―3―
***
あやとの電話を切った直後だった。握ったままの携帯が音を出して驚いた。
―― ……克己くん……か。
ディスプレイの表示から、相手を確認しつつ、ぴっと通話ボタンを押す。
「はいはい?」
『あ、と。もしもし? X―クロス―の優ですけど……』
―― ……ええ?!
確かに克己くんだと思ったのに、動揺のあまり次の言葉がなかなかでなかった。
『克己の携帯借りてます。えっと……? 分かります?』
「―― ……あ、はい。大丈夫です。で、何かあったんですか?」
『あった、というか。あの……』
ごにょごにょとどこかいい辛そうな優さんの声に首を傾げつつ続きを待つ。
―― ……ぴっ。
優さんは時折言葉を選びながら、何とか用件を私に伝えた。
とりあえず携帯を切った私は無造作にバッグに入れ込んで、着替えるため寝室へ向かった。
―― ……珍しいな。克己くんがそんなに酔ってるなんて。
半ば信じがたいような話だったけど、わざわざ優さんがかけてくるくらいだから本当なのだろう。
すばやく身支度を整えた私は慌てて家を出た。
白い息を吐きながら、私は真っ暗になった街道を走っていった。
『X―クロス―』まではそう遠い距離でも、なかったのでそれほど時間はかからない。
***
「本当に大丈夫ですか? 車、呼びましょうか?」
「いいえ。本当に大丈夫です。アルコールがまだ残っているんですよ。心配なさらないでください」
小西は勢いつけて立ち上がったのか、一瞬よろめいたのが目に入った。
「克己。何かいうことはないんですか?」
カウンターに突っ伏していた俺にマスターの少しきつい口調が届いた。俺は重たい頭を持ち上げて、ようよう小西の方へ視線を向けた。
―― ……いいたいこと?
「彼女は、もっと痛かった」
「克己!」
俺の一言に、マスターは顔色を変えたが、小西は、静かに微笑んでいた。
「分かってる」とでもいいたげな大人な態度は益々俺を苛立たせる。
俺の名を呼び嗜めるマスターは、尚も俺に謝罪を要求していたが、俺はどーせ子どもなので無視した。
***
結局、休むことなく走りきった私は、かなり息が上がってしまっていた。
肩で息を切るように、エレベータの前にたどり着きボタンを押した。
エレベータは思った以上に早く降りてきて、いつもとなんの変わりもなく静かに扉が開いた。
「―― ……小西さん?」
―― ……どうして?
静かに開いた扉からすっと出てきたのが、間違えなく小西さんだったことに、私は一瞬言葉を失い動揺した。
珍しく、眼鏡は胸ポケットに入ったままになっていて、素顔の彼がいつもと変わることない穏やかな笑顔を私に向けたが、何もいうことなく静かに通り過ぎていった。
「あのっ。その傷……!」
「早く、行ってあげて」
彼の口元の傷と頬の腫れを見逃すわけはなかった。
急いで引き止めた私に、尚一層優しく微笑むとそう一言だけ残し、その後はもう振り返らなかった。
―― ……克己くん……
ざわざわっと私の心はざわついて、まさか……! とは思いつつも、あまりにも良くないことが私の頭の中によぎっていた。
そんな不安を抱えていたためか、なかなか、エレベータの階数が進まないように感じる。苛立ちを覚えつつも何とか、エレベータはお店のある階で静かに止まった。
扉が開くのを待ちきれず、閉まったままの扉を苛立たしげに、ぱすぱすと叩く。そして、そんな私の慌てた心とは反対にゆっくりと開く扉から、私は流れ出るように急いで飛び出した。
***
ウェルカムベルがやけに五月蝿く鳴ったような気がして、俺は頭を上げた。
早かった割りには身奇麗にした、碧音さんが少し眉間にしわを寄せていつもより乱暴に俺に近づいてきた。
微かに石鹸の香りが残っていて、もう寝るころだったんだろうと思うと少し申し訳ないような気持ちになった。
別に一人で帰れないわけでもなかったんだけど。そう思って謝罪を口にしようとしたら、それより早く碧音さんが口火を切る。
「克己くん!」
「……うん?」
いつもにもなく、きつい口調の碧音さんに驚いて、うなだれていた頭を正した。
―― ……ぺちっ!
俺が正面を向くのが早かったか、
碧音さんの両手で顔を挟まれるのが早かったか、良い勝負だ。真っ直ぐに俺を見る碧音さんの瞳に写る俺は馬鹿みたいに虚をつかれている。
普段は、彼女を纏っているふんわりとした空気が冷たく熱い。俺は確実に怒られていた。
「ダメじゃない! 人様に手を上げたりしちゃ!!」
「―― ……」
別に褒められるようなことをやったとは思ってない……思ってはいない。
だけど、責められるようなこともしていない。
「克己くんだって、痛かったでしょう?」
「―― ……」
俺は何も悪くない ……――
「克己くん……?」
悪いことなんて、
碧音さんに責められるようなことなんて、何もしていないのに……
否定したいのに、その言葉すら思い浮かばないくらい、俺の頭の中は真っ白になった。
褒められたいわけじゃない
唯、護りたかっただけなのに……何も伝わらない
誰も、俺のことなんて分からない。
分かってはもらえない
碧音さんすら、俺を拒絶する
それが、とて、も、とても、イタイ…… ――