―8―
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「―― ……ん。頭いてぇ」
頭の痛みに耐えかねた俺は、もがくようにベッドで寝返りを打った。と、同時に……
「しまった!! 寝坊した」
突然戻った意識に後押しされ、俺はベッドから飛び起きた。遮光カーテンの隙間から陽光が漏れている。
今日は、碧音さんの仕事始めだったのに。
そう思った俺は慌てて隣を確認したが、もう既に、碧音さんの姿はそこにはなかった。部屋を見渡すと、隣のソファの上に、彼女のパジャマがかけてある。
何だ、一人で起きたんだな。
俺は、ほっと胸を撫で下ろすと、二日酔いの頭を何とか起こして寝室を出た。
廊下に出ると、珈琲の良い香りが鼻腔を擽る。これは、碧音さんのオリジナルブレンドの香りだな。柔らかくて丸い香りがする。
ふと、そんなことを思いつつ、こめかみを押さえながらリビングまで出てきた。
「おはよう。克己くん。その顔は二日酔いでしょ? 珈琲でも飲む?」
「―― ……ああ。もらう」
仕事が喜ばしいのかどうなのか、今日は朝から、はっきり目が覚めているようだ。にこやかに、俺を迎えると椅子を勧めた。
***
「あ、と。何か作ろうか?」
椅子に腰掛けるのを躊躇した克己くんは、そういって私の顔を見つめた。
「大丈夫だよ。トースト焼いて食べたし。もう、出かけるから」
「なら、良いんだ」
苦虫を噛んだような顔をしつつ克己くんは、そういうと腰を下ろした。
やっぱり克己くんは表面的なものとは裏腹にとても優しい。自分が辛いのだからもっと休んでいても良いはずだし、私に付き合うことなんてないのに……。
「珍しいね。克己くんが二日酔いに悩むなんて」
「碧音さんが、離してくれないから酔いが回ったんだよ」
―― ……なっ!
ぶわっと身体中の熱が顔に集結する。
「わ! 私は別に、克己くんが夜中に起こすからっ!」
「はははっ……ぃてて……。照れなくても良いだろ」
突然突拍子もないことをいうもんだから、年甲斐もなく大声を上げてしまった。
一気に沸騰した頬の熱を取り去ることも出来ないまま、私は椅子にかけてあったコートを、取り上げるとバッグを無造作に取り上げて玄関へ向かった。
靴を履こうと玄関の脇にバッグを置くと奥から克己くんの声が響いた。
「珈琲はぁ?」
「っ!!」
人のこと最後までからかって!
確かに飲むかと聞いたのは私だけど、いつもなら自分で何でもやっちゃうくせにっ! 絶対私が玄関でしゃがむ頃合いまでまって声を掛けたに違いない。
克己くんは時々意地の悪いからかい方をする。
「―― ……っ! もうっ!」
私は、キッチンに戻り、無造作にサイフォンからカップに注ぐと克己くんの前においた。
「じゃあ、私は行って来るからね」
吐き捨てるようにそういった私を呑気な笑顔で見つめると、突然思い出したように声を上げた。
「……そうだ。夕飯何が良い?」
「え……と、イタリアン」
反射的に答えてしまった。それが可笑しかったのか克己くんはくつくつと笑いながら続ける。
「で、何?」
「パエリア」
「そりゃ、スペイン料理だろう」
「~~~っ……じゃあ、スペイン料理で」
可愛くない。可愛くない。可愛くないっ。
うちの弟と同じくらい可愛くないっ。
むすりと頬を膨らませたまま、私は足音高く玄関を出て行った。
***
碧音さんのいつものボケっぷりに突っ込んだら、ふくれっ面のまま、出て行ってしまった。
俺は、その後姿を見送ると、残された珈琲カップに手をつけた。緩やかに立ち昇る湯気が、珈琲のクセに苦味をアピールしてこない、丸い香りを漂わせる。
休みが終わるまでに、吉野さんに頼まれた書類でも、持っていっとくか。
で、帰りに買い物して、パエリアかぁ……トマトベースが良いかなぁ……。
そんなことを考えつつ、冷蔵庫の中身を思い出していた自分に気がつき何だか可笑しかった。
ちらりと、自分の腕を見やると例のブレスレットが大人しくそこへ収まっていた。
今思えば、このときには、もう特別だったのかも知れないな。
なんとなくそんなことを考えて、一人気恥ずかしくなり、俺は残りの珈琲を呷った。