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結局、真葛さんが帰ったのは、翌日の夕方だった。
碧音さんの父親が駅まで迎えに来たらしいので、碧音さんは一人で送るといったのだけど、それを、あやが許さなかった。で、俺も碧音さんの父親というのにも、興味があって丁度バイトに出るついでもあったし、結果的にみんなで見送りに行くことになってしまったわけだ。
「弘雅さん! 遅いっ!」
『弘雅さん』そう、碧音さんに呼ばれた中年層の男性は碧音さんのいう『厳しい父親』とは到底いえそうにない、もう見た感じから温厚そうな物腰の穏やかそうな人だった。
碧音さんに、遅いと怒られても少し困った顔をして笑っただけで、いい返すそぶりもなかったことも、そのことを事実だと裏付けているようだ。
そんな、やり取りを見て、また俺はあやと顔を見合わせて笑ってしまった。
「また、碧音ちゃんは弘雅くんにそんなこといって。ほら、弘雅くんも、びしっといってやんなさいよ」
「真葛ちゃん。謝るのは、君の方でしょう? ちゃんと、二人にもお礼いったの?」
心地よく耳に入ってくるような、そんな声で碧音さんの父親は真葛さんに促すと、こちらに視線を向けて、深々と頭を下げた。
反射的に俺もあやも、頭は下がっていた。
そんな様子を見て、慌てた碧音さんが、俺とあやの肩を叩いた。
「謝るのも、お礼をいうのも、こっちなんだから、二人が頭下げないでよ!」
そういった、碧音さんの顔は真っ赤だった。
「さぁ、そろそろ、お暇しましょう」
「うん。そうだね」
ホームの時計に目をやって、そういうと電車に乗り込んで行った。
「あ、そうだ。克己くん」
電車のステップで足を止めた真葛さんに呼ばれて歩み寄った俺は最後に真葛さんと、2.3言交わしてドアは静かに閉まった。
今回は何となく、碧音さんの育った環境が見え隠れしたような気がして、ちょっと得をした気分で俺は二人を見送った。
駅から出るまでに、あやにはお誘いの電話が入ったようで、電車が走り去るのを見送り、表に出ると一台の高級車に乗り込んで、俺たちのことを気に留めることもなくさっさとどこかへ行ってしまった。
あや、本当にどこまでもマイペースなやつだ。あいつにだけは振り回される男になりたくない。
「ねぇ、克己くん」
「ん?」
「真葛さん。何ていってたの?」
思っていた通りの質問が飛んできたので、俺はちょっと可笑しかった。つい、笑いが零れた俺に碧音さんは凄く焦った様子で重ねる。
「何? 何か変なこといわれた?!」
「ああ~。いや『碧音ちゃんをよろしく』っていわれただけだよ」
「―― ……う、そっか」
結局、隠しきれていなかったことに、もっと驚くかと思ったけど、碧音さんの反応はそうでもなかった。
それから碧音さんは何もいわなくて、何か考え事をしているようだったから、俺はそんな碧音さんに一緒に『X―クロス―』へ行くことを、提案したが返事は……
「ううん。家に戻るよ。克己くんこれから仕事なのに、ごめんね……少し、疲れちゃった」
そういって微笑んだ顔が、なんだか泣いているようで俺はそれ以上引きとめられなかった。
「碧音さん?」
「うん?」
別れ際呼び止めても続く言葉が見付からない俺は、ほんっとーにコミュニケーション能力値が低いのだと痛感する。
「……いや、その……なんでも、ない。え、と。早く帰るから」
「うん。頑張ってね」
にこりと見送られその笑顔にほっとする。
良いんだよな、俺……間違っていない、よ、な?
この自問自答も最早日常茶飯事になっていた。
***
私は、克己くんと分かれて、とりあえず家に帰った。
誰も待つもののない部屋は、薄暗い上に一人家に入るとやけに広く感じた。何となく、克己くんが「無駄に広いだけ」と実家のことをいっていたのが分かる気がする。
特に空腹も感じなかったし、明日から仕事始めだ。とりあえずお風呂にでもはいろう。
そう、思い立った私は、ゆっくりと半身浴を行い……ぼんやりと橘さんとの話を思い出していた。
……つぅ……。
静かに頬を伝ったものは、涙だったのか、それとも、ほんのり乳白色に色づいたお湯が細やかな気泡にはじけてちったものだったのか。
自分でも良く分からなかった。
特に、悲しかったわけでもない。
辛いわけでも、
苦しいわけでも、
―― ……きっと……ない。
「ふぅ」
ぼーっとする頭を、おこしてお風呂から上がった。
ドライヤーの熱が暖かい。何のメイクもしていない私の顔はやけに情けなく鏡に映っていた。




