―15―
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「遅いと、思ったらやっぱり迷ったのか?」
なかなか戻ってこないと思ったら、ドアが開いて、入ってきた碧音さんが橘と一緒だったので思わずそんな言葉が出た。
「いいえ。ちょうどそこで、お会いしただけですよ。ね。白羽さん」
「―― ……うん」
碧音さんは俺の方を見ていなかった。
「橘、何かあったのか?」
「いいえ、何もありませんよ。こちらに、署名したので宜しかったですね。お父様には私の方から、後ほど伝えておきますね」
「ああ。頼む」
俺は腑に落ちない気持ちを抑えて、橘からそれを受け取った。俺がサインの確認を済ませて頷くと、橘は部屋を出て行った。
「さて、こんなとこに長居をする必要もないだろう。帰ろうか、碧音さん」
「うん。そうだね」
そのときの、碧音さんの返事は、いつもと変わりなかった。
さっきのは俺が感じたのは、タダの気のせいだったのか?
まぁ、碧音さんのことだ、隠し事なんて器用なこと出来ないだろうから、そのうち自分から何かいってくるだろう。
そう自分を納得させて俺たちは部屋を出た。
家を出るのがちょっと遅かったため、もう空は赤から黒へと変わる間くらいになっていた。
「何か、食べて帰る?」
「ううん。克己くんが作った方が良い」
「そうか? 家、何かあったかな」
にこにことそういわれてしまっては、真っ直ぐ帰るしかないだろう。
俺は車を走らせながら、殆ど反射的に冷蔵庫の中身を思い出していた。
***
「ただいまぁ」
「て、誰もいないだろ? あ、もしかして、一人でもいってた口?」
ロングブーツのファスナーを下すために玄関に座った私の横を、けらけらと笑いながら克己くんは追い越して行った。
「ねぇ、克己くん。何作るの?」
玄関に座ったまま、奥に引っ込んでいった克己くんに叫んだ。ひょっこりと、その先から顔を出した克己くんは
「冷凍の魚介類があったから『ペスカトーレ』でも作る」
「そっか。じゃぁ、白ワインが良いよね。何かあったけ?」
私の質問に答えるために、克己くんは一旦顔を引っ込めたが「赤しかないぞ」と答えが返ってきた。
「バッグ取って。私、買ってくるよ」
「何? どうしても白が良いのか?」
先に持って入ってくれていた、私のバッグを持ってくると不思議そうに聞いてきた。
「うん、今日はそうしたいの。他に足りないものない?」
「あ~……。多分、大丈夫だと思う」
「そっか。じゃ、行ってくるね」
「ああ。気をつけて」
そういって軽く私を引き寄せると、おでこにキスをくれた。
にっこりと微笑んで、手を振った克己くんに軽く手をあげて、エレベータのところまで走った。ちょうど、あがってきていたエレベータの乗り込むと、両頬に手を当てて頬の熱を取る。
克己くんって、最近よく笑うようになったと、つくづく思う。
会った頃なんてほとんど毎回怒っていたのが嘘のようだ。
でも、怒らなくなったのは私も同じかもしれない。
小西さんと別れて、まだ、一週間くらいしか経ってないけど。そんなに思い悩むこともなくなった。彼と付き合ってるときのほうが毎日辛かった。
たくさんいろんなことを考えて、悩んで、苦しくて……何より不安だった。あんなに優しいし、良くしてくれているはずだったのに、不安を感じていた私は何か察していたのかもしれない。どこか私の手の中をすり抜けていってしまうような、私では掴まえてはいられないような、そんな不安が常に付き纏っていて、私は寄り添っている間以外は常に不安定だった気がする。
でも今は克己くんがそんなことを考える時間をくれないのは確かで、そしてそれは、彼なりに気を遣っているのだろうことも確かだった。
―― ……でも。
こんな平和で平凡な時間も、長く続かないことを私は、今日改めて実感した。
私の中の、克己くんへの気持ちは、自分でも驚くほど大きくなっていた。相性というのは本当に目に見えない形でそこに存在しているのか、克己くんの隣は私にとってとても居心地が良い。
でも、信じて良いものか、まだ少し迷っていた。それに…… ――
***
「―― ……遅いな」
下ごしらえも終わって、あとは仕上げるだけなんだけど、時計を見ると、碧音さんが出て行ってからもう一時間近くなっている。
一体どこまで買いに行ったんだ。
こんなところで、迷うわけもないだろうに……。
仕方なく、俺は一度脱いだコートを着こんで探しにでることにした。忙しなくマンションの玄関ホールを抜けて店の並ぶ通りに急ぐ。
碧音さんは案外すぐに発見することが出来た。
マンションのすぐ傍にある雑貨屋のショウウィンドウに釘付けになっているだけだった。
「何か、欲しいものでもあるのか?」
暫らく後ろに立っていても気がつかない碧音さんに痺れを切らせて声を掛けた。
何を考えているのか、ガラス越しに映っている俺の姿には全く気がつかない様子だった。そのせいで、声をかけた俺に物凄く驚いた顔をみせた。
「あ! いや、その。何でもないよ」
「寒いだろう。ほら、帰るぞ」
なんでもない。そういった碧音さんの目は赤かった。
別に泣いていたわけでもなさそうなのに。
どうしたんだろう?
泣きそうだったんだろうか?
そうは思ってもこれまで他人にそんな気を掛けたことはなかったから、どう接して良いかも分からない。
俺はわけもなく湧いてくる不安を、かき消すように碧音さんの手をとって歩き出した。数歩大股で歩き出して直ぐに、碧音さんの歩幅に合わせる。俺にとっては酷くゆっくりに感じるけれど、急ぐ必要は今何もない。
「何か、あったのか?」
「―― ……ん? 何もないってば」
「ふー……ん」