―11―
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―― ふぅ……。
私は、憂鬱だった。
正直、そんなことも知らなかった自分にも腹が立っていたし。
そのことを、あの時小西さんはいおうとしていたのかも知れないと思うと、その場を逃げ出してしまった自分が情けなくもあった。
過ぎてしまったことをどうこういう気にはならないけど、でも、どうせ角を曲がるなら最後まで話を聞いてあげても良かったかもしれない。
彼は、今までのこと全てを清算するつもりだったのかもしれない。
その話を、しっかり聞いてあげる心の余裕が、どうしてあのときの私にはなかったんだろう。
私ってば心が狭すぎる。
でも、耳を傾けたからといって、私の気持ちは本当に揺らいで変わっただろうか?
そんなことを考えつつ、資料室から持ち出したチューブファイルを数冊片手に私はエレベータが開くのをまった。
「あら、碧音。どうしたの世界中の不幸を一身に背負ったような顔してるわよ」
ドアが開いたことに気がつかなかった私に、あやの声が響いた。その言葉に苦笑しながら、中へ乗り込んだ。
あやの問いに答えなかった私を不思議に思ったのか、あやはそのあと言葉を続けなかった。なんともいえない、沈黙を破ったのは私だ。
「あや、あの、さ」
少々、躊躇い気味に声を出した私の話の内容を察したあやは、私を見ることなく上がっていく、階数を目で追いながら答えた。
「良かったのよ。これで……何も迷うことないわ」
「やっぱり、私が知らないってことも……小西さんの考えも……知ってたんだね」
「まぁね。あの広報誌作ったのあたしだもの」
二人の間に流れた空気は息苦しくて、一分一秒でも早くここから、出たかった。
「そっか」
この一言が私の精一杯だった。
静かに開いたドアを潜る私に、あやが小さく手を振るのが視界の片隅にうつった。
でも、私は振り返すことが出来なかった。
***
夕飯の買い物を済ませ、家に戻ったのはもう夕方だった。
今日のバイトは遅番だし、時間はもう少しある。その間に、夕飯の下ごしらえをして、休み明けに提出になっている、レポートの続きでもやろうか。
俺が出掛けるまでに帰ってきたら良いんだけど。
最近何となく、俺は一人の食事というのが、寂しいものだと少し感じるようになっていた。
そんな自分の変化が可笑しくてむず痒くて、一人で思い出し笑いをしながら、キッチンに立つ。
***
今日は仕事始めということもあって、残業もなく退社することが出来たというのに、冬の日が落ちるのは早く、あっという間に辺りは真っ暗になってしまった。
あまり気分も良くない。早く帰ろう。克己くんの美味しい夕飯が待っている……って、私これ、完全に餌付けされてるよね。
……仕方ない。玄人裸足で美味しいんだもん。
落ち込む気分を何とか上昇させ、私は帰り道を急いだ。
「碧音ちゃん」
「え……」
そんな私に掛かった声は、聞き覚えのあるあの声だ。とても耳によく馴染んだものだ。
それなのに、反射的に私の身体に緊張が走った。
恐る恐る、振り返った私の視線の先にいたのは、間違いなく小西さんだ。
「途中まで、一緒しよう」
白い息を吐き、にこやかに駆け寄ってきた小西さんは、私の了承を待つこともなくそういって隣に並んだ。
「碧音ちゃん、休みどうだった? ゆっくりできた?」
「―― ……はい。何とか……色々ありました」
「色々……うん、そうだね、色々」
私は並んで歩く彼の姿を見ることが出来なくて、自分の足先をにらみつけたまま、こくんと頷いてごにょごにょと続ける。
「その、私、この間すいません、途中で、その」
あまりに急なことだったので、言葉なんて浮かんでこない。とてもじゃないが、心臓がきゅうきゅう悲鳴を上げている。
そんな中、ちらりと盗み見ると小西さんはいつも通りの微笑を湛えていた。何だかその表情はそんなに昔に見たわけではないのだけど、とっても懐かしいような気にさえなってくる。
私がとても好きだった表情だ。
遠く離れてしまったもののはず、自分で手放した筈なのに、胸がとくん、とくんっと高鳴り熱くなる。
未練がましいとでも、いうの、かな?
「じゃぁ、今からでも聞く?」
「―― ……え? あ、それは」
表情一つ変えずに、意地悪な質問をしてきた小西さんは、動揺した私を見て楽しそうに笑った。
「冗談だよ。もう僕の代わりを見つけた?」
何の気もないように、ふとそう訪ねた彼に私は何も答えられなかった。
代わり……そんな風にいって欲しくなくて、
でも否定するだけの言葉がなくて……
ただ、胸が苦しくて、
声が出なかった。
「相変わらず、碧音ちゃんは正直だね。そんなとこ、好きなのにな」
ふわりといつもの香りが近くなる。少し前まで、私を捉えて離さなかった香りだ。じわじわと胸が焦げる。
私は慌てて、じりっと距離を取り
「―― ……っ、あの、私、ここで失礼します」
逃げ出した。
本当はちゃんと話すべきなのかもしれない。
少なくとも、克己くんは小西さんの代わりではないことは確かだ。
別に私は克己くんを小西さんの代役だなんて考えてもいなかったし、二人に共通点なんてないと思う。
そう確信を持っていたものの、そうはっきりと告げることも出来なくて慌ててその場を離れることが、今の私の精一杯だった。
かつかつと歩道を弾く足音は一つ。
彼は追いかけてはこない。
追いかけてこない。
いつだって、私が追いかける立場だった。
それが不安だった。
それが、とても…… ――