クレンジング
刺すような眩しさに、しばらく目を開けることができなかった。まぶたの裏のオレンジ色にようやく慣れた頃、恐る恐る目を開けたが、オレンジ色が白になっただけの、一様に真っ白い空間が広がっていた。いや、空間と言うのもどうだろう。まったく真っ白なために、距離感がない。もしかしたら、踏み出した瞬間に何かにぶつかるかもしれないし、どこまで行っても何もないかもしれない。
しかし、その一方でここがどういう場所なのかはおおよその見当が付いていた。おそらく天国や地獄のある場所、つまりあの世であり彼岸のはずなのだ。ここが此岸である方がおかしい。自分は自ら命を絶ったのだから。
一緒にこちらへ来たはずの恋人の名前を呼ぶ。世界中で常に人が死に続けているにしても、ほとんど同時に来たはずならば近くにいるはずだ。そう思って、何度もその名前を呼びながら、ふらふらと歩きまわった。幸か不幸か空間は果てを知らぬほどに広がっている。だが、行けども行けども、どこからも返事は聞こえてこなかった。
どのくらい時間が経ったのだろう。死んでいるのだから疲れはないが、精神的に参ってきた。進んでいるのかもわからないところで、声を上げ続けていたせいだろう。心、つまり精神が魂側にあるのだとぼんやりと確認したところで、体が疲れた時にやるように、その場にへたり込んだ。
もしかしたら、このまま恋人どころか、誰にも会えないのかもしれない。そう思った途端に恐怖に襲われた。自死は大概にして罪深いものだと聞く。ならば、この場所は、そうこの何もない白い空間こそ地獄なのではないか。そのような考えが頭によぎったときから、私の呼びかけは恋人から不特定の人間に切り替わった。誰でもいい、この声に応える者はいないか。
「ここにあったか」
突然の人の声に驚きながらも、この上ない安堵を湛えて、声の方に振り返る。そこにいたのは、自分と同じくらいの歳と背格好の、失礼だが没個性的だといえる男だった。服も白いスラックスとシャツ。作業をするためのようなエプロンも同じように白だ。手には棒を一本持っている。陰の部分でようやく形が分かるような状態で、男は風景に同化していた。表情だけは印象的なほどに暗く疲れきっていて、この場所に居続けた結果なのだろうと、なんとなく思った。
「どなたですか、ここはどこです」
矢継ぎ早に質問すると、相手はその疲れた顔をより曇らせた。
「答えるには時間が無いし、必要もない」
そう言って、男は持っていた棒でドンドン、と足元を叩いた。すると、その周りが水面のようにゆらりとたゆたって、浴槽くらいの水面が現れた。
「私は今すぐ、お前を洗ってしまわなければならない。洗いものはどんどんと溜まっていくのだから」
そう言って、男はこちらへずんずんと近づいてきた。
「待ってください! 私は人を待っているのです」
「ここで待っても人は来ない。ただ、洗い物としてやってきて、洗われていくだけだ」
ものすごい力で引き寄せられて私は上からその浴槽を見た。中はすごい勢いで渦を巻いていた。そして、その流れに流されるままに柔らかそうな塊がいくつも回っているのだった。塊には色がついていたようだったが、流れの中に溶かされて、皆だんだんと白に帰ってしまっている。それらは洗濯機の中で回るハンカチーフのようで、風に翻弄されるビニール袋のようでもあった。
色の比較的濃いものが、目の前を通り過ぎる。見覚えのある青いスカーフ、浅木色のチュニック。ああ、あれは。
「洗わなければ、魂は使いものにならない」
ああ、流れているのは、人なのだ。彼女もそのうちに洗い晒されて、木綿の白い布切れになってしまう。真っ白い流れに溶かされて、何も無くなってしまうのだ。じわじわと恐怖が戻ってくる。
「嫌だ、洗われたくない。来世は、輪廻はどうなります」
「預かり知らぬこと」
男はそう言って、私をその場に下ろした。近くで座り込むと、水の中はよく見える。どんなに色を吸い込んでも、汚れを知らぬ滔々(とうとう)たる水だ。
「肉は土に帰っても、魂は残る。ならば、魂を再びあちらに帰すために、心はすべてここで洗い落さねばならぬ。全ての者がまっさらな状態で始まることが肝要なのだ」
男はそう言って、その棒で水の中をかき回した。渦が逆転を始めて、塊から色が抜ける。魂から心が抜ける。生前の思いも、記憶も、約束も何もかもが水の中に溶けていく。なくなっていく。
「それでも、失いたくなければ」
男は渦から目を離し、こちらを見た。
「こうして洗い続けるしかないのだ」
そう言ったその顔は、深い疲弊の色を浮かべていた。私はゆっくりと立ち上がる。
「消えたくない。自らの意思でここへ来たが、消えるためでは決してない」
呟いて、男から棒を取る。寄こす気があったのかと思うほど、やすやすと奪うことができた。そして、男を見る。暗く疲れ切った顔だ。理由がわかったからこそ、やはりそうとしか言えないのだ。
「ああ、助かった」
そう言って、男は口の端に僅かに笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと倒れるように、糸が切れたように、水槽の中へと吸い込まれていったのだった。
白い服の男の、最後に残った色が抜けていく。私はそれを存分に眺めた後、新しく流れてきた色を見つけて、手にした棒でもって、水底に深く深く沈めてやった。