青い砂丘
雲が流れる。
少しだけ、時も流れる。
囚われた歳月すらも、今は流れて行く。
誰かの声。
微かな水音。
その先の深みが、俺の身体を軽くする。
駆け抜けた原地の棘も、
見下ろした滾る水も、
吹き荒れた暖かい風すらも。
雲が流れる。
少しだけ、時も流れる。
何もない深みを、照らし出す光を奪う。
今日は楽しい水曜日。
嘘だ。
もう限界だ。
俺は不幸だ。
………。
言ってもダメか。ダメだよなそりゃあ。しかたなく体を起こし、やむをえず服を着て、歯を磨く。これで歯茎から血が出たら、学校休もう。そんなことを考えてみるが、今の自分は健康体だ。
先週もこうだった。
きっと来週もこうだろう。
「経絡秘孔の一つを突いた」
「あーそうか」
教室への到着は、昨日より約3分早かった。別にその程度で勝ち誇ろうとは思わないが、昇降口で勝彦様に出会ってしまった時は、さすがにがっかりした。
自分で言うのもなんだが、馬鹿の思考回路というのはみんな一緒なのである。
走らずに済む程度に家を出る。それが数日続けば、また元に戻る。そんな繰り返しの日々には、俺も勝彦もとっくに飽きていたのだ。
「お前には、地獄すら生ぬるい」
「あーそうか」
窓を眺める。どんよりと曇った空。
…そんな程度の事実すら、俺は教室で初めて知る毎日。家を出てから学校まで、記憶にあるのはアスファルトの地面だけだ。
「我が人生に…」
「それ、別人」
相も変わらぬ朝の会話をさっさと打ち切って、窓から視線を反らす。
すると…、一番後ろの席からこちらを眺めてるらしい姿が目にとまった。
………。
昨日の今日だ。ここはひとつ、挨拶しておくべきではなかろうか。とは言っても声を出すには遠すぎる。うむ。
軽く頭を下げる。
…すると彼女はちょっと驚いた表情で、カクカクと首を動かしてうつむいてしまう。
無造作に束ねただけの髪も、一緒になって揺れる。
「………」
なんだろう。
朝の挨拶が悪いってことはないよな。勝彦じゃないが、やはり一日の始まりは爽やかな挨拶からだろう。
…もしかして、今の俺は爽やかさが足りなかったのか?
「…気味悪いぞ」
「う」
さりげなく白い歯を見せて笑ってみたのだが、相手はうつむいたままだった。
しかも、すぐ後ろの馬鹿にしっかり見られていた。
…もっとも、冷静に考えた場合、今「馬鹿」と呼ばれるべきなのは俺のように思われる。
「謝ったのか?」
「ああ」
「許してもらったのか?」
「…そのつもりだが」
う………。
勝彦に疑惑の目を向けられると、急に自信がなくなった。
昨日の様子からすれば、大丈夫だと思うのだがな…。
「ふぅむ」
今度は勝彦がちらっと後ろを向く。
たぶんもうこちらは見ていないだろうが、同時に向くというのは、いかにも噂してそうである。とりあえず俺は視線を逸らした。
「怒ってる雰囲気でも」
「なさそうか?」
「俺に判るかって」
「ん…」
まぁそれもそうか。
溜め息混じりにもう一度ちらっと後ろを見る。彼女は既に目線を落とし、ノートをめくっていた。
…俺も予習しなきゃな。
「宿題やったか?」
「…そんなのあったか?」
おのれ、相変わらず役に立たないヤツだ。千聡は…貸してくれねーだろうな。
ふぅむ…。
………。
しかし、彼女はなぜあんなに無造作なんだ。
「どこだっけ?」
「64ページの問2」
「…判りにくい嘘付くなよ」
俺が言う台詞じゃない気もするが、時代劇の野武士のように後ろで束ねても、似合うとは思えない。豪傑って感じでもないしなぁ。
…………。
「…そう言やぁ、ハックン」
「ヒロカズだがどうした?」
むむ。何考えてんだ、俺は。
「ハックンはハクイチからきた…って、そんなことはどうでもいい」
「どうでもいい」
いかんいかん。他人の髪型なんてどうしようが勝手だ。
まして、女子なら。
「耳寄りの情報だ」
「ほう」
本当にどうでもいいことを、どうでも良さそうに語るのがこいつの才能だ。
だけど今は、あえて聞き耳を立てておくか。意識をそらすために。
「…聞きたいか?」
「いや」
それでも、今さらのようにいつもの問答。
だいたい、この間だって「佐々木何とかがナガタに因縁を付けた」とか、俺にはまるで理解出来ない話題だったのだ。期待するほうがおかしい。
「よし、聞かせてやろう!」
「だからいらねぇって」
で、これから本題…というところだったが、教師が入って来た。絶妙というか、狙ったとしか思えないタイミングだ。素晴らしい。
…が、正直ここまでタイミングがいいのもちょっと嫌だ。
勝彦の話なんて、九割方聞くに値しない。しつこいが、それは自信をもって断言出来る。それどころかヤツ自身、次の休み時間にはすっかり忘れているかも知れない。
だからたぶん、このままうやむやに無視してもかまわない…はずなのだが、成りゆきとはいえ、困ったことに俺はすっかり聞く体勢になっていた。
やっぱり気になるぞ。
…それに、昨日以来、やたら自信満々な態度が気にかかるのも事実だ。そうだ、昨日の話と関係があったかも。
うーーむ。
溜め息をつく。チョークの音が聞こえてくる。既に教室は朝の挨拶を過ぎていた。
…ま、いいか。
イライラしてるうちにどうでもいいような気がしてきた。やる気のない授業でも、頭が切り替わっているのかも知れないが。
授業中の教室。ふと教師の声が遠のく。
例えば、誰かが今の俺の姿を絵にしたなら、キャンバスにはすごく偉そうな奴が居座っているはずだ。そんなことを考える。
自分を外側から眺める一瞬だ。
それはいつも、言葉に出したらあまりに恥ずかしい自己満足につながっていた。
狭い視界を、細かい埃が過ぎていく。
その曖昧なスピードに、俺の意識は重なり浮遊する。
向かう先は、自己陶酔のリフレイン。
ここに今、世界中に注目される自分がいる。
まだ誰もそんなことを知らないけれど、いつか世界は自分を中心に周るだろう。
窓際の陽射しを浴びて、埃たちは散り散りに舞い上がり、どこかへ消えて行く。
その瞬間見えてしまう、光の線はきっと、いつか訪れる俺の臨界点なのだ。




