歌は道連れ
時刻は四時となりました。スタジオより全国のニュースをお伝えし…ないぞ。俺はアナウンサーじゃない。
陽の当たらない教室には四人。蛍光灯ついてるから別に困らないが、とにかく四人。あえてその名前は挙げるまでもなかろう。
もちろん四人は輪になって踊っているわけではなく、バラバラに座り、脈絡のない行動にいそしんでいる。残っている理由が同じだからといって、同じ行動を取る必要がないのは、子供でも判る道理というものだ。
今の自分には、使い慣れたシャーペンだけが友達さ。ふっ。
………。
…………。
しかし、そうは言っても、だ。
同じ教室にいるというのは、それだけでも互いを意識してしまうものである。まして広い空間にたった四人しかいないなら、その中の二人がすぐ近くにいたりするなら、いつまでも無視し続けることは難しいのである。
…つまり何か。
はっきり言って俺は、この状況に飽きている。空いた時間に宿題を終わらせてしまおうという思いつきは、時間の有効活用法という意味では良い選択に違いなかったが、根本的に自分が集中力のない人間であることを計算に入れていなかった。
うー。
「ハックン」
「あー?」
しかし、ぎりぎりの所で俺は最初の脱落者とならずに済んだ。
バカなヤツだ。ふっ。
とりあえず、いかにもその言葉を待っていたかのような表情だけはしないように気をつけて、俺はゆっくりと振り返る。
「手を出せ」
「…こうか?」
「うむ、ずいずーいずっころばーし」
「するか!」
これだから勝彦は…。
お前は今高校一年だということが判っているのかと問いたい。
「ヒロピー」
「何かな」
と、次の一人も音をあげたようだ。
「あんた数学。社会やるから」
「俺が一方的に不利だ」
宿題の分担。
別にそれ自体は悪い提案ではないのだが、ちさりん大先生の提案に従うと、俺は一年中数学ばかりやらされる羽目になる。
「大丈夫」
「どこが」
「そっちは二人。二人でやれば怖くない」
根拠のない「大丈夫」を、今まで何度聞かされただろう。
「もう一人が頼りになると思うか?」
「ならない。心配ない!」
「…自分で言うなよ」
そして、ちらっと視線を向けた途端に胸を張るバカ。
今さらこんな程度では腹も立たないけどな。
どうも我々はおおむね数学が苦手で、しかも全教科低値安定という共通点を持っているような気がしてならない。出来れば気のせいであってほしいものだが。
とにかく、渋々俺は数学の教科書を開く。あらがったところで時間の無駄だし、一問でも解けりゃもうけものだ。
―――が、その動作は結局無駄に終わった。
「おー、いだが!!」
「ゲッ!」
扉が開いた瞬間、俺よりも先に千聡が悲鳴を上げた。
なんということだ。ホワットアコト!
そこにはギターを持った渡り鳥が立っていたのだ。
「暇だんなー」
「い、今忙しいって、ほら!」
「うむ、忙しいな!」
「今はみんなの知恵が必要なのよ!」
「そ、そうだ。今は危急の時なんだ!」
「………」
それは素晴らしい連係プレーだった。
にも関わらず、ショーは立ち去ろうとしない。
「あれ」
「ん?」
指差した先には、机の上にうつ伏したバカがいた。
教室の空気が凍りつく。
こ、この裏切者め! 起きろ!
「勝彦!」
「お、歌うのか?」
その上、寝ぼけたバカはとんでもない台詞を口にする。
起こすんじゃなかった…。
「違う!」
「ショ、ショーくんは通りがかって、今から通り過ぎる予定」
「そうか?」
「んでねーぞ!」
もう遅かった。ケースからギターも取り出し済みだ。このままでは聴かざるを得ない。まずい。非常にまずい。
そうだ。
最後の切り札がいるじゃないか…と後ろの黒板側を向くと、そこにはなぜか切り札が立っていた。
「小川…さん?」
「はい」
微笑む彼女。
気のせいだと思うが、その姿はショーの即席リサイタルを前提として、というかそれが当たり前であるかのように立っているように見えた。
そして、ぽかんとする俺の前で彼女は、ためらうこともなく椅子に腰掛けた。
そこは千聡の後ろの席で、向き直った先には鈍く光るギターの弦。手ぶらで微笑む彼女が、我々の――もちろん彼女自身ににとっての、でもある――宿題を手伝いに来たと考えるのはさすがに難しい。
「よし、んだば景気づげに一曲だー」
「わー」
気の抜けた勝彦の歓声に、どういうわけか彼女の拍手。
すぐにギターは鳴り始める。
最早逃れようもない俺と千聡も、肩を落としつつ覚悟を決める。
「もーすぃーもこのよにわっかれなっどおーなっく」
「………」
いったい、こんな歌で何の景気づけになるのか謎だ。
そもそも俺には曲名が判らないし、訛りがきつすぎて原型を想像するにも困難を伴うわけだが、いずれにせよ暗い。
「であぁいっだーげがうーまーれーでくっるーなぁら」
「…………」
ジャラジャラと鳴るギターに合わせて、手拍子が聞こえる。限りなく盆踊りを連想するリズム。もしかして、勝彦様はこういう歌がお気に入りなのか?
…いや、もう一人。
小川悦子なる女はフォークらしき歌を好む、と。こいつは注意が必要だ。
実はショーのファンだったりしたら、その危険度は三割増しだ。
「サンギュー!」
「わー」
ぐお。最後はどっかで見たことのある物真似付きか。
だいたいあれは演歌歌手だろう。元はそうじゃなかったらしいけど、親は「どっちでも同じ」とか言ってたぞ。やれやれ。
とりあえずやる気のない拍手だけ、義務的にこなしておく。隣でひきつった顔の千聡も、鏡に映したように同じ行動をとっている。
「あの」
「お?」
俺の頭の中では娯楽の少ない世界の住人という結論が出かかっている彼女は、心のこもった拍手とともに声をかけた。
振り向くショーの表情は恍惚としていて、ちょっと怖い。
「リクエストしていいですか?」
「なんだがの?」
「女性の歌は?」
「よいでねのー」
「…難しい?」
「ナガジマミユギだば」
ということで、二曲目。面倒なので実況はやめる。「ラーラバイ」と歌っていたが、もちろんこれも知らない。知らないけど、最初の曲よりは好きかもしれない。
どっちも暗いけど、さっきの曲は暗い上に退屈すぎる。
まぶしいぐらいのライトに照らされるわけでもなく、ショーは蛍光灯に平べったく照らされながら、相変わらず恍惚とした表情で目を閉じ、両手を動かしている。
教室という場所を考えると、それは不思議な光景だ。例えるなら、こっそり俺たちが消えても気がつかないのではなかろうか…というぐらい。
うーむ、たとえになってない。
千聡は寝ている。いくら興味がないとはいえ、最前列で居眠り出来るというのも感心することしきりである。
俺はこんな騒々しい空間で安眠するほど精神的に強くない。
………。
違うな。彼女が嬉々として聴いているという事実が妙に気になって、少なくとも眠る気にはなれない。
そういえば、清川から帰る時も嫌がってはいなかった。あの時はてっきり、初対面に近いメンバーに遠慮しているのだと思ってたけど、どうも認識を改める必要がありそうだ。
「うまいねー」
「ん、んだが」
「お、ショー照れっだな」
ほのぼのとMC…ではない、妙な会話が成立している。
彼女の褒め言葉はお世辞には聞こえないから、さすがのショーも戸惑い気味だ。そんなことではとてもプロにはなれないと思うが。
もっともショーの目指すものが、どっかの楽器メーカー主催のコンテストで賞を取って、デビューして一発当ててはみたがそのまま消えていくことなのかどうかは判らない。ましていつの間にか肩書きが陶芸家だったりするのかどうか、よほどの易者が占っても答えは出ないだろう。
…って、なんだこの悪意に満ちた未来像は。
「えーこちゃん、今の曲知ってんの?」
「…知らないけど」
「そうでしょ、古すぎでしょー?」
「でも私が頼んだから…」
千聡と彼女のやり取りは、一転して緊張が走る。この事態はやはり予想外だったのだろう…と、他人事になっていたことに気付く。
もしかしたら、俺にとって今はそれほど深刻な状況ではないのかも知れない。
「もっと最近の曲ないわけ?」
「どげだ曲だ?」
「んーーーーーーーーーー」
自分から振っておきながら、千聡はあっさり答に詰まる。
考えてみれば、ちさりん様は音楽なんてこれっぽっちも興味がなかったはずだ。それこそ「今時マイ・ペースも知らねーなんて恥だぜ」とか適当にまくし立てたら、「ウツクシミヤーコー」が流行ってると信じてしまうほどに。
無茶だ。それだけはあり得ん。
…念のため断わっておくが、脈絡はあるからな。
マイ・ペースは良の父親が好きだった。ウチの親に聞いたら「あーあの秋田の」と一言で終わったけれど、とにかく良の家で無理矢理聴かされた記憶が蘇る。
千聡も聴かされたんだろうか。
俺には退屈だった。正確に言えば、高校生の自分に理解出来る世界ではなかった。きっとそれは、千聡にしても同じことだろう。
「ショーくんの好きな歌は?」
「おいの?」
「うん」
一瞬、ショーは口籠った。
「んー、んだばさだまさし」
「暗い」
「何いてんなだ、フォーグはフォーグだ、暗えも明りぃもねなだ」
「…いや、俺が悪かった」
とりあえず、勝てないことだけははっきりしていたから、謝っておく。
それに、彼女の提案自体に不満があるわけでもない。実際、どうせリクエストなんて出ないのだから、ヤツの得意な歌を好きなように歌ってもらうのが一番無難な手である。
…だったらなんで口籠るのか判らんが。
「なんで九州の歌どご…」
「気にさねどげ」
いささか特殊な理由で不満らしい勝彦。結局リクエスト出来なかった千聡も、少しだけ不服そう。
それでも、二人とも特に反対はしなかった。
当たり前だ。別に構想十年企画一年の大イベントでもない。明日の放課後に第二弾があってもおかしくないのだ。
違うぞ。あってもらっては困る。
「んだば、線香花火」
ぱらぱらと拍手。さっきより多少は心のこもった音がする。
…正直に告白すると、そろそろショーの歌声にも慣れはじめていた。
訛りがきついのはともかく、取り立てて下手なわけでもないし、歌だって臭い歌詞だらけとはいえ、聴いててイライラするほどではない。
騙されてるような気もする…けれど、それぐらい騙されてもたいした問題ではなかろう。忍耐力は今のうちに養っておくべきである。
「ひどつーふたづみっづぅーながれぼすぃがーおぢるー」
「………」
始まった途端に千聡が振り返り、一瞬俺を睨むとまた向こうを向いた。
あえて声は発しなかったようだが、何を言いたいのかは判る。
「きーみわぁーーーせんこーはなびに」
「…………」
二度目。
出来れば俺以外も万遍なく睨んでほしいところだが、どうも俺だけが仲間と思っているようだ。
とりあえず両手を動かして、なだめる所作をしておく。
千聡は何も言わずに視線を逸らした。
「くするーゆびからあぁあぁーーするりどーおにげるぅ」
「………」
やがて千聡もおとなしくなって、観客四名は意外にも真面目に耳を澄ます格好となった。
いや、二人は最初から黙って聴いていたし、俺も別に騒ごうとは思わなかった。それどころか、ショーの歌も案外いけると思い始めていたぐらいだ。
生ギターの弦の響きが心地よい。
それにヤツはどうも、歌に没頭すると不思議なことに訛りが消えていく。だから歌詞が聞き取れないという事態も解消される。
やっぱり暗いと不満気だった千聡がおとなしくなったのも、たぶんその変化が判ったからだろう。
「ぽとりとぉおーおちてちる」
演奏が止むと、拍手。
フォークだし、掛け声も妙な気がするから普通に拍手。
不思議だ。なんで俺はこんなに素直なんだろう。
「ショーくん」
「なんだがの?」
会場が一つになって盛り上がってるような、ほとんどあり得ない高揚感の中で、彼女はまた声をかける。
絶妙のタイミング。いや、それ以前に彼女のこの自然さはどうだ。
「ギターはいつからやってるの?」
「小学校さ行ってだごろがらだの」
「えらい早いな」
「うぢさあたなだ」
「ギターが?」
「んだ」
そういや、うちにもあったな。
真面目に弾いてみようなんて、考えたこともなかったけども。
「どうやって…、古い曲覚えるの?」
「ど、どげしてっで」
「覚える機会がないってことでしょ?、えーこちゃん」
「あ、そ、そう」
「んー、覚えであんば覚べらいっぞ」
そのまま、ショーは得意気に「方法」を説明する。ラジオを聴き、ケーブルテレビを見るってだけの話だが。
ケーブルはともかく、そういう曲がよく流れるラジオ番組は、覚えて帰ればさっそく実践可能であろう。メモもなしに放送時間から今週流れた曲まで列挙するヤツの、研究熱心さには感心する。
だからといって、別に自分でやろうとは思わない。
俺は別に、歌を聴かないと生きていけないような体ではないのだ。しゃべってるうちに高揚感も薄れて来て、今の気分はもう、生演奏三曲でもうお腹いっぱいというところだ。
「よし、最後だ!」
「最後?」
「汽車の時間あっさげの」
「ああ…」
慣れたとはいえほっとする。今後の対策として、列車の時刻表をメモっておくのも有効であろう。うむ。
「そうですか…」
彼女は本気で残念がっているように見える。
このままショーの追っかけにでもなったらどうしよう…と、別に俺が心配する道理はないな。
そうか?
同じクラスメイトとして、人の道を外れて欲しくはないぞ。
………。
人の道ってなんだよ。演歌じゃねーか。俺は演歌が嫌いだ。
「ねー!、今度こそ明るい歌!」
「知らねさげ」
千聡もしつこいが、支持者を得たショーは最早無敵だ。
「よし、俺が歌ってやろう!」
そこに勝彦が声を上げる。
さっきから気になっていたが、実はこいつも歌いたくてしょうがないのではなかろうか。恐ろしい話だ。
「歌うな! どうせナショナルでしょ!」
「なぜ判ったっ!」
「もう三回聴いたって!」
「むむ」
しかしあっさり敗退。人として成長していないことを指摘された勝彦は、ちょっとへこんだようだった。
個人的な感想を述べさせていただけるなら、ナショナルは確かにさんざん聞かされたけども、イタコに比べれば遙かにダメージが浅い。そんな程度で落ち込むなら昼休みに落ち込んでもらいたかった。
「やがまし、歌うぞ!」
「はいはい、もう好きにして」
千聡のあきらめ声と、彼女の拍手でギターが鳴る。
どうやら今度もさだまさしらしい。
「あんたも好きねぇ」
前奏の間も、まだ千聡はぶつぶつ言っている。というか、ぶつぶつ怒鳴っている。ギターでかき消されないように。まったく、執念深いことだ。
この調子で数学の宿題もやってくれれば…。
と。
「…やかましい…」
目の前で騒ぐ千聡の声が急に不快になって、思わず声が漏れた。
それは小さな声だったろう。
千聡は気付いていない。相変わらず不平そうにあれこれつぶやいている。
やめてくれ…。
「いくつがのぉーみずたまりをのごしてぇ」
ショーが歌い始める。
こちらを向こうともしないに千聡に苛立って、俺は斜めを見ようとしていた。
視界に彼女の姿が映る頃、俺ははっきりと異変に気付いていた。
自分で意識するよりも、体の動きが遅れている。
………………。
そうではない。
意識そのものが、ゆらゆらと揺れているようだ。なんなんだ、この浮遊感は?
「きみのげだのぉーはなおがきれぇーたー」
そして揺れていた意識が落下し始める。
身じろぎもせず、見つめる俺に何の反応もしない彼女が、残像を結びはじめる。
最早危機的状況にあることは間違いなかった。
「や…」
いけない。時間が…ない。
「や、やめろーー!!」
「あ?」
それはたぶん、最後のタイミングだったろう。
ショーが歌をやめる。千聡の声が止まる。そしてその瞬間、墜ちる一方だった意識も動きを緩める。
ゆらゆらと、世界の色は元に戻っていく。
やがて目の前には、演奏を止めて困惑顔のショーと、いつの間にかこちらを振り向いて眉間にしわを寄せる千聡が、ぼんやり見え始めた。
「ヒロピー?」
「…………お」
声が出ない。
いや、声を出す理由なんてないはずだろう?
まだ俺の頭は混乱していた。
出さなくては。
「何?」
「お、がわ、小川!」
「え?」
千聡が驚いて視線を移す。
なぜ彼女の名前を口にしたのか、次第にはっきりする頭が、逆に意識を混迷に引きずり込む。
もがくように、体のあちこちを動かしてみる。
なかなか動かない。
それはまるで、夢の中で悪者に追いかけられた時、走っているはずなのに前に進まないように。
「え、えーこちゃん?」
「………」
「ち、千聡!」
「は、はい!」
「引っぱたけ!」
「え、えっ…?」
ようやくのことで彼女の側に体を傾けつつ、俺は怒鳴っていた。
すぐに、乾いた音がする。
その音が俺の揺れる意識を収束させていく。
「ご、ごめん」
「………」
「ひ、ヒロピーに脅されたのよ、ごめん!」
「………」
千聡が二度目に謝った頃には、俺の意識は動きを止めて、いつもの自分に戻っていた。
当たり前のように彼女の側を向くと、そこだけはまだ幻影の中。
「えーこ…ちゃん?」
「小川!」
すぐ側には、今にも俺に飛びかかりそうな表情の勝彦が見える。俺のとらせた行動に対するものだろう、とすぐに気付くほどに、いつも通りに自分の頭は働いている。
とにかく、そんな冴え始めた頭であれ、冷静とは言い難い勝彦の頭であれ、視線の先で何が起きているかを理解するまでは一瞬だ。
今にも倒れ伏しそうな、うつろな瞳。彼女の意識は完全に飛んでいた。
「えーこちゃん!」
「………」
「どうしよどうしよ、えーこちゃ」
「大丈夫だ」
興奮気味に彼女の体を揺さぶる千聡の手を、ぐっと押さえる。
彼女はまだ正気に戻らない。
「ヒロピー!」
「すぐに戻る」
「なんでよ!」
「それは…」
千聡に詰め寄られて、理由といえるものがないことに気付く。
なぜだろう。しかし俺には確信があった。
「…あ」
「えーこちゃん!」
「え、あの…」
その時、彼女が声をあげる。
すかさず千聡に抱きつかれて、なんだか困惑しているように見えた。
「だ、大丈夫か?」
今度は勝彦が声をかける。
「あ、はい」
「そうか良かった」
少し気押されするような、彼女の返事。
普段のキャラに似合わず、ヤツはそれほど真剣に心配していたのだ。
「…えーと」
「………」
しかし彼女は恐る恐るといった表情で俺を見つめる。
何やら言葉を濁しながら。
「寝てたか?」
その瞬間、俺には彼女の表情が読めた気がした。
「…たぶん」
「えー!?」
千聡が大声をあげる。
勝彦もショーも、にわかには信じ難いという顔。そりゃそうだ。
「ちょっと疲れてたから…」
「でも、平手打ち」
「机に頭ぶつけても起きない人だっているだろ」
「だ、誰のことよ!」
真っ赤な顔をして抗議するあたり、誰の話か判っているのだろう。ともかく、俺様のあまりに的確なたとえもあって、彼女への追求は中途に終わった。
今の彼女に何事もないことは誰の目にも明らかだったから、どっちにしても終息する話題だったと思うけど。
「ごめんなさい、ショーくん」
「ん、まーよがんす」
せっかくの歌を打ち切られてしまったショーは、さすがに不満というか、物足りなさそうな表情でうなづく。
それでもしょうがないという顔だったのは、思わぬ裏切りにあったとはいえ、彼女が自分のファンであるとの認識からであろう。
「俺も一瞬クラクラしたからな」
「あんたこそ寝てたんでしょ」
未だ不平顔の千聡は、それでもようやく落ちついた様子。
正直言って、眩暈がした理由の一つは、ちさりん様の罵詈雑言であったに違いないと思う。とはいえ、何も悪気はないだろうし、指摘すれば余計にこじれるのがオチだ。
「お、時間だ」
「悪かったな」
ギターを片付けるショーに、一応それなりに礼儀を尽くす。
が。
「うむ、悪りぞ」
「なんで俺だけ…」
ジロリと睨まれた。
なんだか嫌な予感がする。
「歌い足りねなー」
「実に残念だ」
「ショーくん」
「ん?」
割り込んできた彼女の声には、実にやさしく返すショー。
まぁ別にいいけどさ。
「祐子さんがこれから学校に来るらしいんだけど」
「ほぉ、何しさだ?」
「それはよく判らないけど…」
微笑む彼女。
しかし、祐子さんの話を出してどうするつもりだ?
「今度、祐子さんにも聴いてもらったら」
「えっ!?」
「おお、んだのー」
「都合聞いておくから」
あまりに意外な展開に唖然とする。
目の前には、まさに目を丸くして彼女を見つめる千聡。うむ、当然だ。
その向こうには満面の笑みをたたえるフォーク少年。残念だがこれも当然だ。
「毎週やるかー!」
「やんねまねがのー」
勝彦も加わって、すっかり既成事実となってしまった教室ライブは、俺や千聡も毎回参加が義務づけられるのだろうか。
少々…ではない、相当に気が重いぞ。嫌だとは言わない。言わないが、やはりフォークは疲れる。
「そろそろ時間か?」
「もう五時なの?」
「お、んだば帰っさげ」
そう、疲れる。
なぜなのだろう。テレビで変な格好の人たちが歌っていても、掃除の音楽にベートーベンが流れても、何も感じはしないのに。
聞き取れてしまうから、歌詞についてあれこれ考えてしまうからだろうか。
それはある。納得していいのか悪いのか、どうしても構えてしまう部分は確かにある。
「またね」
「まんず、んだばの」
とにかく五時になる。良は迎えに来るわけもない――祐子さんが来ているなら、とてもその場を離れることは出来まい――し、さっさと部室へ向かうが吉だ。
四人はそれぞれ、机の上を片づける。
もっとも、片づけるのは俺と千聡だけ。彼女は荷物をまとめて聴いていたのだし、勝彦も同じだ。ショーの独演会に対する意気込みの差があらわれた形である。うむ。
俺が悪いのか?
ともかく、カバンに教科書を適当に突っ込んで、席を立つ。
「行くか」
「うー、待ちなさいよ」
「タラタラするな、嫌われるぞ」
「関係ないでしょ!」
千聡は慌てながらもきっちり睨みつける。それでも脚が出ないだけ焦ってはいるようだ。
俺はプレッシャーをかけるように、立ち上がってゆっくりと入り口付近まで移動した。
「出来た!」
叫びながらガタガタと机に椅子をぶつける音。
仰々しく入り口の扉を開けると、前方の窓からは薄暗い陽射しが差し込んでいた。
「行きましょうか」
「おう」
すっと彼女が扉を抜ける。
先を越された俺は、少し慌てて一歩を踏み出した。
「山際くん」
…いや、追い付く必要などなかったのだ。
彼女には彼女の、俺には俺のペースがある。それだけだ。
「何か…」
「さっき、小川って呼んだよね」
「え、…ああ」
後一歩で追いつける距離で、思わず踏みとどまってしまう。
そしてすぐに、思い直して斜め後ろを歩く。
「呼び捨て、悪かった」
「それは別に…」
表情を窺えるわけでもない位置。それでも、何かしらの不満を読み取ることは出来た。
…………あれ?
なんで彼女がそれを。
「なんとかならないのー!?」
「困ることなんてねーだろー」
後ろの声が、生じかけた疑念をうやむやにする。
相変わらず騒がしい。ショーがいつ歌おうが、正直もうどうでもいいような気になっているから、千聡のしつこさが奇妙に思えてくる。
奇妙…なのか?
俺がただ中途半端なだけじゃないのか?
「ヒロピー、なんか考えろ」
「簡単だ」
追い付かれてしまい、すぐ側で響く声から逃げ出そうとする自分。
「姉貴が来なきゃいいと思ってんだろ、ヒロピー!」
「そうだ」
「甘いぞ」
「なにが」
彼女は一歩先を進む。
いつの間にか俺は両隣にやかましい二人を引き連れている。
「姉貴は絶対来るぞ」
「………」
「いつまでもごまかせると思うなよ!」
「なんで貴様が脅す」
「かっこいいからだ」
振り払おうと、少しずつ早足になる。
それでも右隣には、顎に手を当ててポーズをとるバカがいる。
違う。今はそんな先のことなんてどうでもいい。
確かに祐子さんはヘビのように執念深いから、何度も教室に現われるかもしれない。
ショーはいつも歌っていなければ、干からびて死んでしまうかも知れない。そんな男を救ってやるのは友のつとめというヤツかも知れない。
そんなことは判っている。
浪花節だよ人生は、は演歌だ。
そんなことは判っている。
「小川さん」
「………」
やっとのことで第二グループから離脱を果たし、無言の彼女を一歩抜こうとする。
しかしそこはもう階段で、勢いをそがれ俺はバランスを崩しかけながら、それでも歩みをとめず、それでも質問をやめなかった。
「フォークソングが好きなのか?」
「違う」
硬い表情のまま、彼女は短く返事をする。
互いに足元に視線を移しながら、俺はまだ彼女を抜こうともがいている。
「ねぇ…」
もう俺の五体は俺のもの。
視線を落としたまま、踊り場の衝撃に俺は備えた、その時だった。
「山際くんのせい…だよ」
「え………?」
思わず足が止まる。
彼女は再び俺を追い越し、体を傾け踊り場を過ぎる。
背後の二人の気配を感じた俺が足を動かそうとした瞬間、彼女は踊り場よりも一段低い位置に動いていた。
踊り場の窓は淡く光り、チカチカ揺れる蛍光灯と交叉する。
足元の床に付けられた無数の傷を踏みしめることが、今だけはいけないことのように思える時間も、この先に広がっているだろう。
踏み出そう。今なら独りでもない。




