―5―
***
―― ……コンコン。
「―― ……くん」
ドアの向こうから、呼び掛けてくる声が徐々に泣き声のように、か細く勢いのないものになっているのは俺にも分かっていた。
でも、俺の気持ちは未だ治まらない。
別に酒が回っているわけじゃない。
碧音さんに対して腹がたって、仕方ないというわけでもない……きっと……多分……。
でも、このはけ口のない感情は、俺の心の奥のほうにどっしりと重く腰をすえていて、立ち上がろうとしなかった。
「克己くんってば! 話、聞いてよ……っ」
しかし、一つだけ繰り返されるこの台詞には、正直腹が立っていた。
そして、痺れを切らした俺は掛けた鍵を開けて静かにドアを開く。その先には、案の定、今にも泣き出しそうな不安げな表情で、碧音さんが立っていた。
こんな顔をされてしまっては思わず抱きしめたい感情にかられてしまうあたり、俺もいい加減甘い。
「―― ……克己くん」
「いっとくけどな」
「うん」
「最初に話を聞かなかったのは、碧音さんだからな」
「―― ……」
その一言への返答を待ったが、碧音さんは口元が微かに動いたが、声にはなっていなかった。
その代わりに大きなまん丸の瞳から、
―― ……ほろり
と、一筋涙が伝った。
俺はこれ以上の返事は期待出来ないと思い、再びドアを閉めて鍵をかけた。
―― ……コツ
俺の後ろ手にドアの向こうから、微かに音が聞こえたが俺が再びドアを開けることはなかった。
***
声を出すことが出来なかった。何もいえなかった。
―― ……最初に話を聞かなかったのは……私……。
本当だ……
克己くんが怒っても仕方ない。
私は、彼に何も聞かなかった。
理由も……何も……。
そして、何よりそのことに気がつけなかった。
……情けない…… ――
あまりに情けなくて声も出なかった。
ただ、ただ、涙が零れた。
―― ……ごめんなさい…… ――
そういわなくてはいけないのは、私だ。
それなのにいえなかった。
声が、出なかった……。
ドアは閉められてしまった…… ――
開くことのない、ドアにおでこを、こつんとあてて俯くと、ぽたぽたと涙が廊下を濡らした。
「―― ……っ……」
ドア越しにでも謝ろうと、話を聞こうと思うのに、思うように声にはならなかった。
本当に、どうしようもなく
私は馬鹿だ…… ――
ぎゅうっと扉と仲良くなった顔の隣に置いた拳に力を入れる。痛いくらい、強く、強く……
***
どうして俺が、こんな煮え切らない気持ちを抱えなくてはいけないのか? そもそも、どうして、こんな気持ちになる必要があるのか。
どうして、小西がいったことにあんなに腹が立ったのか……
いつものように、放っておけば……良かった。
いいたい奴にはいいたいように、いわせておけば、良いだけだったのに、
どうして、あのときの俺はそう出来なかったのか。
俺はそんな疑問を限りなくエンドレスに近い状態で、自問していた。
「都合が良い」そんな言葉も流せたのに、どうしても、流せなかった……というか、そんなこと頭で考える前に手のほうが先に出ていた。
酔いが回っていた証拠なのかな。
ぐるぐると、頭の中が整理できないまま、パソコンの画面が省エネモードのなってしまった。
そういえばそろそろ講義も始まる……というか、研修があったなぁ……。
どこだっけ?
つい、何にも考え付かなくて、今、関係ないどうでもよさそうなことを考えてしまう。
これって、現実逃避? そんな風に思うととても子ども染みて感じた。
―― ……静かになったな?
ふと、ドアの向こうから物音がしなくなったことが気に掛かった。
もう、諦めて部屋に帰ったのか?
なら、都合が良い。
風呂にでもはいろう。
そう思い立った俺は、机から身体を離しゆっくりとドアを開いた。
「―― ……何だ」
ドアの外を確認して思わず笑ってしまった。
結局、泣き疲れたのかドアの横で、座り込んだまま静かに寝息をたてていた。
よっと、隣にしゃがみこんで、顔を覗き込んだが、どうやらしっかり眠っているらしく、起きる気配はなかった。
―― ……こんなとこで、寝てたら風邪ひくぞ。
ふっと口の端から笑みが零れ、顔に掛かっていた髪を後ろへ流してやる。
それでも、反応はない。
もうこうなったら、目は覚めないだろうな。
片腕を俺の首にかけて、何とか抱き上げると寝室へ運んだ。
「―― ……よっ、と」
静かに横たわらせて布団を掛けた。ふんわりと、ベッドに身を沈めた碧音さんは何事もなかったように穏やかに眠っているように見える。
それなのに小さく寝返りを打ったあとは、普段刻まれることのない眉間に深く皺が入り、唇が動いている。
どうやら、何かいってるようだ。
目を覚まさないようにそっと耳を近づけて、息をひそめた。
「……さ、い。ごめ…ん……」
―― ……まだ、謝ってるのか?
はは…… ――
「もう、分かった。良いよ、怒ってない」
長い髪を、脇に流すと眉間に寄ったしわが緩んだように見えた。
碧音さんはこんなに、真っ直ぐなのに……
いつだって、きっと……
ただ、それだけなのに、あいつは
『受身だけの女なんて退屈だったんだ』
―― ……そんなことない
『でも、従順で素直だったし、扱いやすかった。他に、なんて考えるようには見えなかったのに、こんなに簡単に乗り換えるなんて……』
―― ……そんなんじゃない。
『僕の想像以上に尻の軽い遊び上手な女だったんだね』
―― ……違うっ!! 訂正しろっ!!
思った瞬間、殴ってた。
今も、思い出しただけで、腸をえぐられるように痛む。痛くて、痛くて、違うと否定し吐き出した台詞を訂正させるよりも早く手が出てしまっていた。
俺にだって、分からない。
俺のことじゃないのに、どうして自分が切れたのか……。
ただ、耐えられなかった。
耐えられなかったんだ。
俺はきゅっと下唇を噛み締めその痛みにただ静かに堪えた。碧音さんの痛みを何も知らないくせに……あんな、クズ……。
「ごめんな……次があったら、ちゃんと、訂正させるから……本当、ごめん」