を引き、今一名は五郎様の旗印を高く掲げ、やあやあ我こそは藤五郎宗衡なるぞ、板東武者に名を惜しむ者はござらぬかと高らかに叫ばれ、……」
「なぁ」
良が息をついた一瞬に、その語りを止めたのは俺だった。
そして、驚いたようにこちらを向いたのは、なぜか小川だった。
「沓喰の話は?」
「ん…」
良の語りで聞く伝説は、それなりに面白かった。
どことなく芝居がかった文体で、なんだかとっても脚色されてそうな話だったが、それは別に構わない。誰も「事実」かどうかなんて気にしてないのだから。
それはいいのだが、これは決して「沓喰」五郎の話ではない。
「まとめるとだな…」
「………」
神経質な表情で良はページをめくる。
その様子を小川はじっと見つめていたが、千聡と勝彦は眠っていた。あの独特なリズムでやや低音の良が読み上げれば、眠くなるのは当然かも知れない。
ちなみにショーは、何やら手を動かしている。どうやらギターの現物はないようだ。ラッキーである。
「館から逃げた五郎は、山を越え、川伝いに沓喰に辿り着いて、その地で暮らした」
「ふむ…」
ま、そこまでは予想の範囲だな。
小川もそんな表情で、しかしじっと良を見つめる。
「で、亡くなった後に、八坂神社に祀られた」
「それだけか」
「うむ……、あとは昔話も伝えられている、とあるだけだな」
郷土の英雄って割に、肝心の郷土で何をしたか書かれないってのは妙な話だ。
もっとも、これを書いた人は元々戦にしか関心がなかったのかも知れない。ついでに、沓喰五郎が英雄である理由も、実は沓喰にはないのかも知れない。
「あの、やっぱりツルは…?」
「残念ながら」
「そうですか」
たぶんその返答を予期していたのだろう。小川は特に表情も変えずに、視線を古びた書物に落とした。
「これじゃあ無理だろ」
「…女子供は興味無し?」
「ま、身も蓋もない言い方なら」
「はぁ」
ため息をつく小川は笑顔をみせる。
それは苦笑いには違いない。しかし半分は、本当に笑っていたんじゃないかとも思う。
なぜか。俺自身が、正直言うとちょっと興奮していたのだ。
自分のことじゃないと思ってはみても、やはり五郎の素性は知りたいし、そこで手前味噌でも褒められていたりすると、何だか自分が偉くなったような気もする。
同時にそんな自分に呆れて、否定しようと努力する俺もいるけど。
「昔話ってのが鍵だろう」
「ふぅむ」
そこで良は本を閉じる。
その瞬間、またカビくさい臭いが広がって、気持ちよく寝ていた千聡を起こしたようだ。さまーみろ。
「祐子さんも一つ心当りがあるらしい」
「金曜に何か進展するかも知れんな」
小川に対する配慮もあった。
しかしどちらかというと、地獄の金曜日に少しぐらい楽しみな要素を加えたいという、極めて政治的な要請だったように思える。
ちなみに要請と表現してみたけれど、誰にも頼まれてはいない。
「しかし、どうやって見つけたんだ?」
「…掃除したら見つかった」
気が抜ける。もうちょっとドラマチックな出逢いがほしいぞ。
「図書館の本じゃなかったのか」
「図書館の本ならこんなに汚れてないと思う」
「…いやまぁ、ごもっとも」
まさにぐうの音も出ないとはこのことか。日を追うごとにどんどん手強くなっていく小川に、ちょっと懼れを感じたりする。
言ってることは、まったくもってその通りなのだし、さらに言うと気付いて当然のような気もしないではない。ラベルが貼られてない…とか、冷静になって考えればいくらでも不審点はあった。
………。
それはともかく。このカビの生えた部室が、案外宝の山だったりする可能性があるわけだ。あの部員の顔を思い出すと、相当に意外である。
まぁ、これまた少し考えてみれば、埃を被った本を今の部員たちが集めたわけはない。ということは、大半は祐子さんの時代かそれ以前のものだろう。
それこそ祐子さんが部長の頃にでも集めたものなら、貴重な資料があるのも頷ける。自分で探す気力は湧かないから、そこは祐子さんか、もしくは地研の明日を担う男に托すしかないけどな。
「しゅううんって、船?」
「うん」
「川が道だったんだねー」
「………」
一斉に視線が向けられた先は、言うまでもなく昼寝を終えられたちさりん様であった。
なぜみんなが見つめてしまったか、それはあえて口にするまでもない。
「あ、私がまともなこと言ったからって驚いてんでしょ!」
「…ま、まさかなぁ、良」
「え?、あ、ああ」
良の最初の声がしっかり裏返っていたので、それはそれで火に油を注ぐ結果となったわけだが、まぁ千聡には悪いが自業自得というものだ。
しかし、確かにそれはにわかに理解できないことだったかもしれない。
自分だって、青龍の滝ドライブインで川を見た時は、せいぜい自殺出来そうだと思った程度。あんな空間が道に見えるわけがなかった。
その恐ろしい濁流は、きっと千年の昔ですら変わらなかったはずなのに。
「筏レースの人なら道に見える?」
「へ?」
小川は勝彦に向かって質問を発していた。
が、勝ピーはまだまどろんでいたようだ。焦点の定まらない目で彼女の側を一応向くだけは向いている。
…しかし、よく憶えていたな、そんなこと。
「周りさいっぺいっさげなー」
「…道路みたいな気になる瞬間もあるか」
「そうかもね」
そういえば、元々この話題はショーが語っていたんだったな。あやふやな記憶を辿る。
どっちにしろ、ショーだって又聞きなのだ。本当のところは実際に流されてみないと判らないだろう。あまり判りたくもないけど。
ゆっくりとショーに向けられた視線を戻す小川。別に納得したわけでもないだろうが、納得しなければならない質問でもない、と言いたげだ。
もちろん、ここで「言いたげ」というのは、あくまで俺が彼女の表情を読み取った限りでの話。以前に比べれば、小川の呼吸なんてものも見え始めている。
「あと、経路は調べられるか?」
「…ここからか?」
良は閉じた本にまた手を伸ばす。
「どれほど意味があるかは判らんが」
「きっとあるよ」
「そうかな」
小川の言葉に曖昧な相槌を打って、沓喰五郎をめぐる新出資料報告会は終わった。
もちろん、正規の活動ではないのでそんな挨拶はないし、ついでに言うとこんなまともな活動を正規に行ってはいないはずだが、それはこの際どうでもいいことである。
「金曜楽しみだんねが!」
「んだがよ」
この日一番の笑顔を見せる男はショー、鮭川ショー。毎週一度は――本当は毎日が希望らしい――聴かせたいなんてほどなら、もっとふさわしい場があると思うぞ。
まぁここは都会の都会じゃないから、例えば駅前でジャラジャラ歌ったとしても、さして聴衆は期待できないだろうが。
ともかく、適当な相槌で逃げるように部室を出ると、例によって窓の外は赤く色づいて、人の気配のない廊下の空気にも、まるで色がついたように見える。
小川は勝彦と並ぶ位置で、窓の外を眺めている。
きっとそれは、遅れて来る友達を待っているだけだ。判っていても、つられるように目を凝らすと、見えるのは斑模様の赤い大気。
そのうち雨が降るだろう。そんな天気予報を口にするのはおかしな話だろうか。
「沓喰には、きっと船で着いたよね?」
「船?」
「そう」
「…そう言われれば、そうかも」
そこで交わす言葉は、相変わらず合わないリズム。
それなりに表情を読みとれる気になっている俺を、まるで嘲笑うかのように。
「なぁ、小川さん」
「何?、山際くん」
最後に部室の明かりを消して、良が扉を閉める。
千聡はすぐ近くにいたが、今日はもう寸劇をする気もなさそうだ。
「沓喰五郎の素性に、そんなに興味あるのか?」
「ないの?」
煤けた廊下を、とぼとぼ歩き出す。
床のこすれた模様の、途切れがちなことにすら苛立ちながら。
「俺はただ、消えてほしいだけだ」
「そう」
「そうだろう?」
「…そう、かも」
五郎に逢いたいという小川。
その理由が、どうやらツルを消し去る目的とは違うらしいことに気付かずにいられたなら、この赤い世界もただの夕焼けでしかなかっただろう。
バカバカしい。
ぼやけた足元は、地球を踏み外そうともがく。
「ツルは嫌い?」
「…………」
足音が響く。
昇降口までのわずかな時間、一方的にリズムを崩された自分に、また苛立つ。
おかしな質問だ。
答える必要のない質問だ。
後ろからアカペラで流れるなまった音楽に、一瞬心が安らぐ気がして、次の瞬間にはまた焦る。
答えようがない。あの時の自分が抱いていた感情など、答えられるもんじゃない。
靴を履き替え、頭を上げると前方には暗闇が広がる。
望まれている答えを、たぶん自分は口にすることが出来る。
…それが自惚れでないならば。
「金曜は五時に音楽室だ」
「お、音楽室!?」
正門の蛍光灯は切れかかって、景色を点滅させる別れ際。
「大丈夫、ちゃんと祐子さんが許可取ったらしいから」
「んだ、おめがだも覚べでごいよ、えっぺでねだっでいさげ」
「聞いてるか?、ちさりん」
「はぃ……」
答えちゃいけないのか?
それは俺にとって、望ましくない言葉なのか?




