遡行
目覚めて時計を見ると、まだ六時半。
これじゃまるで遠足じゃないか…と一瞬の自己嫌悪で一日は始まった。
冷え切った自転車のサドルに顔をしかめながら、家を出たのが七時半。どう考えても集合時間には早過ぎるけど、だらだら家で時間を潰す気にもなれなかった。
親には、友達の実家に遊びに行く、と告げてある。
少なくともこれは嘘ではない。ここで「友達」に該当する勝彦当人がちっとも喜んでいない上に彼には呼ばれてもいないという事実はあるが、「友達」に該当するバカの、その姉は喜んでいるし呼んでくれてもいる。何らやましいことはない。
ない…が、しかしそれ以上話したくもなかった。
両親は放心状態の俺を見ている。
それはほんの一瞬のことだったらしいから、もう忘れているかも知れない。ひどい車酔いだったとごまかした俺の言葉すら、それ以上突っ込みもしなかったのだ。
しかし、かといって出掛ける目的を知れば知ったで、いままでしていなかった心配を始める可能性はある。下手すると引き留められる可能性だって、ないとは言い切れない。
ふっ。
まさか、いくらなんでも引き留めはしないだろう。たとえ正直にすべてを話したところで、きっと取り合ってもくれまい。
俺…たちがこれから確認しようとしているものは、それほどに荒唐無稽だ。
そして荒唐無稽と言い切れるほどに、俺自身そのことを信じていないのだ。
よく冷えた自転車にゆっくりと跨り、おもむろにペダルを踏む。
普段は歩いて通学しているから、自転車に乗る機会はそれほどない。まして、こんな朝早くに乗るなんていつ以来だろう。
ふ。朝日がまぶしいぜ。
さり気なく交差点でポーズを取ってみたが、歩道を掃いてる婆さんに不穏な視線を投げ掛けられただけだった。寂しい。
住宅街では数台の車とすれ違う。土曜日だし、仕事のある人は多いだろう。多いといっても、たいした数ではないが。
寂れた町だ。
車と老人。小中学生に出会うことはない。週休二日とは偉大である。
………。
そう言えば、昔ラジオ体操の中継が来た時、ここを自転車で走ったなぁ。
あのときはまだ小学生だった。わざわざ朝早く出掛けたのに、結局はただラジオ体操しただけで終わったから、がっかりした記憶がある。
よくよく考えてみれば、出掛けたからってテレビ画面に映るわけでもない――なんたってラジオだからな――し、単なる早起き損だった。まぁあれも若気の至りというヤツだ。
うむ。
…今も若いけどな。若いぞー。叫んでみようかとも思ったが、やめておく。
駅までは自転車で15分足らず。
やがて川に出る。
どこかで橋を渡らなければならないが、とりあえず目の前の橋はなんとなく気乗りがしない。黙って川沿いの土手を走る。
反射する光すら暗い川。本当に流れているのか時々疑問に思う。
ちなみに、小学校の時配られた「郷土の歴史」というヒネリのないタイトルの本には、そもそもこの川が載っていなかった。かの四郎三郎が載ってた本だ。
まぁそれは、単に出版社のミスだったらしく、担任に教えられながら色鉛筆で各自で書き込んだけど、あの時以来この川は影が薄い、というイメージが定着してしまった。
しかも、その時色鉛筆で書いた川は、なぜか地図の左半分で途切れていた。
川は山から流れてくると思っていた――それが普通だと思う――俺にとって、見渡す限り平野のど真ん中でなくなってしまう川の水は、いったいどこからやって来るのか謎だった。
どこかへ消えてしまう川。ならばこの川は、もしかしたら水が流れていないのかも知れない。そんなことを考えてしまうのも無理からぬことだった。
…と。
なんで俺は小学校の思い出を熱く語っているのだ。
動かぬ水に乱反射する光に、じろじろと覗かれているような羞恥心が、ペダルをこぐ脚に力を加えていく。
少しでも早く。
同じ川でも、駅と反対方向には大河が流れている。
今日はやがて、その果てしない流れをほんのちょっとだけ遡ることになる。
しかし。
目の前の澱んだ水は、手に届く源流だって悪いもんじゃないだろ、といわんばかりに、鋭利な視線を俺に向け続けている。
少しでも早く、俺は逃れたかった。
「よぉ、早いな」
「ヒロピーが遅い!」
「何を…」
自転車を停め、誰もいないだろうと思っていた駅に入った途端、見慣れたような見慣れないような人影を見つけた時には、ちょっとだけドキドキした。
ワンピース姿で佇む千聡。
別に初めて眺めるわけでもないが、どうも制服の時とは勝手が違う。いつものように接していいのか困る。
「明日が遠足だと眠れないタチか?」
「あんた、私がガキだって言うんでしょ!」
「言ってねーだろ」
「今から言う予定?」
「まぁ、実は」
そして蹴りが飛んでくる…って、あれ?
服装のせいか若干キレのない蹴り脚を軽やかによけながら、何か間違っていることに気付く。
うむ。
全然困ってねーだろ、俺。
「みんな遅いね~」
「俺たちが早いんだ」
「なんか言った?」
だいたい、良と千聡が出掛ける時は俺も一緒なのだ。今さらである。
しかしこれはこれで、いかにも俺がデートの邪魔をしてるみたいだな。
「あ、良が」
「えっ」
「来ない」
「…………………」
一応、嘘は言ってない。
言ってないがしかし、いささか険悪なムードになったところで、さりげなく数歩離れ、目的地までの金額を確認する。
もっとも、金額は良のメモを写した際に確認済みである。覚えにくいというほどの額でもない。まぁ、千聡と二人というのは何かとややこしいのだ。
「お、良」
「ヒロピー、また…」
背後から脚を出しかけた千聡が、慌ててその場を繕う。
さすがに隙だらけで攻撃を許すほど、俺もバカではない。ふっふっふ。
「おはよう」
「お、おはよう良くん!」
くすんだガラス扉の向こうから奴がやって来て、これで三人。
何せ今日は学校が休みの朝だ。普段から暗くて薄汚い駅だが、今日は余計に沈んで見える。
この駅舎は30年ほど前に建てられたらしい。この間まで通っていた中学の校舎みたいに、汚れた白ペンキ壁に囲まれた、角張ったコンクリート造りの場所。ほんの短い間とは言え、これから旅に出ようとする若者が集まるには似つかわしくない風景だ。
「なぁヒロ」
「ん?」
…若者はヤバいな。
若人よりマシだけど。
「髪とかしたか?」
「…見ての通りだ」
俺がいつも寝癖を直さないことを、今さら良が知らないわけはない。にも関わらずこの男は、どうしても指摘しないと気が済まないようだ。
まぁ指摘すること自体は勝手である。
どうせ、されたところで改善に乗り出すこともないのだから。
しかし、問題はこの他愛のない会話で挨拶を交わす二人を、湿った視線で見つめる存在…、千聡だ。
こんなことを大声では言いたくない――実際、言わない、言ってたまるか――が、千聡は明らかに俺をライバル視している。このじとつく視線は、俺を敵視し、取り憑いていつか殺してやろうという邪悪な呪いなのである。
………。
「ちさりんはおめかししてるな」
「…べ、別にしてないよ」
ちょっと脚色したかも知れない。
ともかく、実に迷惑この上ない。
「いいや、してるだろ、なぁ良」
「そうか?」
「だからしてないって」
適当に話題をそらしておく。
と言っても、ここで良が「今日のちさりんは可愛いぜ」とか口にするとは、俺も千聡も期待していないから苦労が絶えない。
ただ、素っ気ない割に奴は、例によって千聡の頭を撫で始めるから、とりあえずその場をおさめることは出来る。
いったい奴にとって、撫でることにどれほどの意味があるのか、本当のところは不明である。しかし一般的に、付き合ってる彼氏――この言い方に若干の違和感を覚えるのはなぜだ――に撫でられたら喜ぶものだ。他に実例は知らないし、俺自身経験はないけど。
うむ。
良なんていつでもくれてやるぞ。
…いや、友達としては得がたい存在だ。それは確かだが、俺は絶対に良に恋していない。これはもう、どんな神に誓ってもいい。
とにかく、いつまでもこんな無法な嫉妬に悩まされるなんて馬鹿らしいことだ。
だから、普段から俺は少なからず千聡に協力している。かいがいしく下僕のように働いている。ああ可哀相な俺。
………。
まぁしかし、当人の態度が煮え切らないのが困る。
「おはよう!」
「おはようございます!」
突然大声が響き渡れば、いよいよ清川姉弟の登場だ。つられるように千聡も大声で挨拶。
「朝から元気でよろしい!」
新米教師らしく、妙に気張った祐子さんは意味もなく千聡の背中を叩く。勝彦はその後ろで不機嫌そうに黙っている。
「勝ピー、寝ぐせ直ってねーぞ」
「お前に言われたくねぇ」
せっかくのフレンドリーな挨拶も、一言で突っ返されてしまった。今日は一日難儀なことになりそうだ。
「あとは…、小川さんか」
「うむ」
ガラスのドアをぼんやり見つめる良につられて、俺も視線をずらす。
「遅いね~」
「…まだ集合時間に10分ある」
「ふん!」
至極真っ当なツッコミにも関わらず、良の死角から蹴りが飛んで来る。
あまりに理不尽なので、ちょっと膝を立てておいたら、途中で気付いた千聡はバランスを崩していた。自業自得というものだ。
気がつくと、千聡の後方ではさっそく姉弟喧嘩が始まっている。いや、もしかしたらここに来る前から始まっていたのかも知れないが、まったく朝からご苦労なことである。
ただし。出来れば列車に乗るまでに済ませてもらいたい。実家でやられた日にはたまったものではないぞ。
…と。
「お、おはよう…」
「おはよ…」
やたらと弱々しい声に思わず俺は振り向いて、そして固まる。
そこには女性がいた。
いやまぁ、それはそうだが。
「………」
誰だ?
―――――――――って。
二度目の「だ」の字を思い浮かべる頃には気付いていた。
「や、えーこちゃんどしたのー!?」
「…あ、えっと」
千聡に大声でわめかれて、ますますおどおどした表情の彼女。
そう、目の前にいたのは間違いなく小川悦子その人であった。
薄いセーターを着込んだ私服姿を見るのが初めてだから、俺は戸惑ってしまったのか?
違う。
「やー、なんかかわいいよ~」
「あ、あの、はい、その、ありがとう」
おどおどする彼女に注目しているのは、何も俺だけでもないし、初対面の祐子さんだけでもない。
いや、最後に現われたんだから注目されること自体は当たり前なのだが、それよりも問題は彼女の髪型が変わっていたことだった。
昨日までは後ろで無造作に括っていた髪をほどいて、前髪が額を隠し、後ろは背中のなかほどまで黒髪が伸びている。いわゆるロングな女性の髪型だった。
うーむ。
別に切ったわけでもないし、一般的な意味では珍しい髪型でもないが、随分印象が違ってくるものだ。思わず感心する。
「変?」
しかし、なぜか彼女は俺に質問する。
「い、いや、別に」
「そう…」
また例によって、何か無意識のうちに口走ってしまっただろうか。してもおかしくはないが、俺の記憶が確かならばしていない。
…って、記憶にないから無意識だろ。アホか。
「笑わない?」
「…笑ってない」
「そう…」
それにしても、な。
面と向かってそんな質問されても、正直答えようがない。
もちろん「変」ではないし、おかしくもない。ないのだが返答には困る。というか、「ない」と答えればそれでいいのか判らない。
何となく、彼女に責められている気がして、視線が揺れる。その揺れた先に勝彦が映った。
いつの間に喧嘩をやめたのだろう。ともかく、ヤツに救いを求めるように、じっと見つめ合う。
するとヤツはどうしたことか、いかにも慌てた様子で天井近くの時刻表に目をそらした。何だよ、まだ怒ってんのか?
「さー、これで全員そろったわね~!」
「はぁ」
この時点で六人。念のため断わっておくと、正とは向こうの駅で落ち合うことになっている。
ギターのショーは、今日の行き先より遠くから毎日通っているのだ。それはまぁ、毎日が旅行気分でちょっと羨ましい気もするけど、たぶん実際は数日で苦痛に変わることだろう。
「じゃ、探検隊、出発するよ!」
「はぁ」
「元気ないわよ!」
「いや、そういう問題では…」
すっかり隊長気どりの祐子さんを先頭に、切符を買って改札を抜ける。巷では藤岡弘が二代目を名乗っているが、三代目はいつ御呼びがかかっても大丈夫のようだ。
それにしても、これでも祐子さんは中学校の先生なのである。まだ四月になったばかりとはいえ、きっと学校でもこんな調子なのではないか。容易に想像がついてしまう。
ちょっとおせっかいオバサンって感じもするけど、面倒見が良さそうだ。しかも勝彦と違って美人である。生徒の人気も高いに違いない。
…勝彦が美人だったら恐いぞ。
気を取り直して歩く。
俺たちは一列になって、ホームの端に止まる列車に乗った。まるでテレビで見たカルガモの親子のように。
…もっとも、カルガモなんてその辺の川に腐るほどいるがな。
とにかく列車はこの駅が始発。まだ発車まで時間もあったから、車内に人影はほとんどなかった。
「さ、座って座って~」
「言われなくても座るだろ、姉貴」
「うるさいガキ、あんたはここ!」
隊長としてさっさと車内に踏み込んだ祐子さんは、進行方向右手の窓際の席をまず確保すると、無理矢理向かいに勝彦を座らせる。勝彦の後ろは千聡だったが、その様子に一瞬躊躇したものの、他に選択肢もなく、祐子さんの隣へ。自然、良が向かいに座って四人掛けが埋まった。
残るは俺と、彼女である。
まぁ悩んだところでどうしようもないので、通路を挟んで反対側に座る。ちなみに、一応レディファーストなんて単語を聞いたこともある俺は、ちゃんと進行方向の窓際を彼女に譲ったぜ。ふっふっふ。
…自慢するほどでもないな。
ともあれ、窓際に座れてちょっと嬉しい。
この喜びを少し死語を混ぜて説明すれば、ルンルン気分といったところだが、まぁ死語を用いなくても説明出来るような気がする。
「六人かぁ。あんたも来なさい!」
「人使い荒いぞ!」
「やかましい! 誰の金だと思ってんの!」
落ちつく間もなく、祐子さんは再び立ち上がる。勝彦を引っ張りながら、さりげなく資本主義の厳しさを叫ぶ姿を、遠巻きに俺たちは見送った。
飲み物代、120円ほど。そんな程度で下僕のように扱われる弟に、わずかな憐れみを覚えなくもないが、まぁ姉弟が仲良くじゃれ合っているとも見れなくはない。実際、勝彦もそれほど嫌そうな雰囲気ではなかったし。
二人は程なく、お茶を抱えて車内に戻って来た。
そうして配られたお茶は、なぜか缶入りではなく、一昔前の駅弁にありがちなプラスチックのヤツである。目の前に自販機があったはずなのに、離れた駅弁売りの所まで買いに行った意味が今ひとつ理解出来なかったけど、別にどちらでも困らないのでお礼とともに受け取った。
…そう。これは祐子さんのおごりである。
おごりはどんな批判にも勝る、崇高なる行いだ。間違っても百円少々で買収されたわけではない…と思う。
「この汽車狭いね~」
「これは気動車と言う」
「うっ」
千聡がどう呼ぼうが、列車は定刻に動き始める。
「なぁ、良」
「…正確にはな」
「はぁ…」
静かに、滑るように動き始める。
…うーーーむ、ハードボイルド。
「気動車ってなんだ?」
「なんだって、これだ」
まぁ、始発で定刻でないなんてよっぽどのことだと思うが、よく小説でこんな出だしを耳にするし、なんとなく格好いいではないか。
あえて言うなら、このマヌケな会話はどうにかしたいところだ。なぁ、勝ピー。
「誰か教えろー!」
「お前ちょっとワガママ」
「やかましい! 不肖わたくし勝彦様は今日一日、駄々っ子になることを決意したっ!」
「するな!」
最後のツッコミは、同時に三箇所ぐらいから聞こえた。そのうちの一つは確実に俺だ。残りが誰かは…、まぁ簡単に想像出来よう。
「で、なんだよ良」
「ディーゼルエンジンだから気動車だ」
「………」
馬鹿はきょろきょろと周りの顔を物色している。
俺はいい加減窓を眺めたかったけれど、視線をそらすと嘘つき認定されるのがオチだし、仕方なく見つめ合う。
まさに、視線だけで熱く語る男たちだ。ふっ。
しかし、五秒ほどの沈黙の後、一方的に視線をそらした勝彦は、不遜な言葉を吐いた。
「…気持ち悪いぞ」
「何を!」
「あーもううるさい、このガキ!」
最後は祐子さんの一喝で幕。
これで気兼ねなく景色を眺められることは眺められるのだが、今ひとつスッキリしない。なぜ変態に変態呼ばわりされねばならんのだ。
やれやれ…と。
「山際くん」
「は、はい」
目の前からの不意打ちに、緊張感が走った。
「狭くない?」
「…いや」
答えてから足元のことだと気付き、慌てて目線を下げる。
もちろん二人の脚は離れていたが、当然のように視界に入ってしまった女性のくるぶしに、俺は一瞬目を奪われた。
違う。そういうつもりじゃない。
急いで頭を上げたが、彼女は別にこちらを見てはいなかった。
………。
疲れたな。
とにかく俺は、「ゲヘヘねーちゃん脚長げーなー」とか言いながら、スポーツ新聞の記事みたいに「ニヤリと笑う」オヤジではない。いくらなんでも、そこまで落ちぶれてはいないぞ。
…いや、もちろん短くはないだろうが。
「ちゃーでも飲むか」
とりあえず落ち着こう。独り言を言いながら蓋を取って、まだ熱いお茶にそろそろと口を近づけながら、ようやくのことで窓の外に目をやった。
既に列車は最初の減速に入っていた。
くつろぐ間もなく、やがて誰もいないホームに着く。
まさに文字通り、一駅無駄にした気分だった。
「誰もいないな…」
「うん」
彼女と楽しく会話しながら、列車の旅は続く。
…これが会話と呼べるほどのものかはともかく、だ。
ようやく落ちついたところで、改めて彼女の姿を確認する。発車直後の「汽車」騒ぎに加わらなかった――加われなかった可能性大だ――だけあって、窓枠に左の肘を置いて、体を左に傾けている彼女。車窓を眺める体勢としては完璧である。
俺も出来れば、向こうの馬鹿話にはつき合わずに窓の外を眺めたい。そのためには、やはり目の前の彼女と親しく言葉を交わすことで、連中の攻撃を無視するのが一番であろう。
「お、川だ」
「うん」
ぎこちない言葉を交わし、鉄橋の音を聞く。規則正しくガタンと音がするたびに、目の前の彼女の前髪も揺れる。
それは、さっき自転車で通った川とはまるで違う、巨大な流れ。
だけど列車の窓から見ると、やはりこの川も止まっているように見える。
「渡った」
「うん」
彼女の前髪は相変わらずリズミカルに揺れる。
俺たちは早すぎる…なんて感慨に浸る間もなく、列車は平野に戻った。
出来るならもう一度出会った時には、今より少しだけ高級な会話といきたいものだ。
「良く~ん」
「は、はい…」
背後では、今日が初対面だったはずの良を呼ぶ祐子さん。露骨に声が怪しい。恐いぞ。
「さっきからさぁ」
「………」
「千聡ちゃんのおしり見てない?」
「は…」
良が気の抜けた返事をするなんて実に珍しい…というか、何を言い出すんだ祐子さんは。
思わず振り向こうとして、しかし思い直す。
もしかしたら、これは巧妙なワナかも知れない。
「千聡ちゃん可愛いよね~」
「ゆ、祐子さん」
「眺めたくもなるってもんよぉ」
「………」
今度は相手を攻撃か。恐ろしや恐ろしや。
良は完全に固まってるだろうな。まぁ見なくても判る。ついでに、千聡がオロオロしてるだろうことも…って、無視無視。
ちょっと目を離したすきに、列車は田んぼのまん中に止まっていた。せっかくなので人の姿でも探そうと思ったのだが、駅舎すら見当らない無人駅には、その名の通り人の気配などまるでなかった。
「無人だ…」
なんとなく口にした言葉に、すぐ近くからクスッと笑う声。
「あ、ごめん」
「いや…」
笑われてしまった。
なんと言うか、独り言に反応されると辛い。
「山際くん…は」
「………」
「思ったことは、なんでも口にするタイプ?」
くそ。答え辛い質問だな。
というか、出来れば肯定したくない。このままではヤバい人扱いされてしまう。
…とはいえ、これまでの所行を考えれば、彼女がこういう結論に至ったのも残念ながら理解出来なくもない。
「…そうでもないぞ」
理解出来なくもないが、やはり肯定したくもない。男心は難しい。
「そう?」
「口にしない考え事だってある」
「そう…」
元気のない彼女の相槌が聞こえて、俺はまた自己嫌悪。せっかくの会話なのに、冷たくあしらってしまった。
彼女にとってそれは、他愛のない質問でしかなかったはずだ。
ほんの数日前までは、存在を意識したことすらなかった相手。今、俺はこうして向き合っていて、そしてなぜ俺は、こんな返答しか出来ないのだ。
なんなのだろう。
田んぼの向こうに、等間隔で並ぶ電柱が俺の心をダメにする。そうだ。
「お、小川さんは…」
「………」
「物静かな人だね」
とにかく、無理矢理にでも話題を続けようと思った。どんなつまらない話題でも。
「えっと」
正面から目を合わさないように、神経質な俺の視線と、同じく神経質な彼女の視線。
車窓は流れていく。
「おしゃべりは好きだけど…」
「………」
そして結局、言葉に詰まる。
俺はそんな器用な男ではない。当たり前のことだ。
「うちのガキが迷惑かけてごめんなさいね~」
「ガキって呼ぶな」
「じゃあバカ」
背後ではまた祐子さんの声。今度は弟がターゲットか。
まぁこの場合、一番妥当な相手であろう。
しかし、そもそも無理に相手を探す必要があるだろうかいやない。黙って乗っていればいいのだ。
だいたい声がでか過ぎるだろ。
もう俺たちぐらいしか客がいないから実害は少ないけれど。
「このバカ、本当は喜んでんのよ~」
「違う!」
列車はちょっと大きな駅に着いた。すべてのドアが開け放たれると、客が三人ほど乗り込んで来た。俺たち以来、初めての客だ。
が、祐子さんにそんな状況は関係ないようだった。
「なんたって今日はち…」
「姉貴!!」
車内に響き渡る大声。
まったく恥ずかしい…が、あの勝彦が血相を変えるなんて珍しい。
いったいなんの話だ?
「いーじゃない、秘密にしたって楽しくないわよ」
「良くない!」
「強情ねぇ」
「だ、だいたい姉貴だって」
瞬間、今度はさっと祐子さんの顔色が変わった。
うーむ、こういうのを窮鼠猫を噛むっていうんだっけか…って、なんで見てるんだ俺は。
「つい最近だって、姉貴は部屋で…」
「かっ!!」
今度は祐子さんが、椅子を蹴り上げて立ち上がった。
狭いボックス席が余計に狭苦しい。ついでに、あの良が見るからに怯えているのが珍しい。
「勝彦、ちょっとこっち来なさい!」
「いて、引っ張るなクソ!」
こっち…と言っても、この列車は一両である。
俺たちが座っている後方から、運転席に近い席に消えた二人がその後何をしていたか、確認しようと思えば出来ただろう。
もちろんここに、それをする程の勇者はいない。あのやかましい姉弟が途端におとなしくなってしまった。
素人目に見ても、これは相当に危険な状態である。
「山際くん」
「え?」
また不意を衝く声。
「川だよ」
「…あ、ああ」
視線を窓側に戻すと、確かに窓の外には川が見えた。さっき渡った川だ。
だが、あまりに脈絡のない言葉に、俺は思わず彼女の顔を見つめてしまった。
「見たかったでしょ?」
「…まぁな」
やけに自信ありげな彼女の言葉。
それだけではない。こちらをじっと見つめる表情も。
何も判らない。
やがて彼女が静かに目線を川辺に移すまで、ただ俺はその姿を追うだけだった。
「………」
彼女の前髪は、さっきよりも不規則に揺れる。
少しずつ平野を離れていく列車の中で、交わす言葉を探してみたものの見つからず、俺は川辺の緑に目をやった。
時々、光に反射する木々が俺を襲う。そんな刺激は、しかしなぜか逆に眠気を誘う。
「遡っていくんだね」
「…そうだな」
遡る、に力を込めた彼女の台詞に曖昧な相槌を打ちながら、暗い川面を眺める。
相変わらずの光景。
もしも列車の行き先を知っていなかったなら、本当に遡っていると判るだろうか。硝子窓で隔絶された車内から、流れの様子を確認することは出来なかった。
「山際くん」
「………」
彼女が口にするまでもなく、目の前をあのドライブインが流れて行く。
あっと言う間に視界から消えたそれを、なんの感慨もなく追い続けた俺は、ふと川の向こう側に目がいった。
青龍の滝を見たかったから?
まさか、と思う。しかし何もないと思っていた対岸に、ちょっとだけ平地があって、作業小屋みたいなものが見えた気がした。
「まだか?」
「あ?」
気が付くと、隣に勝彦がいた。
俺の返事を聞いたのか聞いてないのか、立ったままヤツは窓を覗き込んだ。
「なんだ、邪魔くせーな」
「うるせー、俺にも外見せろ」
「そこら中で見れるだろ」
適当に辺りを指差す俺を、しかし勝彦は見もしなかった。
代わりに指先の向こうで彼女が苦笑していた。
「川だぜ!」
「…泳ぎたいのか?」
「泳いだら寒いぞ」
冗談に真顔で返されても困るのだが。
「正が言ってたけどな…」
さりげなく――思いっきり押しのけられた――窓際の席を奪った馬鹿は、窓枠に噛り付いて外を見ていた。
理不尽な。
腹が立った俺は、ヤツに体を押しつけて、無理矢理でも窓の外を見ようとする。
「役場の人がいかだ下りしたら凍えそうだったらしいぞ」
「そう…なんですか」
律義に返答する彼女にはちょっと感心する。
どっちにしろ、俺たちは役場の人と知り合いではないから、それっきり途切れてしまったが。
勝彦はしかし、動こうとしない。
無理な体勢で、次第に激しくなってきた揺れに俺は耐えられず、通路側に座り直す。屈辱的だが、汽車酔いするよりはマシだ。
………。
この場合正確には、気動車酔いだ。そんな言い方する人には会ったことがないけど…って、どうでもいいぞ。
しかし、あそこを過ぎたってことは、もうヤツの実家は近い。こんなバカでも、何か懐かしかったりするんだろうか。
「昔は舟があったんだぜ」
「舟?」
「ちょうどあの辺からだ」
三人が見つめる先には、木々の間にほんの少し空き地があった。
「渡し舟?」
「そう」
「へぇ」
とりあえず相槌を打つ。
しかし残念だが、それ以上の感想は持ちようがなかった。
何しろ車窓に映るのはまるっきりの大自然、人の気配などどこにもなかったからだ。
「ハックン信じてねーな?」
「判断のしようがない」
そう言ってる間に列車は川辺を離れ、人家の間をすり抜けるように駅に着いた。
「降りるわよ~!」
「はーい」
こちらも復活した祐子さんが、また先導してホームに降りる。
バスのように前の扉のところで切符を投入するのが、なんとなくつまらない気がした。
「寂れたわね~」
「はぁ」
ホームでの第一声。
内容的には大声で叫ぶようなこととも思えなかったが、祐子さんの場合これが普通の声なのだろう。とりあえずそう納得しておく。
線路を渡って、木造の駅舎に入る。駅員の姿はない。
「おー来だが」
「おっはよう、正くん」
「ショーど呼んでくれ」
「あっそ、じゃグッドモーニン、ショー!」
「グッドモヲニン、祐子姉さん」
何だか異様に疲れる会話を聞かされた気がするのは気のせいだろうか。
とりあえず、待ち伏せしていた正はギターを背負っていなかった。それだけでもかなりほっとした。
「おー、小川さん」
「こ、こんにちは」
「モガっぽぐでめんごいの」
「え?」
固まっているぞ。
というか、そもそも何を言ってるのかさっぱり判らん。
「リンゴ娘のカチューシャだんねが」
「あ、うん、…ありがとう」
言われて気がついたが、彼女はいつの間にかカチューシャを付けていた。
…いや。
いつの間にか、と言ってはみたが、もしかしたら最初から付けていたかも知れない。
なんとなく朝の彼女は正視し辛かった。車内でもあれこれ緊張して、細かいことに気を留める余裕がなかった。
………。
それにしても、正ですらちゃんと褒められるのだ。つくづくダメな男だ、俺は。
「よし、では全員そろったところで出発進行!」
「おー」
祐子隊長に、正が一人でなまった返事。どうもあまり望ましくない意味で、この二人は気が合いそうに思えてきた。
まぁ今は歩こう。
七人の侍…とはとても言い難い隊列が、駅前の路地を歩き出す。
いい天気だ。ほとんど車も通らない、風の音だけが聞こえる見知らぬ土地を踏みしめながら、次第に隊列を乱していく俺がいた。




