三つのかけら
ドタバタの中で、気がつけばなぜか俺たちは、行きと同じ並びで座っていた。
それはまぁ、ドタバタだったからこそ、席順を考える余裕がなかったという方が正確かも知れない。が、とにかく今度は川の見えない席に、再び彼女と二人向かい合う。
まだここは清川駅。動き出さない窓の外をぼんやり見つめている、彼女の表情はまだ少し暗いように思えた。
やがて対向の到着を待って、一両だけの列車はうなりを上げる。
ちっぽけな車輌に不似合いな轟音とともに列車が動き出し、正の余韻を消し去って行くと――恐ろしいことに、ヤツはホームで歌い続けていた!――、改めて考えてしまう。
…彼女にとって、今日の一日は意味があっただろうか。
騒々しい車輪の音すら、音でなくなってしまうような眠気に襲われながら、俺は窓枠に肘を置く。
それは図らずも、彼女を鏡に映したように同じポーズだったが、今さらそんな事実を口にする気にもなれず、目を閉じる。
………。
沓喰五郎は、少なくとも伝説としてあった。
ここまで来ると、もはや偶然の一致なんて考えにくい。自分には全く記憶などないが、どこかで俺はこの伝説に触れる機会があったのだ、と思う他はない。
その辺は、正直俺の頭では理解出来ない話だ。これ以上考えても無駄だろう。が、とにかく理解出来ないにしろ沓喰五郎は存在して、そして今日はツルがいなかった。
そう、今日は。
祐子さんのいうとおり、単に下駄屋のおばあさんが話さなかっただけと考えるのが、自然な考え方だ。だからまだ探しようはあるだろう。
何せ、相手の素性が割れたのだ。沓喰五郎を探せば、どこかでひょっこり顔を出すんじゃなかろうか、と期待するにはさすがに浮かれすぎか。
それこそ…、沓喰の英雄五郎と恋仲になった地元の娘って想像も出来なくはない。あの時のツルを考えたなら…だが。
ただ、本当に探せば見つかる名前なのか。あくまで確信の持てる話ではない。
事実としては、今日は何も判らなかった、というだけだ。
通り過ぎる木々の姿をぼんやり見つめながら、俺はこのあやふやさに苛立っていた。
「山際くん」
「は、はい」
突然車内に揺り戻された俺は、油汗をかく。
そもそも、別に他意がないのは判っていても、名字で呼ばれると緊張する。
「山際くんは…」
「………」
いつの間にか彼女は窓枠から離れ、まっすぐ俺に向いて座っていた。
もっとも、随分長い時間俺はぼーっとしていたような気がするから、いつの間にかという表現はおかしいかも知れない。
「なぐさめあって別れたい?」
「は?」
一瞬、ぽかんとする。
2、3秒して、さっき正が歌った歌詞だと気付いた。
しかし、気づきはしたが…。
「…うーん」
リズミカルに前髪を揺らしながら、彼女は穏やかな表情で俺を見つめている。
だから決してそれは、鬼気迫るなんてものでもないが、ふざけているわけでもない。
この状況で彼女をごまかすほどの芸当を、残念だが俺は持ち合わせていなかった。
「申し訳ないが、まず断わっておくと」
「…え?」
なんの意味もないけれど、まずは姿勢を正す。
すると釣られるように、彼女も両手を膝に置いて、背筋を伸ばしたようだった。
…正直、ここで彼女にまであらたまられると、俺は却って困ってしまう。かといって今さらあぐらもかけまい。困った。
「んー」
「………」
「経験がないのでよく判らない」
勿体ぶったわりに情けない返答だった…が、口にしないわけにもいかない。
本当にそうなのだから。
「はぁ」
「…けどまぁ」
彼女の溜め息を遮るように、思わず早口になる。
その瞬間、ブレーキの音が響きだす。余計に聞き取りにくい状況で、とりあえず彼女の瞳に目を合わせた。
「ちょっと綺麗すぎて、自分に出来るか自信はない」
「…そう、ですか」
しかし頑張ってもこの程度。打ち止めを告げるために、また彼女の顔を見る。
彼女はいつもより少し瞳を開いて、俺のそんな動作を見つめているように思えた。
「あの…」
「………」
「私も、経験はない…けど」
そこで彼女はちょっと笑った。
俺もここは笑おうと思った。
「そんな別れなんて出来ないと思う」
それは既にホームに入っている列車の、向かいのボックス席には届かない程度の声で、彼女が口にした言葉。
もちろん俺にははっきり聞こえたけれど、だけどどう応えていいのか判らなかった。
「…ふぅん」
「別れるから傷つくんだよね?」
「………」
「…あ、ごめん」
彼女は一人で謝って、うつむいた。
あの歌がよほど気に食わなかったんだろうか。俺なんて、ただ聞き流していただけだったのに。
所在のない視線をふと窓に向けると、動き出した列車は山地を抜け、行く先は見渡すばかりの田んぼに変わりつつあった。
その景色の変化はきっと余りに劇的で、驚きのあまり声も出ないほどの経験だったかも知れない。なのに俺は、何事もないかのように畦道の線を追い続ける。
俺はこの下流の人間だから。
「そうか」
「え?」
「別れないように出会えばいいわけか」
「は…」
突然思いついたグッドアイディアを口にした俺だったが、彼女の反応は予想外のものだった。
「…山際くん」
「はぁ」
「なんの話?」
「へ?」
小首を傾げる彼女を見て、思わず真似するように俺も首を傾げてしまう。
いや、確かにグッドアイディアと呼ぶには馬鹿馬鹿しいとは思うのだが。
「だから、なぐさめあって別れたいかって…」
「…正くんの歌?」
「え…、ああ」
生返事をしながら、この話題はすぐにでも収束させねばならないことに気付く。
幸い、向こうの会話が気まずい雰囲気を消し去ってくれたわけだが。
「ちさりんはさー」
「はい…」
「良くんのどこがいいの?」
「えっ!? いや、えーと」
また始まったか。千聡もさすがにもうないだろうと安心していたに違いない。
だいたい、祐子さんは情け容赦のない質問ばかりだな。少なくともこの場においては、彼女なんてものがいない自分に感謝したくなる。
「やっぱ顔?」
「え、あ」
「もしかして良くんから?」
「………………私からです」
真っ赤になる千聡も不憫だが、向かいの良も黙ったまま。
お前、一応彼氏なんだから助けろよ、と野次馬は語る。
「やめろよ姉貴!」
結局、なぜか勝彦が正義の叫びを上げる。
もっとも、ここでそれが出来そうなのはヤツぐらいだ。そもそも俺にとっては、別に千聡が洗いざらいしゃべったって困ることはないのだし。
「なんでよー」
「近所のおばはんじゃあるまいし」
「誰がババァだってー!?」
誰もそこまでは言ってないと思うが…。
まぁいいだろ、おかげで千聡への自白強要はうやむやになったからな。
「………」
ふと、彼女と目が合う。
今の話はどうやら、彼女にとっても少なからぬ関心があったようだ、と推定してもあながち間違いではなさそうな雰囲気である。
彼女が千聡と知り合ったのは、別に月曜というわけではないから、これまでも話す機会はあっただろう。とはいえ、こんなディープな話題で盛り上がっていたとは思えない。興味があって当然かも知れない。
そもそもこの話題は学校では出来ないからな。
普段の千聡の、語尾を濁したようなよく判らない話を総合する限りでは、校内には未だに良を奪おうと狙う女がうじゃうじゃしているらしい。単なる被害妄想にしか思えない話も多々あるのだが、それゆえにライバルを刺激したくない、と。
おかしな話だろう?
千聡にライバルなんているわけがないのに。
とにかく、田んぼの中の駅を過ぎて、列車は快走中。
相変わらず神経質な視線の千聡。向かいの良も落ち着かない様子だが、当の清川姉弟はすっかり眠りに落ちている。マイペースなところは実によく似ている。
祐子さんはラブラブな二人をからかうのが趣味なのだろうか。それとも、あまりラブラブに見えない二人を無理矢理にでもラブラブにしたいのか。どっちにしても大きなお世話には違いないが。
まぁ、俺がこんなことぐだぐだ考えるのも大きなお世話だ。
そもそも、しつこいが俺なんて所詮は経験のない男だからな。
うーむ。
………。
つきあってないと、会話に入れもしないのか。
いや、別に入りたいわけじゃないぞ。
………。
ちょうど一年になるのか。
「ここ、いい?」
「あ、いらっしゃい」
千聡と良は目配せして、揃ってこっちの席に移って来た。
祐子さんを起こさないよう、らしからぬ小声の千聡が、彼女の隣に遠慮がちに座る。
そんな様子をぼーっと眺めていると、何やら気配を感じた。
「………」
「黙るなアホ」
どうやら俺が投げ出した左手が邪魔だったらしい。それぐらい口にしたって起きないだろ。
…というか、今さら起きてまで続ける話題とは思えないけどな。どうも総合的に判断すると、祐子さんは相当にいい加減な人という結論に達せざるをえないし。
「お疲れさま」
「疲れた~」
彼女のちょっと皮肉めいた一言に、素直な感想を漏らす千聡。
それっきり、四人は特にしゃべりもせず、ただ車輌の揺れに身を任せた。
…………。
一年前か。
正直あの頃は、なんで千聡なんかと…という思いもあったし、素直に羨ましいという気持ちもあったような気がする。
中三の春。
いつも教室の半分は男子で、半分は女子。だから女子は周りに幾らでもいたけれど、興味が湧いたことなんてなかった。自分の生活は教室の半分だけでまわっている。女子は確かに教室にいたかも知れないが、俺とは違う世界に生きてる人種でしかなかった。
だから決して、自分がどうこうすることはないだろうと、その時も思っていた。少なくともそういう態度で、俺は千聡を見ていたはずだ。
「……………」
「溜め息つかないでよ」
「なぜだ、俺の自由だろ」
ワガママ極まりないツッコミを、全身全霊をかけて非難する。
こういうどうでもいいやり取りほど、気合が入ってしまう自分もどうかと思うが、あまり言いたくはないけど、千聡が一番生き生きしているのもこういう時だと思う。
たぶんそれに、祐子さんと彼女以外の誰もがもう気付いている。
…いや、その二人だってじきに気付くだろう。
「なんか滅入るしさぁ」
「言い掛かりだ」
昔話をしよう。
千聡と良と俺は同じ中学校。そして俺と良はそのうち二年間は同じクラスでもあった。
ちょうど中学入学時に引っ越しだった良は、転校生と呼ぶのもおかしいけれど、入学式で初めて見た顔だ。正直、目立つ面ではあったがどちらかといえば気に食わないという第一印象だった。
奴に最初に名付けられたあだ名は「カッコマン」。ちなみに、たぶん俺しか呼んでないし、奴に面と向かってそう呼んだこともないから、あだ名と言っていいのかは微妙である。が、よく言えば見た目に気を配る、悪く言えば体裁にこだわる奴の特徴を、要するに俺は気に食わなかったということだ。
俺は何しろ自称自然を愛する男――何となく自然の意味が違うような気もする――だから、格好をつけるなんて論外だ。なるべく自然のままでいられるように、俺はわざわざ髪をとかさないぐらいである。若干嘘が混じってるけど、とにかくだから奴とは親しくなれそうもないと思っていた。
それがまぁ、たまたま図書室で会ってしまったり、理科の実験か何かで一緒になった時に話してみたりすると、見た目ほどキザったらしいわけでもないことは判った。ついでに、歴史好きなところでも気が合ったわけだ。
そこから二人の友情物語は幕を開けたのであった―――。
「なんか考えてる?」
「気のせいだろ」
見事なタイミングで突っ込まれるのは、やはり顔に出るからだな。ヤバいヤバい。
とりあえず、せめて声に出さないよう気をつけるぞ。
それに、ちさりんだけならともかく、目の前の彼女も意外と地獄耳だ。目を閉じてるし、寝ているように見えなくもないが、油断大敵。
「バカ」
「………」
頭の上で人差し指を立てて、いわゆる一つの赤鬼ポーズを作って反応を確かめたが、千聡以外は目を閉じたまま、表情にも変化なし。寝ているようである。
残り一名もさっさと眠りやがれ。
………。
しかし、テリーマンな世界じゃあるまいし、友情物語は我ながらヤバい。とにかく良とは気が合ったから、その後はちょくちょくヤツの提案で実地調査やら図書館やらにも付き合ったわけだ。
どちらかといえば共通する興味の話しかしなかったから、友情物語と呼ぶにはドライな関係だったと思うが。
…あの日までは。
言うまでもない。千聡に襲われたその日から、二人の仲は変わってしまったのだぁだぁだぁ。
「…また変なこと考えてる?」
「いんや」
一人エコーは我ながら気色悪い。
ともかく、中学三年になった五月はじめ頃のことだ。千聡が俺たちの前に姿を見せ始めたのは。
はっきり言って、当時すでに千聡は我らが中学の有名人だった。
今もそうだから容易に想像つくだろうが、三百六十五日、休む間もなくやかましい女。こんな生徒がそうそういるわけがない。というか、いてもらっては困る!
力説してどうする。
とにかく千聡は、数日の間はただ教室にやって来て、その辺の女子をつかまえてしゃべっては帰っていった。
学校中が知り合いという女だから、それ自体は別に珍しいことではなかった…のだが、違っていたのはやたらとこちらをじろじろ見ていたことだ。
正直俺にとっては、俺を見ていたのか、それとも斜め後ろの良を見ていたのか判断出来なかった。ただ不審な行動をしているなぁ、と思っただけだ。
そうして四五日の後、千聡はいきなり俺に近寄って、話し掛けて来た。
その時のやり取りは、確かこんなものだったと思う。
「山際…くん、だよね」
「ああ」
「…私、奥村って言うんだけど」
「へぇ」
「…あの」
「千聡って名前だろ?」
「知ってた?」
「有名人だからな」
思い出してはみたが中身のないやり取りだな。
要するに、最初だけちょっと千聡はしおらしかった、ということだ。
最初…というか、ストップウォッチで計ったならばほんの二分ほどしかではないかという気がする。少なくとも俺は、二三言葉を交わすだけで、この女の目的に気付いてしまっていた。
この女が、ポケモンゲットダゼ…ではなく俺の友達を捕まえるために俺を抱き込もうとしていることに。
それも、俺の性格を知り尽くしたかのように早口でまくしたててくるのだ。俺は初対面の女子を大の苦手としているから、たやすく押しきられてしまった。悔やんでも悔やみきれない過去である。
………。
別に悔やんではいないな。
結局、俺が何か活躍したわけでもない。ただ良と千聡を引き合わせただけで、やがて千聡は教室に入り浸り、俺はその女をちさりんと呼ぶようになった。
どうでもいい話なのだ。ふっ。
………。
もしかして、今の心の中のポーズが表に出ていなかったかとあせって周囲を見渡すが、二人は眠りについていたし、千聡もぼんやり窓を見ているだけだった。
平野を滑るように走る列車。
どこまでも斜めに、どこまでも横切るように。俺の知る世界を歪める線路を進む。
おかしな色に染まる山裾だって、斜めに消え去るだけだ。
たとえば、この窓がテレビだったら、その向こうに見える景色は途端にどうでも良くなってしまうだろうか。
それとも、ガラス越しに走り去るものなど、最初からなんの価値もない刹那に過ぎなかっただろうか。
俺にとっての今は、この狭い車内にしかないのだろうか。
あるいは、目の前の彼女か、それともツル、オオト…。
「さー着くよー!」
「今マイクで言ってたじゃん!」
目が覚めたらしい清川姉弟の叫び声で、俺は回想をやめる。
最後に何を言おうとしていたのか、すでに忘れていることに気付くが、体は肩のこりをほぐすことに熱中していた。
ゴリゴリと、あちこちから音が鳴る。
指の付け根からくるぶしまで、どこでも鳴らせるのが俺の特技である。残念ながら自慢して関心を示してくれる人がいないけど。
「じゃ、解散式ー」
「しなくていい!」
結局最後まで姉弟げんか。トムとジェリーの格言を思い出す。
うちみたいに一人っ子の家庭と違って、いつもにぎやかで明るいことだろう。うらやましいかどうかは微妙だけど。
祐子さんと一緒だと、たぶんプライバシーなんてものはないに等しい。
「次はどこ行くー?」
「姉貴!」
未練たらたらの約一名を除けば、どうせ明後日には会うのだ。別れはあくまであっさりと済ます。
というか、次ってなんだよ。
要するに自分が遊びたかっただけなんだな。呆れながら駅舎のガラス戸を開けると、途端に眠気が襲ってくる。
果たしてこれから、無事に家に辿り着けるだろうか。そんな不安を覚えながら、俺はすっかり暗くなった街に出る。
あの川辺に引き込まれないように、道を変えようと思った。
…それともう一つ。
解散は、まだ出来ない。
少なくとも、二人の間では。




