―9―
***
「やっぱし、二回に分けた方が無難だったな」
ぽつりと小さな声で呟きながら、山積みにしたファイルを抱えてエレベータのボタンをようよう押した。ファイルが重たくて、手が微かに震えてしまう。
どうか落ちませんように。
静かに開いたエレベータに乗り込むと、次は、階数を指定するのに戸惑ってしまった。ああ、右手を離したらきっと落としちゃうだろうし……。
う~ん……どうしよう。一回下に降ろして……台車借りてくれば良かった、今から借りにいったほうが良いかな?
「資料室で良いの?」
「え」
ふ……と荷物が軽くなって、視界が広がった。
「あ……と、はい」
そして、難なく階数は指定されて静かにドアは閉まってしまう。さっきまでそこで扉が開くのを待っていた廊下が、閉まっていく扉で見えなくなっていく。今すぐそちら側に戻りたかったけど、もう遅い。
「もう少し、持とうか?」
「あ、いえ。大丈夫、です。すみません」
本当に、何でまたこういうときに、これだけ広い社内で顔を合わせなくちゃいけないんだろう。私は視線を置く先に困って階数を数えていた。密室――カメラはあるけど――で二人きり、以前の私だったらふわふわした気持ちになっていた。けれど今は痛みしか湧いてこない。
「ありがとうございました。もう、大丈夫ですから」
資料室に到着してカウンターにファイルを置くと、そこまで一緒に運んでくれた小西さんにお礼をいった。心の中でこのまま立ち去ってくれることを願ったのに、伝え切れなかったのだろう。
「でもこれ全部、返さなくちゃいけないんでしょ? 手伝うよ。どうせ、今のとこ暇だし」
「―― ……え、えと……。その、すみません」
小西さんにいつもの調子でにこやかにそういわれてしまっては、私はそれ以上断れなかった。
資料室に直接資料を取りに来るような人は、殆どいなくて人気は全くといって良いほどない。引き続き二人きりだ。意識なんてしなければ良いだけなのに、どうしても色々と気になってしまう。
「でも、珍しいよね。直接こんなに資料引っ張り出すなんて」
「ああ、うちのチーフ。こういうのに目を通すの好きなんですよ。たくさん資料があればあるほどご満悦なんです」
「ふぅ~ん。大変だね。データだけなら直ぐ済んじゃうのにねぇ」
「ですねぇ~」
普通の雑談を交わしながら、手元にあったファイルを年度ごとに棚に収めていった。
―― ……ことん。
「これで、最後」
最後の一冊を書類棚に収めると私は一息吐いた。そこで、やっぱりこのままでは申し訳なさ過ぎると思い「あの、小西さん」と切り出した。過度の緊張から少し声が上ずってしまった。それがどうしようもなく恥ずかしくて頬に熱が集中する。それを見られたくなくて、私は自分のパンプスの先を見ながら続けて謝罪した。
「昨日は、その、すみませんでした」
理由ははっきり分からない。
理由が分からないのは、私のせいだし、きっとそうなってしまったのも、二人を繋ぐのは私だけだから、私のせいなのだろう。
だから、私は手伝って貰った御礼と共に昨日のことも謝罪した。
そんな私の様子を見て、小西さんは柔らかく微笑んでくれる。変わらない笑みだけど、唇の端に昨夜の傷が微かに残っていて少し痛い痛しかった。
「彼から、何か聞いた?」
「あ……いえ……。何も。でも、克己くんがやったことは」
しどろもどろになってしまった私に、くすくすと笑いながら小西さんがこちらの方へ歩みを進めたことに、反射的に警戒してしまった。
私はその足取りに合わせるように後退した。
でも、後退出来たのはほんの僅かで、私はカウンターに背をついてしまった。
「自分がやったわけでもないのに、彼のために謝るんだね?」
「いえ、その」
―― ……そういうわけじゃ……ないことも、ないけど……。
私が背にしているカウンターに片手をついて、真正面に立った小西さんは、さも可笑しげに私の顔を眺める。
「そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
「い、いえ、その、怯えては……でも、ちょっと、近いかと……」
「そう、感じちゃうんだ? 少しショックかな」
ショック。そう口にした彼の瞳は僅かに翳った。
「え……?」
「いや、つい最近のことのような気がするのに、もう、碧音ちゃんの中では、僕のことは過去なんだね。ただ、ここまで近寄っただけなのに、碧音ちゃんは逃げ腰になってるし、凄く警戒してる」
少し、眉間に皺を寄せて悲しそうに微笑みながらそういった小西さんを見ると、心の奥のほうがほんの少し、ちくりと痛んだ。
「そ、そういうわけでは……」
「しー……っ……」
「―― ……っ!……」
小西さんは何かいおうとした私の口を空いた片手で、そっと塞ぐとその上から軽く口付けた。
その行動に、目を白黒させてしまった私を楽しそうに眺めると
「これで、今回は彼のこと、許してあげるよ」
そういって笑った。
「僕のことは、あやからでも聞いた?」
「―― ……はい」
「なら良いんだ。だから、碧音ちゃんは気にしなくて良いんだよ。僕の動機も不純だったわけだし、僕の方も謝った方が良いくらいだよ」
「そんなこと」
掛ける言葉も思いつかないくせに口を開こうとした私の声を遮るように、そっと言葉を重ねる。
「じゃあ、一度準備のために来週発つから、そうしたら、もう……暫らくは会えなくなると思うけど、元気で」
優しく、愛しそうにそういいながら、私の頬を撫でた小西さんは少し寂しそうだった。寂しそうだと、私が思いたかっただけかもしれないけれど。
何か労いの言葉でも掛けたほうが良いのだろう。でも、私には、もう何もいうことは出来なかった。
そのことを重々承知しているのか、それ以上小西さんは何もいわずに、私から手を離した。そして、立ち去り際、ふと思い出したように声をあげて振り返る。
「あ! と、そうだ。最初から怒ってなんていないから、彼を責めないであげてね? 僕が煽ったんだから……彼に罪はないよ。逆に、あれでも冷静でいるようなら、彼といるべきじゃない」
「―― ……」
「大丈夫。彼は良い子だよ」
その言葉と柔らかいいつもの笑みを残して、小西さんは、部屋を後にした。その後姿を扉越しに見送りながら、彼の感触が残る唇をきゅっと噛み締める。
湧いてくるこの感情の名前を私は知らない。
ただ、胸をぐっと潰されて息をするのも苦しく感じる熱を帯びた想いだ。私はとても嫌な女だから、心のどこかでは、彼に私を裏切ったことを後悔して欲しかった。未練を残して欲しかった。
それなのに、リアルにそれを見せ付けられると、ただただどうにも出来ないことが苦しかった。
でも、私はここで確信した。小西さんと今はっきりと決別出来たのだろう、と。
「―― ……」
きゅっと胸元に抱いた拳を抱き締めるようにして、強く瞳を閉じる。そして、心の中だけで「さよなら」を告げた。
私、本当に貴方が好きでした …… ――