―4―
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家路に着くまでに何度も……何度も後悔した。
どうして、克己くんに手をあげてしまったんだろう。
まだ、震える右手を見つめながら私は思った。
きっと痛かっただろう。悪いことをした。
何もそんなに怒ることはなかったんだ。私のことを知りもしない彼にそんなに腹を立てることなんてなかったんだ。
―― ……ばたんっ!
木製のドアが壊れそうなほど乱暴に私は部屋の鍵を外しドアを開けて部屋の中へ雪崩れ込んだ。
走って帰ったため、息はあがっていた。
ダイニングテーブルに両手を着いて肩で何度も短く息を吐いているうちに頭もくらくらしてきた。克己くんの指摘通り熱でも出てきたのかもしれない。
体中にダルさを感じて私はそのままよろよろと寝室まで足を運びベッドに倒れこむ。
スプリングは僅かに軋んで私の疲れきった身体を柔らかく包んでくれた。
それにしてもどんな会話をしてたんだっけ?
ごろりと寝返りを打った私は天井の灯っていない電気を見つめて、ぼんやりと会話の節々を思い出そうとした。
確か、昨日の話をしている時に、克己くんが……
―― ……本気で愛されたことのない淋しい女。
とか何とか、そういったんだ。私ってばそんな言葉に血が昇っちゃって。
……だって
だって……
私にとって図星だったから。だから堪らなかった。
自分でも避けて通ってる言葉をすっぱりと口にされて、本当……堪らなかった。
でも、何で克己くんあんなこといったんだっけ。普通の会話でそこまでの話しになったりしないよね? きっときっかけがあったはずだ。私が、何かいったんだ。克己くんがあんなことを口にしてしまうような酷いことを、きっと、口にしたんだ。
私はその内容を少しでも思い出そうと額に腕を乗せて、うーんっと唸った。
お互いの台詞の端々しか思いつかない。
「あ」
―― ……本気で誰かを好きになったことのないような人には分からない。
あまりに、しらっとしている克己くんに、かちんっときてつい、いってしまったような気がする。
きっとそれに克己くんも頭にきたんだろうな。
自分で招いた結果ってことね。
私は「ああ」と一人唸り声を上げてベッドの上をごろごろごろっと転がると自己嫌悪に陥ってしまった。
―― ……もう、寝よう。
明日、仕事の帰りには謝ろう。克己くんのご飯は、お、いし、い、し。
***
「私だって、あの子にいろんなこというけど、怒ったことなんて一度もないわよ。まぁ、私にはそれが悲しいけどね」
あやは、着々とグラスを進め愚痴るように俺に話していた。
加えてマスターの機嫌はいまいち良くなくて、俺は帰り支度をしてあやの隣に座っていた。
「私ね。あの子のこと凄く好きなのよね。なんていうか、一生懸命でしょ? ひとりで空回りして。頑張って。仕事もそうなんだけど、恋愛ってやつ? あれにも、凄くまっすぐで」
からからと、ブランデーの入ったグラスを片手に微笑みながら話をするあやは綺麗だった。
あやが、もてるのは分かる気がする。
何だか、一つ一つの動きが映画のワンシーンのように絵になっているから。見ていると目が離せなくなる。
そんなことを考えていた俺の心を知ってか知らずか、あやは、ますます綺麗に目を細めると嬉しそうに話を続けた。
「あんな馬鹿な子みたことないもの。私はほら、人にどうこう言えるほど良い恋愛ってやつをしてきたわけじゃないからさぁ、信じるなんてこと馬鹿馬鹿しいでしょ? というか、そうなって当然だと思わない? あぁ、私を裏切らないのは諭吉だけよ」
そういうとあやは、おもむろに左手の中指に嵌っていた花をモチーフにカットされたダイヤに口付けた。
「で、それが普通。でも、あの子ってば馬鹿だから何回でも信じちゃうのよねぇ。どんなに酷い裏切られ方をしても、騙されていたとしても、あの子の目は、まだ真っ直ぐ見ている。だから、あんな男に引っかかるのよ」
そこまでいうとあやはグラスをぐいと空けた。
―― ……ふぅ。
と色っぽい吐息が漏れる。
「ほんっと、どうしようもない」
「で、なんでそんなんなのに、あやはあいつに執着するわけ?」
素直な疑問だった。
あやはここへはよく毎回違う男を連れてきたけど、女を連れてきたのはあいつが初めてだった。そう、俺を力任せにひっぱたいたあの女だ。
「わからないかなぁ」
俺の問いかけに対して、あやはふっと瞳を細めると俺の鼻先を弾いてにやりと得意げな笑みを浮かべた。
「私にはないものをもってるあの子に幸せになってほしいのよ。それにあの子は絶対に裏切らないわよ。男も、女も。なのにあの子がばっかり裏切られて敵ばっか作ってたんじゃ可哀相じゃない。あぁいうこが幸せにならなきゃ嘘よ」
「―― ……」
あやの返答に俺は思わず黙った。
誰も、裏切らない人間なんていない。俺には物心ついたころからこの観念がある。それに、この考えは間違ったことは一度だってなかった。
「今、嘘だって、顔したわね」
「別に」
「いーのよ、それでも」
「なんだよそれ?」
「だって、あんたはあの子を好きになるもの」
「はぁ?」
思わず、声が裏返った、一体どこをどうとってそんな話になるんだ?
「私がそうして欲しいなって思うのが本心かなぁ? 喧嘩も出来ないような奴といたって面白くないでしょ?」
「―― ……」
「それに、自分すら信じてないような顔してるあんたには丁度良いわよ」
そこまでいって「さて、帰るか」と席を立ったあやを支えて俺も店を後にした。
あやをタクシーに放り込んだあと、俺はぼつぼつと家路に向かって歩きながらあやのことばを復唱していた。
―― ……自分すら信じていないような、か……。
よく見てんのなぁ……あやのやつ。
しっかし、だからといっても、だ。ますます良く分からなくなってきた。今あいつには男がいて、どうもその男をあやは快く思ってなくって? 快くないってだけで、あやは引き離したがっているのか? その代役に俺を? 勘弁してくれ。
俺は溜息を吐くしかなかった。