しこり
今日は朝から日本史の時間。とりあえず教科書とノートをいつもの位置に並べてみたが、猛烈な眠気に襲われる。文字を読むのが辛い。
幸い教師は、反対の端からあて始めた。どうせ教科書読むだけだから、数人まわって無事に終わることだろう。
やれやれ…と、体はすっかり昼寝の体制。正確にいえばまだ昼とは呼びがたいが、朝寝というのも変だ。うーむ、この時間はどう呼ぶのが正しいのだろう…ではない。バカヤロウ。たかが睡眠ごときよりも、先に解決しなければならないことがあるだろ。
やれやれ。
チョークの音が響くだけの教室は、やはり眠いが、しょうがないので俺の体に「寝るな!」と命令しておく。
もっとも、命令したところでさして効果はないので、さりげなく自ら脇腹に拳を叩き込む。
痛いぞ。
ふぅ……。
とにかくもう一度、冷静に考えよう。
まず、彼女――小川悦子がなぜツルに見えたのか。
共通点は…、なんだろうか。目つきは似ていたような気がする。あとは判らん。だいたい、あの時の俺自身、何を言ってるのか理解出来ないというのに。
………。
落ち込むのはよそう。そんな時間はいくらでもある。
相異点は、髪型、服装、それから――、あんなに背が高かったか?
最初は何せ無茶なポーズだったから気がつかなかったが、千聡が間に入って、チャイムが鳴って自分の席に戻る時、小川悦子の身長に一瞬目を奪われた。
…奪われたというのは、もちろんおかしな話なんだが。それもまた、とっくに知っていたのだから。
千聡の身長は、数字は知らないが恐らく平均的。対して、小川悦子の背丈は、俺の記憶が確かならば――それが疑わしいのだが――、隣に立つと俺とほとんど変わらなかったと思う。
ツルの身長はどうだっただろう。必死に思い出そうとはするのだが、高いとも低いとも、まるで記憶に残っていない。
おかしい。俺は一体、ツルの何を見ていたのだ?
そういえば、さっきまでは確かに憶えていたはずの、最後の笑顔の瞬間すら、薄紙を被ったように記憶が怪しくなり始めている。「見た」という生の感覚だけがただ、しこりのように残る時間だけが増え続けている。
ツル。ツルだ。
忘れたくない。頼むから忘れないでくれ。いや、忘れさせないでくれ。
……………。
とりあえず、ノートにメモっておこう。今考えていることが、明日憶えていられるか自信がない。
ツ、ル。
…………………。
もうないのか!?
いや。いくらなんでもまだあるぞ。女。似たような年齢。見ていた、ムラ…。
書けば書くほど、冗談にしか思えないことばかりだな。冗談であったならその方がいいのだが。やれやれ。
ひとしきりメモを終える。教師はこっちを向いているが、まさかノートの文字がこれほど意味不明とは思うまい。ふっふっふ。勝ったな。
違う。勝ってどうする。
再び猛烈な眠気が襲って来た。バカなことばかり言ってるから、緊張感が薄れていくのだ。気合いだ。かのアニマル浜口も言っていたではないか。うむ。
もう一度脇腹を叩く。悲しくなる。どうやら俺にはマゾっ気がないようだ。
よし。小川悦子。
…何がよし、だ。バカか俺は。
とにかく、小川悦子。今の俺の記憶によれば、先週もこの名前だった。間違いない。偽名で登校されたらお手上げだが、とりあえずそういうアホな可能性はおいておこう。
そして、昨日会ったのは、ツル。エ…ツル…コ…。無茶だろ。
「起立」
要するに、状況を確認すればするほど、俺の勘違いという結論にしかたどり着けない、ということだ。
「れいー」
しかし、やはり朝の自分が抱いていた確信を、俺は否定する気にはなれなかった。
そもそも俺自身、昨日は山際博一ではなかったのだ。はっきり憶えている、俺の名前――クツバミゴロウ――を呼んだツルが、小川悦子ではなかったのか。理解出来ないからこそ、余計に朝の直感を捨てられない。
とにかく、俺はツルに会いたい。
昨日の真意を問いただすために。そして、記憶を取り戻すために。




