―10―
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「……っ……くっ」
昨晩の雪がうっすらと残った通りを眺めながら、暖かなカフェでお昼を取っていた。
私の話を聞いて、あやは声を殺して笑っている。
いや、必死に堪えているのは分かる。
分かるけど。
伏せた顔では笑顔は見えないが、肩が小刻みに揺れている。こちらはこれでも割と真剣に悩んでいるというのに、失礼極まりない。
「あっはは。駄目。もう、我慢出来ないっ!」
「もう、そこは無理でも我慢してよっ! 笑いたいのも分かるけど、こっちは本当に大変だったんだから!!」
堪えきれなくなって大笑いしているあやを小突いた。
「だって、おっかしいじゃない。本当に克己らしいわよ。若いって良いわよね。直情的で。あっはは」
―― ……じゃぁ。その若さに当てられてしまったような私は、どうすれば良いのよ。
ふぅ……。
私の口からは溜息しか出なかった。
それから、少し笑いの収まったあやは、ぽふっ。っと私の頭に手を置いて一言。
「良いじゃないときには流れに逆らわないのも一つの手、それで良いのよ。とりあえず、ね?」
「―― ……あや。同居させてくれる気一切ないのね?」
「ない」
一秒も考えてくれなかった。
きっぱりとそういって綺麗に、にっこり微笑むとあやは席を立った。確実に人事だと思って楽しまれている感が抜けない。
「ほら、お昼終わっちゃうわよ。会社戻ろう?」
しかし私もあやにせかされて席を立った。このカフェから会社まではほんの十分ほどの短い距離だったけど、その間、口を開くことの出来なかった私にはとても遠い距離にも思えた。
「ああ。そうだ、住変すんだら、住民票取っといてね。保険とか書き換えとくから。口座の方もやっとくから、年明けには手続きしといてね」
「―― ……」
はぁ。
別れ際に突然、現実問題に引き戻してくれるあやに、小さく手を上げて返事を返すと、私はエレベータを降りた。
結局、朝はばたばたとしていて、まともに話なんて出来なかった。
戻っても、どうせ克己くんはバイトに行っているだろうし、そう考えると、ゆっくり話が出来るのは、私が冬期休暇に入ってからのように思える。
***
昨日のことは、結局良く思い出せないでいた。
まぁ、別段。怒っているようでもないようだったので構わないだろう。
「古河くん」
冬休みには入っていたが、レポート作成のため、俺は大学の図書館にいついていた。そんな俺に後ろから声をかけてきたのは、講師の吉野さんだ。
彼女のことはよく知っていた。
聞きたくなくても、透が逐一彼女のことを報告してくるからだ。身長から体重、果てはスリーサイズに、足のサイズまで、あいつは熟知していた。まぁ、いわゆる憧れの先生とでもいったところだろうか? 俺には、どこにでもいる美人顔の講師にしか、見えないがな。
吉野講師は、振り返った俺と目を合わせて、にっこり微笑むと俺に数枚の用紙が挟まれたファイルを差し出した。
「なんですか? これ」
「悪いんだけど。お父様に、承認のサインをいただいてきてもらえないかしら?」
―― 親父に?
その一言を不信に感じ、俺はぱらぱらとその書類に目を通した。
「これって……」
「まぁ、平たくいえば、実習許可みたいなものね。本来私が行かなくっちゃ行けないんだけど。私、明日からちょっと、旅行にでるのよね。だから、この休み中で良いから、お願いしたいのよ」
「嫌です」
きっぱりと断った筈なのに、吉野講師の笑みは崩れない。つき返した書類を受け取る素振りもない。両手を後ろに回して、にっこり……。
こ、こいつ。
「―― ……勘弁してくれよ。どうして、俺が」
「あら、お正月くらい、うちに帰らないの?」
正直、俺は家に帰る気なんてなかった。
でも、碧音さんは帰るんだろうか。元旦くらい、里帰りとかしそうだけどな。
「ね。だから、お願い。頼んだわよ。それがないと、来期みんなが困るから。じゃぁね」
「あ! おいっ!!」
その用紙を前に、僅かに考え込んでしまった俺の不意をついていいたいことだけいうと、吉野講師は逃げてしまった。
なんて、無責任な女なんだ。
「やれやれ」
小さく溜息を吐くと、俺は、再び本に目を戻した。
考えたってしかたないちょっと実家に帰って、サインさせれば良いだけだろう。 それにしても、面倒なことを引き受けた。気が重いことには変わりない。俺がどのくらい実家に帰ってないか、なんて、知らないよな。
―― ……はぁ。