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私から、視線をそらした克己くんは、私の声が聞こえているのか? 聞こえていないのか? 分からないくらい無反応だった。
私は暫らく問い掛けたまま、克己くんの反応を待った。
彼の左手は暗がりの中でも分かるくらい赤くなっていたし、少し擦り剥いているようにも見えた。
きっと、小西さんの眼鏡にでも当たったんだろう。
水仕事のあとだと思うから見た目以上にきっと痛みが伴っているはずだ。
「ねぇ、克己くん?」
「―― ……離せよ」
傷の手当てをと思った私の声に、今まで耳にしたことのないような、感情の籠もっていない冷えた声で呟いて克己くんは私の両手を払いのけた。
一瞬よろめいてしまった私は、隣の椅子に何とか支えられ持ちこたえた。
よろめいた私に、克己くんは、はっ! とした様子で刹那後悔するように見たけれど、何もいわない。
私が体勢を立て直すのを確認して、よろりと席を立ち、無言で上着を羽織ると店を出て行った。
からんっと静かにベルが鳴って、その音で始めて私は我に返った。
「大丈夫ですか?」
我に返ったものの身じろぎ一つ出来ないでいる私に、心配そうな優さんの声が聞こえた。
「えっと、はい。大丈夫です。その今日は迷惑かけちゃったみたいで、すみませんでした」
「良いですよ。何かあったんでしょう。普段そんなことをするような子じゃないですし。何より貴方のせいではないでしょう? それより、早く行ってあげてください」
姿勢を正し頭を下げた私に、マスターはそう優しくいうと外へと促してくれた。
その言葉に甘えた私は、エレベータが階下に下がっていくのを確認して慌てて隣の階段を駆け下りた。
「ちょっと! ちょっと待ってよ!!」
私が追い掛けてるのも、
声を掛けているのも、
気がついていないわけはないのに、
克己くんは振り返ることもなかった。
克己くんの歩幅と私の足ではどう考えても分が悪い。
到底、追いつかないことを確信した私は家に帰ってから話を聞こうと追いかけるのを途中で諦めた。
―― ……でも、どうして?
明らかに、克己くんは怒っていた
私、そんなに悪いことをいっただろうか?
優さんの様子もおかしかったし、マスターだって『普段は……』っていってたし何よりも、小西さんの顔には傷がついていた。
これは、私も確認した事実だし。
私は、私自身動揺していて考えの纏まらない頭をフルに使いながら、足早に帰路を目指し、家路を急いだ。
そしてその道のりで答えを得ることは出来ないまま、マンションまで辿り着いてしまった。
克己くんは、ちゃんと帰ってきているだろうか?
そのことに一抹の不安を感じながら。
階上へと登っていった。
「あった……」
玄関に靴は並んでいた。
ちゃんと、帰ってはきたみたいだな。
そのことに、ほっと胸を撫で下ろし、彼の部屋へと足を運んだ。
克己くんはまだ、怒っているのだろうか? そんな緊張を抑えるため、一旦深く深呼吸して、部屋をノックした。
「克己くん」
―― ……コンコン。
「克己くん?」
―― コンコンコン……
何度となく同じことを繰り返したが、返事はなかった。
でも、人の居る気配は確かにあるわけだから……私は、無視されているだけだろう。
ふむ……よっぽどだな……。
―― ……ガチャ。
「―― ……あ! っと」
強行手段だとは思ったけれど返答を待たずに、ドアノブを下げた私は、一瞬、どきっとした。
開かない…… ――
そういえば、今まで使うことがなかったから忘れていたけど、各部屋にはきちんと中から鍵がかかるようになっていたんだった。
初めて、開くことのないドアを前に私はいい知れない不安とショックを受けていた。かすかに指先が震える。
まさか。
こんな風に拒絶されてしまうことがあるとは思ってもいなかった。
「克己くん、話くらい聞いてよ……。ねぇ、克己くん?」
返事の返ってくることもない、
開くこともない、
ドアの向こうに私はすでに泣き言のように呟いていた。