Prologue
その日もいつも通り、川の流れは速かった。
しぶきに濡れた鉄柵にもたれて、水面を覗く。ゆらゆらと揺れ動く光に呼応するかのように、俺の頭もクラクラゆらめいた。
「大丈夫か?」
「降りたから、…たぶん」
別に病弱な少年…というわけではない。
五月の上旬、いわゆる黄金週間なるものの終わった日曜日を選んで、ちょっと離れた親戚の家まで出掛けた。それは自分が高校生になったという、お披露目を兼ねた小旅行。ただそれだけのことだった。
もっとも、小旅行と呼べば楽しそうに聞こえるが、親戚の家での半日は決して居心地のいい時間ではない。
確かに高校は義務ではないし、一応受験なんて行事も済ませたのだ――それも「無事に」。そんな入学という出来事を、些細なものと言っては嘘になる。当然だが親に感謝、さらに心配してくれた親戚にも報告しなければならない…と、理屈では判っている。
だが一方で、俺には進路に悩んだという記憶はないし、自らの意志で高校生になったつもりもない。学力別に、なんとなく行き先が決まっていた進路を、今もなんとなく歩んでいる途上が高校一年なのだから、そこに特別な感情などわきはしないのだ。
「………」
とにかく、俺はそんな一日を過ごした帰り道に、車に酔ってしまったわけだ。
やはり緊張していたせいかも知れない。周囲が笑顔をみせればそれだけ、自分の居場所がなくなっていく。大袈裟に表現するなら、髪の毛の十本や二十本は抜けても不思議ではないだろう。抜けられては相当に困るが。
…ただ、俺は小さい頃からとにかく乗り物には弱かった。三十分も乗れば顔面蒼白なんて珍しくもないこと。だから一時間も車に乗り続ければ、どんな楽しい一日の後でもこの結果はみえていた。
そしてそれは残念ながら、両親にとっても周知の事実である。だから俺の異変に慌てることもなく、途中のドライブインで車を止めてくれた。
とにかく今は外気に当たろう。いつものようにしばらく新鮮な空気を吸えば、気分も回復するはずだ。
大河の岸辺に建てられた、このドライブイン。交通量の多い国道沿いなので、いつもおおぜいの人々が休んでいる。
ここから我が家までは、川の流れに沿って河口近くまで、あと三十分ほどかかる。今の自分にそれだけの時間は耐えられまい。
ざっと百メートルは距離がありそうな――ちょっと誇張があるかも知れない――対岸には、切り立った崖が連なっている。両岸を山に囲まれ狭まったこの地は、木々の緑と水の青が美しい景色と、対岸に見える小さな滝が売りだった。
今、俺が立っているのは、その滝を正面に見る場所だ。普段の休日なら、鉄柵前に並んで記念写真を撮る観光客も少なくない。バカの一つ覚えみたいに直立不動で記念写真なんて姿を見たところで面白いわけでもないし、むしろ見ずに済んだほうがありがたい。
とはいえ、全く誰もいないというのもまた、不自然に感じられる。いくらこの天気であっても。
…そう。現在この地の天気は思わしくない。
親戚の家を出た頃にポツポツと降りだした雨は、やがて本降りとなった。空は重苦しく澱み、窓から見える景色もぼやけてよく判らないほどに。
幸い、ドライブインに着く頃には峠を越えたようで、今は無理すれば我慢出来なくもない程度の降りになった。それでも対岸は深い霧に覆われたままで、例の滝なんてどうあがいても見えはしない。もちろんやろうと思えば記念撮影は可能だが、これならぱっとしないドライブイン前で撮ったほうがまだマシだろう。
「向こうにいるぞ」
「…あ、ああ」
ふらっと様子を見に来た父親は、俺の顔を一瞬覗いただけで、すぐにみやげ物売り場へ立ち去った。どうやら親の目にはいつも通りらしい。幾分ほっとして、再び鉄柵に目を移す。
小降りとはいっても、雨はまだ降り続いている。鉄柵の滴も減る気配はない。傘もささずにぼんやりしている俺は、傍から見れば間違いなく物好きなガキだ。
…それでも、こうして気分の悪い時、雨にあたるとなぜか気分が和らいだ。
雨はいつもと違う音を連れてくる。いつもの世界を遮断して、そこになかったはずの空間に俺を導いていく。その空気を斬り裂く研ぎ澄まされた鋭利な刃物が、もやもやした頭の中をしだいに落ち着けていく。そして、目の前の濁流との距離が、少しだけ縮んだ気分になる。
だから…。
「…こんにちは」
不意を衝く言葉。風の音はよく女の声みたいに聞こえるものだ。ありふれた幽霊のイメージが思い浮かぶ。
とはいえ、今時三角巾付けて例のポーズなんて流行らない。だいたい、オシャレじゃない。
うーむ…。
どうでもいいや。だるいし、あまり複雑なことは考えないでいよう。
「こ…んにちは」
二度目。
もっとも、聞こえるような聞こえないようなかすかな音。もしかしたら聞き逃していただけかも知れない。車酔いで参った状態では、幻聴すらまともには聞こえないものだ。
実際今もそんなことを考えながら、体を動かすのがおっくうなままだった。
「こんにちは…」
それにしても、随分規則的な幻聴だ。だいたい今、雨は降っているが、風はほとんど吹いていないのだが。
…と、そこで勘違いに気づく。
目の前で音を立てていたのは、風ではなく川ではないか。なぜそんな簡単なことに気がつかないのだろう。やはり俺の頭は、まだ酔いが醒めていないようだ。
川の水なら同じ流れが続いている。繰り返されるのも当然だ。
濁った流れは、霧に隠されてよく見えない。もしかしたらとてつもなく深くて、はまったら最後、二度と浮かび上がれないのかも知れない…って、何言ってんだ俺は。
「…こんにちは」
こんな激流、黙って落ちても溺れるしかないのだ。今さら妄想を巡らす余地がどこにあるというのだ。
馬鹿か、俺は。どうもこの抑揚のない言葉を繰り返されると、それはそれで微妙に感覚が狂ってくるらしい。
…もしかしたら何も関係ないかも知れないが、今はそういうことにしておきたい、いや、おいてくれ。
「こん…にちは」
とにかく、いい加減飽きたぞ。
だいたいが、幻聴にしては出来すぎているような気がする。本当に誰かいるんじゃないか?
まさか俺にカメラのシャッターを押せという観光客か? それとも撮影の邪魔だからどけと言うのか? 写真なんか撮ったって何も写らないと思うけどなぁ。
まぁとりあえず、幻聴なら幻聴で納得しておきたいし、そろそろ体を動かすぞ。今度声が聞こえたら、背伸びをするふりでもしながら、体を捻ってやろう。
「こんにちは」
言ったそばから来やがった。
心の中でほくそ笑みながら、あくまでさりげなく、俺は振り返る。
「………」
すると、目の前には俺と同じように、傘もささずに立つ一人の女がいた。
「……………」
呆気にとられる俺を女はじっと見つめている。いつの間に近付いたのか知らないが、雨に濡れた長い髪が俺の肩に触れてしまうほどの、異様な近さに一瞬声が出なかった。
「………………あ」
とりあえず一歩後ろに下がるまで数秒。それはとてつもなく長い時間だった。
深呼吸をして、周りを確認する。相変わらずの雨。日が照ってないからはっきりしないが、どうやら夕暮れが近付いているようだ。
…そして、人の気配はない。
女は、相変わらずこちらをじっと見つめている。
もう一度深呼吸。黒ずんだ空を見上げつつ、視線を戻したら誰もいないことを願う。
そして、ゆっくりとまた前を向く。やはり女が立っていた。
………。
若い。
女の年齢には全く自信がないけれど、俺と似たような年齢に思える。服装も上半身はセーター姿。この時期の夕方はまだ寒いし、特に変わった姿とは言い難い。もちろん、痩せてるわけでも病弱そうなわけでもなさそうだ。
たぶん、この女と往来ですれ違っても、俺は全く覚えていないだろう。
しかし――。
一つだけ、決定的に「普通」じゃないことがある。
まるで生気のない表情。しかしそれなのに、生ある者を射竦めようとする、どこか怒りをたたえた瞳。そうだ、まるで臘人形と目があった瞬間のように、俺はなんとも言えない恐怖に襲われる。
…逃げ出さなければ。
俺は、この場に立ち尽くすことに堪えられなかった。
「こ、こんにちは」
ようやく口を開いて、まずは挨拶をする。
…いや、まずは、ではない。そのまま立ち去ろうと思ったのだから。
「…今日は、いい天気」
「いい?」
しかし、あまりに意外な台詞に、思わず返答してしまう。
雨はまだ降り止んでなどいない。目の前に見える女の長い髪も、はっきり濡れているのが判るほどだ。
冗談のつもりだろうか、と思いたかった。できればそうした普通の会話を交わして、立ち去りたかったのだ。
しかし女は俺の横を音もなく通り抜け、静かに鉄柵にもたれかかった。そしてその抜殻のような瞳が、確かに川を見ている光景から、俺はなぜか逃れることができなかった。
「きれい…」
俺は無言で川面に向き直す。
もちろん、女の言葉を理解など出来るはずもない。
…けれど、それが義務であるかのように、女の隣に立つ。その瞬間、はじめに感じていた恐怖は、まだ残っていたはずだったが。
「川か?」
自分で聞きながら、たぶん違うと感じていた。
「か、わ?」
霧に煙って何も見えない川面。まぁそれでも、テレビに映る画面としてなら別に悪くもないし、こんなシチュエーションであっても、人によってはきれいだと思うかも知れない。
が、きっと女が見ているのはそんなもんじゃない。
ただの直感。理由のない確信が、少しずつ俺の頭を埋めていく。
すべてはうっかり挨拶を交わしてしまったあの瞬間に決まった。女は最初から俺と話をするつもりで、そして最早自分はこの関係から逃れられない、そんな気がするのだ。
「む…ら…」
「え?」
村か?
しかし、何度断わるまでもなく、そこには一面霧に覆われた世界があるだけだ。
「たまにしか逢えないから…」
「………」
「久しぶりに…」
逢う、というその響きにどきっとする自分がいる。
それなのに、霞む彼方を見つめる女の視線は、相変わらず微動だにしていない。俺にはそんな女の態度が、何か理不尽な気がしてならなかった。
「誰に…?」
だから問いかけずにはいられなかった。
返事を期待したわけではない…けれど、女は突然振り向いた。
「あなたに」
「…あなた?」
俺の頭はまたもや混乱する。
あなた…?
女は今、はっきりと俺を見ている。それに、何度見渡そうが、近くには誰もいない。あなた…は、間違いなく俺だ。それなのに、俺は目の前の女を知らなかった。初対面だと思いこんでいた。
もう一度女の顔を見る。濡れた髪を振り乱した顔は、さっきよりどこか生気を帯びているような気もする。それでも判らない。
もっとも、俺はもともと女と話すのは苦手だし人の顔を覚えられないから、天地神明に誓ったら、見かけたことぐらいはあるかも知れない。いや、そんな気もしてきた。
だけど、いくら有りもしない記憶を作ろうとしても、この女と言葉を交わした過去の物語までは無理である。
「…あのー」
もしかして、ただの人違いだろうか。ふとそんな疑念が湧き、俺はとぼけた声を発していた。
自分で言うのもなんだが、俺は取り立てて特徴のある顔ではないはずだ。見間違いぐらいあり得ない話でもない。だいいち、このひどい霧だからな。
もう車酔いの症状はなくなっている。少しずつとはいえ頭が回転し始めた今となっては、川辺の空間は余りにも息苦し過ぎる。
俺はとにかく、この局面を打開したかった。
「あんた、誰?」
「わたし…」
わざと困惑した表情で問いかけた。
これで別人だと気付くだろう。たぶん。
もっとも、わざわざ演技するまでもなく、実際俺は困惑していたのだが。
「わたし…」
反復しつつ女はこちらを見つめる。困惑した表情。これで万事解決…………となるはずだった。
「わたしは…」
「………」
…だけど。
「わたしはツル」
まっすぐにこちらを見つめ発せられた、それは聞いたこともない名前。
「あ、いやその…」
「ゴロウ」
そして、俺を呼ぶ。だがそれは、決して俺の名前ではなかったのだ。
目の前にいるのは、まるっきり普通の女。他には誰も近寄らず、誰も去っていない。そしてもちろん霧も、川の流れすらも、何一つ変わってはいない。
…しかしこの時、俺はもう判ってしまったのかも知れない。
「逢いに来たの。クツバミゴロウ」
彼女は笑っていた。
どこまでも無邪気な笑顔で、俺を見つめながら。
そして俺は、懐かしい昔の記憶をたぐり寄せるその笑顔に、いつか見とれていた。
それからしばらくの間、俺たちは立ち尽くした。
激しい川の流れと、親しげに語りかける彼女の声に埋もれていきながら。




