―7―
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碧音さんのことが気にならないといったら嘘だけれど、店に入れば嫌でもそちらに集中しなくてはいけなくなるわけで、仕方なく俺は色々と答えのないことを悩むことを辞めて仕事に従事した。
そんな中、店にふらりとやってきた透は、挨拶もそこそこにカウンターの一角を陣取って、いつも通り知り合いならと許される感覚で接客に出る。
「珍しいな」
「ああ」
小さな返事しか、返ってこない透はいつもと全く違っていて、俺自身どう対処したものか、判断がつかなかった。何かあったのか、訪ねようかとも思ったが、そんなことを気にするのは恐らく俺らしくない。
逆に笑い飛ばされてしまうのは、目に見えていて、俺は喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
「はあ……。良いよなぁ~。克己は」
「何が?」
深く深く、体中の酸素を出し切るような、溜息を吐いてカウンターに突っ伏した透に、俺は問い返した。
カウンターテーブルと仲良くなった腕の間から恨めしそうに、俺の顔を一瞥して、再び視線をカウンターに戻した。
「俺も、彼女が欲しい。真だってよぉ。最近付き合い悪いしさ。年末年始なんて、みんな、やれ旅行だ! 里帰りだ! で、誰もいやしねぇしさ。克己だって、クリスマス以来、連絡取れないしよぉ。お前ちゃんと、携帯持ってたかぁ?」
「何だそんなことか、お前女友達とやらは、腐るほどいるだろうが? それで、良かったんじゃないのか?」
―― ……そんなこと。
俺にとってそれはそうとしか、いいようがなかった。が、どうも本人にはそれが気に食わないらしい。
「ちっ。まぁ、克己には分かんないだろうけどさ。良いけどな、お前のそんな疎いとこも、もう慣れたしな。……というわけで、今日は俺に付き合って、お前も飲め!」
「仕事中」
何が、というわけなのかさっぱりで、とりあえずはぴしゃりと断ったが、きっと断りきれないだろうな。通るの強引さは時にあやのそれに匹敵する。全く。
***
私は、今回のことを克己くんに聞き咎められるのが怖くて、いつもより早い時間にベッドに入った。明日から仕事が始まって、いつもと変わらない生活が戻ってくる。
変わったことといえば、暮らす部屋が変わったのと、隣にいる相手が、ほんの少しの間で全く違う相手に変わってしまったということ。
その両方とも私にとっては大きな変化だと思われたけど、今はこんなに落ち着いている。
私の心は穏やかだ。
一人でいても悪い夢を見ることもない。食事が喉を通らないということもない。
―― ……私は、克己くんに救われている……
だから、私が彼に何かしてあげられることがあるとすれば……
そう思った瞬間。
目頭が熱くなるのを感じた。
でも、幸せな時を得てしまったら……それを失うときの苦しみを同時に覚悟しなくてはいけない。
これから、私はその覚悟をゆっくりと、そして確実に固めていかなくてはいけない。
私を助けてくれた、彼のためにも。
そう、決意を新たにして、私はゆっくりと瞼を落とした。ゆるゆると波間を漂うような睡魔の波は、ほんの少しのアルコールの手を借りて、私にゆったりと覆い被さってくれる。
そうやって、私は静かに眠りに落ちていった。
***
案の定。透の愚痴は、的を得ないまま延々と続いた。解放されるころには日付を跨いでいたと思う。
ふわぁ……俺は出てくる欠伸を噛み殺して、もう遅いから少しだけ息をひそめて――そんな以前なんら絶対必要なかった気を遣いつつ――玄関の鍵を開ける。
碧音さんは、部屋の明かりを落としても、廊下の照明だけは落とさなかった。間接照明だけで良いと、この間いったのに、それでは嫌だと断られた。
―― ……暗いとこが怖い?
笑いながら聞いたのに、碧音さんは突っかかってきた。当たっていたのかもしれないし、寂しいのかもしれない。
ふと、靴をそろえながら上がっていると、いつものようについていた照明を見上げて思い出してしまった。
ていうか、ここが点いてるってことは、もう寝てるのか。
どうも俺の身体は、碧音さんほどアルコールに強くは出来ていないらしい。
透の愚痴に付き合ってチビチビと、口にしていたけれど、そんなに飲んだつもりはないが、ふわふわと調子が良い。
はっきりしない頭を、何とか奮い立たせて寝室までたどり着いた。
ドアを開けると、碧音さんの静かな心地よい、寝息が聞こえてくる。
もう、結構前から寝ていたのか? サイドテーブルの上においてある、小さな照明をつけると部屋の中がほんのり明るくなった。
―― ……風呂は朝にしよう。
そんなことを考えつつ、マフラーとコートを脱ぎ、ベッドの脇にあるソファにほおって、着替えを済ませた。
「―― ……ん」
と小さく寝返りを打った碧音さんの顔を覗いたが、目は覚めていないようだ。
そのとき、少し気になることに目が留まった。
―― ……泣いてたのか?
はっきりと、残っているわけではないが、微かに目じりを伝った跡が伺える。
俺の知らないところで、何かを考えて、傷付いている。
そう思うと、切なかった。
と、同時にどうして、その「何か」を話さないのか? という疑問にも、ぶつかってしまう。
いわなきゃいわないで、構わないはずなのだがそれを理解しろと思われていても、理解できるほど俺は大人ではない。
隣にそっと入り込み、その頬を撫でると微かに意識が戻ったようだ。
「―― ……おかえり」
薄明かりがまぶしかったのか、薄っすらと開きかけた瞳を再び閉じてポツリとそう呟いた。
俺は「ただいま」と返す替わりに、小さく声を出したその唇に口付けた。
「ん……。―― ……克己くん、飲んでる?」
―― ……返事はしなかった。
静かに口付けを繰り返し、ボタンに手を掛ける。力の弱い手が、怪訝そうに押し留めようと僅かに抵抗したけれど、無視した。
***
「ちょ、と……―― ……んぅ……」
克己くんは優しく私の頬を撫で、静かに頬から首、そしてボタンの外されたパジャマが肩から滑り降りた晒されてしまった肩口に唇が触れていく。
その行為は、夢から覚めきっていなかった、私の頭をはっきりと目覚めさせるには十分でじわじわっと身体中が熱を孕んでくると、苦しげな吐息が甘く変わる。
克己くんは何もいわなかったけど、その身体のいたるところに繰り返される口付けは、言葉よりダイレクトに苦しげなその気持ちを伝えた。
「―― ……ねぇ……」
「んぅ?」
「―― ……泣いてた?」
「ん……ぇ……なに……」
ふいに視線を合わせると、ほんのり頬を紅潮させた克己くんの呟きが降ってきた。私は一瞬何を問われたのか分からなくて、克己くんの瞳の中で逡巡したけれど、私が答えを紡ぎ出す前に、
「一人で、泣くな」
切れ長の瞳を悲しそうに細めて、そういってくれた克己くんに胸が締め付けられた。
そしてそれと同時に、私は急に克己くんが愛しくてたまらなくなった。
だから、私も……
―― ……返事はしなかった。
うっすらと開いた唇から、するりと割り入って舌を絡めると、ほんの少しアルコールの香りがした……今夜、私はその香りと味に酔いしれることにした……。
―― ……時折漏れる、熱気を帯びた吐息の中……絡み合う腕が……身体が……言葉以上のものを感じ、そして伝え合った……。