朝の散歩
目が覚める。
…月曜日。ゆっくりと瞼を開き部屋を見渡すと、柱にかかった日めくりが目にとまる。
随分長いこと放置していたようだ。まだそこだけは祖先の霊に手を合わせてそうな、三月二十日のまま。
まだ体は重い。閉め切った障子越しにも、朝日は確実に部屋を照らしているけれど。
起き上がるか…。
手応えのない布団に手をかけて起き上がると、とりあえず目に止まっていた日めくりを壁から外してみる。
二ヶ月ほどのほこりを払い、面倒くさいからまとめて破ろうとしたが、途中で捻れてしまい、真ん中辺りが切れずに残ってしまった。
「………」
こうなるともう、手作業で取り払うか、それともカッターでも使うしかない。最初からミシン目が付いていればこんなことにはならなかったのに、まったく不便なものである。
いや、それ以前に、今時日めくりなんて流行らない。ありがたい格言なんてどうせ読みもしないし、今日が仏滅だろうが友引だろうが、高校に出かけるのに必要な知識ではない。最初から黙って月めくりにでもすべきだったのだ。
思えば正月だ。一枚で一年分載ってるカレンダー――銀行だったかな?――を見たがデザインが気に食わず、こんなものを一年拝み続けるのは嫌だと口にしたら代わりに押しつけられたのだ。要するに最初から我が家の厄介者で、今も俺に仇を成しているわけである。
………………。
うーむ。
俺はなぜカレンダーについて熱く語っているのだろう。
遅刻…しそうだよな、もう。慌てて着替え、歯を磨く。
そして本日もいつもの靴を装着し――これぐらいしか履けるものがないのは秘密だ――、爽やかな朝の日課をこなす。
いつものように小学生はもういない。授業が始まる時間は変わらないのに、なぜ彼らは早々と登校してしまうのか、今にして思えば謎である。
変な旗を持たされて、一列に並んだ過去。小学校なんて目と鼻の先にあったから、ばらばらに通ったところで何の不都合もないのに、他もやってるからやらされる。そんな滑稽な日々に、昔の自分は疑いを持っていなかった。それどころか旗を持つことに誇りすら感じていた。
小学生とはおかしな人種なのだ。うむ。どうでもいいぞ。
………。
どうでもいいことを考えている時は調子がいい。足どり軽く~って、なんの歌だ?
角を折れる。この道はやや車が多い。
そう言えば死んだじいさんは、排気ガスをたっぷりと吸うのが健康法だと言っていた。
もちろん、小学生だった自分ですら、さすがにそれはヤバいと思っていた。だいたい、年に何度かは排ガス自殺がテレビに映っている。それを見ただけで、排ガスなんて吸ったら危険だと知るには十分だった。
…だけどじいさんの頭の中では、テレビの向こうに世界なんてなかった。
じいさんにとって世界は自分の目に見える範囲にあった。総理大臣が死んだとか、どこかで銀行強盗があったとか、飯時に語られる話題になどまるで興味がなく、代わりに家の前のドブをさらった泥の捨て場ばかり気にしていた。隣の家のカラタチが虫だらけになっているのに、何も手を打たないのは怪しからんという話もあった。
だからきっと、俺たちか自分自身が排ガス自殺でもしない限り、じいさんにとっての真実は変わることはない。あの頃はそこまで考える頭もなかったから、ただ歳とって変になったんじゃないかと思ってたけれど。
そうして、自殺志願者も周りにいなかったじいさんは、排ガス健康法とともにあの世へ旅立って行った。もう五年も前のことだ。
まぁそれはともかく、不肖の孫たる俺はなるべく排ガスを避けながら、アスファルトの反射する道を走る。
足の裏を痛めつける地面。
それでも今日は調子がいい。軽快な走りで、終わってみればチャイムにまだ三分もある。ラッキー。
…って、三分しかないのかよ。
「やーちさりん、肩にフケがついてるようでは殿方に嫌われるぜ」
「ついてないでしょ!」
口と同時に伸びる足。
あー今日もこの町は平和だ。
「いわゆるひとつのモーニングジョークってヤツだろ」
「全然面白くない!!」
うーむ。そうだろうか。
いいじゃないか。一応もう一人確保してるんだし、これ以上殿方に好かれる必要もなかろう。
だいたい、フケなんて出るヤツは出るものだ。中学の時、同じクラスには新聞紙にフケ集めて見せびらかしてた男すらいたぞ。
…………。
俺じゃないぞ。そんな身を削ったギャグに生きるつもりはないからな。
………。
ついでに、千聡の肩はきれいであることも断っておこう。とりあえず彼女の名誉のために。
なら最初から言うなって?
軽妙なジョークは、円滑なコミュニケーションに必要不可欠なのだよ、ベイベー。
もっとも、今日も彼女はせっせと宿題やってるから、余りコミュニケーションは必要ないようだが。
「ヒロピー、ノート」
「購買部で買え」
相手の目も見ずに横柄な態度で左手を伸ばす少女に、俺も横柄に返してみる。
「あんた、困ってる友だちを見て何とも思わないの!」
「思う」
「どう!?」
「昨日一日何してたんだ」
「くっ…」
ふくれっ面の上に恨みがましい目で俺を睨んだ千聡だが、さすがに口撃は止めたようだ。勝ったな。
ま、偉そうなことを言う俺も実は終わってなかったりするのだが、それはそれ、また別の話である。
だいたい数学は午後なのだ。まだ時間はいくらでもある………んじゃないかな。
「どれ、挨拶回りでも」
「逃げるな!」
声は上げるが脚が出てこない。それだけ余裕がないということであろう…と、何となくちさりん様の現状を分析してみるが、特に必要もないのでそれ以上考えるのはやめておく。
千聡にとって、数学は鬼門である。
…いや、数学というより、数学の教師とウマが合わないというべきだろう。過去にウマがあった教師がいたかどうかは定かでないが、中学時代はここまでではなかった。
………そうか?
クラスが違ったし、実は似たようなことだったかも知れない。
一応弁護しておくが、別に教師は千聡にだけ厳しいわけでもないし、恐らく嫌ってもいない。何しろ、ちさりんお得意のファンタジーな回答に黙って付き合うぐらいである。俺が教師だったらきっと耐えられないはずだ。結論として、千聡はもっと感謝すべきである。
うむ。
無くなって、初めて気付く大切な先生。ちょっと字余り。しかもつまらん。
「おっはよう!」
「え…」
勝彦はまだいないし、千聡の側を抜けて挨拶に回る先など一つしかなかった。
当然、良くんオッハー…などとは死んでも言わない。それどころか今時オッハーなんて極寒のギャグはかませるものではなかろう。
…目の前に相手がいるのに、何を言ってるんだ俺は。
「山際博一と申します」
「あ、あの、…知ってます」
滑らかなコミュニケーション。
どうだ、もう俺は大丈夫だぜ…って、何が?
「………」
そして見つめ合う二人。
気のせいか、熱い視線とは言い難い雰囲気もあるけど。
「…おはよう」
「うむ、よろしい」
根負けした彼女が伏し目がちに笑う。
また勝ったぜ。
朝からニコニコ、これこそ友達づきあいの基本というものだ。
「あのー」
「ん?」
しかし彼女はすぐに不安気な顔に戻ってしまう。それも、襲撃相手の俺を見るでもなく、きょろきょろ落ち着かない様子だ。
思わず釣られるように俺もきょろきょろしてみると、教室のあちこちがこちらを眺めていた。要するに、注目の的ってヤツだった。
なぜだ?
俺は朝の挨拶をしただけだぞ。
確かに俺をよく知る人間にとって、千聡以外の女子に挨拶するというのはとんでもない事件かも知れないが、この教室にはそんなにヒロカズマニアが溢れているのか――と、そこで気付いてもう一度彼女の顔を見る。
言うまでもなく、彼女は土曜とほぼ同じである。
「なるほど」
「…判った?」
「おそらく」
口にしながら頭を掻く。そういうことだ。
ここに座っているのは、土曜の朝に突然いわゆるイメチェンを果たしたニュー小川悦子。考えてみれば、教室では今日が初お目見えである。
一気に謎は解けた。
というよりも、一昨日初めて見たはずの彼女を、既に何事もなく受け入れている自分が少し不思議だった。
「今日一日、注目の人か」
「………」
俺は再び、滑らかな口調で彼女をからかう。
そんな言葉に彼女は、ちょっとだけ拗ねたようにこちらを見つめる。それは何もかも自然な姿だった。
「かちゅーしゃがないな」
「…いろいろ実験中です」
「実験…」
同時に、まだそんな光景を不自然に感じる自分もここにいたけれど。
「おかしい?」
「え、い、いや…、似合ってる」
「そう…」
そしてとっさに発してしまった、あまりに恥ずかしい言葉。あっという間に滑らかな会話は消え失せ、油汗とともに俺はこの世界に浮遊する。
そして、うつむく彼女の姿がさらに俺を追い詰めていく。
…いったいどうしろと言うのだ。
危うい沈黙をチャイムが救う。しかも、ほぼ同時に登場した勝彦のバカが、いつも通りマヌケな面をさらしていたから、俺は一言「じゃあ」と声を掛けて席に戻った。
「早いな、勝ピー」
「先週火曜のオメーよりな」
動揺を抑えるように精一杯のイヤミを放つ俺を、勝彦はじろじろ見ていた。背中に視線を感じる。遅刻――教師より先だからいいのだが――してきたくせに不審な態度が正直気にかかったが、すぐに教師が入って一時間目が始まってしまったし、いちいち問い詰める暇はなかった。
…いや、正直言って問い詰めるどころか、勝彦のことをあれこれ分析する余裕なんてなかったのだ。
さっきの一瞬が、まだ頭の中を巡っている。
別に俺は何をしたわけでもないし、彼女も同じこと。思い出そうとしても、何気なく過ぎていく一瞬でしかなくなっているのに、得体の知れない不安に包まれている。
おかしい。
そんな感覚を、どこかで体験したことがあったのではないか。
………。
教科書を開く。もう視線は感じなくなった。
当たり前だがな。やれやれ、今日は細胞か。パラパラとノートをめくってみるが、資料集を取り出すと、ノートに被せてしまう。
…生物の授業は嫌いじゃない。
理由は、俺も生き物だから…というのは単純過ぎるだろうか。
だけど、そんなことを感じる時間が、一日の中で他にあるわけでもない。人間の祖先がこんなちっぽけなものだったと資料集を読みふける俺は、確実に自分の体がバラバラになっていく感覚を掴んでいる。
細胞の中には核があって、ミトコンドリアがあって、少し遠ざかれば隣の細胞が見える。分解されたイメージからウイルスやウィロイドまで遡って、だけどプリオンだけは理解出来ない。
いや――――――――。
DNAなんてものがあっただけで、ここに俺がいるなんて思えるほど、まだ狂ってはいないはずだ。そうだろ?
スリルのない授業は淡々と過ぎていく。そんな緊張感のなさが、俺を却って深みへ誘う。
もちろん、そんな深みは次の瞬間に忘れ去られるかけらでしかないはずだ。
…もしもそうでないならば、俺はもうここに座ってはいないから。




