―12―
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―― ……あ、帰ったかな?
書斎にいた俺は、ふと玄関のドアが開いた気配がして時計に目をやった。
今日は早いみたいだな。
いつもよりほんの少し早い帰宅を確認しつつ、俺はキーボードを打つ手を止めた。
―― ……コンコン。
タイミングよく、ノックの音が響いたので「お帰り」と声を掛けると静かにドアが開いた。
その先に居たのは、もちろん碧音さんだったけど、なんだか様子が違う。寒いところから、帰ってきたというのに、紅潮しても良さ気な頬はどことなく青いような気がする。急いでいたのか息も上がっているのに……ざわざわと胸の奥がざわついて、嫌な予感がする。なんだか恐い。
玄関を入ってすぐ、ここへ足を運んだのか白いピーコートも着込んだままだ。
「碧音さん?」
俺は不安げに声を掛け、椅子から立ち上がると、眼鏡を外して机上に無造作に載せる。
「どうか、した?」
そう訪ねた俺に小さく首を振って、駆け寄ってきた彼女はそのままの勢いで抱きついてきた。
「―― ……」
「なあ、碧音さん? どうした?」
彼女が纏った冷たい空気が俺の体温を奪っていく。ぎゅうっと回された腕に力が込められ、少し苦しいくらいだった。
それなのに碧音さんは
「どうもしない。どうもしないよ」
そう重ねる。
―― ……ふぅ。
どうもしなくて、自分から抱きついてきたりしないだろう。全く。
そう思ったが口にするのは、留まった。
いや、留まったというよりは口にすることが出来なかった。
俺をひしと見上げた碧音さんは、腕を首に回して、ぐぃと引き、そのまま唇を重ねた。勢いに押されて、後ろ手にしていた本棚に背を着いた。
―― ……ばさばさ……っ……
不安定に本棚に置かれていた数冊の本が床に落ちる。碧音さんはそんなこと微塵も気にしない。というか気がつかない様子で、噛み付くように強引なキスを重ねる。
「……んっ、んぅ、ちょ、ちょっと待てって! ほら、コートぐらい脱いだら?」
本当にどうしたっていうんだ? 一言でいうなら“らしく”ない。
「碧音さん?」
「……ヤダ」
「え」
「克己、抱いて……今すぐ!」
弱り果てた俺の顔をすがるように見つめた碧音さんの口から出たその言葉に、どんっ! と強く心臓が跳ねた。
どうして? というのが当然の問いだと思う。けれど、俺にも当然碧音さんにも聞き返す余裕はなかった。
ぎゅうっと強く抱き締めて、深く唇を奪う。漏れる吐息に、もっとと強請られてより深く、強く……。
「……っは、ぁ……ぁつ、み、」
切なげに漏れる声が狂おしい。
いつでも基本受け身な碧音さんに、求められることが素直に嬉しい。
他人にあんなに求められることが、鬱陶しかったのに……必要とされるのが素直に、嬉しい。
***
―― ……さぁぁぁぁ。
克己くんをバイトに送り出した私は、シャワーに打たれていた。
暖かなお湯が身体を伝っていくのをぼんやりと眺めながら、自分の言動を思い悩む。
「―― ……これで、良かったんだよ」
ぽつりと、自分にいい聞かせるように呟いた私の頬には水が流れるけれど、それがシャワーのせいなのか、自分が涙を溢しているのか、分からない。分かりたくない……。
だって、悲しいわけでもない、
今が嫌なわけでもない。
克己くんのことは好きだし。
彼が想ってくれる様に私だって大切に想っている。
―― ……でも……。
小西さんのことは嫌いじゃない。
そう。
その気持ちが私のなかでぐるぐるとしていて、彼の夢と将来を、あの一時の私のわがままで駄目にしてしまったのではないかという不安で、どうしようもなかった。
愛されている。
そう実感できれば、こんな思いどうでもよくなるんじゃないかと思った。忘れられるんじゃないかと思った。
でも、結局、私はまだうじうじと、悩んでいた。
がつっ!
「あ、いったぁ~」
ぼんやりとしたまま、シャワーを止めようと手を伸ばしたら、思いっきり手の甲をコックにぶつけてしまった。
じわりと、赤く染まった甲からぽたりと血が落ちていった。
―― ……痛……。私、何やってんだろう。
お風呂場で、流血するとなぜか止まりが悪い。
後から後から、流れ落ちてゆく血を眺めながら小さく溜息を吐いた。
駄目だ。
駄目だ、駄目だっ!!
こんなこと考えても埒が明かない!
小西さんには悪いけど、あのときの私は、彼を許すことができなかった。
そう、許せなかった。
たった、それだけの理由ではあったんだけど、あの時の私にはそれは最強的に強い決断理由の一つになっていたんだ。
私は、小さく握りこぶしを作ると、一人で力強く納得した。
「私は間違ってなんかないっ!」
馬鹿みたいに大きな独り言を吐いて、ぶるぶると水を被った犬のように頭を振った。
***
店に入れば、閉店ギリギリまで人は途絶えない。
それなのに、つい、考え込んでしまっていて手が止まっていた俺にマスターから「まだですか?」と声が掛かる。
「もう出来ます!」
慌てて返事をして、手元へ集中を戻す。
今日の碧音さんは驚くほどおかしかった。結局、その理由は聞けなかったけれど、あの様子ではいうつもりもないだろう。
『克己、抱いて……今すぐ!』
必死な碧音さんの姿が思い出されて、ふわりと胸が熱くなる。
まぁ。
たまには襲われるのも良いか。
そして俺は、この後その理由を知ることになるとは、微塵も想像していなくて……そういえば、今日初めて、呼び捨てにされたような気がする。
「~くん」も卒業したのだろうか?
なんて、呑気にそんなことを思い出し、ほくそ笑んでしまっていた。




