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「本当に、珍しいですね。克己様が誰かをお連れするなんて」
「別に俺が誰を連れて帰ってこようが関係ないだろう。それに、俺は親父みたいな節操なしじゃないからな」
「お父様のことをそのようにいうものではありませんよ」
「はいはい。分かった。分かった。ああ、これサインしといてやって、学校で預かったんだよ」
俺は橘の小言を聞きながら、吉野講師に預かった例の書類を渡した。
橘は秘書である上に、親父の代理人でもあったから、彼の許可があったら別段書類に問題が生じることはないだろう。
「お茶でもお持ちしましょうか?」
「いや、かまわない。俺が用意するから」
「―― ……相変わらず、私には何もさせていただけないのですね」
物悲しげに眉をひそめて微笑んだ橘を見ると、少々心が痛んだが、茶ぐらい自分で淹れられる。大したことじゃない。
「そういうんじゃない。気にするな。いつものことだから」
「―― ……」
基本的に家に親父が居たためしはなくて、運が良ければ橘が居たくらいだ。
殆どはハウスキーパーのおばさんが“お留守番”をしているはずだ。
だから、今日は橘がいただけでも、運が良いということだな。
真剣な面持ちで、俺から受け取った書類に目を通している橘を置いて書斎を出た。
「相変わらず、無駄に広いだけの家だな」
廊下にでるとひんやりとした空気が流れた。
これだけ、広いのに人が一人や二人しか住んでいないのだから、それは仕方ないといえばそれまでだ。
俺はその足で台所に向かうと、紅茶の缶をあさった。
―― ……カモミールくらいで良いか。
俺が家に戻ったのは、数年ぶりだ。
今のマンションが建ってからは、ずっとあそこに住んでるし。普段誰も居ないこんな家にいたって、不便なだけだ。それにここに思い出なんて呼べるような代物は何一つない。切り捨てても痛くもなんともない……。
そのはずなのに、変わらない場所というのは俺の気持ちを重苦しくさせる。さっさと用事を済ませたら家に帰ろう。
俺の帰る場所はここじゃない。
ティーポットにお湯を注いで、お盆に乗せると部屋へ戻った。
「―― ……で、何を見つけたんだ?」
部屋へ戻ると、碧音さんはソファに腰を降ろし何かを真剣に見ていた。
「ん~。克己くんが子供の頃のアルバム」
「ふーん。そんなもんあったか?」
碧音さんがアルバムを広げている隣で、ティーセットを置いてポットの中身をカップに移した。ハーブの良い香りが立ち上ってくる。
「この人、克己くんのお母さん?」
「どれ……? ああ、それは違う。ん~? 誰だっけ? もう忘れた」
指差した先にあった写真は俺が小学校に上がる頃のものだった。真新しいランドセルをしょって、ふてくされた顔で若い女と写っていた。
「忘れた?」
「ああ、何回か変わったからな。産んだ母親は俺がまだ、小さいときに死んだんだと。だから、本当の母親はよく覚えてない」
「―― ……っと。ごめん。何か、変なこと聞いちゃったね」
「別に気にしてないから、かまわない」
思わずつまらないことを口にしてしまった俺に、碧音さんは慌ててそのアルバムを閉じた。本当に、気に止めるほどでもない。大した事じゃないのに……変な奴。
そう思うと、不思議な笑いが零れる。
***
―― ……つまんないこと聞くんじゃなかったな。
克己くんの淹れてくれた紅茶を飲みながら、何ともいいがたい沈黙が流れていた。柔らかい味のするはずなのに、なんだか苦いような気がして、なかなか喉を通り過ぎてはくれない。
その雰囲気に耐えかねた私は、ローテーブルにティーカップを戻して、ふっと立ち上がった。
「どした?」
「おトイレ。借りて良い?」
克己くんに説明を受けて、私は部屋を出た。
「迷うなよ」
出掛けに一言そういった克己くんが妙に面白くて笑いがこぼれてしまった。
廊下にでると、本当に人がいないんだなと思い、静まり返った廊下が妙に長く感じた。もちろん、いくら広いといっても迷うこともなく、無事にたどり着いて、部屋へ戻る途中。
橘さんと鉢合わせてしまった。
「ああ。白羽様。先ほどはどうも」
穏やかな物腰でそういうとにっこり微笑まれ、私もどうもと腰を折る。それだけで、擦れ違って立ち去る筈だった。その筈なのに、橘さんは私の隣にならんで、歩みを進める。手には書類ケースが握られているから、用事というのはそれだったのかな? と推測する。
「あの」
「はい?」
「不躾なのですが」
一緒に並んで、廊下を歩きつつ2.3言言葉を交わしたあと、何ともいい出しにくそうな前置きを始めた。何となく橘さんが私に聞きたいことは予想がついた。
「あの。克己様とは、どういったご関係なのでしょうか?」
―― ……やっぱり。
きっと、あそこで偶然に私と会ったのではなかったのだろうな。と、思いつつ小さく溜息が漏れた。『どういう関係』かと聞かれても。
私は返答に困った。何て答えて良いものか。
恋人?
友達?
同居人?
あのときから私たちは何も変わっていない。
変わっていないはずだ。無意識に首筋に触れ自分の肩を擦る。克己くんは痕を残すのが好きなようで、昨夜、体に刻まれた新しい痣は痛みは全く持たないけれど、鈍く熱を持ち情事からの時間経過を感じさせない生々しさを持っている。
でも、だからといって、どれもぴんとこないような、何ともはっきりしない。
それにちゃんと確かめているわけでは無いから、私が思っている関係と克己くんの考えてる関係がかみ合ってなければ……それはそれでまた、妙なことになってしまうし。
―― ……下手なことはいえない。
「申し訳ありません。変な質問でしたね」
「―― ……ごめんなさい」
私が、沈黙してしまったことに一言詫びると橘さんは話を続けた。